序章2-4 「峯岸泰牙」
ファロギア王国は、アルガタ大陸東方に突き出るような形で位置するアスピケル半島南側に領土を持つ小国家の一つである。
国内における総人口は約3万人弱、ファロギア王家を主君として、諸侯と呼ばれる貴族らが各領地を治め統治されている。
王家は権威と土地を諸侯らに保障する代わりに、諸侯は王家に対し忠誠と軍務に服する契約を結ぶ、すなわち封建制国家である。
ファロギア王国は小国家であるが故、同アルガタ大陸中央部において覇権を争っている新興国家シュナーヴェル帝国や大陸屈指の歴史を誇るル・シエール王国と比較すれば、国家規模は遥かに小さいが、気候風土においては穏やかな気候に恵まれた地方で、四季も明瞭、一年を通じて比較的しのぎやすい土地柄である。
国土においては、起伏に富んだ山河や森林が大多数を占めており、平地が少ない為、農耕地面積も必然的に狭くなることから、小規模の農村が領土内に点在している状況である。
その為、各種農作物の生産高は他国より低く、農業生産の基盤はやや脆弱であった。
しかしその代わりに、ファロギア王国南方は大陸海であるソムニウム海に面していることから、水産資源が豊富で漁獲量も高く、海産物や魚介類、更に製塩の高い技術の確立により、漁業と塩を主軸とした貿易が盛んであった。
また、国土の大部分を占める山岳や森林は潤沢な動植物資源を育み、国民は自然の様々な恩恵を受けることで、どうにか安定した生活を得ることに成功していた。
他方、鉱物資源の類は乏しく、塩以外に目立った特産品もあるわけではない。
そもそもこのアスピケル半島自体、固定の土地を持たない流浪民や遊牧民らが長い放浪の末に、ようやく手付かずのまま残されていた土地を発見し、人々が生き残っていく為に結成された集落が国の興りだとされているぐらい、特別魅力的な土地というわけではなかった。
そんな辺境に位置するアスピケル半島ではあったが、連綿と続く歴史の中、数々の国が興亡を繰り返し、現在は、同半島において互いに隣接した三つの国が鼎立する時代を迎えていた。
一つは、半島北西側に領土を持つ、ヴァルシオン王国。
一つは、半島南西側に領土を持つ、ファロギア王国。
一つは、半島東側の全てを領土に持つ、ポルトレイ公国。
これら三国の内、前者二国、つまりヴァルシオン王国とファロギア王国の両国の西側は陸続きとなっており、大国であるシュナーヴェル帝国とル・シエール王国に背後を取られる形で接していることから、常に両大国の軍事的脅威に晒されている状態にあった。
この事から、小国同士であるヴァルシオン王国とファロギア王国は、現在一致協力の軍事同盟を結んでいる。
それが例え大国からの圧迫に対する表向きだけの一時的な協力関係だとしても、どちらかが崩されれば、間違いなく自国の滅亡に繋がる状況ならば、これは当然の措置と言えるだろう。
だが、目下ファロギア王国が抱えている一番の問題は、アスピケル半島最大の国家規模を誇るポルトレイ公国の動向にあった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「お早うございます、勇者様」
窓から差し込む朝日によって黄金色に染められた室内の中、落ち着きのある柔らかな声が、泰牙の耳朶に優しく触れる。
「う…ん…?」
泰牙が寝ぼけ眼をその声の方向へ向けると、そこには、白と紺を基調とした足首まで伸びたワンピースにその細身の身体を包み、さらに汚れ一つ無い白色のエプロンを纏った女性が静かにベッド脇に佇んでいた。
「あー…と、貴女は確か……」
結い上げた亜麻色の髪を帽子の中に入れた侍女の衣装を着た女性は、昨晩祝宴を終えた泰牙をこの寝所へと案内した人物であった。
目鼻立ちが整った顔と落ち着いた物腰は、そのたおやかさも相まって非常に魅力的な女性として泰牙の印象に残っていた。
「メリッサ・ファンターナと申します。本日より、勇者様付きの侍女として身の回りのお世話をさせて頂きますので、何卒宜しくお願いします」
メリッサと名乗った侍女は、礼儀正しく頭を深々と下げる。
「あ、いえ、こちらこそ宜しくお願いします」
相手に丁寧な挨拶をされるとこちらも返さずにはいられない日本人の性ゆえか、泰牙も寝起きのベッド上で首だけを動かしてぺこぺことお辞儀をした。
「勇者様、私のような者に敬語や礼など無用です。どうぞ遠慮などなさらずに何なりとご命令をして下さいませ」
綺麗であるが、感情に乏しいその顔が淡々と言葉を紡いだ。
「……わかったよ。で、メリッサ、早速で悪いんだけど、俺の服――」
「新しいお着替えはこちらにご用意してあります。勇者様のお召し物は私どもの方で綺麗にさせて頂いてからお部屋の方に戻しておきますのでご安心を」
「そ、そう。ありがとう。新しい服って…おお、これか」
泰牙がメリッサの足元に視線を移すと、そこには木製の籠が置いてあり、その中には上質な絹で仕立てられた真新しい衣服がきちんと折り畳まれて入れられていた。
「はい、こちらをお召しになって下さいませ。それでは私はこちらに朝食をお持ち致しますので、一旦失礼させて頂きます」
「うん。色々ありがとうメリッサ」
「いえ、仕事ですのでお気になさらずに」
礼を述べる泰牙に対し、あくまでも事務的な口調と態度で応えるメリッサ。
そして、無駄のない所作で部屋の戸口の方まで歩き、ドアの前で泰牙に向かって一礼した後、侍女は静々と部屋を辞した。
その後、着替えを済ませた泰牙が自室で待っていると、メリッサが朝食をカートに乗せて運んできたので、それをしっかりと取る。
メニューは、パンと白身魚のソテー、鶏肉と野菜の煮込みスープであった。
泰牙好みの味付けだったこともあり、あっという間に出された朝食を済ませると、脇に控えていたメリッサがグラスにミルクを注ぎながら口を開く。
「本日の勇者様のご予定を説明させて頂いても宜しいでしょうか?」
「予定? ああ、そっか俺、今日から勇者としての教養を受けるんだっけ」
「はい、本日より勇者様には、一般的知識や各種教養、剣術等をはじめとする戦闘訓練、魔術に関する教養や訓練を受けて頂くことになります」
「うん。昨日王様の方から直接その話はされていたし、今後のことを考えれば、逆に願ったり叶ったりで有り難いぐらいだから、それは全く構わないけど。只、一つだけ聞いていいかな?」
「はい、何でしょうか?」
「俺は、一体何と戦えばいいんだ?」
これまで泰牙は、国王アレックス三世やリディア第一王女から漠然とした説明を受けてはいたが、何処の誰と戦ってくれというような具体的な話はされていなかった。
只、このファロギア王国に災厄が迫っている、勇者としての力を振るい国難を救って欲しい、というような抽象的な話を受けていただけなのである。
「この国に仇なす敵です、勇者様」
泰牙の問いに淀みなく即答するメリッサ。
「仇なす敵……ね」
何の答えにもなっていなかったが、元々侍女である彼女の回答に期待していた訳でもなかったので、泰牙はそれ以上の追及をする気もなかった。
「申し訳ありません勇者様。私ではそれ以上のことは存じておりません。
詳しい説明は、本日午後に行われる勇者様の魔術の教養と訓練を担当されるリディア様が、本人の口から直接勇者様にお伝えするとのことでしたので、その時にお尋ね頂いて宜しいでしょうか?」
「OK、そうするよ。ありがとうメリッサ。それにしてもリディア王女が直接魔法を教えてくれるなんて、偉く贅沢な話だな」
「はい、無論これは勇者様だからこその特権でもあります。それに、リディア様はファロギア王国における魔術の第一人者で在らせられる御方ですので、必ずや勇者様にとって有意義な時間であると存じ上げます」
「やっぱそうなんだ。それにしてもリディア王女ってまさに才色兼備を絵に描いたような人だよな。今からその魔法の訓練ってのが凄く楽しみだよ」
リディアの凛とした美貌を思い浮かべると、思わず口元が緩んでしまうのを抑えねばならず、泰牙は真面目な顔を取り繕うのに多大な労力を要した。
確かに怪しげな爺やむさ苦しいおっさんよりも、美しい王女に手取り足取り教えてもらうというは、泰牙にとって僥倖としか言えないシチュエーションであったが、それでも自分の世話係であるうら若い侍女を目の前にして下心満載のニヤけ顔を見せるほど彼は厚顔無恥な男ではなかった。
「左様でございますか。ですが残念ながらリディア様は午前中は公務ですので、魔術の教養と訓練は午後からになります。ですので、午前中は僭越ながら、私めが勇者様に一般知識と教養をお教えし、それが終わり次第、ヴァルディ騎士隊長の指揮の下、騎士や一般兵らの軍事訓練に参加して頂きます」
「わかった。それじゃあ宜しく頼むよメリッサ」
「はい、それでは食器をお下げしてから、直ぐに始めたいと思うのですが、如何でしょうか勇者様」
「ああ、構わないよ。あ、そうだ、一つメリッサに頼みがあるんだけど……」
「はい、何なりとお申し付けください」
「俺のことは『勇者様』じゃなくて、泰牙って呼んでくれないか?」
まだ何の実績を挙げてもいない自分が、周囲から“勇者”などと呼ばれ勝手に奉られるのが酷く小恥ずかしい気分だった泰牙は、侍女であるメリッサにそう頼んだ。
「ですが勇者様――」
「泰牙」
メリッサが困ったような表情で言い掛けるのを、泰牙は断固とした口調で遮った。
「……わかりました、タイガ様」
「うん、我侭聞いてくれてありがとうメリッサ」
渋々といった感じで了承する侍女に対して、礼を述べる泰牙の顔は笑んでいた。
「いいえ、タイガ様。それでは、食器をお下げした後、またこちらに戻ってきますので、しばしお待ち下さいませ」
「ああ、それじゃあ宜しくね」
メリッサは空になった食器を手早くカートの上に載せると、カートを押して部屋を出て行った。
それから約10分程で何冊かの本を小脇に抱えたメリッサが再び現れ、侍女による一般教養講座が始まった。
講座自体は、メリッサが持ってきた教本を泰牙が読み、内容に疑問点があればその都度質問し、彼女が答えるという形式のものだった。
講座の内容はユグシルドの世界史に始まり、アルガタ大陸やアスピケル半島の地理や歴史、ファロギア王国の歴史、宗教学、民俗学、語学、生活学、果ては童話まで網羅した、充実の内容であった。
但し、教科書として使用された全ての本は簡潔明瞭に書かれた内容のものばかりで、所謂入門書のようなものであったし、メリッサ自身の回答もまた基礎的な知識や概略に留まるものでしかなかった事から、講座はそれ程長い時間掛かること無く終了した。
それでも、この短時間で得られた情報は、ユグシルドという世界で泰牙が生き抜く上で実に貴重なものであったし、自分を取り巻く環境と自身の立場というものを少なからず理解できたことも、彼にとっては非常に大切な事であった。
泰牙がメリッサの講座によって得た知識の中で、特筆すべき点は以下の六つであった。
一つ、文化的には、泰牙が元居た世界の中世ヨーロッパに類似した世界であること。
二つ、通貨は紙幣では無く、金銀銅を基本とした硬貨で流通が行われていること。
三つ、ユグシルドの世界は、善なる神ラシルを頂点とした神々と、邪悪な神ニドグを頂点とした神々が対立する、善悪二元論的な拝一神教の世界であること。
四つ、ファロギア王国の建国王は、異世界から召喚された勇者リョータ・コバヤシという人物であり、当時はアスピケル半島はおろか、広大な土地を持つアルガタ大陸の大半が魔王軍の侵攻によって支配されていた暗黒の時代であった。それを打破した英雄の一人であるということ。
五つ、当初ファロギア王国は、アスピケル半島全域を含む広大な領地を治めていたが、建国王である勇者リョータ・コバヤシ亡き後、国内の有力貴族による派閥抗争によって国が分裂し、長い時を経て現在のような勢力へと変化していったこと。
六つ、ファロギア王国には、さる有名な預言者が残した予言が残されており、それが『ファロギアの国が闇に覆われし時、再び異界から現れた勇者によってその闇は打ち払われる』という予言が代々言い伝われていること。
恙無く侍女メリッサによる講座が終わり、そろそろ騎士隊や一般兵士らによる軍事訓練に参加する時間となったことから、彼女に促され席を立った泰牙が、ふと疑問に思ったことを口にした。
「メリッサは、ロエスっていう神様のこと知ってる?」
「ロエス神……ですか? すみません、私の知る限りそのような神が存在するというのを聞いたことがありません。お役に立てず申し訳ございません」
僅かに思案した後、メリッサは目を伏せて謝罪した。
「いや、別に謝る必要なんかないよ。只ちょっと確認をしたかっただけだからさ」
恐縮する侍女に対し、泰牙は笑みながら首を振る。
「そうですか。では、外の訓練場までご案内致しますので、どうぞこちらへ」
「うん。じゃあ頼むよ」
自室を出て、廊下を先に進むメリッサの後を歩きながら、泰牙は物思いに耽る。
(メリッサが持って来てくれた本の中にも、あのロエスっていう女神の名前は無かった。
もしかして嘘の名前を教えたのか…? いや、違うよな、そんなの意味ないだろうし。
うーん、一体あの女神はどういった存在なんだ? 邪神の類ではないと思うけど、無闇矢鱈に人には聞かない方がいいのかも知れないなぁ……)
脳裡に浮かんでは消える、絶対美の象徴たる女神ロエス。
泰牙に《力》や武器を与え、世界の滅亡のことやそれを防ぐ方法も知る、全能の存在。
そして、彼女は最初に自身のことを『管理人』と名乗っていたことを彼は思い出す。
(まあ、自分なりに少しずつでも調べてみるか……)
そう結論付けた泰牙は、思考を一旦打ち切り、城館内の廊下を足早に歩く侍女に遅れないよう、しっかりと歩を進めるのであった。
説明回です、短めです。
次話で本当に序章「峯岸泰牙」が終わりです。すいません。