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第8話 世界が距離を測る

 境界を越えた瞬間、空気が変わった。


 いや――変わった、というより戻った、のほうが近い。 張りつくようだった圧が、ふっと剥がれ落ちる。肺に入る空気が軽い。音が、ちゃんと音として届く。鳥が鳴いている。 風が、木々の枝を揺らしている。 足元の土は乾いていて、踏み込めばわずかに沈む。それらすべてが、当たり前のはずなのに、どこか懐かしかった。


 さっきまでいた場所では、世界そのものが、こちらの動きを気にしていた。 今は、それが薄い。


 だが――消えたわけじゃない。


 距離を取られている。 そう考えると、妙に納得がいった。


「……さっきの場所」


 歩きながら、ふと口に出る。


「もう、戻れない気がする」

「戻れないよ」


 少女は、即答だった。立ち止まることもなく、前を向いたまま。


「戻ろうとしても、同じ道にはならない」

「どういうことだ?」

「境界はね、一度踏まれると、世界のほうが覚えるの」

「覚える……?」

「“ここまで来た存在”って」


 淡々とした声だった。 感情も、警告もない。ただ事実を並べているだけ。それ以上は、何も言わなかった。


 道は続いている。 だが、明らかに違う。街道の幅が、一定に保たれている。 草は道を侵さず、枝は進路を塞がない。踏み固められた形跡があるわけでもない。整備されている、という感じでもなかった。 放置されている、というわけでもない。


 ――通すための形。


 そんな言葉が、自然と浮かぶ。


「……親切だな」


 無意識に呟いた。少女は、ほんの一瞬だけ、こちらを見る。その目が、少し曇った。


「それを“親切”って思えるのが、もう変」

「そうか?」

「普通は、気味が悪いって思う」


 言われてみれば、そうなのかもしれない。 だが、不快感はなかった。抵抗もない。むしろ、歩きやすい。 余計な摩擦が、取り除かれている感じがした。


 昼を少し過ぎた頃、小さな集落が見えてきた。村、と呼ぶには小さい。 家は五軒ほど。畑も狭い。柵も簡素だ。それでも、人の生活があった。畑で鍬を振るう男。 洗濯物を干す女。 子どもが一人、石を蹴りながら遊んでいる。


 動きはゆっくりで、どこか余裕がある。 空気が、穏やかすぎるほどだった。


「……普通だな」


 そう言った瞬間、少女がこちらを見る。


「“今は”ね」


 集落に近づくと、子どもがこちらに気づいた。一瞬、目を丸くする。 次に、困ったように首を傾げる。 そして、何も言わずに走り去った。


「……?」


 呼び止める間もなかった。畑の男がこちらを見る。 女も、洗濯物を持つ手を止める。視線が集まる。警戒ではない。 拒絶でもない。


 ――戸惑いだ。


「旅の方ですか?」


 男が声をかけてきた。


「はい」


 それだけで、空気がわずかに緩む。


「今日は、どうされます?」

「水と、少し休める場所があれば」

「……そうですか」


 男は頷いたが、歯切れが悪い。


「何か、ありました?」


 そう尋ねると、男は一瞬、少女を見る。 次に、俺を見る。迷いのあと、口を開いた。


「最近……ここ、運がいいんです」

「運が?」

「ええ。作物も育つ。病も出ない。獣も寄らない」


 言葉だけ聞けば、祝福だ。


「でも……」


 男は、言葉を探す。


「理由が、分からない」


 それは、これまで立ち寄った町と同じだった。 ただし、向きが逆だ。不調ではない。 過剰だ。


「急に、ですか?」

「三日ほど前から」


 三日前。町を出たのは、その少し前だった。 少女が、何も言わずに小さく頷く。


「水、汲ませてもらえますか」

「どうぞ」


 井戸の水は澄んでいた。 冷たく、雑味がない。飲んだ瞬間、体の奥に馴染む。 魔力が、わずかに満ちる感覚。


 ――補填。


 その言葉が、頭をよぎる。 だが、まだ確信はない。


 立ち上がると、女が近づいてきた。


「……もう、行かれます?」

「え?」

「いえ……その……」


 言いよどみながら、女は言った。


「長くいると、また“変わりそう”で」


 悪意はない。 責めてもいない。ただ、事実を共有しているだけだった。


「分かりました」


 少女が、先に答える。


 荷を整え、集落を離れる。 背中に視線を感じたが、振り返らなかった。しばらく歩いてから、俺は言う。


「……さっきの集落」

「うん」

「嫌われてはいなかったな」

「嫌われてない」


 少女は、はっきりと言った。


「でも、偏ってた」

「偏り?」

「運が、寄りすぎてた」


 足を止め、少女は空を見上げる。


「世界はね、均等が好きなんだ」

「好き?」

「正確には、“均等じゃないと落ち着かない”」


 こちらを見る。


「だから、極端なのは嫌う」


 嫌われる魂――

 その言葉が、脳裏をよぎる。


「俺は?」

「……あんたは」


 一瞬、間が空く。


「極端だけど、嫌われてない」

「それって」

「一番、扱いづらい」


 風が吹く。 今度は、真正面から。進路を塞ぐわけじゃない。 押し返すわけでもない。ただ、力を測るみたいに。世界が、こちらを測っている。


「ねえ」


 少女が言う。


「これから先、たぶん」

「うん」

「助けられる場所と、避けられる場所が増える」

「どっちがいい?」

「選べない」


 即答だった。


「それは、世界が決める」


 歩き出す。遠くに、街道の分岐が見えた。 どちらも行けそうだ。どちらも拒まれていない。だが、同時には行けない。


「……選択、か」

「うん」


 少女は前を見たまま言う。


「ここからは、あんたが“通るだけ”じゃなくなる」


 世界は、まだ静かだ。だがもう、無関心ではなかった。


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