山積みの問題
「いやあ、それにしても可愛い子だねぇ。 イメージにぴったりだよ!」
応接用のソファに腰を下ろした莎雪を見て、『社長』が感嘆の声を上げた。
そして、にこにこと屈託のない笑みを浮かべながら、数枚のデザイン画らしきものと莎雪の顔を見比べては納得したように頷いてみせる。
「――とりあえず紹介しとく。 この人、俺の先輩で服飾デザイナーのチアキ」
「こういう者です。 チアキって呼んでね」
蓮の言葉で思い出したように名刺を差し出すと、『社長』は語尾にハートマークを添えた。
『尾上智明』というのが本名らしい。
彼が社長兼デザイナーを勤めるブランド『チアキ・オノエ』は、いわゆるセレブが着るような高級既製服を手がけている事で知られる。
このところ、蓮の交友関係には驚かされるばかりだ。
聞けば、蓮と絢姫と智明の三人は、高校時代の文化祭でファッションショーを開いて話題になったという。
そのショーが三人の将来に大きく影響しているであろう事は、推して知るべし。
「あの、どうして『チアキ』さんなんですか?」
「ああ。 女の子みたいで可愛いでしょ」
莎雪の問いに、智明は笑って答える。
「小さい頃から、サッカーとか野球とかの男の子の遊びよりも手芸に興味があって、よくいじめられてたんだよね。 家庭科の、ミシンの授業でバッグなんかを作って先生に褒められると、女の子からも反感を買ったりして大変だったんだー。 蓮くんのおかげで、今はもういい思い出になったけどね」
「別に、俺は何もしてないけど」
「蓮くんは相変わらず、素直じゃないよねぇ。 どうしてそんなにヒネちゃったのかなぁ?」
智明が冗談交じりにそう言って、蓮が微笑う。
きっと、学生時代からこんな二人だったのだろう。
テーブルの上に広げられたデザイン画に視線を移すと、思っていたよりもカジュアルなものが目立つ。
レースがふんだんにあしらわれたシャツやワンピースは莎雪の興味を惹き、ショーケースに並べられたトルソーを想像させた。
「この絵が洋服になるんですね。 自分で考えて形にするのって、本当にすごい事ですよね」
智明は、小さい頃からの夢を実現したのだ。
莎雪と同じ年齢の頃にはもう進む道を決めていて、きっと迷う事もなかったのだろう。
そう思うと、莎雪は不安になった。
進学と就職、どちらにも決めかねている今の状況が、何だかいけない事のようにも思えてくる。
「さて、そろそろ本題に入ろうか。 実は莎雪ちゃんにお願いがあるんだけど」
「お願い……ですか?」
「うん。 実は、ウチのモデルをやって欲しいんだよね」
「えっ」
さらりと言い放った智明に、莎雪は思わず声を上げた。
「む……無理です! 出来ません!」
「ダメかなあ? こういう服は趣味じゃない? 絶対似合うと思うんだけどなー」
「だ、ダメとかいう問題じゃない気がしますっ」
「どうして?」
「だって……モデルなら絢姫さんとか、キレイな人がやらなくちゃ……」
テレビのコマーシャルや街中の広告を見ても、ファッションモデルというのはみんな一様に美人だ。
美人が着るからこそ、洋服に価値が出るのだ。
特別な容姿を持たない自分に、モデルのような大役が務まるはずもない。
「もちろん無理強いする気はないけど、うーん、もったいないなぁ」
断固として首を縦に振らない莎雪に、智明は心底残念そうな顔をする。
決して、智明のデザインした服が気に入らないわけではないのだ。
一介の女子高生がファッションブランドのモデルに抜擢されるなんて、夢みたいな話ではあるけれど、相当なプレッシャーがかかる事は想像に難くない。
莎雪にはとても耐えられそうになかった。
「じゃ、チアキ。 そういう事だから、今回は諦めて」
「えええ、蓮くんはダメだよ。 一緒に仕事しようよー」
「今、無理強いはしないって言ったよね」
「蓮くんの嘘つきー! ひとでなしっ!」
蓮にすげなく断られた智明は、今度は泣きそうな表情で訴え始めた。
「蓮くんに合わせてラインが動いてるんだから、今更中止には出来ないんだってばー」
「ライン?」
「そう。 もう作り始めてるから、蓮くんがいないとハナシにならないの」
聞き返した蓮に、えへ、と小首を傾げる智明。
「お互いのプラスになるんだし、モデル引き受けてよ、蓮くーん」
莎雪はてっきり、蓮はヘアメイクの事で協力を仰がれているのだと思っていた。
けれど、どうやら智明の思惑は違っていたようだ。
「ねえ、莎雪ちゃんだって、蓮のカッコイイところ見たいよね?」
「え、えーと」
「ね?」
急に話を振られた莎雪は、智明の勢いに思わず頷いてしまった。
蓮なら、例えモデルが本業だったとしてもおかしくはないと思ったのは事実だ。
「ほらー、莎雪ちゃんだってこう言ってるんだし」
「……わかった」
智明の熱意に根負けしたのか、蓮は少し考えたあとに頷いた。
「莎雪がやるなら、やる」
ちらりと莎雪を見た蓮の口元は、薄く笑っている。
「え、あの、蓮さん?」
「あとは莎雪次第って事で」
「ちょっと待っ……」
「莎雪ちゃん、お願い! もう一度考えてみてよ。 この企画が頓挫したら、会社潰れちゃうかもっ」
「そ、そんなぁ」
モデルのような華やかな仕事が、自分に出来るわけがない。
それに進路の事だってまともに決められない状態なのに。
「私、受験勉強もあるので、む」
「あー……そのへんは心配しなくていいと思う」
無理です、と再度断ろうとした莎雪を遮って、蓮が呟く。
「そうそう。 疾風から、莎雪ちゃんの成績なら問題ないってお墨付きもらってるし。 イザとなったら“秘密兵器”もいるからね~」
「ち……チアキさん……」
「というわけで。 新堂莎雪さん、どうぞ宜しくお願いします」
ソファから腰を上げた智明が、先ほどまでとは打って変わって真剣な表情で握手を求める。
莎雪はもう、それを力なく握る事しか出来なかった。
◆◆◆
智明の会社から帰宅して夕食を済ませた後、蓮に呼ばれてサロンに顔を出した莎雪は、強引に鏡の前に座らされた。
「あの……髪、切るんですか?」
「毛先だけ、ちょっとね」
「じゃあ、せっかくなので二十センチくらい短くしたいんですけど」
ハサミやらタオルやらの準備をしている蓮にそう言うと、何故か怪訝な顔をされた。
伸びるに任せていた長い髪は背中を半分も覆う程で、毎日洗うのに苦労している。
夏前に切ってしまいたかったのを今まで我慢していたのは、誕生日を過ぎたら母と美容院に行く約束をしていたからだ。
「え、バッサリ切っちゃうの? もったいない」
「でも、洗うのが大変で……」
「言ってくれれば洗ってあげるのに」
そんな事を莎雪が頼めるワケもないのだが、どうやら蓮は、莎雪が髪を短くするのを許してはくれないようだ。
首元にタオルとケープが巻かれ、椅子が高くなる。
蓮の指が丁寧に莎雪の髪を梳くと、胸がどきりとした。
莎雪にとって、他人に髪を触られる機会などそうあるものではない。
莎雪の髪をいじるのは大抵母の仕事で、美容院に足繁く通うなんて事もしなかった。
だからどうしても緊張してしまうのだ。
それはもしかしたら、鏡越しに見る蓮の視線の所為かも知れないけれど。
作業に集中している為か、ハサミを持っている間の蓮は殊更無口だった。
二人以外誰もいないサロンには、繊細に操られるハサミの音と、蓮の香水の香りだけ。
元々騒がしい場所が苦手な莎雪は、その空間の心地よさにうっとりと目を閉じてしまいそうになる。
「もうちょっとだから、寝るのは我慢してね」
「は、はい……!」
不意に釘を刺され、だんだんと重くなる瞼を無理矢理開く。
何かしていないとこのまま夢の世界に引きずり込まれそうだ。
「れ……蓮さん。 一つ聞いてもいいですか?」
「ん?」
「どうして今日、私をチアキさんの所に連れて行ったんですか?」
眠らない為の苦肉の策。
しかしその質問は、たった一言で一蹴された。
「――さあ、なんでだろうね?」
微かに、蓮の口の端が歪んだ。
やはり二人は確信犯だったのだと理解して、けれどその真意が語られない事に不安が増す。
ここ数日、問題は山ほど与えられるのに、公式や解き方を教えてもらえない――小さなジレンマが、いくつも莎雪に降りかかる。
もう、一問目がどんな問題だったのかもあやふやだ。
「今、頭の中パニックになってる?」
「難しい問題ばっかりで、もうめちゃくちゃです」
「だろうね。 でも今はそれでいいと思う」
「……え?」
その言葉の意味を量りかねて、莎雪は顔を上げた。
鏡の向こうの蓮と目が合う。
「答え合わせは、大人になってからでも遅くないから」
それはつまり。
模範解答を欲しがる前に自力で解く努力をしろ、という意味だ。
「はい、次はシャンプーね」
「蓮さんも高校生の時、こんな風に悩んだんですか? 答えは……出ましたか?」
シャンプー台に促されながら、その背中に問う。
「――俺も、まだ解いてる最中だよ」
シートを後ろに倒され、顔に布をかけられる一瞬。
蓮の表情が変わったように見えたけれど、それを確かめる勇気は、莎雪にはなかった。




