疑問
いろいろな問題が何一つ解決しないまま、莎雪は忌引明けの火曜日を迎えた。
莎雪の通う学校は、実家からは電車でたった三駅の距離だけれど、松岡家からは随分と離れた位置にある。
電車だと遠回りになって一時間以上かかってしまう事が解ると、蓮が車で送ってくれると言い出した。
莎雪は勿論遠慮をしたのだけれど、結局押し切られて助手席に乗せられてしまい、今に至る。
「とりあえず、放課後も迎えに行くから」
「はい……よろしくお願いします」
実家に届いた封書と、留守電に入っていたメッセージは、父の会社からのものだった。
どうやら大事な書類を会社に置いているらしく、それを取りに来て欲しいという内容だったのだけれど。
その書類がどういう物なのかもよく解らないので、今日の放課後、蓮と一緒に父の会社に行ってみる事になっている。
ちなみに、愁司と唯子には、この事はまだ話していない。
「あの、ご迷惑ばかりかけてすみません」
莎雪は改めて、蓮に謝罪した。
恐らくは自分を一番歓迎していないであろう蓮が、気付けばいつも自分を助けてくれている。
それに、仕事で忙しいはずの人を運転手代わりにするなんて、感謝よりも申し訳ない気持ちが先に立ってしまうのだ。
「明日からはちゃんと、電車で通いますから」
「……まぁ、気にするなって言う方が無理かも知れないけど」
莎雪の言葉に、蓮が苦笑した。
「うちの親――特に母さんは、ずっと女の子を欲しがってたんだよね」
唯子が、莎雪に対してとても過保護な理由。
それは莎雪がずっと気になっている事の一つだ。
「莎雪を本当の娘みたいに思ってるから、してあげられる事は何でもしようって考えてるんだと思う。 状況が状況だし、莎雪がいろいろ考えちゃうのも解るけど、もっと甘えて欲しいっていうのがホンネかな」
「でも……」
「ちょっとくらいは我儘を言っても良いと思うよ? まだ高校生なんだし」
そう言われても。
まだこちらに来て一週間しか経っていないし、もともと裕福な生活をしていたわけでもないのに、今まで以上に我儘になるなんて無理な話だ。
莎雪にとっては、居候させてもらえるだけでも有難い事なのに。
それに、蓮はどう思ってるんだろう。
“これ以上、兄弟はいらない”と言ってたのは、自分の面倒を見るのが嫌だからじゃないだろうか。
今は普通に接してくれているけれど、こんな風に用事に付き合わされるのは、迷惑だと思っているのに違いないはずだ。
「はい、いってらっしゃい」
気付けば、車は学校の正門まで来ていた。
莎雪はカバンを抱えて車を降りると、蓮に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「気をつけて。 何かあったらちゃんと連絡するんだよ」
「……はい」
そう返事して、莎雪は、車が来た道を戻って行くのをしばらく眺めていた。
◆◆◆
私立・明条女学院。
名前は立派だけれど、偏差値が飛びぬけて高いわけでも歴史が古いわけでもなく、至って普通レベルの学校である。
周りからは、略して『メイジョ』と呼ばれる事が多い。
その立派な学校名が彫られた石造りの正門をくぐると、高等部の校舎が見える。
登校している生徒がまだ少ないせいか、通い慣れたはずのその道のりに、初めてここに来た時のような感覚を覚えた。
人もまばらな昇降口で靴を履き変えると、タイミング良く篠崎が通り掛かった。
篠崎は、莎雪の学校の中でも特に若い男の先生という事で、生徒との距離が近い。
疾風という名前なのに、その童顔と柔らかい物腰のせいで、よく『名前負けしてる』なんてからかわれる事もあるようだ。
「先生、おはようございます」
「新堂か、おはよう。……大変だったな」
篠崎は、莎雪を見るなり苦い顔をした。
何と声を掛けて良いか解らない、といった表情だ。
警察署で大泣きした莎雪の姿を見ているから、それも当然かも知れない。
「何とか大丈夫です」
「そうか……でも、無理はするなよ」
「なんだか、お父さんみたいですね」
「はは、どうしてか昔からこんな役回りなんだ」
眼鏡の奥の目が細められると、本当に『いいお父さん』という顔になる。
二十台半ばだと聞いた事があるから、別に子供がいてもおかしくはないのだけれど。
「そういえば、進路の事なんですけど」
「ああ、実はこれから職員会議が入ったんだ。 悪いけど、放課後に進路指導室で良いかな?」
はい、と返事しそうになって、莎雪は思い留まる。
放課後は蓮が迎えに来るのだった。
「放課後は、ちょっと用事があって」
「そうか、じゃあ昼休みにしよう。 弁当を持ってきても構わないから……と、まずい。 もう行かないと」
篠崎はそれだけ言うと、慌てて職員室に向かった。
時計を見ると八時を回ったばかりだったので、莎雪は図書室で始業までの時間を潰す事にした。
図書室にも生徒はおらず、読書用に設置された椅子を引くと、存外に大きな音が響いた。
部活の朝練をしている生徒の声が窓の外から微かに聞こえて、俄かに眠くなる。
隣の椅子にカバンを置いて、莎雪はこの一週間の間に起こった事を思い返した。
両親の事故。
松岡夫妻。
松岡家に来た日。
アルバムの写真。
自分の後見人の事。
蓮と翔。
絢姫。
そして、父が遺した何かの書類。
ふと、翔の言葉が頭をよぎる。
『ずっとお姉ちゃんが欲しかった』――。
従姉とはいえ身近に絢姫がいるのに、それでも翔は、『お姉ちゃん』が欲しかったのだろうか。
そう思うと、はっきりとは解らないけれど、漠然した違和感があった事を思い出した。
実家のアルバムにはなかった写真が、松岡家だけにあった事。
愁司と唯子が、莎雪の両親に恩返しをする事になった原因。
絢姫が莎雪に会いたがっていた理由も、結局は聞けずじまいだった。
両親と松岡家の間に何かあった事は間違いないのに、莎雪は何も知らされていない事に気付く。
自分だけが何も解らないままで、このまま松岡家にいても良いのだろうか――。
ぐちゃぐちゃになる頭を抱えて、莎雪は机に突っ伏した。
あっという間に時間は過ぎ、始業前の予鈴が鳴った。
教室に入るなり、瑠奈が莎雪のそばに駆け寄ってくる。
「莎雪、おはよう! 会いたかったよー!」
「おはよう、瑠奈。 元気だった?」
「それはこっちのセリフだよ。 毎日、莎雪が泣いてないかって心配してたんだから」
「もう大丈夫。 落ち着いたらまたお茶しようね」
そんな話をしているとすぐに本鈴が鳴って、莎雪たちはそれぞれの席に着く。
また以前と同じ学校生活が始まるのだ。
四時限目の終鈴が鳴ると、教室中が賑やかになる。
休んでいた間に瑠奈がコピーしてくれていたノートを受け取って、午前中の授業は何とかやり過ごした。
いくつか解らないところはあったけれど、今日は予定が立て込んでいるので後回しにする事にして、莎雪は席を立つ。
進路指導室に行く事を瑠奈に伝えて教室を出ると、廊下に誰かが立っていた。
「新堂さん」
「あ、白河さん」
そこにいたのは、同じ選択授業を取っている白河由加里だった。
そういえば、瑠奈が彼女にノートのコピーをお願いしてくれていたのだと思い出す。
「これ、頼まれてたノート」
「ありがとう。 白河さんも忙しいのに、ごめんね」
「今日、父の会社に来るんですって?」
ノートを受け取ろうと差し出した手には何も渡されず、代わりに質問が飛んできて、莎雪は思わず由加里の顔を見た。
由加里は、父が働いていた会社の社長の娘さんだ。
社長令嬢である事を率先して公にはしていないけれど、彼女の持つ雰囲気は他の生徒とは明らかに違っている。
綺麗に手入れされた髪や爪・洗練された立ち居振る舞いはさながら薔薇の花のようで、すれ違えば振り返らずにはいられない。
特に印象的なのは切れ長の目で、こんな風に見つめられると、女同士でもどきどきしてしまうくらいだ。
じっと莎雪を見ている由加里は、問いに答えなければノートは渡さないとでも言うように、莎雪の返事を待っている。
莎雪が黙ったまま頷くと、納得したようにノートを手渡してくれた。
「そう。 実は、父の都合がつかなくなったみたいなの。 また後日に改めて欲しいって、新堂さんに伝えるよう言われたから」
「そうだったの。 あの、来週の火曜日でも大丈夫かな……」
「火曜日?」
莎雪はまたひとつ頷く。
蓮と一緒に行く事になっているから、店がお休みの時でないと難しいのだ。
「わざわざ会社に呼びつけるなんて、よほどの用事なのね。 良いわ、父の予定を聞いておくから」
「あ、ありがとう。 ……そうだ、連絡先」
莎雪は受け取ったノートの切れ端に携帯電話の番号とメールアドレスを書いて、由加里に渡した。
「今、実家は空けてるの。 こっちに連絡してもらえればすぐに繋がるから」
由加里は、一瞬だけ驚いたような顔をした。
「……解ったわ。 それじゃ」
けれど、すぐにノートの切れ端を受け取って生徒手帳に挟むと、教室に戻っていった。
何だか今日は、こうして人の背中を見送る事が多いような気がする。
「あ、進路指導室!」
今朝、職員室に走った篠崎の背中が思い浮かんで、莎雪は急いで進路指導室へ向かった。