序章2ー1 「峯岸泰牙」
峯岸 泰牙は茫然自失の状態で棒立ちになっていた。
視野全域を埋める色は、統一された白。
肌に感じる寒暖は無く、微風すらも皆無。
白色に支配された広大な無音の世界。
そこに泰牙は、ただ呆然と凝立していた。
思考は停止状態のまま、未だ動こうとしない。
どのくらいの時間そうしていたかも曖昧であった。
「なんだよ、ここ……」
肺からどうにか搾り出した声は、酷く掠れていた。
首を巡らし周囲を忙しなく確認するも、見渡す限りは広大な白の空間だけだった。
「えっと…、確か俺、会社から家に帰る途中だったような……」
呟く泰牙の言葉が潤滑油となって思考の歯車が回りだす。
その動き出した思考によって脳裡に記憶が再生され、一つずつ確認するかのように声に出して泰牙はブツブツと呟き始めた。
「そうだ、いつものデスマがようやく終わるってんで、残業をとっとと片付けて、久しぶりに家に帰ったんだよな」
泰牙は、自分の身体を見まわす。
普段仕事で着ている安物のスーツと革靴が確認できたが、愛用のビジネスバッグが無いことに気がついた。
足元に視線を落としても鞄は見つからず、泰牙はそのことも含め、さらに記憶を手繰り寄せる作業を続ける。
「で、駅のホームで帰りの電車を待っていて…、待っていて……あれ?」
呟く泰牙の顔に訝しげな色が加わり、次いで声が震え始める。
「あ…そうだ、駅。帰宅ラッシュの時間帯で、人がめちゃ混みで……。
ホームの端の方歩いてたら、おっさんがぶつかって来て、疲れていたから足がもつれて、それで…それで……」
ある記憶に辿り付いた時、それまで独白を続けていた泰牙の唇がわななき、全身から冷や汗がぶわっと噴き出し、スーツの中を濡らす。
「……線路に落ちた」
迫る電車。
耳をつんざく警笛。
目を刺すライトの光芒。
人々の悲鳴。
フラッシュバックする記憶の映像が次々に視界を掠める。
記憶が鮮明になると同時に、泰牙に胴震いが起こり、身体を激しくゆすり始めた。
そして、ポツリと一言吐き出される。
「死んだ?」
「死んでませんよ?」
突如、別の声が泰牙の背後から湧き起った。
「うおぉっ!?」
肝が潰れた泰牙は、慌てふためいて跳び退き、直ぐさま声がした背後を振り返った。
そして、目の前の人物の姿を見て息を呑むこととなる。
「こんにちは。はじめまして峯岸泰牙さん。そして――ようこそ異世界へ」
そこには、現実のいかなる美貌も凌駕する、非人間的なまでの容姿端麗さを持った女性が微笑を浮かべ悠然と佇立していた。
腰ほどまで伸びた金髪は、眩む様な黄金の輝きを放ち、純白のフルレングスガウンから想起されるプロポーションは完全美と称されるものであった。
背丈は、180センチ近い泰牙より、女の方が僅かに低い程度なので、女性の平均身長を鑑みれば間違いなく高い部類に入るだろう。
「あ、あんたは一体…?」
完璧な美女を前にして、惚けながらも何とか泰牙は絞り出すような声を発し疑問を口にする。
それに対し、美女は淡い微笑みを湛えたまま口を開く。
「私はここの管理人です。ふむ、そうですね。私の存在を明確に説明するのは少々骨が折れるので割愛しますが、まぁあなた方の認識でいう神様みたいなものです。それでこの場所も的確には説明しづらいのですが…、ええ、天国に限りなく類似する場所……と理解して頂ければよろしいかと」
“神”を自称する女性の声音は歌の調べの如き美声であったが、説明内容は実に曖昧なものであった。
当然、意味が吞み込めない泰牙は、さらに目の前の女性に対し質問を重ねようと口を開きかけた時、
「まあ、突っ立ったままでのお話もなんですからこちらへお座りになって下さい。お飲み物もすぐにご用意いたしますから、お茶でも飲んでリラックスなさって」
先手を打って言葉を発した女が、その白皙の繊手を緩やかに一振りすると、何処からともなく木製のカフェテーブルとチェアが出現し、さらにテーブル上には陶器製と思われる白色のソーサー付きティーカップが2つ、中から湯気をたたせて置かれていた。
「えっ!? あ…、ど、どうも」
泰牙は目を点にさせつつも、ギクシャクとした動きで勧められるままに椅子へ着席した。
「コーヒーがお好きなようですが、紅茶もお嫌いではないですよね? さ、遠慮なくどうぞ」
輝くような微笑を口元に浮かべて、女は席に着き、優雅な仕草でさっそくカップに口をつける。
女が飲んだのを見計らって、泰牙も出された飲み物を飲もうとカップを手に取った。
「……いただきます」
泰牙の好みを普通に言い当てる女であったが、彼はこれ以上の動揺を防ぐ為あえてその事を無視し紅茶を飲む。
特に泰牙は紅茶の種類などに詳しい方ではなかったが、匂いと味から以前喫茶店で飲んだ事のあるアールグレイの紅茶だということだけは分かった。
アールグレイティーから香る華やかな匂いと清涼感のある飲み心地が、喉を潤すたびに泰牙の気分を若干落ち着かせる効果を発揮した。
「ふーむ。コーヒー独自が持つ良質な苦味からくる奥深い風味も捨てがたいですが、やはり私は紅茶の方が好みですねぇ。程好い苦味に加えて舌を優しく刺激する渋味、そして飲んだ後に喉に感じる爽やかな甘味がまた何とも言えません。もちろん、紅茶本来の美味しさを妨げる砂糖、ミルクなどは邪道です。これは、コーヒーも同様だと私は断言いたします。コーヒーはブラックで飲むこそホントの美味しさが解ると思いませんか? ねえ、タイガさん?」
「……どうでしょうかね」
美しい碧眼を輝かせて自分のこだわりをペラペラ喋り出す、自称“神”と名乗る女。そんな、おしゃべり神様に対して若干ぶっきらぼうな態度で答える泰牙であった。
彼にとっては当たり前の話だが、こんな話は至極どうでもいいので、さっさと本題を切り出して欲しかった。
「あらら、そっけない返事ですねぇ。んな話はどうでもいいから、さっさと説明しろゴルァって思念をひしひし感じますよ。もっと会話を楽しまないと人生つまんないですよ?」
「…………」
「はいはい、女神様を睨まない睨まない、今説明しますから。短気は損気ですよ?」
「早く説明して下さい」
おどける様な口調でなかなか本題に入ろうとしない自称女神に対して、泰牙が僅かにイラつきを言葉に乗せて説明を促す。
そんな泰牙の様子を愉しげに眺めながらも、女神と自称するものは、こほんと咳払いをひとつした後に、どこからか取り出したメモ帳を片手に見ながら穏やかな表情で話し始めた。
「峯岸泰牙、23歳、私立大学卒業後に地元のSE会社に就職するも、そこは三次請けの零細企業で所謂ブラック企業と判明。休日出勤や深夜残業は当たり前、連日連夜の激務よる徹夜作業、さらには劣悪な環境の人間関係。 過度なストレスを抱えて、肉体的にも精神的にもボロボロの状態。それでも辞職せずに必死に働く姿はまさに社畜の鏡。偏執的なほど勤勉な日本人の鏡とも言えるでしょう、グッジョブ。はい、拍手!」
元気な声と共に、ぱちぱちぱちと乾いた音を響かせて、実にわざとらしい拍手喝采を送る神の女。
「てめえ……」
完全に小馬鹿にしてる言動と仕草に、泰牙はマジ切れ寸前である。
一方の自称女神は、全く意に介さずにメモ帳のページをめくり更に続ける。
「えーと、お次はっと。ふむふむ、両親は健在、妹が一人。配偶者は無し…というか彼女いない暦=年齢で正真正銘の童貞でしたね。ぷぷっ。あ、これは失礼しました。で、現在は実家を出て安アパートで一人暮らし中、と。趣味は、漫画・アニメ・ゲーム・Web小説etc.――まぁ、オタク趣味というやつですね。その趣味の中でも、俗にいう異世界転生系ファンタジーの物語を特に好み、よく素人が書いたWeb小説やSSなどを読み漁って、自分が勇者や冒険者となって世界を股に掛けた活躍をする妄想、現実逃避を密かな楽しみとしている。―――以上が、峯岸泰牙さんの経歴をざっと読み上げたものですが相違ありませんか?」
「…………ねえよ」
こめかみに青い筋を動かしつつも憮然たる口調で泰牙が返事をする。
童貞のくだりで、完全に殺意が芽生えたが、何とか自身の感情を押し殺して黙っていた。
そして、怒りの感情が渦巻く中で、神様だろうが何だろうがコイツには金輪際敬語を使わねえと決意を新たにする泰牙だった。
だが当の自称女神はお構いなく、喜悦を満面に張り付かせたまま更に口を開く。
「はい、ではそんな薄幸の人生を歩む貴方にひとつ朗報があります」
「朗報?」
「そうです、これ以上ないくらいの朗報ですよ。『テンプレ』おめでとうございます!」
「えっ!?」
テンションをよりいっそう上昇させる女神から、だしぬけに発された『テンプレ』という単語に、泰牙は目を丸くして頓狂の声を張り上げた。
だが同時に、神を自称する女が紡いだ『テンプレ』という言葉のおかげで、彼は一気にこの状況を把握することに成功しつつあった。
泰牙が反応した『テンプレ』というのは、彼の趣味であるインターネット上のWeb小説やSSといった一部の界隈で人気を博している、現実世界の人間が剣と魔法のファンタジー世界へ転移並びに転生して活躍する、通称“異世界ファンタジーもの”というジャンルの中で描かれる金太郎飴の如き、ありきたりな展開の話のことを指している。
つまり、意図的か否かの多少の差異はあるものの、神様やそれに類する存在によって、“チー”と呼称される特殊能力を得て、魔物が跋扈する異世界に旅立ち世界を救うといった物語の一連の流れを、テンプレート――『テンプレ』と略称しているのである。
「ま、マジで? チートとか最強能力で無双とか王道勇者でハーレム目指しちゃうやつ?」
「まぁ、そんな感じのやつです」
「うおおぉっ!」
今までの怒気もどこへやら、泰牙は込み上げる喜びを抑えきれずに、思わず歓声を上げながら席を立ってガッツポーズをする。
「嬉しそうですね~」
「そりゃあんた当ったり前だろうが! あんなクソみたいな現実世界の負け組み人生より、転生チートで完全勝ち組人生一直線の異世界ライフでしょ! つか、テンプレと聞いて喜ばねぇ奴はカンペキもぐりだね、異世界行きの資格なんぞありゃしねえ!」
「いきなりテンションMAXじゃないですかぁ、先程までとはキャラが全然違いますね」
女神が苦笑を微かにこもらせて言う。
「まあ、思った通り喜んで頂いて私としても嬉しいですし話が早くて助かります。
正直、今さら転移のことで駄々をこねられても私にはどうしようもありませんからね」
さらりとそんな事を述べる女神に、泰牙は歓喜の表情から一瞬で怪訝そうな顔になる。
「へっ? あんたが俺を異世界にトリップさせたんじゃないの?」
「いえ、違います。 まぁその辺の事情も全て説明致しますので、一旦腰を下ろしてくださいませんか?」
「え? あ、ああ…」
「では、これからお話することは、泰牙さんにとってショックなことや理解に苦しむところがあるやも知れません。ですので、分からない事がありましたら遠慮せずにどんどん質問して下さいね。一種のチュートリアルだと思って下されば結構ですので」
言われたとおりに椅子に座り直る泰牙を見つめながら、女神は微笑みをそのままに、口から綴られる言葉は若干真剣みを帯びたものとなった。
「まず冒頭に述べたように、貴方は死んでいません。なので、生きたまま異世界に転移したということになります。そして、その原因は異世界召喚――正確には勇者召喚の儀式に選ばれたことによります。つまり、貴方が駅のホームから落ち轢死寸前だったところへ、偶然にも異世界からの勇者召喚魔法の発動によって、九死に一生を得たということになりますね」
「………なるほど」
駅構内で起こった出来事の記憶が呼び起こされ、泰牙は額に冷や汗を浮かべた。
女神は、そんな泰牙の様子を気にする風もなく説明を続ける。
「私は、勇者召喚魔法によって此方の世界と貴方の世界が繋がった【門】に干渉し、転移中であった貴方を、私の固有領域である“部屋”へ招きました。
理由はご存知の通り、貴方に《力》を授けるため以外に他ありません」
「それは、どうして?」
「理由は2つあります。1つ目は、貴方の召喚先である異世界『ユグシルド』は、剣と魔法、そして魔物が存在する危険な世界です。 私が《力》を授けなければ、転移した後、かの世界で生き抜くことは非常に厳しいと言わざるを得ません。もっとも貴方は勇者転生の儀でもって、とある国に召喚される訳ですから、しばらくは国で手厚く保護されるでしょう。ですが、残念ながらその国も伊達や酔狂で多大な労苦を伴う勇者召喚などという儀式を執り行った訳ではありません。そう、切迫した状況下の国が勇者という存在に求めている事は只ひとつ――『兵器』としての有用性です。でも、それが期待される程の性能の無い“粗悪品”との判断を下されたとき………後は言わずもがな、ですよね?」
「んな身勝手な……」
ごくり、と唾を飲み下す泰牙。
強制的に人を異世界から転移させ、さらに身勝手な理由からその者を勇者などという迷妄な存在に祀り上げた挙句、使えないと判断されれば秘匿の為処分される。
これほど理不尽なやり方があるか、と泰牙は憤りを覚えたが、同時に背筋に冷たいものも流れた。
そう、稀に異世界転生ものの小説で見掛ける、無能力で転移・転生させられる物語は、十中八九その主人公が悲惨な目に遭うのである。
ゲームの難易度で表すならば、ベリーハードモードでスタートするようなものである。
要するに、ぬるま湯に浸かったような平和な現代日本から何の覚悟も装備も無い状態のまま、いきなり紛争地域へ送り込まれるようなもので、死ねと言っているようなものだ。
ドMであるならば話は別だが、生死に即直結する以上、元々石橋を叩きまくって渡る性格の泰牙は、テーブルを挟んで座っている女神から、チートという《力》を授けてもらうという言質が取れていることを思い出し、密かにほっと胸を撫で下ろす。
「以上が理由の1つ目ですが、何か質問はありますか?」
「えっと、俺が召喚されるその国ってヤバイ状況なの?」
「そうですね。まぁ、現在は急迫という程では無いのですが、由々しき事態に陥っているのは間違いありませんね。ちなみに召喚先はファロギア王国という所です」
「由々しき事態?」
「平たく言えば、戦争が起きます」
驚愕の事実を実に淡々と述べる女神。
対する泰牙は、あんぐりと口を開けたまま硬直する。
「詳しい事情の説明は、召喚先であるファロギア王国の方から聞ける筈ですから、ここでの説明は省きますが、現在かの国は隣国との小競り合いが続いている状態ですので、本格的な戦争が開始されるのも時間の問題かと思われます」
「マジかよ、やばいじゃん……。完全ハードモードかよ…」
吐き出すように呟く泰牙。
いくら超人的なチート能力を授かっても、夥しい屍山血河の上に成り立つ戦争という名の国家同士の武力衝突には絶対に巻き込まれたくないというのが彼の本音だった。
何故ならば、これはゲームという仮想世界などではなく、紛れもない現実であり、そして現実である以上、戦争となれば間違いなく大勢の人間が死ぬということである。
まして泰牙は勇者という名の兵器として召喚されるのだ。極端に言えば、破壊と殺戮の執行者として力を振るうことを人々は期待し要求するだろう。
それは、彼が人殺しをしなければならないという事実である。
「―――異世界へ行くの、怖くなりましたか?」
女神が微笑みを湛えたまま、静かに意向を問う。
「……ああ、正直に言うとすげえ怖くなってきたよ。いきなり戦争するって国に放り込まれるのは結構キツイわ。俺、てっきり気ままな冒険者稼業とか、王様とかお姫様に魔王退治を依頼されて、勇者として世界に旅立つとかさ、そんな風に気楽に考えてた」
泰牙が重い息を吐いた。
「タイガさん、厳しい言い方かもしれませんが、覚悟を決めて下さい。どちらにしても後戻りはもうできません。そしてこれから貴方が赴く世界は、綺麗事で済ませられるほど生易しい場所ではないのです。どんな生き方をするにせよ殺生は避けて通れませんし、何よりも、自分を守れるのはタイガさん、貴方ご自身の力しか頼れるものはないのです。甘い考えでは、貴方だけでなく、他の者まで不幸にしてしまいますよ?」
「……肝に銘じておくよ」
「結構です。では、2つ目の理由をお話しますね。実はこちらの方が本題でして、単刀直入に言いますと、このままではこの世界『ユグシルド』は滅亡します。
なので、タイガさんには世界の滅亡を防ぐお手伝いをしてもらいたいのです」
「は? え? 滅亡?!」
あまりにも想像を絶する言動に、泰牙は目を見開く。
「はい。滅亡、消滅、破滅、終末……どのような言葉で表現しても結果は同じですが、この『ユグシルド』は現在非常に不安定な状態にあります。理由は、貴方が身をもって体験した転移現象です。元々これは、多元世界それ自体が内包する矛盾から歪が生じ、その歪の発生が孔、もしくは亀裂となって主体と客体となる2つの世界の連結を促進し、異世界に通じる【門】を具現する稀有な自然現象でした。ですが、こちらの世界『ユグシルド』の不安定化が顕著に現れ出すと、召喚魔法や召喚儀式といった人為的なものに対しても【門】が具現化してしまうようになったのです。その結果、貴方の住む地球からの転移現象が頻発する事となり、その事象はよりこちらの世界を不安定化させ、更に衰微させる結果をもたらしました。その後も止むことはない転移現象が『ユグシルド』の存在をより一層弱体化させ、結果、それが衰耗と不安定化の悪循環を生み出し、世界滅亡などという最悪の結末を迎えようとしているのです」
「嘘だろ……。でも、何で…、そんなことに?」
「原因は様々ですが、主要因はこちらの世界の根幹を構築する“マナ”の枯渇です」
「マナって…、よくファンタジーとかの世界で出てくる魔法とかの大元のことだろ?」
「まあ、概ねその認識で間違いはありませんが、正しくは森羅万象を司る超自然的エネルギーの総称を“マナ”といい、地・水・火・風といった万物を構成するエレメント――四大要素の根源となるものでもあります。通常“マナ”が枯渇するという事態は起こりえません。何故ならば世界は無限大に等しいエネルギーを内包しているからであり、その膨大なエネルギーそれ自体が“マナ”である以上、世界は常態を保持できる筈でした。ですが、貴方の『世界』からの転移現象がそれを根底から覆す事態を招き寄せたのです」
「何なんだよ、それは?」
「膨大な“マナ”の流出です。貴方の『世界』からこちらの世界『ユグシルド』に向かって始めて物理的転移現象が生じた際、両世界に現出した歪の孔である【門】を通じて『ユグシルド』から尋常ではない量の“マナ”が貴方の『世界』に吸収されてしまう事態が発生しました。しかも最悪なことに、それが契機となってその後も同様の転移現象が続き、その都度“マナ”の流出も起きました。“マナ”の損失は、世界の存続に必要なエネルギーの損失と同義です。 結果、それが『ユグシルド』の不安定化と弱体化を顕著にし、本来“マナ”の一方的な流出を防ぎ、不完全な【門】を修正する力をも失ってしまいました。それ故に、その【門】は現在も消失すること無く、両世界を不自然な形で繋いだまま『ユグシルド』から膨大な量の“マナ”が貴方の『世界』へ一本通行で流れ、歯止めが利かない状態に陥っています。この状態を止める事が出来なければ、無限大に等しいと言っても、真に無尽蔵ではない、有限なエネルギー資源である“マナ”が枯渇するのは火を見るよりも明らかです。 そして、そのタイムリミットは刻一刻と迫り続けています」
「…………」
余りにも残酷な現実を、あくまでも淡々とした口調で述べる女神に対し、泰牙の舌の根は凍りついたように動かすことさえ叶わなかった。
「前述した通り、“マナ”は『ユグシルド』の根幹を成すものです。それが枯渇するとなると、世界に息づく全生命体は、植物が枯れるかの如く、緩やかに滅び行くでしょう」
「あ、あんた自分のことを神様みたいなもんだって言ったじゃないか、何とか出来ないのかよ…!」
泰牙は激しい動揺の中、喘ぐように何とか掠れ気味な声で詰問する。
いきなり、これから召喚される世界が既に滅亡の危機に瀕しています、などと聞かされては正直たまったものではないし、泰牙はその事実を信じたくはなかった。
だが、一方で『ユグシルド』を管理している者の言であるならば、まず間違いない事実であろうことも、同時に彼は理解していた。
尤も、理解はしていたが納得できなかったが故の感情的な詰問であった。
「出来ないことも無いのですが…、但しそれをするとなると、大規模の改変が必要となりますので、現在の『ユグシルド』の全文明及び全生命体のリセット――全てを初期化する必要があります。現在のように【門】が不完全ながらも繋がった状態では、私だけの力でその【門】の修正ないし閉鎖することは物理的に不可能なのです。ならば別の方法で“マナ”自体の流出状態を止める事は可能ですが、それを実行に移すとなると、根源を一度白紙状態に戻し、再度“マナ”の流れや性質を設定し直さなければなりません。これは一見簡単なように聞こえますが、根源に手をつけるという事は、現存する世界の全存在を否定し、強引に新世界の構築を肯定するようなものですから、当然現在の『ユグシルド』の文明は完全消滅し、ゼロ文明からリスタートしなければならないのです。結局この方法では、先にも触れた世界の滅亡とは広義の上で結果は大きく異なりますが、狭義の上では、既存社会の崩壊という点で最悪な手段と言っても過言ではありません。そしてタイガさん、『ユグシルド』に召喚された貴方という存在もまたリセットの対象外とはならないのです。 無論それがお嫌なら、時の概念から外れたこの場所に留まって、私と共に半永久的に世界を見守り続けるという選択肢もありますが」
「そんなの……、どっちも駄目に決まってんだろう」
一瞬、文字通りこの神秘的な美貌を誇る女神とこの場所に留まるのも悪くはないかも、などという邪念がチラっと脳裡を過ぎるが、泰牙は直ぐにその考えを打ち消す。
いくら美しい女神と一緒でも、半永久的に、しかもこの何にもない空間で過ごすなど冗談ではなかった。
「で、世界の滅亡を防ぐ手立てはあるんだよな? あんたの力以外で」
「あります」
一縷の望みに賭けるような口ぶりで問う泰牙に、女神が是と即答する。
「俺はどうすりゃいい? 具体的に教えてくれ」
「貴方をこの世界『ユグシルド』に召喚した張本人、ファロギア王国第一王女リディア・ファロギアを国難から救ってあげて下さい。彼女の命運こそがひいてはこの世界の存亡に多大なる影響を及ぼすでしょう」
「はぁ? ちょっと待てよ。何でそのお姫様を助けることが世界滅亡を防ぐことに繋がるんだよ」
「単純な話です。彼女は、現状の不完全な【門】を完全なものに修正できる“才能”を秘めている者だからですよ」
「【門】を完全なものに修正できる“才能”?」
泰牙が、女神の言葉を鸚鵡返しに問うた。
「はい。先程お話した莫大な“マナ”の流出の主要因は、【門】自体が『ユグシルド』側の方は開放状態であるのに対し、タイガさん側の『世界』の方がほぼ閉鎖された状態、という不完全さに由来します。それは、過去から現在に至るまで、こちら側の“存在”がそちら側に転移した事実が無いことからも明白です。つまり、本来ならば繋がれた世界間で偏りの少ない同規模程度のエネルギー相互干渉が行われる筈が、現状では不完全な【門】を起因として、片側の世界から極端なエネルギー流出が続いています。よって、この状況を打開するには、【門】に対して異世界転移時に発生する“力場”を魔法等で人為的に作り出し、その“力場”でもってタイガさん側の『世界』の【門】を完全に開門させ、両世界を完全な形で繋ぎ直す必要があるのです。そして、それを実現させる能力を潜在させている人間が、件の王女様という次第です」
「ああ成る程ね。それでお姫様の命を守る為に、俺に《力》を与えるって寸法か。まぁ…理由はともかく、異世界から召喚された勇者が危ない状況に陥っているお姫様を助ける――ってのは、ある意味王道だし納得はできるけどさ……。はっきり言って俺のガラじゃねえなぁ、何より勇者っつーのはイケメン担当の職種だろ」
唇の端を歪ませて、疲れたような声を出す泰牙。
それに対し、微笑みを更に深くした女神が声を掛ける。
「大丈夫ですよ。私の見立てでは貴方は立派に“勇者”を務められます。それに、【門】を完全に開通させることの重要性は『ユグシルド』だけに限定したお話ではありません。それはタイガさん、貴方にとっても大切な意味合いを持つ筈です」
「え? 俺にも?」
「ご家族に無事を伝えなくてはならないでしょう? 当然貴方のことをご心配していらっしゃるのだから」
「あ……」
女神の指摘に、泰牙の呆然とした声が漏れた。
あまりにも突拍子のない非現実的な事態に直面していたことにより、泰牙はその事を完全に失念していた。
自分がホームの転落事故に遭ったことは、直に両親にも知れる事となる筈である。
そうなれば、親は間違いなく息子の安否確認を求めるだろう。だが、当の息子は事故後に行方不明と分かれば、両親の心配や心労が多大なものになることは想像に難しくない。
現実に立ち返れば、異世界云々の話しよりも、まずは自分の無事を両親に伝えることを最優先に考えなければならなかった。それを、女神に指摘されるまで完全に忘却していたという事実が、泰牙を呆然とさせ、また忸怩たる思いを抱かせた。
「そうだ…、親に俺が無事だって連絡しなきゃ……。けど、どうやって? こっちの世界から転移した人間はいないんだろ?」
「確かに、現在の不完全な【門】の状態では不可能です。それは、数多の召喚はあれど、送還の実例は皆無という事実が証明しています。ですがタイガさん、諦めてはいけません。貴方側の『世界』の【門】が完全に開放されれば、間違い無く『ユグドシル』側からの送還も可能となりますから」
女神の言動は確信が込められていた。
「そりゃありがたいけどさ…。ちょっと気になったんだけど、そのせいで今度は俺の方側の『世界』がやばい状態とかになったりしないよな? もしそうだとしたら俺は―――」
「大丈夫です」
懸念を伝える泰牙の言葉を、女神は顔に微笑みを張り付かせたままで、だが口調は鋭く切るように遮った。
「何も混乱などは起きませんよ。タイガさん側の『世界』を混乱させる規模での転移を考えるならば、それこそ国家規模の転移魔法を行使しなければなりませんから。それは【門】の規模や“マナ”の消費問題、行使可能とする人材の問題、更にはタイガさん側の『世界』からの是正処置が施される等の諸事情を考慮すると、実質的には100パーセント不可能と断言できますね。無論、私も黙って見過ごすようなことは致しませんし」
「そうか…、まあ、それなら大丈夫だよな、うん」
断言する女神の得も知れぬ迫力に、たじろいだ様な形で泰牙が頷いた。
「では、これまでの話をまとめますので最終確認の意味も含めて聞いてください。先ず第一に、異なる世界同士を繋ぎ、転移現象の原因となる【門】の不具合によって、この世界『ユグシルド』の根幹を支えるエネルギーである“マナ”が枯渇しつつあります。 その為、世界は近い将来滅亡の危険性を孕んでいます。第二に、先に挙げた世界滅亡の危機を回避するには【門】の修正が絶対条件となるのですが、その修正を実行できる者は、ある種の“才能”に恵まれた者でなければなりません。この非凡な逸材であり適格者とも言うべき人物が、タイガさんの転移先であり、勇者召喚の儀法を成功させたリディア・ファロギアという女性になります。第三に、彼女はファロギア王国第一王女という立場にありますが、現在、同ファロギア王国には戦争の足音が忍び寄ってきている状態にあり、戦端が切り開かれるは時間の問題でしょう。しかも残念ながら、現状かの国がその生き残りを賭けた戦争に勝利することは非常に難しいと言わざるを得ません。そう、貴方という“勇者”の存在なくしては―――」
「OK良く分かったよ。ま、要するに、俺は何が何でもそのお姫様を守り通せばいいんだろ? そうすりゃ、才能満ち溢れるお姫様が世界を救ってくれるし、俺も元の『世界』に帰らせてもらえるってことだよな」
「概ねその通りです。タイガさんは話が早くて助かります」
にこやかな笑顔の女神が、柔らかな声で泰牙を褒めた。
「ま、はっきり言って元の『世界』には、マジで碌な思い出が無いから敢えて戻りたいとは思わないけどさ。ただ家族には俺が無事ってことだけは何とか伝えたいからなぁ」
「ご心配には及びませんよ。元の生活に戻りたくないのなら、御両親に無事を伝えた後、また『ユグシルド』に召喚して貰えば済むだけの話ですから」
事も無げに言う女神に、泰牙は「おお、成る程」と納得の声を出しながら、握りこぶしを片方の手のひらで叩いた。
「さて、長々と説明いたしましたが、以上持ちまして状況の説明の方は終了させて頂きます。では、次はいよいよタイガさんお待ちかねのチート選択といきましょう」