花曇
セ・エーメ。古い言葉でセは風、エーメは夜明け。
国の名の意味は「風が夜明けを導いた」
初代の王率いる軍が、たびたび吹き荒れた強風のおかげで数々の戦に勝利した事に由来していると、建国の書には記されている。
確かにこの国は地形からなのか風がよく吹いているが、そよ風程度で吹き荒れる強風とやらには志保は出会ったことがないので、今では気候が変わったのかもしれない。
そういえば歴史の勉強で日本でも、昔台風のおかげで他国の侵略をまぬがれたとか勉強したきがする。当時は神風とか言われていたらしいが、結局は台風だった。ようは言いようなのもしれない。
日本は夏になると台風の季節だが、この国は春になると深い霧がでる。
自分のつま先すら見えない霧は濃厚なミルクの膜のように山や森を覆い隠し、世界の境界ですら包んでしまう。
霧の日に外に出ると神々の渡りがあるとか、死者に出くわすだとか地域によっていろいろと言い伝えがあるそうだ。とりあえずは外に出るなという教訓が昔から伝えられているので、人々は霧が通り過ぎるまで屋内でのんびりと過ごすのが習わしとなっている。
純白の濃霧はまるで生き物のように国中を練り歩き、ふと思いついたように姿を消す。
その時、ごくまれに忘れ物をしていく。
それは物であったり食べ物や動物。大きな建築物ですら残されていくらしい。
この世界には存在しないその風変わりな忘れ物は『霧渡し』と呼ばれ、国の産業や文化に取り入れられてきた。ときに国を潤し、ときに戦火の火種ともなった霧の落し物は、長い歴史とともにこの国に根付き
今ではさほど珍しがられるものでもなくなった。
「昨日森でずいぶん変わった動物を見た」と言えば、
「そりゃ『霧渡し』だろうな。めずらしいものが見れてよかったな、いいことがあるかもな。」
と返される程度だった。
そして志保もまた『霧渡し』と呼ばれる存在だった。
トンネルを抜けた記憶も、マンホールに落ちた記憶もない。
命にかかわる事故にあったとか、お告げがあったとかそういうこともない。
ただぼんやりとこの世界に存在していた。
もはや故郷となってしまった日本での生活は全部覚えている。
志保は実家から毎日専門学校に通っていた。
特に将来のやりたいことも思いつかず、4年も勉強はいやだなと専門学校への進学を選んだ。結婚した後も職に困らないと思い看護の学校に通ったはいいが勉強も難しく、熱意もない志保はただ流されるように毎日を過ごしていた。
一人っ子の志保の両親は共働きで、適度に甘やかされ放置されて育った。
さみしいと感じていた頃もあったが、思春期をむかえる頃にはそれも感じず、かえって口うるさく言われなくてラッキーだと思っていた。
友達も顔が広いというほどに多くないが少なくもなかったし、中学・高校とそれぞれに3年間をともに過ごした友達もいるし、専門学校でも新しい友人ができた。
このまま学校を卒業し就職、結婚や育児を経験し大人になっていくのだと、そう漠然と考えていた。
生きていくことは、いとも容易い。
夢や熱意など強く感じなかったが、貧困にあえぐこともなく、餓えの苦しみもない。
自分は恵まれているのだと。
それなりに恋の悩みや初々しい葛藤もあったつもりだったが、それは己という海の海面を漂うような生き方だった。波に身を任せていれば自然とどこかへ運ばれていく。ぷかぷかと浮いていれば息もでき、なんて楽ちんなことだろう。時折波にもまれ軽く沈むみ息ができないこともあるが、すぐにまた浮き上がってこれる。
自分の体の下に千尋の海があることも知りはしなかったし、知る必要も感じなかった。
今となっては貧しい人生だったとも思うが、それはそれで一つの幸せだったのかもしれない。
いつこちらにやってきたのかは、今となっても漠然としていて思い出せない。
専門学校の友人たちと夏休みになったら海に行こうとおしゃべりしている場面や、半そでの洋服をクローゼットから取り出す場面、スタバでフラペチーノを飲んでいる場面など切り取られた場面を思いだすことは出来ても、記憶の前後があやふやで思い出せない。
遅い春だったのか初夏だったのか。
両親と最後にかわした会話ですら思い出す事が出来ないでいた。
こちらに来てすぐの記憶も同様だった。
その年の春に城を含めた王都をすっぽりと覆った霧とともに志保はこちらに渡ってきた。霧が晴れていく城の中庭で、ぼんやりと歩いていたところを見回りの兵士が発見。霧にまぎれて忍び込んだ賊と疑うには志保の格好はあまりに奇抜すぎたためと、こちらの言葉に反応せず焦点のあわないうつろな目が『霧落し』だと判断され、とりあえずは王宮で保護された。
自分が何枚もの透明の膜に覆われてるみたいだ。
頭の中も膜が邪魔をしてはっきりと物事が考えられなかった。
どうも自分は知らない場所にいて、知らない人たちが周りにいることは理解していたが志保だが、それにどうして、なぜという疑問をいだくことが出来なかった。
うつらうつらと夢と現実の狭間にいた志保に、明るい光とともに柔らかい女性の声がかかる。
やっぱり家じゃないんだな…と遠いどこかでがっかりした自分の声がする。
目が覚めてもまだ夢をさまよっているような身体を起こした。
カーテンが開けられ朝の陽光がそそぐ室内は広く、今志保が座っているキングサイズと思われるベッドがあと4つは余裕で入りそうだ。壁や柱、家具はテレビでしか見たことないような豪華なもので、金ぴかのそれらは窓からの光を反射し寝起きの目がチカチカするのだ。目をしょぼしょぼさせてる志保を見て、先ほど声をかけてくれた女性が微笑みながら濡れたタオルを差し出してくれる。
この女性は志保がこの部屋で目を覚ましてから毎日何かと世話をしてくれている。毎日といっても起きているのか寝ているのかあやふやな志保にはまだ日にちの感覚がなかった。
女性は白いブラウスに胸の下で結ばれた丈の長い巻きスカートのようなものをはいている。母親よりも年配であろう彼女はいつもニコニコと笑顔で志保に声をかけてくれる。
今も「 」と声をかけられるが、彼女が口にだす言葉は志保には分からない。
タオルを受け取り顔を拭く志保を見て彼女がまた何か話しかけてくるが、志保はぼんやりと彼女を見るつめることしか出来なかった。
いつもなら顔を拭いた後、ベッドの脇にある小さなテーブルで朝ごはんらしきパンとスープと食べる。
スープは志保が記憶している限り毎日味が違いそこそこ美味しいのだが、このパンがやっかいで大きいうえに固く、そのうえモソモソとして食べずらいことこのうえない。
ふわふわもちもちのパンに慣れ親しんだ志保の顎は、このパンには到底かなわないらしく、食後はしばらく顎が痛むのだ。でもお金を支払ってもない志保は文句を言える立場ではないので、ありがたく頂戴している。
なんとなく食べる前から顎が痛む気がし手でさすりながらベッドから降りると、いつものテーブルではなく扉へ案内された。
そこで志保は初めて彼に会うことになる。
風と霧の国の王子様
セイネル・セ・フィーガ
志保が結婚することになる相手だった。