実家へ
ファッション雑誌『SEEKER』の看板モデル・松岡絢姫といえば、今時の女子高生で知らない人は少ないらしい。
高校生の時にスカウトされて始めた読者モデルから人気に火が付き、今では世界のファッションショーに出演するほどの人なのだそうだ。
あまり雑誌を読まない少数派の莎雪は、名前を聞いたことがあるくらいだったけれど、まさかそんなに有名な人だったとは。
クラスのみんなが知ったら、きっと大騒ぎになるに違いない。
「サイドの髪はどうする?」
「んー、今日は多めに降ろそっかな。 着物だからゴージャスにして」
「了解」
場所をダイニングから店のサロンに移し、蓮が絢姫の髪をセットし始めた。
アイロンでキツめのカールをいくつも作り、後ろの髪をアップにまとめて、絢姫の要望も聞きながら丁寧に仕上げていく。
その細やかな仕事振りを、莎雪は魔法みたい、などと幼稚な事を考えながら眺めていた。
聞いた話によると。
愁司の兄が絢姫の父で、絢姫は蓮の一つ年上の従姉にあたる。
絢姫は一人っ子で、年の近い蓮とは姉弟同然に育った。
蓮は、モデルを始めた絢姫のスタイリングを、美容師の資格取得の為の修行として高校生の時から行っていて、それが今も続いている。
……という事だった。
姉弟同然の関係なら、これだけ仲が良いのも納得出来る。
二人が並ぶと絵になるし、とてもお似合いのカップルだと思ったのは確かなのに、絢姫が従姉だと聞いてほっとしている自分もいて、莎雪は何だか妙な気分になった。
「こんなもんでどう?」
「おーっ。 やっぱウチの蓮くんは違うわー。 イメージぴったり!」
「当たり前でしょ。 褒めても迷惑料はもらうけどね」
「ぐっ……根に持つのヤメなさいってば」
鏡の前でいろいろと角度を変えてヘアスタイルを確認した絢姫は、時計を見て立ち上がった。
「よし、仕事しよーっと。 莎雪ちゃん、コーヒーごちそうさま」
「はい。 またぜひ」
「さっさと帰って。 騒ぎになると面倒だから」
「きーっ! アタシにそんな口利くの、先生と蓮くらいしかいないわよっ」
そんな風にやり取りをしながら迎えの車を呼び、絢姫は嵐のように去っていった。
しばらくするとお客さんがやってきたので、莎雪は部屋に戻って荷物の整理をする事にした。
手伝える事があれば良かったのに、勝手の解らない莎雪が店にいたら、却って迷惑になりそうだ。
ボストンバッグを開けて、制服のスカートとベストを取り出す。
そういえば、ブラウスはクリーニングに出してしまったから、取りに行かなければならないのだ。
教科書やノートもほとんど実家に置きっぱなし。
朝の事もあったから、髪のスタイリング剤も持ってこなくては。
欲しい物を数えると、結構な量だった。
学校に必要な物は早めに準備しておかないと、いざという時に面倒になる。
「唯子おばさん。 私、実家に戻ります」
何も言わずに家を空けるのは問題なので、和室で着物の準備をしていた唯子に声をかけた。
「荷物を取りに? お店がお休みの日なら車を出してあげられるわよ」
「大丈夫です。 火曜日から学校なので、とりあえず制服と教科書だけでも」
「でも、一人でなんて……おばさん、心配だわ。 最近何かと物騒だし」
午後から着付けの予約が入っているので、唯子は出られないという。
けれど、わざわざ車で送ってもらうのも心苦しい。
「もう高校生なんだから、大丈夫だよ」
「蓮。 手が空いたの?」
「電車くらい一人で乗れるって。 相当な方向オンチでもなければ」
予約のお客さんの施術が終わったらしい蓮が、麦茶を片手に和室に顔を出した。
唯子が蓮に詰め寄る。
「蓮、車出してあげてちょうだい」
「あと二件、予約が入ってるんだけど」
「お店の方はアスミちゃんに応援を頼むわ。 ね、莎雪ちゃんをお願い」
何故だか、唯子は必死だ。
莎雪が一人で外に出る事を、極端に避けているような気がする。
心配してもらえるのは有難い事だと思うけれど、自分はそんなに危なっかしく見えるのだろうかと莎雪は悲しくなった。
「莎雪、行こう」
「でも……」
嘆息した蓮さんに、莎雪は困惑した。
迷惑だと思われるのが解っていたから、一人で行くつもりでいたのに。
「私、本当に一人で大丈夫です」
「ああなると何言っても聞かないから、母さんは」
ついでに昼メシでも食べよう、と言った蓮に、莎雪はついていくしかなかった。
蓮の車は、何だか爽やかな香りがした。
とても良い香りだったので尋ねてみると、蓮のお気に入りの香水なのだと教えてくれた。
カーステレオから流れるのは、少し前に解散してしまったロックバンドの曲。
思いを伝えるには距離がありすぎるから、せめて、好きな人が見る夢の中に自分の姿があったら良いのに……そんな切ない歌詞の曲が耳に残った。
段々と見慣れた景色が近づいてきて、やがて家の前に着いた。
寂しく空いていた車庫に車が停まると、莎雪は自分の家をまじまじと見上げた。
家族三人で暮らしていた、ごく普通の一軒家がそこにある。
たった数日空けただけなのに、もう何年も帰っていないような気分だ。
「莎雪、カギを忘れたとか言わないでね」
「だ……大丈夫ですっ」
あわてて家の鍵を取り出して玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
誰もいない家の中はやっぱり寂しくて、蓮に連れて来てもらって良かったと思った。
「電気とガスは止めてあるよね? 水道も?」
「ガスと水道は止めてもらいました。 電気は、電話をしばらく使えるようにしておこうって愁司おじさんが言ってたので……」
「ああ、それで。 留守電が入ってるっぽいから」
リビングへ蓮を通して、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを渡す。
ちゃんとお茶を出したいところだけれど、ライフラインの殆どが絶たれた家では普通のもてなしさえ難しい。
「とりあえず、学校の準備してきたら?」
「あ、はい。 すぐに戻ります」
蓮に促され、莎雪は二階の自分の部屋に向かった。
通学カバンに教科書とノートを詰め、体操着とジャージもボストンバッグに入れる。
その他にも、シャンプーやリンスを忘れていた事を思い出して洗面所に取りに行ったり、普段着も何着か見繕った。
改めて考えてみると、生活必需品というのはいくつあっても足りないので、取捨選択に困る。
熟考した末に準備が整った頃には、ボストンバッグははちきれそうになっていた。
階下に降りると、蓮はキッチンにいた。
棚に並べられた紅茶の缶を、興味深そうに眺めている。
「これ、すごい数だけど、コレクションでもしてるの?」
莎雪が降りてきたのに気付くと、蓮が振り返ってそう尋ねた。
「母の趣味でした。 私が産まれるまでは喫茶店で働いていたみたいで、いろんな紅茶を集めて飲んでたんです。 あ、一番右の缶は母のオリジナルブレンドなんですよ」
「へえ、飲んでみたいな」
「じゃあ、これも持って行きますね」
紅茶は母のライフワークと言っても過言ではなかった。
ティーカップやその他の茶器にもこだわっていて、休日の午後は必ずおいしい紅茶を振る舞ってくれたものだった。
「……うちにはティーポットもないから、ついでに持っていこう。 空き箱と新聞紙はある?」
「探してきます」
ほんの少し目頭が熱くなったのを、蓮は気付いたのかも知れない。
さりげない気遣いが、胸に沁みた。
納戸を覗くと、潰した段ボールがあったのでそれを引っ張り出した。
ティーポットを入れるには少し大きかったけれど、他にめぼしい物がないので妥協する事にする。
それから新聞紙をいくつか手に取って、莎雪はリビングに戻った。
蓮が棚から出してくれた茶器の一式を一つずつ新聞紙で包み、段ボールに詰めていく。
と、不意にチャイムが鳴った。
「ん? 誰か来た」
「私、出てきます」
勧誘とかセールスの類だろうと思っていたその来客は、隣に住む八城さんの奥さんだった。
「莎雪ちゃん! 良かったわぁ、元気そうで」
八城の奥さんは母よりいくつか年上で、おっとりした人だ。
セレブという言葉が似合う、絵に描いたようにお上品な奥様である。
「お久しぶりです。 ちゃんとご挨拶も出来なくてすみません」
「気にしないで。 松岡さんだったかしら? 良さそうな方たちでいろいろとお任せしちゃったけど、何かあったらウチにも遠慮なく連絡してちょうだいね。……あ、これ、お預かりしてたお手紙よ」
「わ、こんなに……ありがとうございます」
差し出された紙袋を受け取ると、広告やらダイレクトメールの他に十数通の封書が入っている。
そういえば、ポストが空だったような気もした。
「実はね、ちょっと言いにくいんだけど……二、三日くらい前から、変な人がうろついてるのよ」
「えっ」
「お手紙が持っていかれる事もあるようだから、郵便局で住所変更の手続きをした方が良いかも知れないわ。 戸締まりもしっかりね。 私も気をつけて見ておくから」
それだけ言うと、八城の奥さんは帰って行った。
確かに、長い間留守にしていたら、空き巣に狙われる事もあるかも知れない。
唯子が心配していたのはきっとそういう事なのだろう。
「誰? 知ってる人?」
茶器を詰め終わったらしい蓮が、段ボールを持って玄関に顔を出した。
「お隣りさんでした。 手紙を預かってくれてたみたいで」
「そう。 じゃああとは留守電の確認だけして、帰ろう」
「はい」
莎雪は、荷物を玄関先に置き直すと、リビングに戻った。
しかし。
受け取った手紙と再生するだけで終わるはずのこの留守電が、後に大きな問題の種になるのだった。