E07 —— 質問を先に座らせ、夜の名を待つ
朝はお湯を沸かす前にノートを開いた。灰色の表紙、角が擦れて紙がふくらんだやつ。中学の頃から積み上げてきた語尾つなぎと今日の一行が詰まっている。
最初の余白に質問リストを書く。
「ルシア」──人名か、地名か、呼称か。
「点」──誰が、なぜ「なし」の代わりに点を打ったのか。
「声」──いつから挿入され、誰が、何を対価に求めているのか。
質問を先に取り出すと席ができる。席ができれば遅れが減る。相談室の先生に教わった順序だ。
洗面台の前で4-4-6をもう一度。四拍吸って、四拍つかまえて、六拍長く吐く。
息が語尾に触れたとき、胸の奥で小さな**……アがきらっと点る。昨夜より短い。短いのは大抵いい兆し──今日の言葉を最後までつかめるという意味。
一行を取り出す。
「今は——質問を定める。そして——水のそばで確かめる。」
句点にラが低く遠くで続く。次の音は保留**。現場でつけても遅くない。
水族館の朝の事務室、冷蔵庫の上に昨日ユナが投げてくれたブドウ糖キャンディの袋が開いたまま置いてある。ひとつ口に放り込み、質問リストの末尾だけ彼女に見せた。「声——誰が——対価は何」。
ユナは腕を組んで首をかしげる。
「最近のあんた、台本みたいだね。『誰が、何を、なぜ』」
「公演の段取りみたいに頭で順番を組むと、現場で遅れが減る」
「よし、公演なら客はわたしがやる。で、“声”を対価って? どのミュージカル?」
「もし……“声”が“保証契約”の担保だとしたら?」
「それ、詐欺だよ。言葉がなきゃ言葉にならないじゃん」
ユナは私の肩を手の甲でコツと叩く。
「最後まで読んでおいで。語尾が流れたら、あんたが詐欺られる」
ペンギンの餌の時間に合わせて小サバを塩水にくぐらせながら、MSDS(安全データシート)で聞いた警句を上から下まで復唱。
甘い匂いは誘惑の信号になり得る → 匂いを追うと作業者の判断がにぶる → 甘さをかすめたら二歩後退。
図書館で使う言葉と水族館で使う言葉が、妙に互いの席を埋めていく。もしかしたら同じ世界の別の層なのかもしれない──と思いかけて、保留に回し、餌バケツの蓋を閉めた。
退勤のハンコを押し、Bブロック側の横断歩道を渡りながら、ポケットのラミカードの角を親指で押す。
二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線。五行が指先で整列すると、心も整列する。
ロビーのガラスにきわ薄い曇りがひと刷毛。正面だけ見ているから、曇りはただの曇りだ。
地下へ下りる前、ミホが廊下で待っていた。今日はクリップボードではなく薄いバインダーを持っている。表紙には**「名前復権——基礎」。私が顔を上げると、彼女は短く笑った。
「今日は質問しに行きましょう。ただ、その前に“名前”の手順から。無理に貼ると、名前は逃げる」
「ルンペル──」
「昔話もあるけど」彼女は軽く言葉を押して消す。「現代保存のトーンでやる。手順は三行**。
呼称の確認 → 自己呼称の誘導 → 本名の復権(もし在るなら)。
そして原則はひとつ──強制は禁止。対象が自分で言う/示すまで待つ」
バインダーの内側、チートシートを開いて見せる。手書きのチェックが三つ。
① 呼称:貼られた名前(ラベル/慣習)の確認。
② 自己呼称:対象が自分で出す音/記号。
③ 復権:記録台帳に貼り返す「名前」──選ぶのは対象。
下段、手書きの大きな一行。
「今は——[質問]。結論は明日」
思わず笑ってうなずく。
「やってみましょう」
ミホに連れられて落とし物室へ。透明袋の中の白い半粒は今日もおとなしく座っている。隣の袋にはボタン半分、指輪半分、ガラス玉半分──半分ものがやけに多い。
彼女が私のピンの袋を指す。
「練習は自分の物が一番安全。呼称は昨日わたしたちが貼った、『ヘアピン(未分類)』。呼称の確認は完了」
「じゃあ自己呼称」
「ええ。一行で席から」
袋を席に置き、ラミカードの裏を舌先で軽く湿らせ、ごく低く声を出す。
「今は——名前を問う。そして——私から先に貼らない」
語尾を握り、耳を袋に近づけず、正面禁止を思い出しながら横目でだけ光の艶を見る。
照明がビニールを抜け、半粒の表面で薄く回る。濡れない水じみの艶と同じ目。
そのとき──ないはずの音が、鼓膜ではなく舌の根に先に触れた。
……ル──舌先のシが崩れ落ちるように付きかけては離れる。
……ル——シ——
私はそっと手首を握って止める。
今は——貼らない。方向のない音を私の方向へ引っ張るのは強制。
その瞬間、袋のビニールがチッと微かに鳴り、艶が半周回った。
それを自己呼称として記録する。
「自己呼称——『ル・シ』音節近似——確定は保留」
私のメモを読みながらミホがうなずく。
「いい。現場でも同じく『確定保留』を多用する。名前は関係だから。関係は片方が貼るとずれる」
「つまり現場でも**“私から先に貼る”は禁止**」
「そう。だから質問リストが必要で、それを先に座らせたハルが今日の言葉のパスを持つ」
言葉のパス。演劇部で舞台監督が使っていた語。流れを握り、合図を打つ人。
昨日から、演劇と言葉の保存が相互翻訳できると分かって、少しずつ安心している。新しい言語ではなく、ずっと使ってきた方言だ。
地下で名前復権——基礎のブリーフィングを終え、港湾庁 分館へ。バスの窓の外、銀色の手すりが等間で流れる。正面だけ見るのは最初こそ無理矢理だったが、今は規則が筋肉になってきた感覚。窓の外に薄いもや。海霧まではいかないが、夜は濃くなりそうな気配。舌先から一行が勝手に上がる。
「今は——昼の記録。そして——夜で照合」
隣のミホがほんの少し眉を上げる。
「いい。今夜は夜間巡回ログも照合しよう」
分館の塩水は今日も語尾を滑らかに座らせる。
「午前は渡船、午後は受信機の点検。夜から巡回です。その時、聴取区画もう一度使ってください。風が変わる」
「まず名前から」ミホが照合室を指す。「昨日見た人員変動報告。『ルシア』項目ぜんぶ」
塩水が帳簿の末尾を出す。月ごとの変動表、下段に個人情報の閲覧制限。
制限行を指でコツと叩く。
「個別名の対照は難しい。けど呼称と地名の混用は説明できる」
片側の欄には**『ルシア(岬)——灯台近くの岩礁地形——現地語で“光の枝”』、もう片側には『ルシア(見習い)——契約乗船予定——気象で保留』。
「どっちもルシア」
「そう。こっちは地名であり呼称**。古い文書では灯台をルシアと呼ぶことも、その周りの岩礁もルシア。人名のルシアも時々ある」
「つまり──」ミホが私の問いを整える。
「今日確かめるのは、『ルシア(見習い)』が“人”なのか“呼称”なのかの境界、そしてその境界で**『声』の文が入り込んだ時点**」
私は静かに一行。
「今は——境界を確かめる。そして——名前は貼らない」
言い終えるのと同時に、塩水が素早くうなずく。手順を理解した人の頷き。
午後の海は硬い銀に光った。昼の聴取区画でカートリッジを一度再生。昼の風では**“間”が空白**。『あなたの小さな——』は昼には出てこない。
ミホが風の道を読みながら簡潔にまとめる。
「昼は挿入がほぼない。夜になるほど挿入率が上がる。甘い匂いも夜の方が多い。だから夜に照合」
塩水が同じ意味を自分の語で重ねる。
「夜は船が減って、“手”が増える」
「手?」
「人の手じゃない」塩水は片目をウィンク。「風の手、水の手、言葉の手。空白を撫でる手」
冗談にしては文が正確すぎた。空白を撫でる手。
“点”は空白に打たれた抵抗かもしれない、あるいは招待かもしれない。
「なし」ではなく点を打つなら、“何か”を認めつつ席を空けたことになる。
そこへ契約の言語──「保証」「声」──が入ってくるなら、それは事故ではなく意図に近い。
日が斜めに落ちるまで行政照合を終えた。
A-17/A-18の日付の入出港報告、海霧警報の伝達、灯光明度の調整ログ。
最後に夜間巡回ログの薄いバインダー。紙色は低照度の黄を長く含んだ。
扉裏の一枚目に鉛筆で「巡回——ルシア岬——レッドライン補強」。
同ページの右上にごく小さく筆記体の『L—』が書かれて消えた痕。そこに目が止まる。
「このL—」
「コールサインかもしれないし、人名のイニシャルかもしれない。どっちもルシアの頭文字」塩水。
「確定は保留。夜、現場で問う」
夕焼けが海で速く干渉する。防波堤の聴取区画へ戻る。手すりのゴムが一枚増え、チュンベが赤い線を二本に増やす。
「夜は風向きが変わる。語尾を強くつかめ」
それから目で合図。
「今日の言葉のパスはお前。一行」
「今は——聞くが、貼らない。そして——名前を問う」
夜風は昼よりしょっぱく、喉の奥を軽く掻いた。
再生機から案内。
「海霧警報——視程600——入出港の遅延勧告——灯光明度は良好——」
そして**“間”。昼より長い**。
その空白へ甘い匂いが先に入る。
塩水がスイッチをコトン。微振動カット。
波が石をコツと打つ。
舌先に浮かぶ**……アをあえて押し潰して保留**。空白を私の言葉で埋めたら“貼る”ことになるから。
「——あなたの小さな声が必要です——」
今度は**「声」の「え」まで無事に出た。
私の足がレッドライン内側で二歩分前へ出る。
チュンベがすばやく肩をコツ**。
「線、線」
私は半歩下がる。言葉の語尾が私の足を持って行こうとする時、線が足をつなぐ。
ミホが低く言う。
「名前」
質問の番だ。
ラミカードのペンダントを親指で押す。口の中に一行を作って、先に席を敷く。
「今は——名前を問う。そして——私から先に貼らない」
言葉を出した瞬間、再生機の向こうの風の音が微妙に変わる。
誰かが耳元で囁くんじゃなく、水の上を回ってくる調子。
私たち三人は同時に正面を避け、横目で手すりの下の艶だけを見る。
水は黒く、艶は薄く、何かが半周回る。
……ル——
私だった。舌の根が先に聞く。
……ル——シ——
ミホだった。彼女の息の糸が半音低く反応。
……ア。
最後は塩水。鼓膜ではなく、帳簿をめくる指がごく薄く震えた。
三つの感覚が重なって、三音節がひとつの語にゆっくり座る。
ル・シ・ア。
それでも私は声に出さない。貼った瞬間に剥がれるのを見てきたから。
代わりに小さなメモカードに書く。
自己呼称——「ル・シ・ア」——三人の合で確認——発話者なし——確定は保留。
さらに一行。
「今は——記録する。そして——結論は明日」
その時、手すりの下でチッとまた鳴る。波が石を打つ音と違う、薄く鋭い金属のこすれ。
塩水が外側を指さす。レッドラインの外、石と石の隙間で小さな煌めきが刺さっている。
私は正面を避けて横目でだけ確認し、チュンベを見る。
彼は小さくうなずく。
「トング」
内側から長いトングを伸ばせば届きそうで届かない。
チュンベが私の手首をつかみ、レッドライン内の位置を微調整。
「線は、割らないから線」口ではふざけても、目は巻尺みたいに正確。
三回の空振り。四回目で金属がトンとトング先に引っかかる。
ゆっくり席へ引き上げる。
透明袋の上に置くと、それは小さなボタンの半分。
海から上がったとは思えないほど濡れておらず、表面に薄い艶。
袋の呼称欄に**「ボタン(半)」と書きかけて、ペン先が一瞬止まる。
昨日の白い半粒**、今日のボタン半分──半分たちが集まってくる。
塩水がこちらを見る。
「ここのところ、こういうのが増えてます。指輪半分、ボタン半分。どれも濡れない」
「保管と記録は私たちで」ミホが即座に袋を閉じ、席を作る。
「呼称は**『ボタン(半)』。自己呼称──今日は保留。強制は禁止」
「そして名前は——明日**」
私はもう自然に続ける。
帰り際、塩水が入口まで送ってくれ、付け加える。
「“声”という語は昔の灯台日誌にも出てきます。もっと古い文書では**『歌の欠片』とも」
「歌の欠片」ミホが受ける。
「それは……“声”とどう違うんです?」私。
「歌の欠片は“残されたもの”の感じ、声は“求められたもの”の感じ」
塩水は宙に点をひとつ**打つ。
「点と似ています。誰かが席を残したときだけ、欠片は座る。誰かが求めたときは、声が奪われることもある」
その言葉を正面から受け取り、心の中で一行。
「今は——残されたものを先に見る。そして——求められたものは遅く問う」
質問の順序が決まった安堵が、少し遅れてへそのあたりに座る。
Bブロックへ戻ると、ラベルプリンタのドラムがタタッと今日のリストを吐き出す。
〈夜間聴取——挿入文確認——間/甘匂/波衝撃〉、
〈夜間巡回——ルシア岬——レッドライン補強——L?〉、
〈落とし物——ボタン(半)——艶/濡れなし〉。
ミホは一つずつ小さなチェック。
「今日は記録。結論は——」
「明日」私も語尾を一緒に座らせる。
退館サインをして、落とし物室の白い半粒の袋をもう一度見る。
隣に今届いたボタン半分の袋。並んでお行儀よく。
二つの艶はよく似ていた。
手を上げかけて、下ろす。強制は禁止。名前は自己呼称が先。
代わりにラベルの呼称の下に小さな点を打つ。確定保留。
振り返ると、ポケットのヘアピンがコトンとごく軽く二度鳴る。
……ア——ラ。
今日はウはつかない。名前を貼る日ではないから。
外へ出ると、スマホが短く震える。
〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉──今日の文はさらに短い。
Q4. 今、“安全な結末”を望みますか? 音声入力なしで可。
画面の中央を赤い線が一度すっと。
予測変換みたいに親指が「はい」に乗りかけるのを、私は二歩ぶん遅らせ、コンマ六をもうひとつ足す。
そして入力欄にゆっくり打つ。
「今は——いいえ。」
送信が飛ぶと、胸の奥で**……アが低く一度鳴き、消えた。
ラも、ウもつかない。
今日は名前を問う日**で、名前を貼らない日。それが正確だ。
家路、横目は一度も使わない。
風がうなじを涼しく抜け、街灯の下の曇りはただの曇り。
玄関前で最後の一行を取り出し、今日の言葉を席に座らせる。
「今は——記録を閉じる。そして——明日、残された名前を確かめる。」
句点に触れたとき、とても遠くで波が一度。窓のない廊下で聞こえるはずのない音。でも驚かない。
私の質問が、明日の席を作る──それを知っている。
使い古したノートを机に置き、最初のページをめくって**最後の文の下に小さな“点”**をひとつ。
確定保留。強制禁止。
灯りを落としてそっと付け足す。
「明日は——誰が“名前”を先に走らせたのかを問う」
遠くでも、扉は相変わらず、静かに息をしていた。




