E06 —— 水辺の再生と〈点〉
外勤の準備は前夜のうちに終わらせた。手袋、ジッパーファイル、小さなヘッドランプ、ラベルプリンタ用の携帯バッテリー、透明ポケット数枚、そしてラミネートカード。鞄の重みを左右の肩に均等に分け、玄関を出る。エレベーターの鏡の前で4-4-6をもう一度数え、昨夜決めた一行を静かに口にのせる。
「今は——準備した。そして——水のそばで聞く。」
語尾が着地したとき、胸の奥で**……アがとても低く一度だけ鳴り、その先は保留**した。質問は現場で。
Bブロック前に集合すると、チュンベは既に現場用の無線機・簡易差圧計・騒音計・携帯湿度計を肩紐にずらりと吊っていた。ミホはいつもより動きやすいパンツに防水ジャケット。私の装いを一瞥し、つば広で薄手の帽子を放って寄越す。
「海風は思った以上に“語尾”をさらっていく。頭上に風よけがひとつあると、少し持っていかれにくい」
「今日は……聞いて、照合して、保留?」
「正確」ミホが私のラミカードの角を親指でコツと弾く。「それと今日は初めて使う手順がある。アンカー接近。簡単に言えば**“物をその持ち場の近くで聞く”**作業」
バスで港湾庁 分館まで40分。窓の外は正面だけ見ながら、ミホにもらった現場ログ略語集の薄い章を流し読む。「アンカー接近——元の位置での確認が有効」の文言が目に引っかかった。例:ヒバリの巣の羽、山道の案内板の落書き、河岸の標杭。理由が三つ添えてある。
一、技術的理由——録音・記載環境の物理値が近いほどノイズの復元が進む。
二、行政的理由——記録物の認証手続きが元位置に紐づく。
三、言語的理由——言葉は自分の席を覚えている。
三つ目を読んだ私の顔が明らかに変だったのか、ミホが低く付け足す。
「三つとも使う。でも報告書には上の二つだけを書く」
「じゃあ最後は……チームのあいだの言い回し」
「ええ。でもハルには言っていい。角度を失わない人だから」
分館は防波堤のすぐ脇に建っていた。半分は記録倉庫、半分は作業室、地上階にはブイ・灯具交換の部材が並ぶ。スライド式のシャッターをくぐると、海の匂いが薄く鼻を打つ。しょっぱいのに、刺さらない。空調の効いた室内でも、風には確かに塩が混じっていた。私は顔を上げず、床の境界テープだけを正面で拾う。赤のチェック。チュンベが肩越しに言う。
「現場のレッドラインは柄で意味が違う。格子は『可動物』の境界、実線は『人』の境界。今日は両方使う」
分館の担当者が作業ズボンの胸当てを引き上げながら挨拶してくる。名札には**「塩水」。私の記憶のどこかで、その名が一瞬きらり**と光る。塩水書記。以前ミホがこぼした、語尾の滑らかな声の持ち主はこの人か。彼は私の視線に気づいたらしく、冗談めかして言った。
「ここじゃ何でも塩水に浸して上げるとよく回るんですよ。紙でさえ……いや、冗談ですけどね」
ミホが公用の調子で受ける。
「オーディオ・カートリッジのバックアップ確認で来ました。A-17とA-18。ラベル照合と現場再生は屋外で」
「了解」塩水は帳簿を開き、該当の二つに赤ペンで✔︎。
「照合室と防波堤側の聴取区画、開けます」
帳簿を見ていても、彼の語尾はきちんと座る。癖のように。私とミホは目だけでうなずき合った。言葉を席に座らせる人は、ここにもいる。
まず照合室でA-18のカートリッジの外観を確認。プラのハウジングに微細な白いスクラッチ、ラベルのフォントはBブロックと同一。塩気のせいか、プラ表面にまた濡れない水じみの艶がかすめる。横目が出そうになるところを手首で制して止める。正面。今日は外が職場。
防波堤の聴取区画は膝高の手すりと足元のレッドラインで示されていた。塩水が手すりに防振ゴムを貼りながら言う。
「水際で聞くと、元からあったノイズが選択的に浮くんです。海霧警報は風・水分・カモメ・衝突の層に乗る。室内だと拾えないものが、ここでは引っかかる」
「機材の用意は?」ミホ。
「はい。塩害シールド再生機。防水。機材は手すりの上だけ。レッドラインの外へ絶対に出さないで」
チュンベがラインの手前にチョークで短い線をもう一本。
「外は風が語尾をさらいやすい。語尾を強くつかまえろ。それと——一行」
私は再生ボタンを見る前に、先に自分の席を作る。
「今は——聞くが、ついてはいかない」
語尾が着地した瞬間、海風がまるでその文を越えないと約束するみたいに、一瞬止んでからふたたび吹いた。錯覚かもしれない。でも今日は錯覚も記録する日だ。
塩水が再生機の電源を入れる。テープの回転音はほとんど聞こえず、代わりに薄い風膜がスピーカーを先に叩く。まもなく、いつものアナウンス音声の男声。
「海霧警報——視程800m以下——入出港の遅延を勧告——灯光の明度は良好——」
まっすぐで乾いた案内。照合室で見たテキストと一致。私はラベル控えを手に、目だけでチェック。合っている。合っている。合っている。
そして——文と文の“リム(間)”に、とても薄い甘い匂いが触れた。指先でラミカードの角がすっと滑る。ミホが私の手の甲を見て、ほんのわずかにうなずく。記録。私は五拍息を押さえ、タイミングを待つ。
「——現在 海面上昇——灯台交代 正常——」
ほんらい**「正常」のあとに間がある。放送台本のリズム。でも今回は、その間に何かが薄くからんだ**。
「——あなたの小さな のど——」
塩水が指をパチンと鳴らす。再生機に貼ってある微振動カットの小スイッチがトンと下がる。音声はいったん鮮明になり、すぐ常態へ戻る。再生は止めない。彼はただ、その間を指さした。
「聞こえましたね? 風の繊維が変わる区間」
「テキストにない語——」ミホが前を向いたまま受ける。
「ノド」私が言う。「声の“ノド”」
同じ区間だけ巻き戻してもう一度。
「——正常——(間)——あなたの小さな のど——(波の衝突)——視程600——」
今度は波音がそのノドを断つ。ミホが小さく息を吐く。
「照合室では出なかった」
「はい。室内では間が空欄のまま」
「だから水のそば」塩水が手すりをコツと叩く。「ここでは風・湿度・塩が文を現す」
私は短くメモ。間——甘/「ノド」——波衝突時に録音層が分離。そして一行を添える。
「今は——確認した。結論は明日に保留する」
文が着地する前、風がひと呼吸ぶん逆向きに吹く。私は無意識にその逆風の方向へ手のひらを出し、足先をレッドラインの内側へ二歩引く。風に語尾を持って行かれないように。
次はA-17の箱から出た**「海霧警報 伝達記録」の紙のバインダーを取り出し、同じタイムスタンプで照合**。その位置に、記録者が“点”をひとつ打った痕跡。
「18:40——正常——(・)——18:41——視程600」
点は小さいが、意図ははっきり。何も書かない代わりに、“何かがあった”印を置いた点。私はカードに書く。
「『なし』の代わりに点——記録者の抵抗」
ミホが素早く撮影し、席の透明ポケットに控えを載せる。
「この“点”は報告書に入れる」彼女が低く言う。「誰かが、言葉の代わりに点を置いたから」
頭上をカモメが大きく旋回し、鳴き声の拍の干渉がスピーカーにゆらぎを作る。塩水が無造作に手の甲でスピーカーグリルを撫で、別のスイッチを押す。
「現場ノイズ補正」
音が少し落ち、『ノド』の次がごくわずかにほどけた。
「——あなたの小さな のど——こ——」
「こ?」私が思わず繰り返す。
「——こ——(波)——え——」
「こえ(声)」ミホが明確に言う。「“声”が必要です」
再生を止め、三人の視線が一瞬、同じ一点に結ぶ。海と手すりのあいだの空気、それから私の指先の紙。私は海を正面で見ないように、靴のつま先を見た。私の名前が耳の内側でとても薄く「ハル」と呼んだからだ。……ア——ラ——ウ。 私は舌先を噛み、その先を保留する。
なぜ誰かは海霧警報の“間”にあんな文を挿し込むのか。なぜ〈安全な結末の保証〉と同じ語——とくに**“声”が——公の放送の隙間に。問いは正確で、答えは前方にある。私は過去**から当たるのが良いと判断した。
「その日の灯台交代日誌、もう一度見られますか? 『ルシア』の名があった日」
塩水はすぐに引き当てた。黄色いフラッグの挟まれたページ。そこには確かに『ルシア(見習い)』が鉛筆で書かれ、消され、また書かれた重なり。右に**『4週目 交代保留——気象』**の行政語。消しゴムの粉は飛んでも、黒鉛は紙繊維の奥で艶のように残る。
「その日は二日続けて海霧がひどかった」塩水。「見習いを海に出さないのが原則で、保留」
「その直後から**“声”の文が混ざり始めた**」ミホが時刻を合わせる。「偶然かもしれない。でも記録論では偶然を連結する。連結は検証対象」
私は紙の艶を正面で見ながら、その時刻に**“言葉の代わりに点”を打った手を想像する。『なし』と書く代わりに——言葉の席をひとつあけておく手。もしその空席によそ者の文が入ってきたなら、誰の責任か。いや、責任の前に先に問うべきことがある。空席はなぜ生まれたのか。答えは消された名前の内側で少しずつ艶**を帯びる。
軽く昼を済ませ、最後にもう一度A-18を回す。今度はこちらより先に海が動く。再生機のやさしいフォントみたいな『ピッ』が過ぎ、波が手すりの下の石をコツと打った。タイミングは先ほどと同じ。
『正常——(間)——あなたの小さな のど——』
私は自分の一行を差し込むタイミングを測る。リハーサルのように。
「今は——聞くが、記録を優先する」
言葉が席に座ると、『声』の「え」が揺れなかった。紙の上に『え』という音節が落ちるのを見た気がした。塩水が感心したように鼻で笑う。
「発声がいいね。保存チームで発声の話する人、久しぶりだ」
「演劇部でした」私は短く返す。「舞台裏で、最後まで読むのをたくさん教わった」
「それで十分」ミホが言う。「今日はここまで。戻って報告書。点、間、“声”、行政の『保留』との相関、そして——」彼女は顔を上げ、塩水を見る。
「挿入の可能性。特定の文言が公的放送の間に入った兆候の報告」
「音響チームとも話して」塩水は穏やかに頷く。「私たちは主に灯台とブイを見るけど、テープを触る手は別部署。ただ——文言が同じなら、昨日のアンケートともつながるでしょう」
「あのアンケート、私にも来ました」私は言う。「今日はもっと露骨」
「でしょうね」塩水が笑う。「港周辺の番号を一巡した可能性が高い」
片付けを終え、防波堤を離れる時、ミホが少し後ろに残る。手すりに手を置き、海を正面で見て、ごく小さく——ほとんど口形だけで言う。
「今は——終えた」
その言葉が風に乗って私の肩の後ろへふっと回り込むのを感じた。言葉が席に座る音。長く現場にいる人だけが使う作法。
バス停まで歩くあいだ、ポケットのヘアピンがコトンととても軽く二度鳴る。……ア——ラ。 その先は来ない。私は鞄のジッパーファイルを触りながら、今日最後の一行を前もって選ぶ。
「今日は確定しない——今だけ座らせる。そうすれば明日の私がもっと遠くへ行く」
相談室で学んだ、古くて検証済みのやり方。
バスの中でノートを開き、報告書の一行目を書き始める。
「聴取位置:防波堤聴取区画——レッドライン内——手すりシールド再生機使用。A-18再生結果:テキストと一致。ただし“間”での誤文挿入の兆候(『あなたの小さな声……』)。A-17紙記録:同タイムスタンプに点を確認——記録者の抵抗または沈黙の痕。推定:公的放送間への“契約言語”挿入の初期段階**——行政上の『保留』と同時に発生。アンカー接近は有効」**
書いている間も規則は守る。推定は推定と記し、確定は確定だけ。結末は強いない。今日必要な名前だけ付ける。
Bブロックに戻って機材を返却、照合室で写真と音声クリップをサーバへ。ミホがモニター前で整理されたリストをざっと眺め、最後に小さなチェック。
「ハル」
「はい」
「ルシアという名前、今日二度見たね」
「ええ。交代日誌の鉛筆の痕」
「同じ時期に、落とし物にも小さな変動がある。水辺で拾ってくる**“半分もの”が増えた。指輪、ボタン、ヘアピン——何でもない半分**。形は違っても共通して“濡れない艶”がある」
「それじゃ……」私はポケットの白い半粒を思い浮かべる。いつからか、手はそれを捨てられない。捨てられないには理由があることが多い。
「それらにも席が要るんですね」
「ええ。そして名前が」
言葉はそこまで。ミホはそれ以上言わない。観察段階が終わったのなら、次は質問の順番を決める番だ。質問にも席と角度がある。私はうなずき、鞄を閉じる。
家への帰り道、私は横目を一度も使わなかった。風はうなじを涼しく抜け、正面だけ見た街路樹のあいだから夕陽が落ち、信号の緑は緑だった。玄関の前で、今日最後の一行を取り出す。長く訓練してきた喉が、最後まで支えてくれるのを感じながら。
「今は——記録した。そして——明日、名前を問う」
句点に触れたとき、とても遠くで波がもう一度鳴り、その後に短い……アが残った。私はその先をまた保留する。明日の質問は単純だ。ルシアは誰だったか。いや、もっと正確には——誰の“名前”が先に走っていたのか。
今日はここまで。結末は強いない。代わりに、席を増やす。次の文が座れるように。




