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モブに徹したい私 vs 絶対に私をヒロインにしたい世界  作者: 九葉


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第3話 必死に逃げた結果、なぜか王子の「執着」スイッチが入る

生徒会室の空気は、地獄の釜の蓋を開けたような重苦しさに包まれていた。


私の目の前には、この国の顔面偏差値を独占する三人の男たち。

俺様王子のレオナルド殿下。

氷の騎士団長ギルバート様。

そして、マッドサイエンティスト予備軍の天才魔術師シリウス様。


逃げ場はない。

背後の扉は重厚なオーク材で閉ざされ、前方は乙女ゲームの攻略対象たちによって完全に封鎖されている。


「……ふむ」


沈黙を破ったのは、部屋の奥で紫色の液体が入ったフラスコを振っていたシリウス様だった。

彼はボサボサの黒髪の間から、気だるげな瞳をこちらに向けた。

その瞳の下には濃いクマがある。

研究熱心すぎて寝ていないという設定だが、今の私には「獲物を狙う不審者」にしか見えない。


「レオナルド。その子は誰だい? 新しい実験動物……じゃなくて、新入生?」


言い直した。今、完全に「実験動物」って言った。


レオナルド殿下が優雅にソファへ腰を下ろしながら答える。


「ああ。俺の運命の相手だ」

「は?」

「は?」


私とシリウス様の声が重なった。

やめてほしい。そんな恥ずかしい称号を勝手に付与しないでほしい。

私は「通行人A」だ。

運命の相手なんて大層な役職は、ピンク髪のアリスちゃんにお願いしたい。


「運命、ねえ……」


シリウス様は興味なさそうにフラスコを置いた。


「君が女に入れあげるなんて珍しい。どうせまた、『俺の顔を見ても失神しなかった』とか、そういう些細な理由だろう?」


「ふっ、甘いなシリウス」


殿下は勝ち誇ったように笑い、私のほうを手で示した。


「このリナは、俺から逃げたのだ」

「……逃げた?」

「そうだ。俺と目が合った瞬間に脱兎のごとく逃げ出し、あまつさえ旧校舎の観葉植物になりきって気配を消していた。その生存本能、そして権力に屈しない野生の魂……まさに、俺の伴侶に相応しい」


シリウス様がポカンとしている。

私もポカンとしている。

騎士団長のギルバート様だけが、「なるほど、野生の魂か……尊いな」と一人で納得して頷いている。カオスだ。


「まあ、君がそう言うなら興味はないけど」


シリウス様は肩をすくめると、手元の実験器具を片付け始めた。

その時だ。


カツン。


彼の手が滑り、棚の上のビーカーに当たった。

中に入っていた真っ赤な液体が、放物線を描いてこちらへ飛んでくる。


「あ」


シリウス様が短い声を上げた。

液体が私の制服にかかる――その直前。


私は無意識に動いていた。

前世でブラック企業の満員電車に揉まれて培った、「人混みをすり抜ける回避スキル」が発動したのだ。


サッ。


最小限の動きで上半身を捻り、液体の軌道を紙一重でかわす。

赤い液体は私の横を通り過ぎ、背後のカーペットにジュワッとシミを作った。

酸っぱい匂いが立ち込める。

……あれ、強酸性?

浴びていたら制服どころか皮膚が溶けていたのでは?


「ひっ……!」


私は青ざめた。

やはりここは危険地帯だ。一刻も早く立ち去らなければ命がない。


しかし、顔を上げると、シリウス様の目がランランと輝いていた。


「……避けた?」


彼はカウンターを乗り越える勢いで身を乗り出した。


「今の液体は『追尾型スライム溶解液(試作)』だぞ? 魔力を感知して対象を追う性質がある。それを、魔法障壁も展開せずに、純粋な体術のみで……しかも、液体の飛散予測円を完全に見切って回避しただと!?」


違います。ただの火事場の馬鹿力です。


シリウス様が私の手を取り、至近距離で瞳を覗き込んでくる。


「君、凄いね。素晴らしい反射神経だ。脳の神経伝達速度が常人とは違うのかもしれない。……ねえ、ちょっとだけ頭の中身を見せてもらってもいいかな?」

「いやですぅぅぅぅ!!」


私はシリウス様の手を振りほどいた。

解剖される。このままでは物理的に中身を見られてしまう。


「失礼します! 私、急用を思い出しました! 実家の畑が火事なんです!」


支離滅裂な嘘を叫び、私は扉へとダッシュした。

火事なのは畑ではなく、私の現状だ。


「あっ、待て!」

「逃がすか!」


背後でイケメンたちの声がしたが、構っていられない。

私は重い扉を両手で押し開け、廊下へと転がり出た。


          ◇


走る。ひたすら走る。

廊下ですれ違う生徒たちが、血相を変えて走る私をぎょっとして見ているが、恥じらっている余裕はない。


目指すは女子寮だ。

男子禁制の女子寮に逃げ込めば、さすがの攻略対象たちも手出しはできないはず。

引きこもろう。

卒業までの三年間、部屋から一歩も出ずに通信教育で単位を取るのだ。


「待てと言っているだろう、リナ!」


背後から、恐ろしいほどよく通る声が聞こえた。

振り返ると、レオナルド殿下が信じられないスピードで追いかけてきていた。

優雅なフォームだ。

短距離走の選手のように美しいフォームで、しかし確実に距離を詰めてくる。


(なんで!? あんた魔法使いタイプじゃなかったの!?)


ゲームの設定では、レオナルド殿下は魔力特化型で、体力はそこまで高くなかったはずだ。

だが今の彼は、風魔法でも使っているのかと思うほどの加速を見せている。


「しつこい男は嫌われますよぉぉぉ!」


私は泣き叫びながら階段を駆け下りた。

スカートの裾をまくり上げ、なりふり構わず中庭へと飛び出す。


中庭には、美しい噴水と手入れされた植木が並んでいる。

ここなら障害物が多い。

相手の視界を遮ることができるかもしれない。


私は植え込みの間を縫うように走り、ジグザグに移動した。

モブの必殺技、「通行人ウォーク」。

人混みや障害物に紛れ、存在感を希薄にする技術だ。


しかし。


「そこか!」


殿下は迷うことなく、私が隠れようとした生垣の裏へ回り込んできた。


(GPS! 絶対GPSついてる!)


ステータスの【魅了:S+】が、私の居場所をビーコンのように発信しているとしか思えない。


「はあ、はあ……どうして……どうして追いかけてくるんですか!」


私は息を切らしながら叫んだ。

殿下も少しだけ息を弾ませているが、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。

楽しそうだ。

ものすごく楽しそうだ。


「お前が逃げるからだ!」


「だから、どうして!」


「わからん! だが、お前の背中を見ていると、本能が『捕まえろ』と叫ぶのだ! 狩猟本能をこれほど掻き立てられたのは、ドラゴン討伐以来だ!」


私をドラゴンと同列に扱わないでほしい。


中庭の奥まで追い詰められた私は、絶望的な壁にぶち当たった。

行き止まりだ。

背後には高い塀。左右は殿下の魔力でなんとなく封鎖されている気配がする。


もう、上しかない。


私は目の前にあった、樹齢数百年はあろうかという巨大な樫の木を見上げた。

枝ぶりは良く、足場も多い。

子供の頃、兄たちと木登りをして遊んだ経験が役に立つ時が来た。

貴族令嬢としてあるまじき行為だが、背に腹は代えられない。


「とうっ!」


私は靴を脱ぎ捨て、猿のような身軽さで幹に飛びついた。

枝から枝へと飛び移り、あっという間に地上五メートルほどの高さまで登る。


追いついてきた殿下が、木の下で立ち止まり、呆然と上を見上げた。


「……お前」


殿下の目が点になっている。

そうだろう、そうだろう。

入学初日に、人目も憚らず木登りをする男爵令嬢。

百年の恋も冷めるはずだ。

さあ、幻滅しろ。「なんて野蛮な女だ」と罵って立ち去ってくれ。


私は枝にしがみつきながら、精一杯の憎まれ口を叩いた。


「殿下! 私、おてんばなんです! 猿の生まれ変わりなんです! 王妃教育なんて無理ですし、お茶会よりバナナが好きなんです! だから諦めてください!」


完璧な自虐だ。

これで好感度が上がるわけがない。


殿下はしばらく無言で私を見上げていた。

風が吹き、木の葉がざわめく。

沈黙が痛い。


やがて、殿下が口を開いた。

その声は震えていた。


「……なんて、自由なんだ」


はい?


「王城という鳥籠の中で育った俺にとって、お前のその姿は……まるで大空を舞う鳥のようだ」


殿下の手が、届かない私へ向けて伸ばされる。


「おてんば? いや、それは生命力の輝きだ。飾り立てたドレスよりも、泥にまみれて木に登るお前のほうが、どんな宝石よりも美しく見える」


(眼科! 王宮医を呼んでー!!)


殿下のフィルターが分厚すぎる。

泥だらけの村娘が宝石に見えるとか、もう重症だ。


「降りてこい、リナ。怪我をする」


殿下の声色が、優しいものから、少し熱を帯びた低いものへと変わった。


「嫌です! 降りたら捕まるじゃないですか!」

「捕まえるさ。……もう、二度と逃がしたくないからな」


ゾクリ。

背筋に冷たいものが走った。

今の言葉、ただのロマンチックな口説き文句ではない。

もっと本質的な、捕食者の執着が含まれていた。


私は恐怖で枝を握りしめた手を強めた。

降りてはいけない。

ここで降りて彼の手を取れば、私は「籠の中の鳥」になる。

直感がそう告げている。


「絶対、降りません。ここで暮らします」

「バカなことを言うな」

「本気です! 私はモブなんです! 木の上の住人Aとして生きていくんです!」


その時だった。

私の必死の抵抗が、逆に殿下の心の奥底にある、何かのスイッチを押してしまったのは。


殿下はフッと表情を消した。

先ほどまでの楽しげな笑顔も、情熱的な眼差しも消え失せ、底知れぬ闇のような瞳が私を射抜いた。


「……そうか」


低い、地の底から響くような声。


「そこまでして、俺を拒むか」


殿下がゆっくりと、木に手を添えた。


「俺は、全てを持っていた。金も、権力も、才能も、女も。望めば全てが手に入った。だからこそ、退屈だった」


彼は私を見据えたまま、一歩も動かない。


「だが、お前は違う。お前だけは、俺の思い通りにならない。俺の手を振り払い、俺から逃げ、俺を見下ろしている」


殿下の瞳孔が開いているのが、この距離でもわかった。


「たまらないな」


彼は唇を舐めた。


「手に入らないからこそ、渇望する。拒絶されるからこそ、ねじ伏せたくなる。……リナ、お前が俺に教えたんだぞ? この、胸を焦がすような独占欲を」


空気が変わった。

中庭の温度が数度下がった気がする。


ステータス画面は見えていないが、脳内で警告音が鳴り響いている気がした。

【警告:レオナルド殿下の状態が『興味』から『執着』へ変化しました】

【ルート確定:ヤンデレ・監禁ルート】


「降りてこないなら、それでもいい」


殿下は冷たく微笑んだ。


「この木ごと、王城へ運ばせよう」

「はあ!?」

「周りの土ごと掘り返し、俺の寝室の庭に植え替えればいい。そうすれば、お前が木から降りる時、そこは俺の腕の中だ」


発想が飛躍しすぎている。

木ごと移植? 寝室の庭?

正気か。


「衛兵! 庭師を呼べ! 今すぐだ!」


殿下の命令が響き渡る。

遠くから「はっ!」という兵士たちの声が聞こえてくる。

本気だ。この王子、権力を使って物理的に私を囲い込む気だ。


「ちょ、待っ……!」


私が慌てた瞬間、足を乗せていた枝がミシミシと音を立てた。

古木とはいえ、私の暴れっぷりに限界が来たらしい。


バキッ!


「きゃあああああ!」


枝が折れ、私の体は宙に投げ出された。

重力が内臓を引っ張る浮遊感。

まずい。落ちる。

高さ五メートル。受け身を取ってもタダでは済まない。


私はギュッと目を閉じた。

痛みへの恐怖で身を縮める。


しかし、激突の衝撃は訪れなかった。


ふわり。


温かい腕と、微かな香水の匂いが私を包み込んだ。


「……捕まえた」


耳元で囁かれる声。

恐る恐る目を開けると、そこにはレオナルド殿下の顔があった。

彼は私をお姫様抱っこしたまま、至近距離で見つめていた。


碧眼が、暗く濁った光を放っている。


「もう、離さない」


その言葉は、愛の告白というよりは、終身刑の宣告のように聞こえた。


「木から落ちてくるお前を受け止める……まるで空から降ってきた天使のようだ。やはり、お前は俺のものになるべくして生まれたんだな」


違う、ただの落下事故だ。

引力だ。ニュートンだ。


「殿下、あ、あの、降ろして……」

「駄目だ」


殿下の腕に力がこもる。

痛いほど強く、抱きしめられる。


「もう逃げられないと思え。お前がどれだけ逃げようとしても、俺は地の果てまで追いかける。そして、お前の足が動かなくなるまで愛してやる」


【魅了:S+】のせいで、私の「怯え」は「儚げな震え」に変換され、殿下のサディスティックな庇護欲をさらに刺激しているようだ。


周囲には、いつの間にか集まってきた衛兵や生徒たちが、遠巻きに私たちを見ている。

「キャー、殿下がご乱心よ!」「いや、あれは情熱的なプロポーズだわ!」「あの子、誰?」「新しいシンデレラ?」


外堀が埋まっていく音がする。

私のモブ人生が、音を立てて崩れ去っていく。


殿下は満足げな笑みを浮かべ、私を抱いたまま歩き出した。


「さあ、帰ろうか。俺たちの愛の巣(生徒会室)へ」


「いやぁぁぁぁぁぁ!」


本日二度目の絶叫が、王立学園の空に虚しく響き渡った。

こうして、私の必死の逃走劇は、王子の執着心に火をつけるという最悪の結果で幕を閉じたのだった。

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