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第10話 通過できなくなった場所

 久しぶりに夜は、ほとんど眠れなかった。


 横になって目を閉じても、意識が沈まない。眠りに落ちる直前の、あの曖昧な層を、ずっと漂っている感覚だ。夢を見るところまで行かない。かといって、完全に起きているわけでもない。


 音は聞こえる。宿の梁が軋む、低く短い音。廊下を歩く足音が、一定の間隔で遠ざかる。どこかの部屋で、誰かが寝返りを打つ気配。衣擦れの音まで、妙に鮮明だった。


 それらが、やけに近い。耳が良くなったわけじゃない。神経を張り詰めている自覚もない。ただ、世界そのものが、こちらに寄ってきている。


 ――距離が、近い。


 それだけで、理由は十分だった。


 夜明け前、目を開けた瞬間に分かった。今日は、この町で何かが起きる。確信に近い感覚だった。予感とも、予測とも違う。ただ、そう配置されている。今日という一日が、この町と、自分とを、無理にでも交差させようとしている。そんな感覚だった。自分の存在の「位置」が、また一段階、変わるような予兆。


 外に出ると、空気が重かった。


 湿気があるわけじゃない。冷え込んでいるわけでもない。吸い込めば、普通に肺に入る。苦しさはない。だが、戻ってこない。吐いた息が、わずかに遅れて胸から離れる。まるで、空気そのものが、周囲に留まろうとしているみたいだった。


「……朝から、これはきついな」


 独り言のつもりで呟く。


「溜まりきってる」


 隣で、少女が即答した。


「昨日の夜で、逃げ場がなくなった」

「逃げ場?」

「均衡ってね、流れる場所がないと澱むの」


 説明する気はない、という声だった。事実を述べるだけ。世界の仕組みを語るというより、観測結果を報告している調子。


 通りに出ると、人の動きが昨日よりさらに鈍くなっていた。


 店を開ける商人。荷を運ぶ男。通りを掃く女。全員、ちゃんと動いている。生活は続いている。それなのに、決断のたびに、ほんの僅かな躊躇が挟まる。次に何をするかを、毎回いちいち考え直しているようだった。


 通りの端で、口論が起きていた。荷馬車の優先を巡る、どこにでもある揉め事だ。昨日の酒場と同じ。普段なら、誰かが一言声をかけて終わる程度のもの。


 ……本来なら。


「どいてくれ」

「こっちが先だ」


 声が重なった、その瞬間。


 空気が歪んだ。


 目に見えない圧が、通りの中央に集まる。音が吸われる。ざわめきが途切れ、周囲の人間が、一斉に口を閉じた。俺の足が、止まる。自分で止めたわけじゃない。意思とは関係なく、身体が固定された。


 ――止められた。


「来た」


 少女の声が、すぐ近くで聞こえた。


 口論していた二人の男が、同時にこちらを見る。視線が合う。その瞬間、理解した。理由はどうでもいい。正しさも、間違いも、関係ない。この場で、均衡を戻す役として、俺が選ばれている。


「……」


 喉が鳴る。何か言うべきだと思った。だが、言葉が浮かばない。説得も、命令も、仲裁も、必要ない。代わりに、一歩前に出た。


 それだけだった。


 怒鳴っていた男の肩から、力が抜ける。もう一人も、理由なく視線を逸らした。通り全体の空気が、ゆっくりと緩む。まるで、詰まっていた栓を抜いたみたいに。


「……すまん」

「いや、こっちも」


 それで終わった。誰も、俺を見ない。感謝も、疑問も、向けられない。ただ、全員が「何かが終わった」ことだけを、無意識に理解している。胸の奥に、嫌な感覚が残った。疲労じゃない。消耗でもない。


 ――位置が、固定された感覚。


「今の」

「うん」


 言葉を遮るように、少女は短く頷いた。


「完全に“通過”じゃない」

「俺が、やったわけじゃない」

「世界が、やらせた」


 その言葉は、静かに胸に沈んだ。選んだ覚えはない。望んだ覚えもない。それでも、役割だけが先に与えられる。


「この町に、もう居られないな」

「うん」

「出れば、どうなる?」

「昨日言ったように、均衡に少しずつ戻る。ただの日常へ」

「俺たちは?」


 少女は、ほんの少しだけ言葉を探した。


「……世界に、覚えられる」


 嫌な予感が、はっきりと形を持つ。


「通過者じゃ、なくなるってことか」

「もう、なってない」


 世界に影響を与えない存在。通り過ぎるだけの存在。それが終わった、ということ。


 風が吹いた。今度は、背中から。押されるほど強くはない。だが、確実に前へ行けと告げている。道は、開いていた。拒まれていない。閉じられてもいない。ただ、戻るという選択肢だけが、最初から存在していなかった。


 町を出る直前、ふと振り返る。人々は、もう普通に動いている。昨日より、ほんの少しだけ軽そうに。


「……助けたわけじゃないんだな」

「違う」


 少女は静かに言った。


「均衡を、置いてきただけ」


 歩き出す。


 世界は、静かだった。


 だがもう、無関心ではない。


 ――俺を、役として扱っている。

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