序章1 「発端」
広大無辺に広がる空間。
すべてが虚無と化すほどの白がその空間を埋めていた。
あらゆる音が静謐を保ち、無音が空間を支配していた。
暑くもなく、寒くもなく、通る風も一片もなく。
ただ悠久に、白く眩い空間がそこにはあった。
白の空間には明確な存在があった。
それは生まれた当初、定まった形象を持たぬ存在であり、限りなく気体に近い物理事象であったが、意思を兼ね備えていた。
意思は、その存在を創生した主からひとつの命令を与えられていた。
『世界の管理』である。
その存在は『世界』を管理し調整する管理者として在る事を主から命ぜられたのである。
『世界』は創造主にとって、お腹を痛めて産んだ子供と同じようなものであった。
それゆえに創造主は数多の子供――『世界』を産み、その子を世話させるベビーシッターの如く管理者を創り出し、『世界』の世話をさせていたのである。
存在は管理者として、主から与えられた『世界』を育み、歪にならぬようバランスを考慮し、主の命である『世界』の管理を粛々とこなした。
『世界』が抑制を失い、暴走したのち消滅することのないよう精緻な調整をおこなった。
管理者は積極的に『世界』に干渉し、調和を保つよう最大限の努力を続けた。
なぜならば、『世界』の消滅は己の存在をも消滅することになるのを理解していたからであり、その管理者は自己が消滅することに恐怖したからである。
こうして、無限に等しい時間を管理者は『世界』が、そして己の存在が終焉を迎えぬように徹底した管理を継続していった。
―――それはいつからであっただろうか。
管理者の中に、あるひとつの異端な感情が芽吹き始めつつあった。
“好奇心”である。
管理者は『世界』を管理・調整する際に、よく『世界』の生き物を利用していた。
それは、管理者自らが『世界』の森羅万象に対し直接手を下すと、それこそ世界規模の異変を引き起こし、下手をすると『世界』の全生物を絶滅に追いやる危険性を孕んでいたがゆえに、微調整を行いたい時に、『世界』の特定の生き物に対し特殊な力を与えて、自分の代理として事象に当たらせていた。
その中でも管理者は、特に“人”という生物に様々な力を付与することが、非常に興味深い結果を招くことに気がつくようになった。
彼ら彼女らに管理者が力を与えることによって生み出される結果は、管理者が求めるものとは必ずしも一致しないことが多く、中には管理者の思惑と真逆の行動をし、予想だにしなかった結末に至る者までいた。
それが、『世界』にとって良いか悪いかは別として、管理者は“人”という生物に対し、並々ならぬ興味を抱くようになったのである。
それから管理者は“人”を良く観察するようになった。
彼ら彼女らを観察し、干渉することが管理者にとっての“娯楽”となるまでそう長い時間は掛からなかった。
また、“人”が管理者である自分のことを『神』と崇め、奉るのも愉快であった。
管理者は“人”という存在が面白くて仕方がなかった。
なにせ、どうしようもなく矮小な存在のくせに、身の丈以上の力を欲し、その力を駆使し、国家間で、種族間で、個人間で、只闇雲に争い続ける愚者共の群れなのだから。
永劫に断ち切られることの無い争いの連鎖は、数限りない悲劇、時には喜劇を生み出し、それを彼ら彼女らは儚い生命を完全燃焼させ、燃え尽きるまで必死に演じ続ける。
管理者は、飽くことなく長い時を“人”で費やしたが、それでも『世界』の管理・調整は順調であったと言えた。
だが、ある事柄を管理者が発見したことから事態は少しずつ様相を変化させてゆくことになる。
それは、偶然であったのか。
または、必然であったのか。
管理者がいつものように“人”を観察していた時に感知したのである。
それは、無形の力の場であった。
それは、『世界』の歪の孔であった。
それは、管理者にも解き得ぬ現象であった。
歪の孔の発生場所に一人の人間が気を失って倒れていた。
管理者は始めて疑問という感情を知ることとなる。
何故ならば、その倒れていた人間の着衣は、管理者が管理する『世界』のどの地域にも無い服装だったからであり、尚且つ、その人間が持っていた全ての記憶を閲覧しても、全く見たことも無い知識や技術で構築された世界で生まれ育ったからであった。
それから管理者は、徹底的にその人間を観察することに決めた。
だが、結局その人間は、気がついた後、状況を終始理解できぬまま、深い森を2日間さまよい歩いた挙句、最後は遭遇した魔物に喰い殺されてしまった。
その結末を見て、管理者はある二つの気持ちを同時に抱いた。
己が管理する『世界』の安寧を脅かす存在だったかも知れないモノが排除された安堵感と、別の『世界』があるかも知れぬという、圧倒的な期待感であった。
ゆえに管理者は“人”の観察から、『世界』の歪の力場を探す方に重点をシフトした。
その後も、同様の事例を複数件発見するに至った。
また、その異邦人たる人間は年齢も性別も人種も様々であったが、一貫した共通点として、やはり自分が管理している『世界』とは異なる世界から偶然にも飛ばされてきた者達であることが分かった。
管理者は喜びの感情を抑えることが出来なかった。
何故ならば、これまで自分が管理してきた『世界』という箱庭とは全く別次元に存在する『異世界』があると分かったことから、『世界』が、そして“人”がこれまで以上に面白くなると確信したからである。
留まる事の知らない好奇心は、手始めに『異世界』の人間に力を授けるところから始まった。
結果は上々というもので、基本的に異世界の人間達は管理者が与えた力を、こちらの『世界』の“人”以上に上手く、さらに独特に使いこなし、実にユニークな物語を繰り広げることに一役買ったのである。
さらに管理者は、異世界の人間達の記憶にあるコンピューターゲームや映画、漫画、小説、アニメなどといった独特の文化に対し強い興味を持った。
中でも管理者が特に興味を惹かれたのが、異世界の人間が持つ――若い世代が多い――その独特の感性、発想力、想像力である。
また、日本という国で育った若者はよりその傾向が顕著であったことも、管理者は強い好奇心を抱くことになる。
そして管理者はついに、ある思いを持つようになる。
それは、管理者の『世界』と『異世界』とを繋ぐ【門】の完全な開通だ。
現在のような、『世界』の不安定化から稀な確率でしか発生しない歪の孔――【門】を待つような受身の姿勢ではなく、こちらから地球と呼ばれる『異世界』に対し積極的にアクセスを試みて【門】を完全に開通させる。
さらに、今は『異世界』からの一方通行な転移が続いているが、これが【門】の発生を安定化させ、こちらの『世界』と向こう側の『異世界』の恒常的な交流が図れるようになればさらに『世界』は混沌となり、より刺激的になるに違いない…と管理者は考え付いた、否、そこに思い至ってしまったのである。
管理者自身は万能に限りなく近い存在であり、云わば神の如き力を振るうことができる。
だが、一方で、自らが持つ能力以外の、新しい能力を身に付けることが出来ない。
簡潔明瞭に言い表すならば、進化できない存在なのである。
それ故に、管理者の『世界』と『異世界』の次元を繋ぐ術は持ち得ることができないのである。
云わば、閉鎖された箱庭から抜け出る方法が皆無なのであった。
だが、管理者には一つだけ確たる勝算があった。
そう、それは異邦人たる『異世界』から招き寄せられた転移者達の存在だ。
以前『異世界』からの転移者を観察していた時に、管理者は驚嘆すべき事態を目撃したことがある。
それは、彼ら彼女らが自分達の世界、地球の知恵・知識を総動員し、こちらの『世界』にある既存の魔術や技術へ融合させることによって、この世界には決して生まれ得ぬ新魔術や新技術を確立させたことを目の当たりにしたからである。
そして、現にその新魔術や新技術を使用し、『異世界』の転移者が故郷である地球に帰ろうと試みた実例すらもあるのだ。
だが、その試みは悉く失敗に終わり、成功した実例は未だ皆無であった。
しかし人間は諦めずに、時を重ね、世代を重ね、魔術や技術の新理論を模索し続けることによって着実に成功への階段を上り続けていることを管理者は把握し、そして期待もしていた。
ゆえに管理者は、行動に移す。
己の願望が、決して手の届かない場所にあるわけではないのだから。
だが、管理者は知らない、気付かない。
好奇心に狂い、堕ちた存在と化した管理者は、『世界』と『異世界』との交流がいかに危険を伴うかということを。
何故、創造主はわざわざ閉じた『箱庭』を管理させていたのかを。
管理者は、異邦人たる『異世界』の人間はもとより、こちらの『世界』の“人”にも見境無く力を与えていく。
そうすることにより、少しでも多元する世界を繋ぐ扉を完成させることが出来る者を生み出す可能性を高める為である。
だがその行為は同時に、『世界』の秩序や予定調和すらも崩壊させることに繋がる。
『世界』が狂気に蝕まれていく。
狂気は際限無く加速してゆき、まっしぐらに滅びへと突き進む。
だが、真に皮肉なのは、『世界』を滅びへと誘う存在が、人族や亜族、魔族でも魔王でもなく、“人”に神とまで崇められる存在であるということである。
そして、物語が開幕する―――――