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第1話 守られていることに気づかず

 朝はいつも、山の匂いから始まる。湿った土の匂い。夜露を含んだ草の匂い。木々の間を抜けてくる冷たい風。目を開ける前から、今日は晴れるか、霧が出るかがなんとなく分かる。この山で生まれ、この山で育った。祖父母と三人、小さな山小屋で暮らす生活が、僕にとっての世界のすべてだった。静寂が怖いと思ったことはない。むしろ、町の話を聞くたびに、人の多い場所のほうが落ち着かなさそうだと思っていた。


「ほら、起きろ。日が高くなるぞ」


 小屋の外から聞こえる祖父の声に、ゆっくりと体を起こす。寝起きでも体は軽い。昔からそうだった。


 外に出ると、祖父はすでに木剣を手に立っていた。白髪混じりの髪、深く刻まれた皺。それでも背筋はまっすぐで、目は鋭い。


「準備はいいか」

「いつでも」


 地面の感触を足裏で確かめながら、剣を構える。祖父との訓練は、物心ついた頃から続いている日課だった。


 踏み込み、振り下ろし、返す刃。祖父の木剣がそれを受け止め、間髪入れずに反撃が来る。かわし、弾き、体勢を立て直す。動きは自然で、考えるより先に体が動いていた。息は乱れない。腕も足も、まだ余裕がある。


「……ほう」


 祖父の声が低くなる。次の瞬間、動きが一段階鋭くなった。普通なら、ここからがきつい。でも、体は素直についてくる。打ち合いを重ねるたび、木剣がぶつかる乾いた音が森に響く。鳥が驚いて飛び立つが、それすらもどこか遠い。何度目かの攻防のあと、祖父が剣を下ろした。


「今日はここまでだ」

「え、もう?」


 思わず声が出る。正直、まだ動けた。


「無理をするな」

「してないけど」


 祖父は少しだけ眉をひそめ、僕をじっと見つめる。


「お前はな、無理が効きすぎる」


 昔から、こういう言い方をする。鍛えてきたからだろう、と自分では思っていたが、祖父はそれ以上何も言わなかった。


 剣を片付け、小屋へ戻る途中、視線を感じて足を止める。森の奥。木々の隙間から、いくつもの気配がこちらを見ていた。鹿。枝に止まる鳥。小型の魔獣。さらに奥には、明らかに危険指定が付くはずの気配もある。けれど、警戒心は湧かなかった。


「おはよう」


 そう声をかけると、鹿が耳を動かし、鳥が一斉に飛び立つ。魔獣たちは距離を保ったまま、ただこちらを見ている。この山では、いつもの光景だ。


 小屋に戻ると、祖母が朝食の準備をしていた。木製のテーブルに、湯気の立つ器が並んでいる。


「訓練、早かったね」

「祖父が切り上げた」


 祖母はくすりと笑った。


「今日も元気そうだ」

「いつも通り」


 スープを一口飲む。体の奥に、じんわりと熱が広がっていく。魔力を使った後でも、食事をすればすぐに回復する。空腹で動けなくなることも、ほとんどなかった。それが普通だと思っていた。


 食事の途中、外から重たい足音が聞こえた。枝を踏み折る音。地面を踏みしめる振動。


「……来てるね」

「またかい」


 祖母は気にも留めず、器を片付ける。


 外に出ると、巨大な狼型の魔獣が小屋の前に立っていた。体高は僕の倍以上。牙も爪も、下手な武器より鋭い。本来なら、町では討伐対象になる存在だ。けれど、その魔獣は一歩も踏み込まず、こちらを見ているだけだった。唸り声も、威嚇もない。


「ほら、挨拶しな」

「……挨拶?」


 言われるまま、軽く手を上げる。魔獣は一度だけ低く鳴き、頭を下げるような仕草をして、森の奥へと戻っていった。


「……不思議だな」

「昔からだろ」


 祖父はそう言って、腰を下ろす。


「生き物に好かれるのは、悪いことじゃない」

「そうかな」


 基準が分からない。でも、祖父母が普通だと言うなら、きっと普通なのだ。


 食後、旅の準備を進める。剣、防具、保存食。最低限の装備。祖父が棚の奥から、古い護符を取り出した。木と金属を組み合わせた、見慣れない形をしている。


「持っていけ」

「何用?」

「さあな」


 文様の意味は分からないが、不思議と軽い。首にかけても、重さを感じなかった。


「……行くのか」

「うん。外を見てみたくて」


 一瞬、空気が静まる。けれど、引き止める言葉はなかった。


「世界は広いよ」

「歩け。転んでも立て」


 祖父母からの言葉はそれだけだった。


 小屋を出て、山道を下る。獣道のはずなのに、足場は妙に安定していた。滑りそうな場所では、自然と踏みやすい石が見える。枝が顔に当たりそうになると、風が吹いて避けてくれる。


「……運、いいな」


 昔から、そうだった。危険な場面でも、なぜか致命的なことにはならない。


 森を抜ける直前、足を止めて振り返る。木々の間に、いくつもの影があった。鹿、鳥、魔獣。そして、小さな光。精霊と呼ばれる存在かもしれないが、確信はない。ただ、みんなこちらを見ている。


「じゃあ、行ってくる」


 返事はない。でも、背中をそっと押されるような感覚があった。


 山を越え、視界が開ける。知らない世界が、そこから始まっていた。


 これから何が起きるのかは分からない。危険も、困難も、きっとあるだろう。


 それでも――なぜか。


「……静かな旅になりそうだ」


 そう思えた。


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