第5話 爆発事故はモブの味方か、それとも新たなフラグか
図書室を揺るがした爆音は、私の鼓膜だけでなく、平穏な人生設計をも粉々に打ち砕くような響きを持っていた。
窓の外から立ち上る黒煙。
遠くで聞こえる生徒たちの悲鳴。
本来なら「大変だ、逃げなきゃ!」とパニックになるところだが、今の私にとっては、この爆発さえも神の救いのように思えた。
なぜなら、目の前にいる騎士団長ギルバート様の目が、爆発よりも遥かに危険な光を放っていたからだ。
「……襲撃か」
ギルバート様が低い声で呟く。
彼は私の手を離し、腰のサーベルに手をかけた。
その動きは流れるように美しく、瞬時にして「恋する重い男」から「国の守護者」の顔へと切り替わった。
「リナ、動くな。私の背後にいろ」
彼は私を庇うように前に立ち、鋭い視線を周囲に巡らせた。
その背中は頼もしく、普通なら「キャー! 守って!」とときめく場面だ。
だが、私は知っている。
この「守る」の延長線上に、「地下要塞での座敷牢ライフ」が待っていることを。
(今だ……!)
私は直感した。
ギルバート様の意識が「外敵」に向けられている今こそが、唯一にして最大の逃走チャンスだ。
彼が警戒して窓の外を確認した一瞬の隙。
私は呼吸を止め、存在感を極限まで薄くした。
モブ奥義『空気化』。
クラス替えの時に友達がいなくてポツンとしていても、誰にも気にされずにやり過ごすあの悲しいスキルの応用だ。
私は音もなく後ずさりした。
一歩、二歩。
ギルバート様は気づかない。
よし、行ける。
私は書架の影に身を滑り込ませると、そのまま四つん這いになって移動を開始した。
騎士団長の視界の下、死角を突き進む。
埃っぽい床を這いずり回る姿は、令嬢として終わっているが、監禁されるよりはマシだ。
「……リナ?」
数秒後、ギルバート様の不審げな声が聞こえた。
振り返ってはいけない。
私はゴキブリ並みの速さで匍匐前進を続け、図書室の裏口へと到達した。
「いない!? まさか、連れ去られたのか!?」
背後でギルバート様の狼狽した声が響く。
違う、自力で逃げたんだ。
だが、彼の脳内ではきっと「私の目の届かぬ間に、可憐な少女が悪の組織に攫われた」というストーリーが出来上がっているに違いない。
「騎士団、総員配置につけ! 学園内を封鎖せよ! 蟻一匹逃がすな!」
怒号が聞こえる。
学園封鎖。
事態が大きくなっている。
私のせいで戒厳令が敷かれようとしている。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
私は心の中で謝罪しながら、裏口のドアを開けて廊下へと飛び出した。
◇
廊下は混乱の渦中にあった。
爆発の衝撃に驚いた生徒たちが、右往左往している。
「何があったんだ?」
「魔法棟の方から火の手が!」
「先生たちが消火に向かってるぞ!」
どうやら爆発の震源地は、校舎の東側にある「魔法研究棟」のようだ。
そこは魔術師科の生徒や教師が実験を行う場所で、日常的に小規模な爆発(ボヤ騒ぎ)が起きている危険地帯だ。
(みんな、東側から逃げてくる……ということは)
人の流れは、西側の正門や南側の講堂へと向かっている。
もし私がこの流れに乗って逃げれば、正門で待ち構えているであろう騎士団の検問に引っかかる。
ギルバート様の「学園封鎖」命令は、伊達ではないはずだ。
ならば、逆だ。
あえて人のいない方向、つまり「爆発現場付近」の茂みに隠れるのが一番安全だ。
灯台下暗し。
火事場泥棒ならぬ、火事場隠れんぼだ。
私は逆走を始めた。
逃げ惑う生徒たちの波を、巧みなステップですり抜ける。
ぶつからない。目は合わせない。
私はただの逆流する川の石ころ。
「きゃあ!」
その時、前方で一人の女子生徒が転倒した。
人の波に押され、足首を挫いたようだ。
周囲の生徒たちはパニックで彼女に気づかず、踏みつけそうになっている。
(あー、もう!)
無視できない。
私の「事なかれ主義」は、「目の前で人が死ぬと寝覚めが悪いから助ける」というレベルの小市民的なものだ。
私はとっさに彼女の腕を掴み、強引に引き起こした。
「壁際に寄って! 廊下の真ん中は危ないから!」
「え、あ、ありがとう……」
彼女を安全な柱の陰に誘導する。
怪我は大したことなさそうだ。
「動ける? 医務室はあっち」
「は、はい。あの、お名前は……」
「通りすがりの村人Aです!」
私は名乗らずに走り去った。
これでいい。善行ポイントを積んでおけば、来世ではきっと本当のモブになれるはずだ。
しかし、私は気づいていなかった。
その様子を、廊下の吹き抜けの上から見下ろしている人物がいたことを。
「……ほう」
ギルバート様だ。
彼は手すりを握りしめ、私の背中を凝視していた。
その瞳には、先ほどまでの焦燥とは違う、神聖なものを見るような色が宿っていた。
「自分の危険を顧みず、負傷者を救助し、名も告げずに去るとは……」
彼の横にいた部下の騎士が問う。
「団長、あの方が探している令嬢ですか?」
「ああ。見ろ、あの背中を」
ギルバート様は陶酔したように呟いた。
「爆心地へ向かっている。……おそらく、まだ逃げ遅れた者がいないか確認しに行くつもりなのだろう。どれほど慈悲深いのだ」
(違います。隠れ場所を探しているだけです)
「か弱き少女が、たった一人で炎の中へ……。あれこそが、真の『聖女』の姿だ」
部下たちがゴクリと唾を飲み込む。
「なんと尊い……」「我々も見習わねば」
「行くぞ! 彼女を死なせるな! 私が直々に守り抜く!」
「「「はっ!」」」
騎士団の士気が爆上がりしてしまった。
私の知らないところで、私は「自己犠牲の聖女」に祭り上げられ、追跡の手がより一層強固なものになろうとしていた。
◇
そんなこととは露知らず、私は魔法研究棟の裏手にある林に到着していた。
ここは普段から人気がなく、今は爆発の影響で煙が漂っているため、さらに誰もいない。
咳き込みそうになるのを我慢しつつ、手頃な大岩の陰に座り込む。
「ふぅ……ここまで来れば大丈夫かな」
心臓がバクバク言っている。
今日は厄日だ。
図書室に行けば監禁されかけ、廊下に出れば爆発。
私の学園生活は、もはやサバイバルゲームの様相を呈している。
「ステータスオープン」
私は念のため、自分の状態を確認した。
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【氏名】 リナ・バレット
【状態】 疲労(中)、煤汚れ
【特記事項】
・魅了:S+(強制発動中)
・称号獲得:『氷の騎士の最愛』『名もなき聖女』
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「増えてる! 称号が増えてる!」
『名もなき聖女』って何だ。
さっきの人助けか。あの一瞬で判定されたのか。
しかも『氷の騎士の最愛』って、呪いの装備みたいな響きだ。外したい。今すぐ外したい。
私は頭を抱えてうずくまった。
もう嫌だ。実家に帰りたい。
お母さんの作った野菜スープを飲んで、こたつで寝たい。
その時だ。
ガサッ。
近くの茂みが揺れた。
ビクッと体が跳ねる。
騎士団か? ギルバート様に見つかったのか?
私は息を潜め、岩の隙間から様子を窺った。
茂みから出てきたのは、騎士ではなかった。
ボロボロに焦げた白衣(もはや黒衣)を纏い、髪の毛を爆発させた少年だった。
シリウス・アルケミー。
攻略対象その3。
あの生徒会室でスライム溶解液を撒き散らそうとした、マッドサイエンティストだ。
(うげっ……! 最悪の遭遇!)
彼はふらふらとした足取りで歩いていた。
顔は煤だらけで、眼鏡の片方が割れている。
手には黒焦げになった杖のようなものを握りしめている。
「くっ……くくく……」
彼は不気味な笑い声を漏らした。
「失敗だ……また失敗だ……。出力係数の調整を見誤ったか……。だが、この爆風のデータは美しい……」
完全に危ない人だ。
関わってはいけない。
私は岩と一体化しようと試みた。
私は岩だ。苔むした岩だ。
しかし、神様は残酷だ。
風向きが変わった。
爆心地からの煙が、私の隠れている場所へと一気に流れ込んできたのだ。
「ごほっ、ごほっ!」
耐えきれずに咳き込んでしまった。
終わった。
シリウスが、ピタリと足を止めた。
そして、機械のような正確な動きで、私のいる岩の方へと首を回した。
「……誰だ?」
割れた眼鏡の奥にある瞳が、煙の中で怪しく光った。
逃げなければ。
ここで捕まれば、今度こそ実験台だ。
私は岩陰から飛び出し、煙幕を利用してダッシュした。
「逃げるのか?」
背後から、興味深げな声が聞こえる。
「待てよ。君、さっきの生徒会室の……」
彼は何かを唱えた。
魔法だ。
足止め用の魔法が来る!
私は走った。
前世で培った「終電ダッシュ」の脚力をナメないでほしい。
不規則に蛇行し、木の根を飛び越え、全力で逃走する。
ヒュン! ヒュン!
風を切る音が耳元を掠める。
何か見えない「魔法の矢」のようなものが飛んできている気がする。
「ははっ! 面白い動きだ!」
シリウスの声が近づいてくる。
楽しそうだ。
なぜこいつらは追いかけっこが好きなんだ。
「君の逃走ルート、予測不能だね! まるでブラウン運動だ! 僕の『自動追尾ウィンドカッター』を全部かわすなんて!」
(かわしてるんじゃない! 必死に転びそうになってるだけ!)
私は石につまずき、体勢を崩した。
その結果、頭上を通過するはずだった魔法が、私の髪の毛数本を切り裂いて通り過ぎた。
「あぶなっ!」
「すごい! 今の転倒も計算か!? 重心移動を利用して急減速し、Z軸の回避を行うとは!」
過大評価だ。
ただのドジだ。
私は必死に林を抜け、裏庭の開けた場所へと躍り出た。
そこには、爆発の後始末のために作られた巨大なクレーターがあった。
行き止まりではないが、足場が悪い。
そして、正面からはシリウスが、ニタニタと笑いながら歩いてくる。
「捕まえた」
彼は黒焦げの手を広げた。
「君の身体能力、魔力耐性、そしてその異常な『運』……すべてが僕の研究対象として魅力的だ」
「お断りします! 私は解剖されたくありません!」
「解剖? ああ、安心して。最初は非侵襲的な実験から始めるよ。君の皮膚の一部を採取したり、脳波を測定したり……」
十分怖い。
「さあ、僕の研究室へ行こう。最高の拘束具を用意してある」
また監禁か。
この国の男たちは、「好き=閉じ込める」という思考回路しか持っていないのか。
私は後ずさりし、クレーターの縁に立った。
もう逃げ場がない。
後ろは泥だらけの穴、前はマッドサイエンティスト。
「来ないでください! 来たら……私、噛みますよ!」
威嚇としては最低レベルの言葉を叫ぶ。
だが、シリウスはその言葉を聞いて、なぜか顔を真っ赤にしてフリーズした。
「……噛む?」
彼は口元を手で覆った。
「被験体からの能動的な接触攻撃……咬傷によるマーキング……?」
ブツブツと呟き始める。
「それはつまり、僕に『痕』を残したいという独占欲の表れか? 野生動物的な求愛行動の一種?」
(違う! 狂犬病の恐ろしさを教えてやるって意味よ!)
「いいよ」
シリウスは眼鏡の位置を直しながら(割れているが)、恍惚とした表情で首筋を差し出した。
「噛んでいいよ。君の唾液の成分も分析したいし、何より……君になら、傷つけられても構わないという、未知の感情が湧いてきた」
【システム通知】
攻略対象③:シリウス
状態:興味→心酔
ルート分岐:マッドサイエンティストの愛玩具ルート
特殊フラグ:『噛まれたがり』属性が開花しました
「ひいいいいいいいい!」
変態だ。
ここには変態しかいない。
私は恐怖のあまり、背後のクレーターの穴へと足を滑らせた。
「あ」
ズササササッ!
「リナ!」
シリウスが手を伸ばしたが、間に合わない。
私は泥だらけの斜面を滑り落ち、クレーターの底にある水たまりへとダイブした。
バシャン!
冷たい水が全身を包む。
泥水だ。制服が台無しだ。
「っぷはっ!」
顔を上げると、クレーターの縁からシリウスが心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫かい!? 今すぐ助けるよ! ……ああ、泥にまみれた君も、実験失敗後の僕みたいで親近感が湧くなあ」
彼は杖を振った。
すると、私の体がフワリと浮き上がった。
浮遊魔法だ。
「離して! 降ろして!」
「駄目だよ。汚れたままじゃ風邪を引く。僕の部屋のシャワーを使えばいい。……もちろん、僕が洗ってあげるよ。隅々までね」
アウト。
完全にアウトな発言だ。
私は空中で手足をバタつかせた。
まるでUFOに連れ去られる牛だ。
「誰かー! 助けてー! 変質者ー!」
私の悲鳴が響く。
すると、その声に応えるように、遠くから二つの怒号が轟いた。
「貴様、シリウス! 俺のリナに何をしている!」
「その手を離せ、魔術師風情が! 彼女は私の保護下にある!」
レオナルド殿下と、ギルバート様だ。
反対側の林から、二人のイケメンが鬼の形相で走ってくるのが見えた。
(うわあ……)
空中に浮かぶ私。
下から見上げるマッドサイエンティスト。
右から来る俺様王子。
左から来る過保護騎士。
役者は揃った。
地獄の役者が。
「あ、あの、全員帰ってもらっていいですか?」
私の小さな願いは、イケメンたちの怒号にかき消され、学園史上最大規模の「ヒロイン争奪戦」のゴングが鳴らされようとしていた。




