第2話 観葉植物に擬態した結果、なぜか余計に目立ってしまった件
入学式が終わった瞬間、私は脱兎のごとく講堂を飛び出した。
背後からは、まるで珍獣でも見るかのような視線が突き刺さっていた気がするが、振り返ってはいけない。
振り返ったら最後、石にされる。メデューサと戦う戦士の気持ちが今なら痛いほどわかる。
「はあ、はあ……っ!」
ドレス慣れしていない足で、もつれそうになりながら廊下を走る。
本来、廊下を走るのは校則違反だ。
モブとしてあるまじき行為である。
モブというのは、廊下の右側を俯いて静かに歩き、主人公たちがぶつかってきた時に「きゃっ、ごめんなさい!」と言ってハンカチを落とすために存在するのだから。
だが、今は非常事態だ。
あの第一王子、レオナルド殿下から「生徒会室に来い」などという、死亡フラグ直結の命令を下されてしまったのだ。
行くわけがない。
行けばどうなるか、火を見るよりも明らかだ。
生徒会室には、他の攻略対象たちもたむろしている可能性が高い。
そんなイケメンの巣窟に、私のようなバグ持ちが飛び込んだらどうなるか。
『やあ、君が噂の?』
『へえ、いい匂いがするね』
『僕の実験台になってくれないかい?』
そんな言葉と共に監禁ルートが確定する未来しか見えない。
「無理無理無理! 絶対に嫌!」
私は首をブンブンと横に振った。
とりあえず、ほとぼりが冷めるまで隠れよう。
殿下だって暇じゃないはずだ。
新入生代表への挨拶や、教師たちとの顔合わせ、そして本来のヒロインであるアリスちゃんとのイベント消化で忙しいに違いない。
地味な村娘のことなど、数分もすれば忘れるだろう。
そう自分に言い聞かせ、私は人気のない旧校舎の渡り廊下へと逃げ込んだ。
◇
旧校舎の廊下は薄暗く、埃っぽい匂いがした。
ここなら人も来ない。
私は荒くなった息を整えながら、周囲を見渡した。
隠れる場所が必要だ。
ただ立っているだけでは、見回りの教師や迷い込んだ生徒に見つかるかもしれない。
モブたるもの、風景に溶け込まなければ。
ふと、廊下の隅に巨大な観葉植物が置かれているのが目に入った。
私の背丈ほどもある、立派なパキラだ。
葉が大きく広がっており、人が一人隠れるには十分なスペースがある。
「これだ」
私は迷わずパキラの裏側に回り込んだ。
背中を壁に押し付け、膝を抱えて座り込む。
緑色の葉が視界を覆い、完璧な遮蔽物となっている。
(よし、私は今、パキラだ。パキラの一部だ)
自己暗示をかける。
私は人間ではない。光合成を行う植物だ。
二酸化炭素を吸って酸素を吐く、地球に優しい存在だ。
だから誰も私を気に留める必要はない。
心臓の鼓動が少しずつ落ち着いてくる。
遠くから、新入生たちのざわめきが聞こえるが、ここまでは届かない。
助かった。
そう安堵した、その時だった。
カツ、カツ、カツ……。
静寂な廊下に、硬質な靴音が響き渡った。
一定のリズムを刻む、自信に満ちた足音。
それは迷子になった生徒の不安げな足取りではない。
明確な目的を持って、獲物を追い詰める狩人の足音だ。
(うそ……ここ旧校舎よ? なんで人が来るの?)
私は息を止めた。
パキラの葉の隙間から、そっと様子を窺う。
廊下の曲がり角から現れたのは、眩しいほどの金髪だった。
レオナルド殿下だ。
(ヒィッ……!!)
喉の奥で悲鳴が上がったが、必死に飲み込んだ。
なぜだ。
どうしてここがわかった。
私にはGPSでも埋め込まれているのか。
殿下は立ち止まり、周囲を見回した。
その碧眼は、獲物を探す猛禽類のように鋭い。
「……おかしいな」
低い独り言が、静かな廊下に響く。
「私の『王家の勘』が、このあたりに極上の獲物がいると告げているのだが」
(何その勘!? 怖すぎるんだけど!)
王家の勘なんて設定、ゲームにはなかったはずだ。
もしかして、あれか。
私の【魅了:S+】が放つフェロモンか何かが、殿下の第六感を刺激しているのか。
だとしたら、もう隠れる場所なんてこの世にないじゃないか。
殿下はゆっくりと、私が隠れているパキラの方へと歩き出した。
一歩、また一歩。
死神のカウントダウンのようだ。
お願い、気づかないで。
私はただの観葉植物。
学名はパキラ・グラブラ。
花言葉は「快活」……いや、今の私は「絶望」だ。
殿下の革靴が、私の目の前で止まった。
パキラの葉を一枚、長い指が愛おしげに撫でる。
「……ふっ」
殿下が笑った。
背筋が凍るような、愉悦に満ちた笑い声。
「頭隠して尻隠さず、とはこのことか。……いや、愛らしいと言うべきかな」
バサッ。
目の前の葉が、乱暴にかき分けられた。
そこに現れたのは、至近距離のイケメン。
「見つけたぞ、俺の小鹿」
「ひゃああああああああ!?」
私は情けない声を上げて、その場に尻餅をついた。
終わった。
完全にロックオンされている。
殿下はパキラの横に片手をつき、私を壁との間に閉じ込めた。
いわゆる「壁ドン」というやつだが、状況はロマンチックの欠片もない。
ただのホラーだ。
「な、ななな、なぜここに……!?」
震える声で尋ねる。
殿下は楽しそうに目を細めた。
「逃げたからだ」
「は?」
「お前が逃げたから、追いかけてきた。それだけのことだ」
理屈になっていない。
入学式直後の王子が、一人の女子生徒を追いかけて旧校舎まで来るなんて、職務放棄もいいところだ。
「あ、あの、私、生徒会室の場所がわからなくて……それで、迷子になって……」
苦し紛れの嘘をつく。
これなら「ドジな女だ」と呆れられて、見逃してもらえるかもしれない。
しかし、殿下は私の言葉を聞くと、ふっと表情を和らげた。
「……なるほど。迷ったふりをして、あえて人の来ない旧校舎を選んだわけか」
「え?」
「俺の立場を慮ったのだろう? 衆人環視の中で俺と歩けば、お前は嫉妬の対象になりかねない。だから、あえて俺から離れ、二人きりになれる場所へと誘導した……」
殿下の頬が、ポッと赤く染まる。
「策士だな。……だが、その健気な配慮、嫌いではない」
(ちがーーーう!!)
私の心の叫びは届かない。
なぜだ。
なぜ私の行動すべてが、ポジティブかつ恋愛脳全開の解釈に変換されるのだ。
これが【魅了:S+】の強制力なのか。
私の意思など関係なく、世界が勝手に「ラブストーリー」を構築しようとしている。
「さあ、行くぞ。生徒会室でお前を待っている奴らがいる」
殿下が手を差し伸べてくる。
その手を取ったら、もう戻れない。
私はモブだ。
名前のない通行人Aだ。
そんなメインキャラの集まりに参加する資格はないし、したくもない。
私は意を決した。
こうなったら、嫌われるしかない。
王子に対して無礼な態度を取り、幻滅させるのだ。
私は震える手で、殿下の手をパシンと叩き落とした。
乾いた音が廊下に響く。
殿下の動きが止まった。
やったか?
不敬罪ギリギリのラインだが、これで「なんて無礼な女だ!」と激怒してくれれば……。
恐る恐る殿下の顔を見る。
彼は叩かれた自分の手を呆然と見つめ、それからゆっくりと私に視線を戻した。
その瞳は、怒りではなく、熱っぽい光を宿していた。
「……痺れた」
「はい?」
「この俺の手を、拒絶しただと……?」
殿下は叩かれた手を、まるで宝物のように胸に抱いた。
「生まれた時から、誰もが俺に傅き、媚びへつらってきた。俺が手を伸ばせば、涙を流して喜ぶ女ばかりだった。……だが、お前は違う」
殿下が一歩、私に詰め寄る。
「俺を『王子』としてではなく、ただの『男』として見ているからこそ、安易に触れられることを拒んだのか? それとも、俺の愛を試しているのか?」
「い、いえ、ただ単に触られたくなくて……」
「正直なやつだ。その飾り気のない言葉……胸に刺さる」
ドクン、と殿下の胸が高鳴る音が聞こえた気がした。
ダメだ。
言葉が通じない。
拒絶すればするほど、この男の燃料になっている。
「お前のような女は初めてだ。……リナ、と言ったな」
名前まで覚えられている。
入学式の名簿をチェック済みということか。仕事が早い。
「覚悟しろ。俺は、欲しいものはどんな手を使っても手に入れる。お前がどれだけ拒もうと、どれだけ逃げようと、必ず俺のものにしてみせる」
殿下は宣言すると、私の腕を強引に掴んだ。
力強い、抗えない力だ。
「まずは茶会だ。最高級の茶葉を用意してある。逃がさないぞ」
「いやぁぁぁぁ! 助けてぇぇぇ!」
私の悲鳴は、誰にも届くことなく旧校舎に吸い込まれていった。
引きずられていく最中、私の脳内でステータス画面の通知音が鳴り響いた気がした。
【システム通知】
攻略対象①:レオナルド殿下
状態:ロックオン(回避不能)
好感度:測定不能
現在のルート:溺愛・監禁ルートへの分岐点
(監禁ルートへの分岐点って何!? もう詰んでるじゃない!)
私は心の中で泣き叫びながら、地面を引きずられていった。
廊下の角を曲がる際、本来のヒロインであるアリスちゃんが、友人と楽しそうに歩いているのが見えた。
「あ、リナちゃんだー! 王子様と仲良しだねえ、追いかけっこ?」
アリスちゃんはニコニコと手を振っている。
違う。
これは追いかけっこではない。連行だ。ドナドナだ。
助けてくれ、ヒロイン。あなたの仕事はこっちだ。
しかし、アリスちゃんの天然な笑顔に見送られ、私は無慈悲にも生徒会室へと連行されていくのだった。
◇
生徒会室の重厚な扉の前に立つ。
中からは、何やら穏やかではない気配が漂っている。
「さあ、入れ」
殿下が扉を開ける。
私は抵抗虚しく、部屋の中へと押し込まれた。
そこには、ゲームのパッケージを飾っていた残りの攻略対象たちが待ち構えていた。
窓際で本を読んでいる、銀髪のクールな美青年。
氷の騎士団長、ギルバート。
ソファで怪しげな色の液体をフラスコで混ぜている、紫の髪の少年。
天才魔術師、シリウス。
彼らが一斉にこちらを向く。
「遅かったな、レオナルド。……む、その薄汚れた小動物はなんだ?」
ギルバートが冷ややかな視線を私に向けた。
やった。
「薄汚れた小動物」。
これは脈なしだ。嫌われている。
ありがとう騎士団長、あなたはまともな感性の持ち主だ。
私は希望の光を見出した。
殿下はダメでも、他の攻略対象に嫌われれば、まだ「逆ハーレムエンド」という最悪の結末だけは回避できるかもしれない。
「すみません、すぐに帰ります!」
私はギルバートに向かって深々と頭を下げ、回れ右をして扉に手をかけた。
しかし。
「待て」
ギルバートの声が、私の足を止めた。
「落とし物だ」
彼が指さしたのは、私のスカートの裾だった。
パキラの葉が一枚、くっついていたのだ。
「あ、ありがとうございます……」
私は慌てて葉っぱを取り、ゴミ箱へ捨てようとした。
だが、ギルバートは無言で私の手から葉っぱを奪い取った。
「……?」
彼はその葉っぱを、まじまじと見つめた。
そして、信じられないことを口走った。
「自然を愛し、植物と共に在ることを選んだ証か……。着飾ることよりも、在るがままの姿を晒すその潔さ……」
ギルバートの冷徹な瞳が、熱く潤み始める。
「……悪くない。いや、保護欲をそそられる」
(お前もかーーーーーーっ!?)
私は天を仰いだ。
この世界には、まともな男はいないのか。
それとも、私の【魅了:S+】が、彼らの脳みそを焼き切ってしまったのか。
私の「モブ生活防衛戦」は、開始数時間にして、完全敗北の様相を呈していた。




