第4話 図書室の静寂は、重い愛の始まり
あの「木登り求婚事件」から三日が経過した。
学園内は、ある噂で持ちきりになっていた。
『レオナルド殿下が、謎の男爵令嬢に熱烈なアプローチをしているらしい』
『いや、振られたらしいぞ』
『木ごと王城に持ち帰ろうとしたって本当か?』
尾ひれがついた噂話が、廊下のそこかしこで囁かれている。
本来なら、嫉妬に狂った高位貴族の令嬢たちによるいじめが始まるところだろう。
靴に画鋲を入れられたり、教科書を破かれたり、花瓶の水をかけられたり。
だが、現実は違った。
周囲の令嬢たちは、私を遠巻きに見つめながら、なぜかウットリと頬を染めているのだ。
「あの方が、殿下の心を射止めたリナ様……」
「なんて清楚で、儚げな佇まいなの」
「殿下があそこまで執着されるのもわかるわ。見て、あの怯えたような小動物のような瞳。守ってあげたくなるわよね」
(違う! これは怯えているだけ! あなたたちが怖くて震えているだけなの!)
どうやら私のバグスキル【魅了:S+】は、性別に関係なく全方位に作用しているらしい。
いじめられないのは助かるが、このままでは「全校生徒公認のプリンセス」という、モブにあるまじき称号を与えられてしまう。
レオナルド殿下はといえば、あの日以来、公務や生徒会の仕事で忙殺されているらしく、私の前に姿を現していない。
聞いた話では、あの中庭での騒動が国王陛下の耳に入り、「少し頭を冷やせ」と執務室に缶詰めにされているそうだ。
ナイスだ、国王陛下。
一生そこから出さないでほしい。
この隙に、私は気配を消して生きる。
ほとぼりが冷めるまで、誰の目にもつかない場所で息を潜めるのだ。
そう決意した私が選んだ隠れ場所。
それが、ここ「王立学園大図書室」の最奥にある、古い歴史書のコーナーだった。
◇
放課後の図書室は、静寂に包まれていた。
高い天井まで届く書架が迷路のように並び、古紙とインクの独特な香りが漂っている。
窓から差し込む西日が、舞い踊る埃をキラキラと照らしていた。
ここは平和だ。
人気のない歴史書エリアなら、誰も来ない。
キラキラした生徒たちは、恋愛小説や魔法ファッション誌のコーナーに集まっているし、真面目な生徒は魔導書や参考書の棚にいる。
カビ臭い古書に囲まれたこの場所こそ、モブにとっての聖域だ。
私は書架の影にある読書スペースに座り込み、適当な本を開いていた。
タイトルは『農作物の品種改良における土壌魔力の考察』。
地味だ。最高に地味だ。
これを読んでいる姿を見られても、「ああ、農家の子なんだな」と思われるだけで、攻略対象の興味を引く要素は皆無だろう。
(ふふふ、完璧ね。このまま閉館時間まで時間を潰して、人がいなくなってから寮に帰ろう)
ページをめくる音が、静かな空間に心地よく響く。
このまま平穏な日常が戻ってくればいい。
殿下の熱も、一時の気の迷いとして冷めてくれるはずだ。
そう信じていた。
だが、この世界は私に休息を与えるつもりなど毛頭ないらしい。
カツ、カツ、カツ。
規則正しく、それでいて重みのある足音が聞こえてきた。
私はビクッと肩を震わせた。
誰か来る。
司書さんだろうか? それとも掃除の人?
本棚の隙間から、そっと様子を窺う。
そこにいたのは、氷のように冷ややかな美貌を持つ青年だった。
銀色の髪を後ろで一つに束ね、身体のラインに沿った騎士服を着こなしている。
腰には、学園内での帯剣を許可された証である、銀装飾のサーベル。
ギルバート・フォン・アイゼンシュタイン。
若くして王宮騎士団の団長を務める天才剣士であり、攻略対象その2。
通称「氷の騎士団長」。
(ひぃっ……! なんでここに騎士団長がいるの!?)
私は本の後ろに顔を隠した。
そうだ、彼は確か、読書が趣味という設定だったはずだ。
よりによって、この誰もいないエリアを選ぶとは。
私の「安息の地選び」のセンスが恨めしい。
ギルバート様は、私のいる棚の二つ向こうで足を止めた。
手には分厚いファイルと、数冊の専門書を持っている。
眉間に深い皺を刻み、何やら難しい顔で書類に目を通している。
仕事熱心だ。
学園にいても仕事をしているなんて、前世の私なら親近感を覚えたかもしれないが、今は恐怖の対象でしかない。
帰ろう。
見つかる前に、ほふく前進で逃げよう。
そう思った時だった。
バサササッ!
ギルバート様が抱えていた書類の山が、バランスを崩して床に散らばってしまった。
彼らしくないミスだ。
連日の激務で疲れているのかもしれない。
「……チッ」
ギルバート様が不機嫌そうに舌打ちをした。
怖い。
舌打ちだけで人を殺せそうな鋭さだ。
彼はしゃがみ込み、イライラした様子で書類を拾い始めた。
その拍子に、一枚の紙が風に乗って、私の足元へと滑ってきた。
(うわあ……)
見てしまった。
足元に落ちた紙には、『要注意人物リスト(極秘)』と書かれている。
そして、その一番上にはレオナルド殿下の名前があり、備考欄には「最近、情緒不安定」と記されていた。
見なかったことにしよう。
これは国家機密だ。知ってはいけないやつだ。
でも、無視して立ち去るわけにもいかない。
目の前に落ちているのに知らん顔をして去れば、後で気づかれた時に「あの女、機密を見たな?」と消されるかもしれない。
ここは、事務的に、迅速に、そして無感情に対処するしかない。
私は深く息を吐き、呼吸を止めた。
そして、モブ事務員としての経験をフル稼働させた。
サッ。
音もなくしゃがみ込み、紙を拾う。
中身は見ない。見ていないアピールのため、裏返しにする。
そして、まだ書類拾いに追われているギルバート様のそばへ、忍び足で近づく。
彼は私の接近に気づいていない。
騎士団長ともあろうお方が、気配に気づかないほど疲弊しているのだ。
今がチャンスだ。
私は無言で、拾った紙を彼の目の前に差し出した。
ギルバート様の手が止まる。
彼はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その瞳は、凍てつく湖のように冷たく、感情の色がない。
「……お前は」
(ひいっ、目が合った! 石になる!)
心臓が口から飛び出しそうだ。
私は何も言わず、ただ紙を押し付けた。
「落としましたよ」とも「どうぞ」とも言わない。
声を出せば震えてしまうからだ。
ただ無言で、能面のような顔で、彼の手元に紙を置く。
そして、一礼。
角度は四十五度。
ビジネスシーンにおける最も無難な「会釈」をして、私は踵を返した。
逃げろ。
今すぐ立ち去るのだ。
「ありがとう」も「ご苦労」もいらない。
私はただの通りすがりの親切な風だ。
「……待て」
背後から、低く、威圧感のある声が飛んできた。
足が凍りついたように動かなくなる。
ダメだった。
風にはなれなかった。
恐る恐る振り返る。
ギルバート様が立ち上がり、私を見下ろしていた。
その手には、私が渡した紙が握られている。
彼は紙と、私を交互に見た。
そして、怪訝そうに眉をひそめた。
「なぜ、何も言わない?」
「えっ……」
「普通なら、騎士団長である私に恩を売ろうと媚びた声を出すか、あるいは私の顔を見て騒ぎ立てるはずだ。なのに、お前は……」
彼が一歩、近づいてくる。
長い足が、あっという間に距離を詰める。
「中身を見たのか?」
「み、見てません! 文字なんて読めません! 私、ミミズが這ってるなーとしか思いませんでした!」
苦し紛れすぎる嘘をついてしまった。
王立学園の生徒が字を読めないわけがない。
だが、ギルバート様は意外な反応を示した。
彼の瞳から、険しい色がスッと消えたのだ。
「……嘘だな」
「ひっ」
「お前のその制服。成績上位者のみがつけられる記章がついている。字が読めないはずがない」
しまった。
入学試験の筆記だけは、手違いで高得点を取ってしまったんだった。
「だが……お前はあえて嘘をついた。それも、自分を愚か者に見せるような嘘を」
ギルバート様の声のトーンが変わる。
冷徹な響きの中に、微かな熱が混じり始めた。
「国家の機密を見たことを知られれば、私が警戒すると思ったのだろう? だから、あえて『読めない』と道化を演じ、私の立場を守ろうとした……」
(違います。私が消されたくないだけです)
「それに、この紙を拾った時の動き。無駄がなく、音も立てず、まるで影のようだった。私に見返りを求める素振りも一切ない」
彼はハッとしたように目を見開いた。
「そうか。お前は、私を『騎士団長』や『男』として見ていない。ただ困っている人間として、無償の施しを与えただけなのか」
待って。
雲行きが怪しい。
この騎士団長も、思考回路がレオナルド殿下と同じ方向にバグっている気がする。
「女性嫌い」の設定はどこへ行った。
「私は……女性という生き物が嫌いだった。地位や名誉、顔立ちだけを見て群がり、裏では打算を巡らせる。そんな輩ばかり見てきたからだ」
ギルバート様が、そっと手を伸ばしてくる。
逃げたいのに、蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「だが、お前は違う。私の地位にも、容姿にも興味を示さず、ただ静かに助けて去ろうとした」
彼の手が、私の頬に触れる。
冷たいはずの手が、火傷しそうに熱い。
「……震えているな」
「は、はい。怖くて……」
正直に言った。
怖いから震えているのだ。
これで「臆病な女は面倒だ」と思ってくれれば。
しかし、ギルバート様の解釈は、私の斜め上を音速で駆け抜けていった。
「そうか。……怖いのか」
彼は痛ましげな表情で、私を抱き寄せるような体勢に入った。
本棚に背中が当たる。
これが世に言う「書庫ドン」だ。
「汚れた俗世が怖いのだろう? お前のように無欲で、純粋すぎる魂にとって、この学園は毒気に満ちすぎている」
ギルバート様の瞳が、暗く、重い光を宿し始めた。
それは氷の下で煮えたぎるマグマのようだ。
「誰にも知られず、誰にも見返りを求めず、ただ善意を行う……そんな聖女のようなお前を、野放しにしておくわけにはいかない」
【システム警告】
攻略対象②:ギルバート
状態:覚醒(重篤)
判定:『聖女』認定
ルート確定:過保護・隔離ルート
(聖女じゃない! 私はただの事なかれ主義のモブ!)
「守らねばならない」
ギルバート様が、確信に満ちた声で呟いた。
「お前のような無防備な存在は、外敵から遮断された安全な場所で、私が管理しなければ。……誰の目にも触れさせず、傷一つ付かないように」
「あ、あの、私、一人でも生きていけます! 雑草のように逞しいので!」
「雑草? いや、お前は雪原に咲く一輪の花だ。風が吹けば折れてしまいそうなほど脆く、美しい」
ギルバート様は私の肩を掴む手に力を込めた。
逃がさない、という強い意志を感じる。
「レオナルドも、魔法使いのシリウスも、お前を狙っていると聞く。あいつらは危険だ。破壊と混沌を好む獣だ」
彼は真剣な眼差しで私を見つめた。
「私が保護してやる。騎士団の要塞には、地下深くに絶対安全な貴賓室がある。そこなら、誰も手出しできない」
(それ牢屋ですよね!? 絶対安全な牢屋ですよね!?)
「安心しろ。衣食住は最高のものを用意する。本も読み放題だ。お前はそこで、私だけを頼って生きていけばいい」
ゾッとした。
この人、真面目な顔して言っていることが殿下より怖い。
殿下は「狩り」を楽しむタイプだが、この人は「保護」という名目で社会から隔離しようとしている。
善意100%の監禁だ。一番タチが悪い。
「い、いえ、結構です! 私、閉所恐怖症で! 広いところじゃないと死んじゃうんです!」
私は必死の抵抗を試みた。
ギルバート様の腕の下をくぐり抜けようと身をよじる。
だが、彼は私の手首をガシリと掴んだ。
「そうか。ならば、要塞の庭園ごと結界で覆えばいい。空は見えなくとも、広い空間は確保できる」
「そういう問題じゃなーい!」
「リナ、と言ったな。覚悟しておけ。私は一度決めた守るべき対象は、何があっても手放さない」
ギルバート様は、私の手の甲に恭しく口づけを落とした。
冷たい唇の感触に、背筋が粟立つ。
「お前の安全のためなら、私は鬼にも悪魔にもなろう。……まずは、お前の周りの『害虫』駆除から始めなければな」
その目が、図書室の入り口付近に向けられた。
そこには、私の帰りが遅いのを心配して見に来たのか、数人の男子生徒の姿があった。
彼らはギルバート様の殺気を感じ取り、悲鳴を上げて逃げ出した。
「見ろ、世界はお前にとって危険に満ちている。だが心配するな、私の目の届く範囲にいれば、全て排除してやる」
私の「モブ計画」第二弾、図書室での隠遁生活は、最悪の形で失敗した。
逃げれば追われる。隠れれば見つかる。
そして、助ければ監禁される。
私は理解した。
この世界における私の行動は、すべて「愛される」という結末に向かって収束するようプログラムされているのだ。
因果律そのものが、私をヒロインにしたがっている。
(誰か嘘だと言って……私はただ、静かに本を読みたかっただけなのに……)
ギルバート様の重すぎる愛(保護欲)という名の鎖が、ジャラリと音を立てて私に絡みつく幻聴を聞きながら、私はその場に崩れ落ちそうになった。
しかし、運命の悪戯はこれだけでは終わらない。
この騒ぎを聞きつけて、さらなる厄災が近づいていることを、私はまだ知らなかったのだ。
ドカーン!!
遠くで爆発音が響く。
あの音は、魔法実験の失敗音……いや、私の平穏な学園生活が爆散する音だったのかもしれない。




