第8話 平和協定と書いて「嵐の前の静けさ」と読む
王立学園の屋上で結ばれた『学園祭までの不可侵条約』。
それは、私リナ・バレットにとって、久々に訪れた安息の日々の始まり……のはずだった。
条件はシンプルだ。
一、攻略対象たちは、学園祭当日までリナに対する直接的な求愛行動(ストーキング・監禁・誘拐含む)を禁止する。
二、リナはヒロインであるアリスの保護下に入り、安全を確保される。
三、勝負は学園祭当日。リナが「一番楽しかった」と判定した相手が、今後の優先交渉権を得る。
この協定により、私の周囲から物理的な危険は去った。
レオナルド殿下は遠くから熱っぽい視線を送ってくるだけになったし、ギルバート様は影から私の安全を見守る(監視する)ストーカー・ナイトに徹している。
シリウスに至っては、自爆の罪で地下牢に入れられているため、物理的に接触不可能だ。
「平和だ……。空気がおいしい」
私は教室の自分の席で、深く息を吸い込んだ。
窓の外には青空。鳥のさえずり。
爆発音も、求婚の言葉も聞こえない。
これこそが私が求めていた「モブの日常」だ。
……と、思っていたのだが。
「リナちゃん! おはよう! 今日もいい天気だね!」
「リナ様、おはようございます。今日の髪の艶も素晴らしいですわ」
「おい、リナ様が登校されたぞ! 道を空けろ! 赤絨毯を敷け!」
教室に入った瞬間、クラスメイトたちから王族並みの出迎えを受けた。
なぜだ。
私はただの男爵令嬢だぞ。
しかも地味顔の。
どうやら、あの屋上での騒動や、イケメン三人が私を奪い合ったという噂が、学園中に広まってしまったらしい。
さらに悪いことに、私のバグスキル【魅了:S+】が、一般生徒に対しても絶賛稼働中なのだ。
私が教科書を忘れたと言えば、「私のを使ってください!」「いや俺のを!」と教科書の山ができ、
私が消しゴムを落とせば、「リナ様の消しゴムを拾う権利は誰の手に!?」とオークションが始まる。
(居心地が悪い! 死ぬほど居心地が悪い!)
私は教科書を立てて顔を隠した。
壁になりたい。黒板の溝に挟まるチョークの粉になりたい。
「みんな、静かにしてあげて! リナちゃんが恥ずかしがってるでしょ!」
そこで助け船を出してくれたのは、隣の席のアリスちゃんだった。
彼女は私の専属ボディガード(自称)として、登下校からトイレまでピッタリと張り付いている。
「リナちゃんはね、繊細な妖精さんみたいなものなの! 大きな声を出したらビックリして消えちゃうかもしれないんだから、もっと優しく見守ってあげて!」
(妖精じゃない。ただのコミュ障だ)
しかし、ヒロインの発言力は絶対だ。
クラスメイトたちは「なるほど……妖精か……」「確かに消えてしまいそうな儚さだ」「尊い……」と一斉に納得し、私に向かって合掌し始めた。
拝まないでほしい。私はまだ生きている。
◇
そんな奇妙な崇拝ムードの中、ホームルームが始まった。
議題は、来週に迫った「学園祭」のクラスの出し物についてだ。
本来なら、文化祭の準備期間は青春のハイライトだ。
だが、私にとっては「公開処刑の舞台作り」でしかない。
「えー、それでは出し物を決めます」
担任の先生(やる気なし)が黒板に文字を書く。
と同時に、アリスちゃんが元気よく手を挙げた。
「はーい! 私、やりたいことがあります!」
「お、アリスか。なんだ?」
アリスちゃんは立ち上がり、キラキラした瞳でクラス中を見渡した。
「『メイド喫茶』がいいと思います!」
クラス中がどよめいた。
男子生徒たちはガッツポーズをし、女子生徒たちも「可愛い衣装が着られる!」と盛り上がる。
王道だ。あまりにも王道な展開だ。
「コンセプトは『癒やし』です! 勉強や騎士の訓練で疲れたみんなを、美味しい紅茶と笑顔で癒やしてあげるんです!」
アリスちゃんの提案に、反対する者は誰もいない。
満場一致で決定した。
私も異論はない。
なぜなら、飲食店形式なら「裏方」の仕事が発生するからだ。
(これだ。これしかない)
私は心の中で計算した。
メイド喫茶には、華やかなウェイトレス役と、地味なキッチン役がある。
私が目指すべきは、誰の目にも触れず、ひたすら皿を洗い、紅茶を淹れる「厨房の妖精(ただの雑用)」だ。
「では、役割分担を決めよう」
学級委員長が名簿を持って前に出る。
「まず、接客係のメイド長だが……」
クラス全員の視線が、アリスちゃんに集まる。
当然だ。彼女こそがこの物語のヒロインであり、看板娘に相応しい。
「アリス様にお願いしたい!」
「異議なし!」
「わかった! 私、頑張るね!」
アリスちゃんが快諾する。よし、これでメインの座は埋まった。
私は影に徹するのみ。
「次に、もう一人の看板娘……『裏のメイド長』というか、スペシャルゲスト的なポジションだが」
委員長の視線が、ゆっくりと私に向けられた。
嫌な予感がする。
すごくする。
「……リナ様、いかがでしょうか」
(やっぱり来たーーっ!)
私は即座に首を横に振った。
ブンブンと音が鳴るほど振った。
「無理です! 私、ドジなので! お皿を割ります! 紅茶をお客様の頭からかけます! 注文も覚えられません! 『お水ください』と言われて『土』を持っていくレベルです!」
必死のネガティブキャンペーンだ。
これで「使えないやつ」認定されれば、裏方に回されるはず。
しかし、教室の空気が妙な方向にねじ曲がった。
「……ドジっ子属性だと?」
「リナ様がお皿を割る……? 『きゃっ』と言って?」
「注文を間違えて慌てる姿……それはそれで、芸術点が高いのでは?」
「俺、リナ様になら熱湯をかけられても『ありがとうございます』って言える自信がある」
(こいつらも全員バグってるのか!?)
男子生徒たちが、何やら危ない妄想に取り憑かれている。
まずい。このままでは、ドジっ子メイドとして最前線に送り出されてしまう。
「リナちゃん!」
そこでアリスちゃんが口を開いた。
助けてくれ、ヒロイン。
君の輝きで、この邪な空気を浄化してくれ。
「リナちゃんは、人前に出るのが苦手なんだよね?」
「うん、そうなの! だから裏方で……」
「わかった! じゃあ、リナちゃんは『幻のメイド』にしよう!」
「……はい?」
「ずっとお店に出てるんじゃなくて、たまーにしか出てこないレアキャラにするの! それなら疲れなくて済むし、みんなもリナちゃんを見られた時に『ラッキー!』って思えるでしょ?」
アリスちゃんは天才的な閃きをした顔をしているが、言っていることは「限定SSRガチャの実装」と同じだ。
レアリティを上げてどうする。
余計に客が殺到するじゃないか。
「採用! それで行こう!」
「『幻のメイド・リナ様』……素晴らしい響きだ」
「整理券を配る必要があるな」
クラスが一体となって盛り上がり始めた。
私の「皿洗い希望」の声は、熱狂の渦にかき消された。
こうして、私は不本意ながらも「幻のメイド」という、名前負けしそうな役割を背負わされることになったのだ。
◇
放課後。
学園祭の準備が始まった。
教室は段ボールやペンキ、布地で溢れかえっている。
私は衣装班に捕まっていた。
「さあ、リナ様! 採寸させてください!」
「ウエスト細っ! 折れそう!」
「肌が白いわ……どんな色も似合うけど、やっぱり王道のクラシカルメイド服かしら」
女子生徒たちに囲まれ、メジャーでぐるぐる巻きにされている。
彼女たちの目は獲物を狙う肉食獣のそれだ。
普段は高飛車な公爵令嬢までもが、「あなたのサイズに合わせた至高の一着を縫い上げてみせるわ」と職人の顔をしている。
「あの、もっと地味なのでいいです。麻袋に穴を開けたようなやつで……」
「何を仰いますの! 素材は最高級のシルクを使いますわよ! 我が家の倉庫から持ってきましたの!」
ダメだ。話が通じない。
一通りの採寸が終わり、私は逃げるように教室の隅へと移動した。
そこでは、アリスちゃんが宣伝用のポスターを描いていた。
「ふんふふ〜ん♪」
彼女は鼻歌を歌いながら、画用紙に絵筆を走らせている。
意外と絵が上手い。
可愛らしいクマやケーキのイラストが描かれている。
「あ、リナちゃん! 見て見て! ポスターできたよ!」
アリスちゃんが自慢げに画用紙を見せてきた。
そこには、大きな文字でこう書かれていた。
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【1-A 喫茶『アリスと不思議な森』】
おいしい紅茶とケーキをご用意してます♡
★スペシャルメニュー★
・アリスの特製オムライス
・リナちゃんの『はにかみスマイル』(0円)
※運が良ければ会えるかも!? 伝説の妖精メイド降臨!
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「……アリスちゃん」
私は震える指でポスターを指差した。
「この『はにかみスマイル0円』って何?」
「あ、某ファーストフード店のパクリだよ! リナちゃんがニコって笑うだけで、お客様は幸せになれるの!」
「やめて。私の笑顔にそんな価値はない」
「あるよー! だって、さっきリナちゃんが『もう、やめてよぉ』って困ってた顔、すっごく可愛かったもん。あれを見たら、戦争もなくなると思うな!」
アリスちゃんの天然発言が重い。
私の困り顔で戦争が終わるなら、世界平和は簡単すぎる。
「とにかく、これは修正して。もっと目立たないように……『皿洗いのリナさん(無愛想)』くらいにして」
「えー、もう印刷所に回しちゃったよ?」
「……え?」
「さっき、新聞部の人が来てね、『号外で配ってあげる!』って持って行っちゃった!」
目の前が真っ暗になった。
学園の新聞部は、そのゴシップ力と拡散力で国中のメディアすら凌駕すると言われる情報機関だ。
そこにネタを提供した?
しかも「伝説の妖精メイド」なんていう煽り文句付きで?
(終わった……)
学園内だけならまだしも、このポスターが出回れば、王都中から野次馬が集まってくる可能性がある。
その中には、当然、攻略対象たちも含まれているだろう。
レオナルド殿下がこれを見たら?
『ほう、俺のリナがスマイル0円だと? 店ごと買い占めよう』と言い出しかねない。
ギルバート様が見たら?
『不特定多数の男に笑顔を振りまくだと? 不潔だ。その店の客全員の視神経を断つ必要がある』と剣を抜くかもしれない。
そして、もし脱獄したシリウスがこれを見たら?
『笑顔の筋肉の収縮率を測定したい』とカメラを持って現れるだろう。
「アリスちゃん……あなた、とんでもない爆弾のスイッチを押したわね……」
私がへなへなと座り込むと、アリスちゃんは不思議そうに首をかしげた。
「変だねえリナちゃん。どうしてそんなに怖がるの? 楽しいお祭りなんだよ?」
「私にとっては、お祭りじゃなくて『祭り上げられる(生贄)』儀式なのよ……」
その時、教室のドアが乱暴に開かれた。
「大変だ!」
飛び込んできたのは男子生徒の一人だ。
彼は息を切らしながら、手に持った新聞を掲げた。
「新聞部の号外が出たぞ! 一面トップだ!」
嫌な予感しかしない。
私は恐る恐る、その新聞を覗き込んだ。
そこには、盗撮されたと思われる私の写真(図書室で本を読んでいた時の、最高に無防備な横顔)がデカデカと掲載され、こんな見出しが踊っていた。
【スクープ! 王家を惑わす『魔性のモブ』、学園祭に降臨!】
~彼女の微笑みは、国を傾けるか、それとも救うか? メイド服姿の聖女を拝めるのは1-Aだけ!~
「……誰が書いたの、これ」
「文芸部の部長だよ。『筆が乗って止まらなかった』って泣きながら書いてた」
もはや呪いだ。
私の【魅了:S+】は、クリエイターの創作意欲をも暴走させるらしい。
クラスメイトたちが新聞を見て、「うおおおお! これは客が来るぞ!」「食材が足りない! 買い出しだ!」「警備班を組織しろ! リナ様への接触は整理券制にするんだ!」と戦闘態勢に入っていく。
私は教室の隅で膝を抱えた。
不可侵条約?
平和?
そんなものは幻想だった。
アリスちゃんの「善意」と、バグった「世界」の相乗効果によって、私は攻略対象たちとの直接対決の前に、不特定多数の大衆という名の「ラスボス」と戦う羽目になったのだ。
「……帰りたい。お母さん、私、農家にお嫁に行きたいよ……」
私の切実な願いは、熱狂する教室の喧騒にかき消されていった。
そして、運命の学園祭当日まで、あと五日。
カウントダウンは、無慈悲にも進んでいく。




