ささやかな夢
進路指導室は、教室がある校舎とは別の棟にある。
出来る限り走ってたどり着いた頃には、昼休みは既に半分ほど過ぎていた。
「新堂、遅かったじゃないか」
「す、すみません……」
「走ってきたのか」
あがった息を整えていると、既に中にいた篠崎に笑われた。
「まあ、とにかく進路の話だな。 弁当食べながらで良いから、とりあえず座って」
「はい」
パイプ椅子に腰掛け、莎雪は弁当の包みを開く。
こんなところで弁当を食べるなんて初めての経験だ。
本当はいけない事なのだろうけれど、何だか遠足にでも来たような気分になった。
「新堂は進学を希望してるんだよな。 率直に訊くけど、今はどう考えてる?」
「……正直に言うと、迷ってます」
莎雪は、篠崎の問いに、肉団子を掴もうとした箸を置いた。
「商学科を選んだのは、母とお店を開くのが夢だったからなんです」
「お母さんと?」
「はい。 母は紅茶が好きで、昔は喫茶店で働いていたと言ってました。 お休みの日は、一緒にお菓子を焼いたりして、それが楽しくて」
休日の母の様子が思い浮かぶ。
また涙が出そうになったけれど、なんとか堪えて話を続ける。
「大人になったら、一緒にお店をやりたいねって話してたんです。 その為に勉強をしたくて、でも……」
一緒に夢を語り合った母も、応援してくれていた父ももういない。
たった一人で追うには、その夢は大きすぎるように思えた。
「こういう事になってしまって……進学するにはお金も必要だし、諦めるしかないかなって思ってて」
「……で、今は就職しようって考えてる?」
篠崎の言葉に、莎雪は頷いた。
「なるほどね、真面目な新堂らしいなぁ。 その事は、お家の方には話してみた?」
「いいえ、まだ」
「そうか。 じゃあまず、相談してみる事が先かな」
篠崎は持っていたペンを置くと、莎雪の方に向き直った。
「これは俺の意見だけどさ、せっかくの夢を諦めるのはもったいないよ。 勿論、就職を選んでも新堂の糧になるのは間違いないと思うけど」
「……はい」
「このままの成績でいけば、推薦は時期的に難しいかもしれないけど……付属の短大とか、外部でも一般受験では問題ないと思う。 お家の方と相談してみて、もう少しよく考えてみよう」
「はい。 ありがとうございます」
話が落ち着いたので、莎雪は漸く食事を再開した。
昼休みは残り十五分程しかない。
と、篠崎が書類を整えながら言った。
「ついでに聞いてもいいかな」
「はい?」
「新堂がお世話になっている松岡さんって、美容師の松岡さんだよな?」
「え、ご存知なんですか?」
「やっぱりそうか。 新しい住所を見て、もしかしてって思ったんだ」
そうかそうか、と一人で納得する篠崎に、莎雪は訝しく視線を向けた。
何だか薄く笑っているような気もする。
「美容院の方に行った事があるとか?」
松岡家は美容院だから、偶然、立ち寄る事があっても不思議ではない。
そう思って尋ねると、篠崎は首を横に振った。
「いや。 実は、蓮と絢姫とは高校まで一緒だったんだ」
「ええええっ」
けろっとした様子で話す篠崎に、莎雪は、お茶をこぼしそうになった。
世間は果てしなく広いように見えて、実はこんなに狭かったのだ。
◆◆◆
午後の授業も終わり、放課後を迎えた校内は茜色に染まっていた。
瑠奈と別れて図書室で時間を潰していた莎雪の携帯電話に、蓮からの着信が入る。
『今着いた。 校門の前にいるよ』
「はい、すぐに行きます」
父の会社への訪問が延期になった事を連絡したのは、五時限目の後の休み時間だった。
電車で帰るから迎えはいらないと告げると、時間があるなら用事に付き合って欲しいと言われて、結局迎えを待つ事になったのだ。
莎雪はカバンを抱えて、足早に階段を下りる。
やっぱり昇降口あたりで待っていた方が良かったかな、と思いながら校門に向かうと、車の傍らに立って話している蓮と篠崎がいた。
「久しぶりだな。 元気だったか?」
「うん、相変わらずだよ」
「翔は? もう高校だよな。 真面目に修行してる?」
「まだまだ甘いけどね。 アイツなりには頑張ってるかな」
古い友人同士の会話に割って入るのは至難の業で、莎雪は出て行くタイミングを逸してしまう。
こちらに背を向けている二人は莎雪に気付かないようで、会話が途切れる様子はない。
「お前は……その様子じゃ、“ビョーキ”は順調に悪化してるみたいだなぁ」
篠崎がさらりと言い放った言葉が、足を止めた莎雪の耳に届く。
(病気? 蓮さんが?)
莎雪は思わず息をひそめた。
蓮が病気だというのなら、殊更、自分の送迎などしている場合ではないのではないか。
「ここ最近で進行が早まったのかな?」
「あー、うるさいうるさい。 っていうか、何か用でもあるの?」
「ははは。 いや、不審な車が停まってるなーと思って見にきたんだ」
「女子校の先生よりは安全だと思うけどね」
「おいおい、そういう世間の偏見って、結構胃にくるんだぞ。 ……あ。 新堂、来たな」
蓮と軽口を言い合いながら笑っていた篠崎がこちらに気付いて、片手を上げた。
莎雪は軽く会釈をして、車に近付く。
「莎雪、おかえり」
「……はい」
ただいま、と返すべきだったのだろうか。
妙な疎外感が胸のあたりを渦巻いていて、上手く返事が出来ない自分が嫌になる。
いつまでもその場に立っているのは居た堪れないので、莎雪は、篠崎にさようならと短く挨拶をすると、蓮がドアを開けてくれた助手席に乗り込んだ。
「蓮。 新堂を頼むよ」
不意に発せられた篠崎の声に、蓮は少し困ったような表情をする。
それを見て莎雪はまた胸を痛めたが、その意味を本当に理解するのは、もっとずっと後の事になるのだった。
蓮の車は、松岡家とは反対の方向へ向かっていた。
「あの、蓮さん。 どこへ……?」
「まだ内緒」
車に乗ってから三十分程経った頃。
問いかけてみてもそんな風にごまかされて、莎雪は質問を諦めた。
もしかしたら、行き先は病院なのかも知れない。
診察を受けるのか、それとも薬を受け取りに行くのか……そんな素振りを蓮は見せないけれど、逆にそれが怖くなる。
そんな事を考えていると、不意に車が停まった。
「着いた」
「ここ……ですか?」
「うん」
あたりに病院らしき建物が見えないので、莎雪は思わず聞き返した。
目の前には、何だか大きなビルがそびえ立っている。
車を降りて見上げると、その大きさに目が眩みそうになった。
「莎雪、行くよ」
「は……はい」
蓮に促されて、莎雪はあわてて後を追う。
厚いガラスのドアを越えると、周りの視線がこちらに集中するのが解った。
無理もない。
ビルの中はスーツ姿の大人ばかりで、普段着の蓮と制服姿の莎雪は明らかに浮いてしまっているのだ。
莎雪は、見世物にでもなったような気分で、蓮の後ろを歩く。
蓮はといえば、勝手知ったる、という様子でビルのエントランスを横切り、上に向かうエレベーターのボタンを押した。
「そんなに緊張する?」
「はい……」
「食べられたりはしないから大丈夫だよ」
真顔で冗談を言うのは、どうやら蓮の癖のようだ。
エレベーターはガラス張りで、外の様子が窺えた。
交通量の多い大通りに面して何軒ものオフィスビルが立ち並び、歩道を歩く人が小さく見える。
随分と長い時間動いていたエレベーターが停まった時、現在階を示すパネルには三十三階と表示されていた。
「すごいビルですね」
「そう?」
「……すごいです」
その高さに圧倒されている莎雪を尻目に、いつものペースを崩さないまま、蓮はフロアに降り立った。
絨毯のように柔らかい感触が靴の裏から伝わって、莎雪はここが、とてつもなく大きな会社のビルなのだと理解した。
「松岡様、お待ちしておりました」
あまり人気のないフロアを蓮に続いて進んでいくと、大きな扉の前に女性が一人立っていた。
品のあるその女性は、蓮の顔を見るなり恭しく一礼し、扉をノックする。
「社長、松岡様とお連れ様がお見えです」
返事があったかどうか、女性はすぐさま扉を開けて蓮と莎雪をその中へ促した。
彼女はきっと『秘書』なのだ。
(お父さんも、こういう仕事をしていたのかな)
その所作の美しさに、莎雪は秘書室長をしていた父を思い出して、何だか嬉しくなる。
お辞儀をすると、秘書はにこやかに微笑んでくれた。
「待ってたよー蓮くん!」
莎雪が通されたのは、社長室……のはずだった。
秘書は『社長』と呼び掛けていたし、その部屋に置かれた数点の調度品は見るからに高価そうで、目の前の大きなデスクにはドラマで見るようなふかふかの椅子まである。
しかし、この部屋の主であろう人物は、およそ社長業とは思えないほどフランクな人柄であるようだった。
まだ年若い風貌の『社長』は、仕立ての良いスーツを身に着けながらも蓮に正面から抱きつき、莎雪の前で熱い抱擁を見せ付けたのである。
「いやあ、久しぶりだねぇ。 何年ぶりかな? あ、ついこの間も会ったっけ?」
「……莎雪が怯えてるから、さっさと離れて」
蓮に言われて、驚きで声も出ない莎雪に視線を移した『社長』が、目を見開く。
「わー、この子がサユキちゃん? ホンモノ?」
莎雪は、どこかで聞いた台詞を、再び耳にした。




