第10話 悪役令嬢の登場は、救世主かそれとも新たな信者か
学園祭前日。
嵐の前の静けさと言うには、あまりにも私の周囲は騒がしかった。
教室は「メイド喫茶」の準備で戦場と化していた。
リナ様親衛隊(男子生徒)はテーブルの配置に命をかけ、女子生徒たちは店内の装飾に血道を上げている。
そして、本来のヒロインであるアリスちゃんは、つまみ食いをしながら「味見係」という名のサボタージュを決め込んでいた。
私はと言えば、教室の隅でひたすらナプキンを折っていた。
唯一与えられた地味な仕事だ。
これなら誰の目にも留まらない。
空気のように、背景の一部として過ごせる。
(ふふ、いい感じだわ。このまま明日まで気配を消し続ければ、伝説のメイドなんて都市伝説で終わるはず)
そう楽観視していた時だった。
「……ごきげんよう」
凛とした、しかし氷のような冷たさを孕んだ声が、私の頭上から降ってきた。
ビクッとして顔を上げる。
そこには、豪奢な縦ロールの金髪を揺らし、扇子で口元を隠した一人の令嬢が立っていた。
切れ長の瞳は釣り上がり、私を品定めするように見下ろしている。
マリアンヌ・ド・ローゼンバーグ。
公爵家の令嬢であり、レオナルド殿下の婚約者候補筆頭。
そして、このゲーム『聖と魔のレガリア』における「悪役令嬢」その人である。
(き、来たあああああ!!)
私は心の中で歓喜の声を上げた。
悪役令嬢!
それはつまり、ヒロイン(またはその座を奪った私)をいじめ、排斥しようとする存在だ。
彼女なら、私をこの狂った「愛され世界」から引きずり下ろしてくれるかもしれない。
「身の程を知りなさい!」と罵って、メイド喫茶の主役から降ろしてくれるかもしれない!
私は期待に胸を膨らませ、マリアンヌ様を見つめた。
「は、はい! ごきげんよう、マリアンヌ様!」
私の元気すぎる挨拶に、彼女は一瞬怯んだようだが、すぐに気を取り直して鼻を鳴らした。
「ふん。挨拶だけはできるようね、男爵令嬢」
彼女の取り巻きである二人の令嬢も、クスクスと笑う。
「見てよ、あの安っぽいナプキン」「平民上がりの男爵家にはお似合いね」
素晴らしい。
これぞテンプレだ。
もっと言ってくれ。もっと私を蔑んで、この教室から追い出してくれ。
マリアンヌ様は、私の手元にあるナプキンの山を扇子で指した。
「あなた、学園新聞で『魔性のモブ』だの『伝説のメイド』だのと持て囃されているようだけれど……いい気にならないことね」
「はい! おっしゃる通りです! 私は調子に乗っていました!」
私は食い気味に同意した。
「レオナルド殿下が執心されているからといって、所詮は一時の気まぐれ。あなたのような地味な女が、王族の隣に立てると思って?」
「思いません! 1ミリも思いません! 私は壁際がお似合いです!」
「……は?」
マリアンヌ様の扇子がピタリと止まった。
彼女は怪訝そうな顔で私を見ている。
予想外の反応だったのだろう。普通なら「そんなことありません!」と泣くか、言い返す場面だ。
「な、なによその態度は。私を馬鹿にしているの?」
「滅相もございません! マリアンヌ様の正論に感動しているのです!」
私は立ち上がり、彼女の手を握りしめた。
「マリアンヌ様、お願いです。もっと私を罵倒してください。そして『目障りだから消えなさい』と命じてください。私、すぐにでも実家に帰りますので!」
「ちょ、ちょっと! 離しなさい!」
マリアンヌ様が顔を赤くして手を振りほどく。
「な、なんなのこの女……。私の高圧的な態度に怯えるどころか、目を輝かせて……」
彼女が後ずさる。
いけない、引かれている。
ここで引かせてはいけない。悪役令嬢としての職務を全うしてもらわなければ。
「マリアンヌ様! いじめの手始めに、私の靴を隠すとかどうでしょう!? それとも教科書に落書きですか!? 全部受け入れます!」
「き、気味が悪いわね! 誰がそんな低俗なことをするものですか!」
マリアンヌ様は扇子をバッと広げた。
「ローゼンバーグ家の流儀は、もっと高尚で、芸術的な『指導』よ。……こっちへ来なさい」
彼女は私に背を向け、廊下へと歩き出した。
やった。
これは「体育館裏への呼び出し」イベントだ。
ついに私にも、乙女ゲームらしい断罪イベントが発生するのだ。
◇
連れて行かれたのは、人気のない被服室だった。
中には高価そうなミシンや布地が並んでいる。
マリアンヌ様は私を部屋の中央に立たせると、腕組みをして睨みつけた。
「さあ、見せなさい」
「え?」
「明日の衣装よ。あなたが着るメイド服を見せなさいと言っているの」
なるほど。衣装を切り刻むつもりか。
それとも「こんなボロ布、あなたには勿体ないわ」と没収してくれるのか。
どちらにせよ、メイド服がなくなれば私は接客に出なくて済む。
私は急いでロッカーから、クラスの女子たちが作った(最高級シルクの)メイド服を取り出した。
「こちらです。どうぞ、お好きなように煮るなり焼くなりしてください」
私はうやうやしく献上した。
マリアンヌ様は布地をつまみ上げ、じっくりと観察し始めた。
鋭い目が、縫い目の一つ一つをチェックしていく。
「……何これ」
低い声。
怒っている。いいぞ、その調子だ。
「素材は悪くないわ。シルクの質も上等。でも……」
ビリッ!
彼女が袖口を強く引っ張った。
「縫製が甘すぎるわ!」
マリアンヌ様が叫んだ。
「なによこのステッチ! 3ミリもズレてるじゃない! それにこのフリルの寄せ方、均一じゃないわ! こんな恥ずかしいものを着て、殿下の前に出るつもり!?」
「えっ、いや、私は別に……」
「許せない……美学に反するわ!」
マリアンヌ様は鬼の形相で、近くにあった裁縫箱を開けた。
「脱ぎなさい!」
「はい?」
「今すぐ着てみなさいと言っているの! 私が直接、修正(お直し)してあげるわ!」
「……へ?」
予想と違う展開に、私は思考が追いつかない。
衣装を切り刻むんじゃなかったの?
修正?
私は言われるがままに着替えさせられた。
鏡の前に立つ私を見て、マリアンヌ様は「むぅ」と唸った。
「サイズ感は合っているけれど、シルエットが野暮ったいわ。あなたのその……無駄に儚げな体型を活かしきれていない」
彼女は待ち針を口にくわえ、私の服をつまんで調整し始めた。
その手つきは、プロの職人のように鮮やかだ。
「ウエストはもっと絞る! スカートの丈はあと2センチ詰めて、足首のラインを強調する! リボンの角度は45度!」
「あ、あの、マリアンヌ様? いじめてるんですよね?」
「黙りなさい! 今、集中しているの!」
怒られた。
彼女の取り巻きたちも、「さすがマリアンヌ様……完璧な針運びですわ」「リナ様のポテンシャルを引き出している……」と感心している。
一時間後。
「……完成よ」
マリアンヌ様が額の汗を拭った。
私は鏡を見た。
そこには、別人が立っていた。
もともと上等だったメイド服が、マリアンヌ様の手によって「至高の逸品」へと進化していた。
私の体型にミリ単位でフィットし、動くたびにフリルが優雅に揺れる。
地味なはずの茶髪も、衣装とのコントラストでなぜか上品に見える。
「……どういうこと?」
私は呆然とした。
これでは、余計に目立ってしまうではないか。
「幻のメイド」どころか「傾国のメイド」だ。
マリアンヌ様は満足げに頷き、私を見た。
その目には、先ほどまでの敵意とは違う、奇妙な達成感が宿っていた。
「ふん。まあ、これなら許容範囲ね。ローゼンバーグ家の人間が関わった以上、駄作を世に出すわけにはいかないもの」
「あ、ありがとうございます……?」
「勘違いしないでちょうだい。あなたのためじゃないわ。学園の品位を守るためよ」
典型的なツンデレ台詞だ。
だが、彼女の視線が私の胸元(新しく付けられたレースの飾り)に留まった時、彼女の顔がぽっと赤らんだ。
「それにしても……素材が良いと、作り甲斐があるわね」
「え?」
「なんでもないわ! さあ、次は立ち振る舞いよ! そんな猫背じゃ服が泣くわ!」
そこから、地獄のウォーキングレッスンが始まった。
「背筋を伸ばす!」「笑顔は口角を5ミリ上げる!」「ターンは優雅に!」
マリアンヌ様はスパルタだった。
汗だくになりながら、私は必死に食らいついた。
いじめられているはずなのに、なぜか部活の合宿のような一体感が生まれている。
夕日が被服室に差し込む頃、私は完璧なお辞儀を習得していた。
「……悪くないわ」
マリアンヌ様が扇子を閉じた。
「今の所作なら、王妃教育を受けている私と並んでも恥ずかしくないでしょう」
「はあ、はあ……疲れました……」
私は床にへたり込んだ。
マリアンヌ様は私を見下ろし、ふと優しい表情を見せた。
いや、待って。
悪役令嬢が優しい顔をしてはいけない。
「リナ。……あなたは、不思議な人ね」
「そうですか? ただのモブですが」
「殿下や騎士団長が夢中になる理由が、少しだけわかった気がするわ」
彼女は私の手を取り、立たせてくれた。
「あなたは、私のプライドを傷つけない。むしろ、私の技術や美意識を、無防備なほどに受け入れてくれる」
それは私が「何でもいいから早く終わらせたい」と思っていただけなのだが。
「私、決めたわ」
マリアンヌ様が宣言した。
その背後に、なぜか後光が差しているように見える。
「私は、あなたの『プロデューサー』になるわ」
「……ぷろでゅーさー?」
「そうよ。明日の学園祭、この私が総指揮を執って、あなたを最高に輝かせてあげる。中途半端な男たちなんかに、私の最高傑作を独占させてたまるもんですか」
【システム通知】
悪役令嬢:マリアンヌ
状態:陥落
新たな役割:敏腕プロデューサー兼ファンクラブ会長
ルート分岐:『悪役令嬢との友情(百合風味)』ルート発生
(違う! そうじゃない!)
私は頭を抱えた。
求めていたのは「いじめ」による「退場」だ。
それがどうして「プロデュース」による「センター抜擢」になってしまうのか。
私の【魅了:S+】は、敵対関係すらも「育成シミュレーション」に変えてしまうらしい。
「さあ、行くわよリナ! まずは髪のケアからよ! 公爵家秘伝のトリートメントがあるの!」
マリアンヌ様は私の腕を組み、楽しそうに歩き出した。
彼女の取り巻きたちも、「リナ様、お荷物持ちます!」「靴もお磨きしますわ!」と完全に下僕化している。
私は引きずられながら、窓の外の夕日を見た。
明日はいよいよ学園祭。
味方は増えた。
しかし、それは同時に「私を舞台に立たせようとする勢力」が増えたことを意味していた。
◇
翌朝。
学園祭当日。
快晴。雲ひとつない青空。
まさに祭り日和だが、私にとっては処刑日和だ。
1-Aの教室前には、開店前から長蛇の列ができていた。
校舎を一周するほどの行列だ。
最後尾のプラカードを持った生徒が、遠すぎて見えない。
「すごい……」
私は教室の窓からその光景を見て、震え上がっていた。
マリアンヌ様によって完璧に仕上げられたメイド服。
アリスちゃんによって施されたナチュラルメイク。
そして、クラスメイトたちによる完璧な布陣。
「準備はいいか、野郎ども!」
「おう!!」
「リナ様を守りつつ、その尊さを世界に知らしめるぞ!」
「不審者は即座に排除! ただし、リナ様が『嫌です』と言った場合は、それが『ご褒美』になる客もいるから見極めろ!」
男子生徒たちの士気が異常に高い。
もはや喫茶店ではない。要塞だ。
「リナちゃん、緊張してる?」
アリスちゃんが、フリフリのメイド服(ピンク色)で駆け寄ってきた。
彼女は本当に可愛い。これが正義だ。
「緊張というか、吐き気が……」
「大丈夫だよ! マリアンヌ様もいるし、サーブ君1号もいるし!」
足元を見ると、シリウスから送られてきた蜘蛛型ロボット『サーブ君1号』が、私のスカートの裾を掴んでスタンバイしていた。
こいつ、自律稼働してたのか。
しかも、カメラレンズが私の絶対領域を狙っている気がする。後で破壊しよう。
「開店5分前ですわ!」
マリアンヌ様が、扇子をバシッと鳴らして指示を出す。
「リナ、あなたは厨房の奥で待機。私が合図するまで出てきてはいけなくてよ。焦らし(チラリズム)こそが、客の飢餓感を煽る最高のスパイスなのだから」
「はい! 一生出てきません!」
「一生とは言っていないわ。……さあ、行くわよ!」
キーンコーンカーンコーン。
鐘の音が鳴り響く。
学園祭の始まりだ。
「いらっしゃいませー! 『アリスと不思議な森』へようこそー!」
ドアが開かれ、怒涛のようにお客様がなだれ込んできた。
悲鳴のような歓声。
注文の嵐。
厨房にいた私は、皿洗いのスポンジを握りしめ、神に祈った。
どうか、このまま平穏に終わりますように。
誰も私のことを思い出しませんように。
だが、その祈りが届くはずもなかった。
「おい、聞いたか? 第一王子がこっちに向かってるらしいぞ」
「騎士団長も一緒だ!」
「なんか、すごい殺気だって……」
厨房の入り口で、クラスメイトが青ざめている。
来た。
ラスボスたちの襲来だ。
そしてさらに悪いことに、店内の客の一人が大声で叫んだ。
「おい! リナ様はどこだ! 俺はリナ様の『虚無オムライス』を食いに来たんだ! 金なら出す! 俺の全財産と引き換えに、あの冷めた目で見下してくれ!」
それに呼応するように、他の客たちも騒ぎ出す。
「幻のメイドを出せ!」「俺も罵倒されたい!」「いや、俺は転んでオムライスをぶっかけられたい!」
カオスだ。
客層が歪みすぎている。
「……ふふ」
マリアンヌ様が、厨房に入ってきた。
彼女は不敵な笑みを浮かべている。
「リナ。出番よ」
「えっ、嫌です」
「客が暴徒化しかけているわ。鎮めるには、女神が降臨するしかないの」
「生贄の間違いでは!?」
「大丈夫。私がついているわ。それに……」
マリアンヌ様は、私の背中をポンと押した。
「あなたの王子様たちも、もう店の前まで来ているみたいよ?」
ドーン!
店の入り口付近から、爆発音のようなものが聞こえた。
おそらく、レオナルド殿下が「行列が邪魔だ」とでも言って威圧魔法を放ったのだろう。
逃げ場なし。
前門の変態客、後門のヤンデレ攻略対象。
私は覚悟を決めた(白目を剥いた)。
「……行きます。行って、散ってきます」
「行ってらっしゃい。最高のショーを見せておやりなさい!」
マリアンヌ様の声援を背に、私は震える足でホールへと踏み出した。
その一歩が、伝説の幕開けになるとは知らずに。




