第1話 転生したらモブだった。
前世の記憶を取り戻したのは、十六歳の誕生日の朝だった。
安っぽい木製のベッドの上で、私は頭を抱えていた。
ガンガンと鳴り響く頭痛と共に、濁流のように押し寄せてきた記憶。
日本で生まれ育ち、ブラック企業で事務員として働き、そして過労の末に階段から足を踏み外して人生を終えた記憶だ。
そして、ここがどこなのかも理解してしまった。
乙女ゲーム『聖と魔のレガリア』の世界だ。
私は震える手で、枕元にあった手鏡を掴んだ。
恐る恐る、鏡面を覗き込む。
そこに映っていたのは、茶色の髪に茶色の瞳。
鼻は高くもなく低くもない。
目は大きくもなく小さくもない。
肌荒れこそないが、輝くような美肌というわけでもない。
街を歩けば一分で三人は見かけるであろう、圧倒的な「村娘」顔。
私は鏡を放り出し、ベッドの上でガッツポーズをした。
「よっしゃあああああああ!!」
勝った。
これは勝った。
私の名前はリナ。男爵家の三女。
ゲームの中では立ち絵すらない、正真正銘の「通行人A」だ。
なぜこれほど喜んでいるのか。
それは、この『聖と魔のレガリア』というゲームが、恋愛シミュレーションの皮を被ったデスゲームだからである。
攻略対象である王子や騎士団長たちは、顔こそ国宝級だが、中身は地雷原だ。
ちょっとでも気に障れば処刑、追放、あるいは実験動物扱い。
ヒロインですら選択肢を一つ間違えれば即座にバッドエンドへ直行する、狂気の難易度を誇っていた。
だが、私はモブだ。
名前すらないモブなのだ。
メインストーリーに関わる要素はゼロ。
あの狂ったイケメンたちと関わる確率は万に一つもない。
「素晴らしい……なんて素晴らしいの、モブ人生!」
私はベッドの上で小躍りした。
前世では過労死したのだ。今世こそは平穏に生きたい。
適当な文官か商人の息子あたりとお見合いをして、庭で野菜を育てながら、のんびり老後を迎える。
それこそが私の目指すべきゴールだ。
明日から王立学園に入学することになっているが、それも問題ない。
この国では貴族の子女は全員、学園に通う義務がある。
だが、学園には何百人もの生徒がいるのだ。
教室の隅っこ、あるいは壁と一体化して過ごしていれば、誰の目にも留まらずに卒業できるはずだ。
「ふふ、完璧な計画だわ」
私は上機嫌でベッドから降りた。
そうだ、せっかくだからステータスを確認しておこう。
この世界には、個人の能力を可視化する「ステータスプレート」という魔法具が存在する。
モブである私のことだから、きっと能力値も「オール平均」か、それ以下に違いない。
目立たない数値であることの確認作業だ。
机の引き出しから、クリスタルの薄い板を取り出す。
そこに魔力を少し流し込むと、空中に半透明の文字が浮かび上がった。
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【氏名】 リナ・バレット
【身分】 男爵家三女
【年齢】 16歳
【魔力】 12(平均以下)
【体力】 35(平均)
【知力】 40(平均)
【敏捷】 28(平均以下)
【保有スキル】
・生活魔法(小)
・栽培(小)
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「うんうん、美しいほどの凡人!」
魔力12なんて、お湯を沸かすのが精一杯のレベルだ。
体力も知力も、特筆すべき点は何もない。
スキルに至っては「栽培(小)」だ。家庭菜園がお似合いすぎる。
これなら、王立学園の成績上位者が張り出されるランキングにも、下位者が呼び出される補習リストにも載らないだろう。
まさに「中の中」、あるいは「中の下」。
ステルス性能としては最高だ。
私は満足げに頷き、プレートを閉じようとした。
その時だ。
視界の端に、一番下の項目がチラリと見えたのは。
【特記事項】
ん?
特記事項?
モブにそんな欄、あっただろうか。
私は再び魔力を込め、スクロールバーを一番下まで下げた。
そこには、赤く、明滅する文字で、奇妙な文字列が刻まれていた。
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【特記事項】
存在感:ERROR
(判定不能によりオーバーフロー発生)
▼システム修正
強制付与:【魅了:S+】
(※解除不可・常時発動・全対象)
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「……はい?」
思考が停止した。
部屋の空気が凍りついたような気がした。
私は目をこすった。
何度もこすった。まぶたが痛くなるほどこすった。
それでも、空中に浮かぶ赤い文字は消えない。
【魅了:S+】
Sプラス?
いや、待ってほしい。
このゲームのヒロインであるアリスちゃんでさえ、ゲーム終盤でようやく【魅了:A】を獲得できるかどうかだ。
Sランクなんて、魔王か女神かというレベルである。
しかも、その横にある不穏な注釈は何だ。
『解除不可・常時発動・全対象』
「いやいやいや、ないない」
私は乾いた笑い声を上げた。
これはきっと、表示バグだ。
古いパソコンが文字化けするようなものだ。
そもそも私の顔を見てほしい。この、特徴のない村娘顔を。
これで魅了Sプラス?
冗談も休み休み言えという話だ。
「きっと、存在感がなさすぎて機械がバグったんだわ」
『存在感:ERROR』と書いてあるのがその証拠だ。
本来ならゼロに等しい私の存在感を、システムが「数値が大きすぎて計測不能」と勘違いしたのだろう。
いわゆるオーバーフローというやつだ。
前世の知識が告げている。
ゲームのプログラムにおいて、マイナスの数値を処理しきれずに、逆に最大値として認識されてしまう現象。
ガンジーが核攻撃を仕掛けてくるあれと同じ理屈だ。
「……いや、笑えない」
私は青ざめた。
もし、万が一、これが表示だけのバグじゃなかったら?
常時発動? 全対象?
つまり、呼吸をしているだけで周囲を魅了し続けるということか?
いや、落ち着け私。
鏡を見るんだ。
私は鏡を拾い上げ、再び自分の顔を確認した。
茶髪。茶色の目。平凡な鼻。
どこをどう見ても、国を傾けるような美女ではない。
やはり、ただの表示ミスだ。
この世界はゲームと違って現実なのだから、こんなふうにステータスプレートが故障することだってあるだろう。
「そうよ、気にすることない」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
明日、学園に行けばわかることだ。
どうせ誰も私になんて見向きもしない。
壁際で空気のように過ごし、休み時間は図書室の隅で本を読み、放課後は速やかに寮に帰る。
そうすれば、攻略対象たちと接点を持つことなんてあり得ないのだから。
「大丈夫。私はモブ。プロのモブよ」
深呼吸をして、ステータスプレートを机の奥底に封印した。
見なかったことにしよう。
それが一番だ。
しかし、この時の私は知らなかったのだ。
この世界における「バグ」が、どれほど理不尽で、強力な強制力を持っているかを。
そして、明日から始まる学園生活が、私の想定していた「空気のような生活」とは真逆の、「台風の目」となることを。
◇
翌朝。
王立学園の入学式。
真新しい制服に身を包んだ私は、講堂の入り口で立ちすくんでいた。
広い。人が多い。
煌びやかなドレスや礼服を着た貴族の子弟たちが、優雅に挨拶を交わしている。
さすがは王立学園。
そこら中にキラキラとしたオーラが漂っている。
だが、私は怯まない。
この日のために、私は「気配を消す歩き方」を練習してきたのだ。
背筋を丸めず、かといって伸ばしすぎず。
視線は足元より少し先、誰とも目を合わせない絶妙な角度を保つ。
足音を立てず、人の波の隙間を縫うように滑り込む。
(よし、行ける。私は今、完全に背景の一部だわ)
誰にも気づかれず、講堂の最深部、壁際の柱の陰にある席を確保する。
ここなら壇上からは死角になるし、前には背の高い男子生徒が座っている。
完璧なポジショニングだ。
「……おい」
不意に、頭上から声が降ってきた。
低く、艶のある、よく通る声。
背筋がゾクリとした。
まさか、私に話しかけているわけではないだろう。
私は壁だ。柱のシミだ。
反応してはいけない。
「おい、そこの茶髪の女。聞こえているだろう?」
無視を決め込もうとした私の目の前に、誰かが立った。
周囲の空気が一瞬にして張り詰めるのがわかる。
ざわめいていた講堂が、シンと静まり返った。
恐る恐る、顔を上げる。
そこにいたのは、太陽のように輝く金髪と、宝石のような碧眼を持つ美青年だった。
豪奢な礼服をラフに着こなし、不遜な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
レオナルド・アークライト。
この国の第一王子であり、攻略対象その1。
通称「俺様王子」。
(なんで!? なんで見つかったの!?)
私のステルススキルは完璧だったはずだ。
しかもここは最果ての壁際だぞ。
王族がわざわざ来るような場所じゃない。
レオナルド殿下は、私の顔をじっと覗き込んだ。
値踏みするような、それでいて獲物を見つけた猛獣のような目だ。
「入学式が始まろうというのに、こんな隅で縮こまっているとはな」
彼はフンと鼻を鳴らした。
その態度は傲慢そのものだが、周囲の女子生徒からは「キャーッ、殿下がこっちを見てるわ!」「素敵……!」という黄色い声が上がっている。
いや、私を見ているのだ。睨んでいると言ってもいい。
逃げたい。
今すぐここから逃げ出したい。
関わったら終わりだ。
私の平穏な老後プランが、入学初日にして崩壊の危機に瀕している。
私は必死に思考を巡らせた。
ここで何か気の利いた返しをしてはいけない。
「おもしれー女」判定されたら即終了だ。
かといって、無礼な態度を取れば不敬罪で首が飛ぶ。
正解は、「恐怖に怯える小動物」だ。
怯えて、言葉も出ないフリをして、彼の興味が失せるのを待つ。
それしかない。
私はガタガタと震える演技をしながら、サッと視線を逸らした。
殿下の顔など見ていません、私はただの石ころです、というアピールだ。
頼む、行ってくれ。
ヒロインのアリスちゃんを探しに行ってくれ。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
やがて、レオナルド殿下の口から、信じられない言葉が紡がれた。
「……ほう」
え?
「俺と目が合った瞬間に、媚びることもなく、恥じらうように視線を逸らすとは」
はい?
「地位や権力に群がる有象無象とは違うようだな。身分差をわきまえ、影に徹しようとするその謙虚さ……」
殿下の瞳が、怪しく揺らめいた。
心なしか、頬が紅潮しているように見える。
「悪くない。いや、むしろ……そそる」
(はあああああああああああ!?)
私は心の中で絶叫した。
待って、解釈がおかしい。
今の態度のどこをどう切り取ったら「そそる」になるの?
ただビビって目を逸らしただけじゃない!
「名前は?」
「えっ、あ、ひっ……」
「ふん、怯えているのか。まるで小鹿のようだな」
殿下は長い指を伸ばし、私の顎をクイッと持ち上げた。
至近距離でイケメンの顔が迫る。
整いすぎていて怖い。
バグった心臓が早鐘を打つ。
「逃げるなよ? 俺は、逃げる獲物ほど追いかけたくなる性分でね」
彼はニヤリと笑い、私の耳元で低く囁いた。
「後で生徒会室に来い。……命令だ」
そう言い残し、レオナルド殿下は踵を返した。
マントを翻して去っていく背中に、講堂中の視線が突き刺さる。
そして、その視線はすぐさま私へと移動した。
「あの子、誰?」「殿下に話しかけられてたわよ」「なんか地味じゃない?」
ひそひそとした囁きが、波紋のように広がっていく。
私は椅子の上で灰になった。
終わった。
入学式開始前にして、私の「モブ計画」は終了した。
なぜだ。
なぜあんな解釈になる。
どう考えてもおかしいだろう。
その時、私の脳裏に、昨夜見たあの赤い文字が点滅した。
【魅了:S+(強制発動・解除不可)】
「……まさか」
冷や汗が背中を伝う。
この「魅了」とは、単に好きにさせるだけではないのかもしれない。
私のあらゆる行動を、相手にとって「都合の良い最高のアクション」として脳内変換させる、悪魔の呪いなのではないか。
私が目を逸らせば「慎ましい」。
私が黙れば「思慮深い」。
私が逃げれば「追いかけたい」。
もしそうなら、詰んでいる。
何をしても好感度が上がる無理ゲーじゃないか。
「う、嘘よ……こんなの嘘よ……」
絶望に打ちひしがれる私の耳に、入学式の開始を告げるファンファーレが虚しく鳴り響いた。
こうして、私の「絶対にモブでいたい」というささやかな願いと、世界による「絶対にヒロインに仕立て上げる」という巨大な悪意との戦いが、幕を開けたのだった。




