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E08 —— 残された名を確かめ、貼らない約束

朝の湯は火をつける前に、まず静かに聴くほうがいい。ガスのチッという点火音が空気を裂く前に、部屋の薄い息を数えると、今日、口からこぼれる言葉の尺がおおよそ見積もれる。

今日は4-4-6——四拍吸って、四拍つかまえ、六拍長く吐く——が大きくは揺れなかった。

ノートを開き、昨夜の最後の点の下に一行を置く。

「今は——残された“名前”を確かめる。そして——私から先に貼らない。」

句点が触れると、胸の内で**……アがごく短くきらめいて消えた。ラもウも続かない。“呼ばない”**という今日の約束を、身体が先に理解したのだろう。


水族館の午前は、いつもと変わらない。ユナはキャンディの袋をトントン叩きながら、昨日の冗談を繰り返す。

「最後まで読む子は、途中で糖が切れるからね」

私はひとつだけ受け取り、舌にのせた。ペンギンの餌を用意しながら、MSDS(安全データシート)で習った警句をゆっくり復唱する。

甘い匂いがかすめたら二歩後退——正面禁止——横目で確認——最後まで読む。

水族館の規則と図書館の規則は、違う意味を持つ同じ文を共有している気がする。意味が重なるほど、身体は安心する。同じリズムを繰り返すあいだに、異物は異物でなくなる。——それが訓練だった。


退勤印を押してBブロックへ渡る時、ポケットのラミカードの角を親指でコツと押す。

二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線。

五行が指先で整うと、心も整う。ロビーのガラスに薄い曇りが一刷毛。正面で見れば、ただの曇り。階段前のチョーク線は、昨日と同じ角度でだけ現れては消えた。


地下の廊下に降りると、ミホが薄いバインダーを差し出す。表紙には、〈名前復権——基礎〉。昨日手書きで見たチートシートを整版したものだ。

冒頭に太字で三行。呼称の確認——自己呼称の誘導——“本当の名前”の復権(在るなら)。

その下に小さな字。強制禁止/質問優先/結論は明日。

私は無意識にうなずいた。


「今日は現場協力が一つ追加です」

ミホが裏表紙をめくる。

港湾庁・分館——Bブロック保存部門とのパートナーシップ(3年)/夜間巡回ログの閲覧協力条項。

「法的にわたしたちが問える範囲と、どこまで覗けるかの線が明確。だから今日は昼は行政照合、夜は聴取と“名前”確認。どちらも協約の内側です」


「じゃあL?の表記も、今日訊くんですね」

「ええ。Lが呼出符号なのか、人のイニシャルなのか、地名の略なのか。まず呼称の領域で問い、自己呼称が出たら保留を外す」


後ろからチュンベが無線の真似で割り込む。

「圧4.8。今日の外気湿度、67。レッドライン維持。コンマは六。」

顎で階段を示し、私を見る。

「海風は語尾をさらっていく。語尾はしっかり、文は短く」


ラベリング室の前で、昨日見つけたボタン半分の袋と白い半粒の袋を席に並べる。二つの袋の下に赤い点を一つずつ貼り、ラベルの呼称欄を確かめる。ボタン(半)/ピン(半)。

ミホが私の手首の動きを目で追い、低く言う。

「自分の物で自己呼称を練習した人は、現場で揺れない。今日はハルさんが“言葉のパス”。私は技術ログと行政照合を支える」


「じゃ、現場から」

私は語尾を最後まで握る稽古を心の中で反復し、ラミカード裏を舌先で湿らせる。

「今は——聞くが、ついていかない。」

言葉が奥歯からすっと離れたら、あとは整えた手順が動く。言葉を先に座らせ、手順が付く順序。


港湾庁・分館は昨日と同じ匂い。塩水は帳簿を開けて待っていた。名札の文字は油気と塩気の間で光る。

「昼は照合室からでいいですか?」塩水。

「ええ。人員変動の『ルシア』項目全部」ミホは即答。「夜は聴取区画へ」


照合室の蛍光灯は、昼の色温度に交換されていた。塩水が帳簿の裏章を手短になぞる。

ルシア(岬)=地名。ルシア(見習い)=呼称(人)。L=区画の呼出符号、または仮のコール。

制限線を指でコツと叩く。

「個人情報に入ると線を引きます。代わりに呼称と地名の範囲ではできる限り説明します」


私はうなずき、昨日撮った写真と今日の帳面の字圧を斜めで重ね見する。

ルシア(岬)のルは機械的に一定、ルシア(見習い)のルは鉛筆芯が二度押されている。消して書き直した痕。消しゴム屑は飛んでも、黒鉛が紙繊維の中に艶のように残っている。

「“なし”を書けずに“点”を打った手、“保留”を書く筆圧。最後まで書けずに、席だけ残した誰か。」


「この点は報告書に入れます」ミホがファイルに書き写しながら言う。「記録者は“なし”の代わりに点を置いた。その点は空白じゃなく抵抗」


午後の海は、昨日より一段明るい銀。防波堤の聴取区画のゴムパッドは、今日は厚い新品に替わっていた。

「昼は船が多くて、振動が“言葉”を食う。でも色が増える。録音層が幾重にも上がってくる」塩水。

昼の再生では、昨日と同じく**“間”が空白のまま。挿入文は来ない。

「昼は安全**」ミホが短くまとめる。「夜にもう一度」

塩水は肘を欄干に置き、風を鼻で吸って吐く。

「日が落ちると船が減って、“手”が増える」

「手?」

「人の手じゃない」片目をつぶる。

「風の手、水の手、言葉の手。空白を撫でる手」


照合室に戻り、夜間巡回ログを検める。扉裏の一枚目、昨日目に刺さった小さなLの痕。L—と軽く書いて消した跡の隣に、ルシア岬の行。

塩水が少し照れた顔で説明する。

「夜の巡回で、現場リーダーが区画のコールを書くことがあるんです。『L-岬』みたいに。風が強くて塩気が高いと無線が死にますから、紙に先に書いて後で帳簿に移植。LはそのLの可能性が高い」

「なら人の頭文字ではない可能性が高い」

「可能性だけ。確定は保留が正しい」

塩水の語尾は揺れない。角度を失わない人同士は、角度の話をせずとも通じる。


夕まぐれ、風の性質が変わる。防波堤にもう一度立つ。

チュンベが赤い線を二本から三本に増やす。

「夜は語尾をもっと握れ」

彼はリボンを結ぶみたいに線を引く。欄干のゴムパッドが風をトン、トンと受け止める。


再生機の前で、私は先に一行を敷く。

「今は——聞くが、貼らない。そして——名前を問う」

語尾に触れると、風が一瞬止まってまた吹く。

塩水がうなずき、微振動カットのスイッチを落とす。

案内音声。

「海霧警報——視程600——入出港遅延の勧告——灯光明度は良好——」


“間”。昨日より長い。空白に見えた座に、甘い匂いがごく薄く滲み、消える。

塩水がスピーカーグリルを親指ですっと撫で、スイッチをもう一度押す。

波が石にコツと当たる。

そのタイミングで、滑り込む文が貼り付いた。


「——あなたの小さな“声”が必要です——」


ミホが私の肘をトンと軽くつつき、線を指す。

私は半歩出ていた足を、レッドラインに引き戻し、二歩下がってコンマ六を数える。

質問の番を待つ。安全なのは、呼称から始める順。


「ルシア」

私は正面ではなく水の横へ静かに問う。

「ここはルシア岬。わたしたちは今日、ルシア(岬)とルシア(見習い)の境を見に来た。呼称を確かめる。合っているなら点を一つ、違うなら沈黙」


言葉が最後まで届く間、風は再生機と欄干を交互に揺らす。

波がもう一度石を打ち、ゴムパッドがピッ、ピッと低く二度鳴る。

塩水が私の息の拍に合わせて囁く。「一回——二回——よし」


「自己呼称」

今度はミホが引き継ぐ。

「誰であれ、何であれ——自分で現せるなら音でも記号でも。強制はしません」


その言葉が水の上に沈む時、三人の感覚が別々の経路で似た一点に触れた。

私の舌の根で回る母音、ミホの息の糸が折れる半音、塩水の手の甲の産毛が瞬間立つ感覚。

三つが合わさり、合になる。


……ル——

——シ——

——ア。


誰も声には出さない。貼った瞬間、剥がれることを、昨日落とし物室で学んだから。

代わりに、席のメモカードに記す。

自己呼称——「ル・シ・ア」——発話者なし——感覚の一致——確定は保留。

ミホが目だけで小さくうなずく。塩水は欄干をコツと叩き、言う。

「ここではこう現れます。古い灯台日誌では、これを**『歌の欠片』**とも書いた」


「歌の欠片と**“声”は違う?」私。

「歌の欠片は『残されたもの』、声は『求められたもの』」塩水。

「欠片は席がある時だけ座る**。声は空白を奪って入ってくる」


あまりに的確で、だから居心地が悪い説明だった。

私はポケットの白い半粒を思い出す。落とし物室の**“半分”たちは、残されたものに近い。

今日、堤で上げたボタン半分も同じ。

半分が増えるのは、残された席が増えているからか。

それとも奪われた席を埋めるため、周縁がはがれて流れ着く**のか。

どちらにせよ、安易に“名前”を貼るべきではない。貼った瞬間、誰のものかが変わる。


「名前復権、踏み込む?」ミホが目で問う。

「今日は半分だけ」私は先に線を引く。

「呼称の確認——自己呼称の確保。本当の名前は明日、落とし物室の席で」


「賛成」彼女は即答する。

「夜は要求が風に乗って運ばれる。歌の欠片なら昼でも座れる」

「じゃあ今夜は記録まで」塩水が再生機を止める。「それから報告」


片付けにかかった瞬間、ポケットでスマホが小さく震えた。

見慣れた簡易アンケート。

〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉——Q5. 今この場で“安全な結末”を望みますか? 音声入力なしで可。

画面中央を赤い線がきわ細く、しかし二度すっと走る。

予測変換みたいに親指が「はい」に乗りかけたのを、私は二歩ぶん遅らせ、コンマ六を二回重ねた。

そして入力欄にゆっくり打つ。

「今は——いいえ。」


送信に合わせて風が向きを変える。

塩水が私の肩越しに画面をちらっと見て、気のない調子で付け足す。

「このところ港周辺の番号を一巡してる様子。夜はもっと来ますよ」

「夜は“要求”が多いから」ミホが短く合いの手。

「でも今日は文が先。自己呼称は確保、呼称は確認、本名は——」

「明日」私はもう一度語尾を座らせる。

耳の奥で**……アがかすかに揺れ、ラが遠くでつきそうでつかない。私はその先を保留**。


分館のドアを出るところで、塩水が呼び止める。

「もうひとつ」

作業台の引き出しから古いカセットを取り出す。ラベルには**「該当なし——雑音」と鉛筆書き。

「数年前、海霧がひどい日の残りです。報告書には“雑音”**で入った。でも……」

口角を少し上げる。

「あなた方の“聴き方”なら、雑音じゃないかもしれない。明日の昼、部屋の中ではなく——水のそばで」


ミホがカセットを受け取り、うなずく。

「協力に感謝。アンカー接近に合わせて明日確認します」

「では、夜間巡回の草稿は今夜中に上げておきます。点と**“間”と声が同時に出た記録は珍しい**。面白いですね」


帰りのバスで、私はジッパーファイルに入れたボタン半分と白い半粒の角を親指で触れる。ビニール越しでも艶の手触りが伝わる。

ガラスの濡れない水じみを拭う時と同じ感覚。正面で見なくても在ると知れる艶。

演劇部で学んだ最後までと、相談室で学んだ一行が、どの場でも同じリズムで働くことが、薄く安堵をもたらす。新しい世界というより、長く使ってきた世界の別の層。


Bブロックの照合室で、今日の報告を整える。

聴取位置——防波堤——レッドライン三重——微振動カット使用。

A-18——挿入文「あなたの小さな声……」は“夜のみ”明瞭。

夜間巡回ログ——ルシア岬——L表記——区画の呼出符号の可能性高(確定は保留)。

人員変動——ルシア(見習い)保留——消しゴム痕——点表記=記録者の抵抗。

ミホが最後の紙に小さなチェックを入れ、ラベルを印刷。

「歌の欠片——明日照合——分類未定」


落とし物室へ降り、白い半粒とボタン半分を席に並べる。二つの艶は、互いを覚えているみたいに似ている。

私は二つの呼称の下に、**同じ大きさの“点”**を一つずつ打つ。確定保留。

ミホが黙って見守り、低く言う。

「ハルさん」

「はい」

「今夜は……夢の中でも“貼らない”」

「はい。今は——保留」


退館サインを済ませ地上へ。ロビーの自動ドアのガラスに、長めの“間”みたいな曇りが一度。

それがただの曇りだと分かる分だけ、名前では呼ばないほうがいい。

外へ出て、信号待ちのラインに靴先を合わせ、最後の一行を選ぶ。


「今は——記録を閉じる。そして——明日、“残された欠片”が指し示す“名前”を聴く。」


句点に触れると、胸の奥で**……アが一度、浅く鳴いた。ラもウも続かない。それが正確だ。

結末は強いない。今日は席を増やすだけ。

明日——水のそばで、「雑音」と記されたテープを聴き、歌の欠片と声の境**をもう一度問う。

そしてその時でさえ——私から先に貼ったりはしない。

遠くでも、扉は相変わらず、静かに息をしていた。

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