序章2-3 「峯岸泰牙」
「……成功…した」
耳を澄まさなければ聞き取れない程の掠れ声が、薄暗い室内に谺した。
次いで、大歓声がその声を発した者の耳朶を打つ。
「おお…! 流石は姫様。まさか本当に勇者召喚の儀式を成功させるとは!」
「まさに我がファロギア王国が誇る偉大な魔術師ですな!」
「いやいや、それを言うなら魔術師ではなく、偉大なる魔法王女じゃ!」
「我々凡人には到底不可能な事を姫様は平然とやってのけるッ! そこにしびれる、あこがれるゥ!!」
「魔法王女マジパネェっす、マジパネェっすよ!」
床は石畳が敷き詰められ、燭台を支える石壁が四方を囲う狭苦しい石造りの小部屋。
そこに大勢の人間が所狭しと立ち並び、更に勇者召喚の儀を成功させた偉業を成し遂げた王女を賞賛する熱狂的な歓声が湧き起っていた。
興奮の坩堝と化したその部屋には、王女を護衛する近衛騎士と王宮魔術師らが発する熱気と汗臭さと加齢臭が絶妙に交じり合った奇怪な臭気がムンムン溢れており、石造り故の換気の悪さも相まって、正しく異界的密室となっていた。
「…ここ…は?」
その空気を掻き分けるように、戸惑いの声が発せられる。
それは若々しい男性の声であり、石造りの小部屋中央に幾重にも刻まれた魔法陣の上から流れたものであった。
途端に、ぴたりと歓声が静まり、転じて部屋に居並ぶ者達の僅かなどよめきと共に、数多の視線が声の方に突き刺さる。
「勇者、殿……」
その中で、小さな声で呟くファロギア王国第一王女――リディア・ファロギアは、震える両手を組み合わせて、祈るように、そして縋るような眼差しで魔法陣の中央に立つ青年を見つめた。
つい先程まで、魔法陣から発せられた眩い光量が部屋全体を支配していたが、ようやく陣からの発光が収束し、眩んだ視野が常態に復して状況を確認することが可能となった。
身じろぎひとつすることなく、孤影悄然として佇む若者は、珍しい漆黒の髪と黒瞳を有していた。年齢はまだ若く、二十歳前後だろうとリディアは推測する。またその若い男性は、見た目は単調であるが決して粗末な作りでは無いであろう、これまた珍しい衣服を身に付けていた。
「君は……?」
若者が、自身の正面に立つリディアへ誰何する。
「勇者殿」
そのリディアは、短い言葉の中に万感の思いを乗せ、若者へと静かに歩み寄る。
無造作とも言えるその近寄り方に、リディアの傍に控える護衛らが、にわかに色めき立つが、すぐにリディアが片手で制すと彼らは渋々引き下がった。
その光景を、魔法陣の中央に立ったまま落ち着かない様子で見守っていた若者であったが、リディアが間近に迫ると、彼は思わず息の呑んで彼女に釘付けとなった。
若者の黒瞳に映じたその女性は、天才画家が精魂込めて描写したが如き、綺麗で滑らかな輪郭と透明感のある顔立ち。そして高貴な雰囲気に後押しされた完璧な肢体を有する麗人であった。
腰程まで伸びる淡い青色の美髪、どこまでも澄んだ蒼穹の瞳、すっきりした眉と鼻梁、意思の強さを示すかのような引き締められた薄めの唇、そして、儀礼用の煌びやかな装飾が施された空色のロングドレスにその身を包まれながらも、男なら誰しもが劣情を禁じ得ない程の魅惑のプロポーションを秘めたうら若き女性――リディア・ファロギア。
リディアの美しさに目を奪われた若者は、惚けたような声音で呟いた。
「君が、リディア・ファロギア…か?」
その一言を聞いたリディアは、目を見開き絶句する。知らず、歩みは止まっていた。
後ろに控えている護衛達には、若者の声が小さすぎて聞き取ることが出来なかった為、王女が歩みを止めたことに対して怪訝な表情を作るだけに留まっていた。
「……勇者殿、どうして私の名を?」
何故に、まだ名乗ってもいない自分の名を知っているのか。
若者のあまりにも真っ直ぐな視線に射抜かれ、高まる鼓動を抑えながらも、当然の質問をリディアは口にした。
「それは……」
だが、若者はリディアの問いに対して答えあぐねていた。
その様子を見て取ったリディアは小さくかぶりを振り、
「いえ、答え難いのであれば言わなくても構いません勇者殿。それよりも――」
言って、更に若者の方に一歩踏み込む。
「え?」
手を伸ばせば簡単に触れられる距離まで詰め寄ってきたリディアに対し、若者は思わず驚きの声を上げる。
声に構うことなくリディアは、自分より頭一つ分高い若者の瞳を覗き込み、言う。
「貴方の御名前を教えて下さい」
一切の飾りを廃した言葉は、偏に純粋であった。
なればこそ、届く言葉は、その生涯において忘れ難いものとなる。
「―――峯岸泰牙」
それ故に、泰牙も真摯に相手に向き合い、一切の夾雑物を混ぜずに名を告げる。
「ミネギシタイガ……殿」
リディアは、まるで大切なものを宝石箱にしまいこむような丁寧さで、泰牙の名を反芻する。
そして、彼女は恭しく頭を垂れ、
「勇者ミネギシタイガ殿、何の許可も得ずに貴方を招いた御無礼をどうか許して頂きたい。謗りは幾らでも甘んじて受けますゆえ、どうかこのファロギア王国を救って下さいませ」
と願いを口にした瞬間、後ろに控えていた大勢の近衛騎士や宮廷魔術師らも同様に、一斉に頭を下げた。
その光景を目の当たりにして、泰牙は慌てて言った。
「あ、あの頭を上げてください、そんな風に恐縮しなくて結構ですから。
それに、俺のことは泰牙って呼び捨てでお願いします。フルネームを連呼されると何か恥ずかしいので」
「承知しましたタイガ殿。ですが……」
尚も言い募ろうとするリディアを制して、泰牙が言葉を発する。
「リディア王女、俺は―――」
僅かな逡巡の後、意を決したように次の言葉を口にした。
「貴女を、守ります」
それは凄烈なほど、愚直で純粋な想いだった。
歴史にifは無い。
だが、『もし』この言葉が無ければ、運命はまた別なものとなっていたであろう。
しかし、それはあくまでも可能性の一つにしか過ぎない。
ただ、今はっきりしていること――
それは、この言葉により一つの運命は決定付けられということである。
こうして峯岸泰牙は、波乱に満ちた“勇者の道”を確実に一歩踏み出したのであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
耳朶に触れる美しい音色は、弦楽器や管楽器から流れるものであった。
高級感を感じさせる赤い絨毯が敷かれた約60坪ほどの広間には、盛装した者達が集い、祝杯片手に宴が催されていた。
ここは、泰牙が“救国の勇者”として召喚されたファロギア王国の王城ネロフテラ城の謁見の間である。
無論今回の宴は、此度の勇者召喚の儀を無事成功させた功労者であるリディアと、勇者として召喚された泰牙を祝う為のものであり、宴は盛大に催されていた。
給仕達が次々と料理人が丹精込めて調理した肉や魚、野菜などの豪勢な料理を運び込み、その都度、泰牙は遠慮なく舌鼓を打っていた。勿論、祝宴には欠かせない酒も各種揃えられている。
「勇者殿、我が国自慢の料理と酒はいかがですかな? まあ、その様子だと喜んでいただけているのは間違いなさそうではあるが」
泰牙に声を掛けてきたのは、ファロギア王国現国王アレックス三世その人であった。
丁度ビーフステーキを夢中で頬張っていた泰牙は、突然背中越しから自分に話しかけてきた声に驚き、慌てて口の中の肉を飲み込んで声の主に向き直る。
理知的な顔に深みのある微笑を湛えた当年50歳を迎えた壮年の男性。髭をたくわえた精悍な面貌の頭上には、輝く宝石が装飾された王冠が載せられていた。
また、上背のある引き締まった体躯を深紅色の高級な布で仕立て上げられた厚手の王族衣装に身を包み、金色の瞳が放つ眼光と渋みのある低音のその地声は、理性的かつ威厳を兼ね備えた、まさしく国王の風格を漂わせていた。
「あ、すいません。凄く料理が美味しいんで、調子に乗ってちょっとがっついちゃいました」
泰牙が恐縮したように謝罪の言葉を口にした。
高貴な身分である王族や各要職の地位にある者達と一同を介しての食事などしたことのない彼にとって、どのような立ち振る舞いがマナー違反なのか皆目見当が付かなかった。
なので、列席の人々の食事作法を見よう見真似で実行していた泰牙であったが、所詮は一般市民の彼ではすぐにボロが出てしまい、致命的なパーティーのマナー違反をしてしまったのではないかとの危惧から、咄嗟に謝罪をしてしまったのである。
「ははは、何を謝っておるのですか勇者殿。今宵の宴は無礼講と先程も申し上げた筈ですぞ。健啖ぶりもまた、皆には頼もしく映りましょうぞ。さ、遠慮などせずにどんどんお食べ下され。勇者殿にはしっかりと英気を養って頂かなくては、我々も困りますからな」
「そ、そうですね。あはは……」
国王アレックス三世が相好を崩して柔和な笑顔を泰牙に向けるが、その言動の節々にはこれからの大変さが、否が応でも滲み出ているのを泰牙は肌で感じ、どうしても引きつった愛想笑いしか浮かべることが出来なかった。
「何はともあれ勇者殿、これから宜しく頼みますぞ。我がファロギア王国は勇者殿の支援に尽力を惜しまぬ所存、どのような要望でも遠慮なくおっしゃって下され」
「わかりました。こちらこそ無知な若輩もの故、ご指導ご鞭撻の程、何卒宜しくお願いします」
泰牙はアレックス三世に対し、深々とお辞儀をしながら慇懃に社交辞令を返す。この辺の社会人としてのマナーは、元の世界でブラック社員時代に叩き込まれているので、彼にとってはお手の物であった。
「ふむふむ。まだ若いにも関わらず勇者殿は実に礼儀正しい方ですな。感心致しましたぞ」
「ええ、本当に。礼節もあり、立ち振る舞いも決して粗野ではない。タイガ様はご自分で平民出だとおっしゃられましたけど、私にはとてもそうは見えませんわ」
感心するアレックス三世の横合いから、別の声が泰牙に掛かった。柔らかな女性の声であった。
「いえ、イリス王妃様。俺…いや、私は全くの一般庶民ですよ。ただ、私が生まれ育った国では平民でも子供の頃から皆学校という場所に通って様々な教育を受け、大人になれば社会人として、それ相応の知識や礼節が一般常識として求められるような場所だったから、私も自然に出来るようになっただけです」
泰牙はアレックス三世の右隣に現れた、現国王の后、イリス王妃に向き直り、丁寧な口調で相手に分かるよう噛み砕いた内容で応じた。
細身だが、女性の象徴たる部分はしっかりと発達した身体が魅力的な30歳代後半の女性。
菫色のシルクのドレスを身に纏ったイリス王妃は、完熟された色気と美貌を有しており、40歳に差し掛かろうとするその綺麗かつ端整な顔の目尻や口元には僅かな小皺が見られた。しかし、逆にそれらは彼女が持つ熟年女性の魅力をより一層際立たせるアクセントにしか過ぎなかった。
青色の艶やかな髪は高く結い上げられており、その髪上には宝石が散りばめられた光り輝く王家のティアラが被せられていた。スカイブルーの両眼は、緊張の色を隠し切れない泰牙の姿を映し出しており、紅が引かれた唇は柔らかな微笑みを形作っていた。
「ご謙遜をなさらなくても結構ですわタイガ様。それにしても、貴方がして下さるお話には本当に驚かされることが多くてとても興味深いわ。私達の常識では考えられない世界が本当に存在するなんて、勇者であるタイガ様本人を目の前にして何ですけど今でも信じられませんのよ。でも、確かに貴方がお召しになさっている服や持ち物などは、確かに私今までに見たことも聞いたことも無いものばかりですわ」
言いながらイリス王妃は、泰牙が今現在も着用しているビジネススーツや、左手首に回しているデジタル式腕時計を物珍しげに見回す。
「そうですね。でも、私にとっても、びっくりすることの連続です。こちらの国の事、世界の事、文化や魔法、魔物や勇者についてのことなんかを聞けば聞くほど、驚きやら怖いやら色んな感情が湧いてきて、今は自分でも気持ちが整理できていないのが実情です」
「そうですか。タイガ様にとって此度の件は本当にご迷惑なことと存じます。私達もその件に関しては大変申し訳なく思っているのです。しかし、我が国が現在抱えている問題を解決できるのは、勇者であるタイガ様にしかできないことなのです。どうか、恥を承知の上でお願い申し上げます。この国に代々伝わる伝承に在るとおり、勇者のお力で我が国をお救い下さいませ」
イリスは言いながら、肌理細やかな肌を持った両手をそっと泰牙の手に重ね合わせた。
心地よい肌の感触と触れ合う手の温もりを感じ、思わずドギマギする泰牙であったが、ある思いを伝える為に口を開く。
「いえ、その……、一応、先程王様の方からお話は伺いました。ファロギア王国の建国を成したのは、異世界からやってきた勇者だった…と。だから国に災厄が訪れた時、強大な勇者の力でもってその闇を打ち払う、と代々伝わっているのでしたよね。まあ、正直言うと私自身のそのような凄い力があるとは思いません。だから、期待に応えられるかどうかもはっきり言って分かりません」
「勇者殿」
「タイガ様」
不安の言葉を口にする泰牙を見てアレックス三世とイリス王妃が揃って声を掛けようとしたが、続く彼の言葉に二人は口を止める。
「でも、憧れていた世界に来れた…っていう事実が何よりも嬉しいんです」
「憧れていた、とな?」
アレックス三世が片眉を上げながら泰牙に問う。
それに対し、泰牙ははっきりと答えた。
「はい、確かに私が元居た場所は、戦争もなく、人間を脅かす魔物も存在しない安全な国で生まれ育ちました。実際私は幸福者だったと思います。でも、同時に何か窮屈だな…っていう違和感みたいな気持ちもずっと抱えて私は暮らしていました」
「ほう」
「そして、そんな生活の中で自分がずっと妄想し憧れていたことがありました。それが剣や魔法、魔物や勇者が物語の中のお話では無く、実際に現実として存在している世界へ自分が行くことでした。
勿論、怖いし不安も多々あります。それに小市民の自分が偉い人から“勇者”なんて呼ばれることも凄くプレッシャーを感じます。でも、それでもやっぱり……、ずっと憧れていたこの世界に自分が来れたっていう感動の方が今は強いんです」
自身の気持ちを嘘偽り無く語る泰牙。思わず心情を熱の篭った口調で吐露してしまうのは、多分にアルコールが影響しているからであろう。
一方、彼の言葉を聞いた国王と王妃は、
「はっはっはっ! なるほど勇者殿、相わかった! 勇者殿は実に正直者であるな、いやそれだけ性根が誠実であるということを示しているのであろうな。ますます儂は勇者殿のことが気に入ったぞ!」
「正直こそ美徳というものです。素敵ですわタイガ様」
それぞれ嬉しそうな表情で、若き“救国の勇者”泰牙のことを褒めちぎるのであった。
その時、宴が催されている謁見の間の壁際の方から、泰牙の様子をずっと見つめているひとつの視線があった。
硬質なほど秀麗な切れ長の目から覗く蒼穹の瞳は、一切ぶれること無く勇者として召喚された男を視線で射抜く。
ファロギア王国第一王女リディア・ファロギアその人であった。
儀式用のドレスから、祝宴用であるレースに縁取れた鮮やかな薄紅色のドレスに着替え直したリディアは、今は列席の人々からの祝辞や世間話を終え、ようやく謁見の間の壁際に退避することに成功したのである。
元来、内向的な性格の彼女は、こういった祝いの席での応対や言葉の中に企みを秘めた会話のやり取りを非常に苦手としていた。無論、王女としての立場を考えるならば、それでは明らかにマイナスになるのは彼女自身理解をしていたが、もって生まれた気質なのだから仕方が無い、というのも彼女の本音であった。
というのも、リディアは元々魔法そのものが好きで、更になまじ魔法に対する才能が人より秀でていた為、これまで第一王女としての公務以外の時間は、全て魔法の理論や研究に没頭することが多く、人とのコミュニケーションより、部屋に篭ってもっぱら魔法の研究に時間を費やすことが多かった。
その為、彼女の性格は、良く言えば生真面目な、悪く言えば根暗な女性に育ってしまったのである。
だが、今回の件に関しては、その根暗王女のおかげで、絶対実現不可能とまで代々言い伝えられてきた、勇者召喚の儀を成功させたのだから、間違いなくファロギア王国が誇る歴史の中でも、トップクラスに入る偉業を成したと言っても過言ではなかった。
それ故に、今まで非社交的な彼女に対して陰口を叩いてきた者達が、掌を返したかのように称賛を浴びせるのだから、彼女の胸中はとても複雑なものであった。
とは言っても、苦手な相手に対して、こちらも嫌な顔をするわけにはいかないので、リディアは慣れない笑顔を必死に作りながら、列席の人々の応対をしていたが、いい加減疲れてきたというのが現状であった。
もっとも今宵の宴がもう少し規模の大きいものであったのならば、宮廷舞踏の誘いを断ることは立場上できなかったであろう。そう考えるならば、対話に終始する今日の宴は人付き合いの苦手な彼女にとってまだマシな方だと言えるだろう。
(こんな宴さっさと終わればいいのに)
そんな事を思いながら、リディアはそっと小さく溜め息を吐く。
自らが召喚した勇者のことは気掛かりではあるが、それよりも、身内や一部の有力者ばかりの小さな宴など早々に切り上げて、現在ファロギア王国が抱える山積みの問題に取り組んだ遥かに有意義だろうに、と彼女は思っていた。
そして、そんな思いが表情に出ていたからであろうか、気安くリディアに声を掛ける者はしばらくの間現れることはなかった。その間、物思いに耽りながら、勇者である泰牙の様子を黙々と目で追っていた。
(彼は一体何者なのだろう?)
疑問がリディアの頭から離れなかった。
(何故、まだ名乗ってもいない私の名前を知っていた? それにどうして―――)
『貴女を、守ります』
(――彼は国ではなく、私を守ると口走ったのか。たまたま彼の目の前にいたのが私だったから何も考えずにそう言ったのか、それとも何か別の意図があるからそのような事を言ったのか……)
耳の奥に残ったその言葉を考えれば考えるほど疑問が湧き起り、結論を導くような答えを思い浮かべる事が出来なかった。
その為、リディアはあの時の言葉の意味を直接本人に問い質したかったのだが、目下宴の主役である泰牙とリディアでは、近寄る者達に阻まれ、それを成し遂げることは難しい状況であった。
「宴の主役がこんな壁際に居るのは、正直感心できませんわね。王女としての自覚が足りていない証左ではなくて? リディアお姉様」
思考に埋没するリディアへ、挑戦的な口調で呼びかける声があった。
声の方へリディアが黙したまま視線を向けると、そこには、両の拳を腰に当てた格好で彼女を見上げるひとりの少女と目が合った。
肩口で綺麗に揃えられた髪は、母親であるイリス王妃譲りの美しい水色。微笑みを湛えた形の良い小顔は、無垢な妖精を彷彿とさせる端麗な面持ちを有していた。長い睫の向こう側にある零れそうなほど大きな黄金色の瞳は父親譲りのものであり、シャンデリアの明かりにキラキラと美しい輝きを放っている。
透き通るような白い肌は、高級な陶器のような肌理細かさを保っており、薄桃色のフリルワンピースに包まれた肢体は、小柄でまだ未成熟ながらも女の色気を充分に醸し出していた。
今年で18歳を迎えたリディアの3歳年下の実妹である、テティ・ファロギア第二王女である。
若干15歳ながらも、聡明かつ理知的な頭脳を持ち、魔術の才覚だけは姉に遠く及ばないものの、社交性もあり、諸侯や重臣、騎士団や一般兵、果ては一般庶民からも絶大な人気を誇る彼女こそ、次期国王に相応しいともっぱらの噂が立つ程の支持を受けていた。
「お姉様は只でさえ普段から口数が少ない上に、いつも公務以外は部屋に篭りっぱなしなのですから、こういう時こそ今までの分を取り戻すぐらい、諸侯の方々や有力者らに対して愛想を振りまいて下さいな」
「……そういうのは苦手なの、私」
「はぁ~、まったくこれだからお姉様は…。いいですか、我が国の第一王女たるもの、常に淑女としての嗜みを忘れてはならないのです。例え相手が敵であっても、由緒正しい王家の者であるならば、エレガントかつ華やかな笑顔でもって相手を篭絡するぐらいの気概が無くては駄目なのです! お姉様みたいに根暗な性格では、ストレス過多な王女業界の荒波は乗り越えられませんことよっ!」
テティがくわっと迫力のある表情で実の姉に対して苦言を呈す。その甲高い声の物言いは、まだ若年にも関わらず全くもって歯に衣着せぬものであった。
「テティ、大丈夫よ」
テティが発する気迫に対しても、全く動じた様子の無いリディアが静かに口を開く。
「何が大丈夫なのですか」
音が立つような勢いでテティの柳眉が寄った。
「だって、私の代わりに貴女が全部やってくれるでしょ?」
「ふざけんな! 誰がやるか!」
平気で無茶振りをする第一王女に、つい地を出して反論する第二王女。
「ついでに王位継承権も貴女がもらってくれると助かるわ」
「ええ?! そりゃ欲しいけど、何でそんな重大なことをさらっと言えるわけ? っていうか、アンタやる気無さ過ぎだろうが!」
国民のアイドル的存在であるテティの本性は、実は腹黒いものであったが、底が浅すぎる為か直ぐにボロが出るので、リディアとっては逆に微笑ましく可愛らしい妹でしかなかった。
キーキーと喧しい妹の相手をしつつも、リディアの思考と視線は、未だに大勢の人間に囲まれて会話に四苦八苦している“救国の勇者”である泰牙に注がれていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
宴が終わり泰牙の寝所として宛がわれたのは、王城ネロフテラ城東側の敷地に建設された城館の一室であった。
部屋の内装は、シンプルだが綺麗に整えられたものであり、高級感のある大ベッドにはじまり、机、衣装棚や意匠をこらしてある小物棚、鏡台や細かく造られた暖炉があり、一見すると元の世界での高級ホテル並みの部屋であった。
侍女の案内により、そんな立派な部屋に通された泰牙であったが、肉体的にも精神的にも疲労困憊であった彼は、自室となったその部屋の調度品に見向きすることなく、真っ直ぐにベッドへと直行する。
無論、着用していた衣服は乱雑に床に脱ぎ捨て、Tシャツにトランクス一丁の姿となって、フカフカの羽毛布団の中に潜り込む。
布団に入った途端、直ぐに強い眠気に襲われ、泰牙の瞼が閉じられていく。
(会社から家に普通に帰った筈なのに、気付いてみれば異世界か……)
暗闇に閉ざされた視界の中で、次々と思考が断片的に流れては消える。
会社、残業、電車、白い空間、女神、光、暗い部屋、そして――ひとりの女性。
ファロギア王国第一王女、リディア・ファロギア。
泰牙は、彼女を一目見た瞬間に完全に心を奪われてしまった。
(リディア王女…か。すげぇ綺麗だったな。ああ、そうだ…。俺、完全に頭がのぼせ上がって、豪く恥ずい台詞を吐いちまったんだったっけ。あの後、ゴタゴタしてほとんど彼女と話すことができなかったけど、もう一度顔合わすの気まずいなぁ……)
思考が次第に散れぢれなり、意識も曖昧となっていく。
(やらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことは山ほどある……。けど、それは明日からだ……。明日から……)
泰牙の意識が途絶える寸前、浮かび上がったのは、やはり彼女の姿だった。
(……リ…ディア…)
こうして泰牙は深い眠りに落ち、激動の一日がようやく終わったのであった。