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E04 —— 濡れない水じみ

朝の空気は昨日より少しだけやわらかかった。窓枠にうっすら宿っていた水滴は陽に当たってすぐ消え、ガラスには手のひら大の鈍い汚れが円を描くように残った。私はいつもの癖で親指でそっと押して離す。指先は乾いているのに、汚れは微かな艶を宿した。水族館のバイトを始めて身についた癖——ガラスは正面ではなく斜め、横目で見る。その視線が先に動き、汚れの縁がきわ細くきらっと灯って消えた。濡れない水じみ。昨夜、地下の階段で見た艶と同じ手触りだった。


通勤の横断歩道は、わざと大きく遠回りした。昨日、変な曇りがかすめた地点。足首はその場所を正確に覚えていた。反射的に首が向きかけるのを、頭の中で二歩ルールを復唱して速度で押さえる。二歩——コンマ六——二歩。正面だけを見て、決めたテンポで脇を通り抜けると、その場所は今日はただの歩道ブロックにすぎなかった。


水族館ロビーの体温計が聞き慣れたピッを鳴らす。ユナは私の顔色を読んで、今日は塩飴の代わりにブドウ糖キャンディを一つくれた。


「今日はしょっぱいのじゃなくて甘いのね。最近さ、語尾までつかんで読むでしょ。最後まで読む子は途中で糖が落ちると、変にぼうっとするの」


「……ばれてた?」

「昨日よりばれにくかったよ。かわりに息が長くなってた」ユナは私の胸元を指先でコツとつつく。「そこまで言葉が届いてたの見えた」


ユナの言い方は、いつも冗談と事実が半々に混じっている。私は返事を控え、ペンギンの餌に合わせて小サバを塩水にくぐらせて引き上げる。MSDS(物質安全データシート)講習で聞いた文を思い出した。甘い匂いはときに“方向指示”(誘惑)。匂いを追うと作業者は乱れる。匂いが背後から割り込んだら二歩後退。水族館でも、図書館でも、同じ言い回しを使うようになっていた。


夕方、退勤のハンコを押しながら、鞄の中の小さなノートの角を親指でこする。中学の相談室で始めたルーティン——4-4-6呼吸、語尾つなぎ、そして今日の一行。当時は試験や発表の前に、短くなった呼吸を**“今”**に打ち込んで固定するための短文だった。今は、図書館のマニュアルがその習慣に正式な名前を与えてくれた。一行宣言——Seat Line。同じ動作だけど、座る場所が生まれた。


横断歩道を渡ってBブロックの自動ドアが「キィ」と素直な音を立て、ロビーの空調はほどよく冷たかった。案内デスクの笑顔は昨日のまま。私はラミカードを軽く掲げ、地下への階段の前で一度止まる。チョークで引いた短い赤線が、角度によって現れては消えた。正面禁止。横目だけで確認して、一段目を下りる。


「ジャスト」ミホが手首の時計をコツと叩いて降りてくる。「今日は外気は昨日より湿っぽい。コンマ六」


「圧4.9」後ろでチュンベが言い、彼の声はいつも現場ログのトーンで落ちる。「レッドライン維持。階段側に一本補強の見込み」


私はカードの角を親指で押した。二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線。昨日復唱した文句が舌の下で自動的に整列する。こんなに早く身体に染みたのは、相談室でのコーチングや演劇部の発声合わせに使っていた呼吸の拍と同じだからだ。長く、均一に、最後まで。


ラベリング室の前で、ミホがラミカードの裏面をもう一度見せる。一行宣言の書式——「今は——[私の選択]」(命令・強要禁止/過去形・未来形禁止)。**“今日の自分に渡す席、用意はいい?”**という視線。私はごく小さくうなずく。


乾燥室へ入る前、昨日貼ったラベルの控えに小さなチェックが足されていた。照度OK/湿度OK/匂い:維持/艶:維持。ミホが項目を指先でなぞる。


「書類上、今日は一次確認。開封しても安全。ただ——ハルさん、一行を先に」


私はポケットのジッパーをひと撫で。ヘアピンがそこにある感触だけ確かめる。出さない。それが先の約束。


「今は——規定に従って開封する。開封後は、記録を優先する。」


語尾に触れた瞬間、除湿機の風の繊維が薄く反転して、すぐ滑らかに戻る。正常。そう名を付け、カッターを入れる。テープはするりと裂けた。立ちのぼる匂いは紙の埃、わずかな油、そして馴染みの甘+塩。私は手順どおり二歩下がり、胸の前で六拍止める。ミホがマスクを引き上げた。


「匂い——記録。強度1.5。視覚記録、開始」


箱のバインダーを斜めに引き出す。水族館でガラスの水平を見るときの視線のまま、正面を避けて艶をなでるようにページを送る。『灯台交代日誌/月別』。最初のページは表。交代者——交代時刻——視程——海面——灯光——特記。文字は誠実で、特記:なしが行を埋める。ページを重ねるほど、「なし」の画がすこしずつ違っていた。同じペン、同じ手、でも速度が違う文字。ある日は**「し」の最初の縦画が気持ち長く走り、ある日は点**みたいに短い。


「ここ……」私が低く言うと、ミホは私の視線を追ってページを傾けた。


「光が掛かる角度でしか見えないね。いい、遅延マーク」彼女は私にメモカードを示す。


私はカード裏に書く。遅延——一行——後行。すぐ下にもう一つ。なし——前進。先に走る日があるという意味。相談室のコーチがいつも言っていた言葉を思い出す。“先に走ってしまった言葉がないか、確かめよう”。あの時は発表原稿の話だったが、今は記録の速度だ。


底板には白い封筒が一通、上品に定位置を守っていた。右上に縦書きの〈案内〉。私は封筒に目が張り付くのを自覚し、コンマ六をもう一度数える。ミホが手のひらを軽く上げる。「封筒は最後」その調子には理由がある。**手順に割り込んでくる文はたいてい“誘惑”**で、誘惑は記録を濁す。MSDSでも言っていた。甘い匂いを先に嗅がせるのは、たいてい不要な注意喚起だ、と。


私たちは封筒をそのままにして、『海霧警報の伝達』へ。時刻順に端正な文が並ぶ。風向の変わり目に、一行のインクが薄く滲む——筆を持ち替えたのか、言葉を掴むのが遅れたのか。その直後の行は逆にはっきり。遅延と追い越し。私はまた短く書く。後行/前進——対照要。ミホが軽くうなずく。「いい。今日は標識だけ」


扉がコトと押され、床の風の道がほんの少し変わった。チュンベが出入り口で低く言う。


「圧4.5。階段側に赤い線を一本追加」


その言葉の尻尾を追いかけるように、水の影みたいなものが廊下のタイルをきわ細くかすめた。本物の水ではないのに、水のように見えるそれ。私は正面禁止を思い出して横目だけで確かめる。影は赤い線の手前ですくみ、空調の中へほどけた。チュンベが独り言みたいに「よし」と言って降りていく。現場ログのトーンは、ときどき鎮静の呪文みたいに聞こえる。数字と短い言葉が境界を縫い合わせる、そんな信頼。水族館の非常放送台本と同じリズム。


ようやく封筒に戻る。私は手を伸ばしかけて止め、一行を先につかむ。


「今は——読むが、ついてはいかない」


語尾が舌の上でコトと落ちた瞬間、奥歯のあたりがうっすら痺れた。封筒の裏隅には小さなロゴ——王冠、それからつるりとした水滴。〈安全な結末の保証〉。昨夜スマホに来たアンケートと同じ文句。親切な書体、無駄な下線なし、安心をやわらかく誘う文章。偶発的な悲劇も、予告のない喪失も、ここでは起こりません。今ここでの結末を保証するために——あなたの小さな“声”が必要です。


声。その語が上顎にぴたり貼り付く。演劇部の本番前、舞台裏で先生がいつも言っていた。“最後まで出しなさい。最後まで届かせなさい。語尾が濁ると観客は勝手に付いて行く”。私は自分の声を最後まで引き出し、封筒の文と混ざらないように席を分ける。ミホは透明ポケットを開いて封筒を隔離し、アクリルの席に赤い点をぴたりと移す。


その時、ポケットのヘアピンが、ごく微かにコトンと二度鳴った。今度ははっきりと二音。……ア——ラ。昨夜より少し明瞭だ。思わず訊きたくなったが、手順が先。感覚はメモ。カードに書く。鼻歌の影——母音2——伸び。それからポケットの上に手を置き、極小さな声で復唱する。「今は——保留」


箱の底で王冠スタンプがもう一度目に入る。PRINCE SARDINES。海、塩、王冠。言葉が静かに互いを呼ぶ。私はラベルの最終行を読み下ろす。本日——開封/一次確認完了/保留維持/明日——対照。文が席に座ると、乾燥室の風はまた均一に戻った。


帰り際、落とし物室の前でミホが立ち止まる。透明袋の中の小さなピン——昨日の白い半粒。ラベルには私の字で**“濡れない表面張力/甘+塩/保留”**。ミホが軽く尋ねる。


「こういう種類のものに、ハルさんが先に反応する理由、心当たりは?」

「水族館でガラス拭く時……艶を見るのが癖で」

「それだけかな?」

私は答えに迷って、正直に足した。「中学の時、相談の先生に語尾つなぎを教わって。発表で語尾が切れる癖があって。それから**“今日の一行”を書き始めて……言葉が揺れるたび“今”を先につかむ癖がついた。ここに来て名前**をもらった、って感じです」


ミホはとてもゆっくりうなずいた。「じゃあ、今日も同じやり方で行きましょう。今を先に。残りは明日、訊く」


私たちは廊下を曲がってロビーへ。自動ドアはなめらかに開閉し、ガラス壁に薄い曇りがいちど、きわ薄く上がって落ちた。私がためらうと、横でチュンベが何でもない調子で言葉を投げる。


「安全は退屈であって安全」

「今日は……退屈ですね」

「だから、よく眠れる」


退館のサインをして外へ出ると、スマホが短く震えた。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉。昨日と似ているが、文が少し変わっている。Q2. 今すぐ結末の保証を受けたいですか? 本日加入なら“声の入力”なしでも可能です。 画面の中央を赤い線がとても細く——本当に一度だけ——横切った。私はボタンを押さず、入力欄にゆっくり書く。


「今は——いいえ。」


送信の瞬間、胸の内で**……アが鳴り、続いてラが低く追う**。そして、ごく小さくウが付いた。……ア——ラ——ウ。ハル。 私の名前。偶然と言うには、かたちがあまりに正確だった。それでも私は正面だけを見た。横目は職場専用と決めたから。


家へ向かう道すがら、手は財布のラミカードを何度も探った。紙の角が指先をコツコツ叩く。二歩。横目。コンマ。赤い点。赤い線。 そして自然に一行の席も整う。玄関の前で、今日最後の一文を最後まで差し出した。


「今は——よくやった。そして——明日、訊ねる。」


句点が触れると、小さな**……アが一度鳴いて止まった。私はその先に来るかもしれない音を意図的に保留した。問いは明日。なぜ私はこれらを見るのか、なぜ彼らは私の反応をあまりにも自然に受け止めるのか。 そのあいだに割り込む考えはあったが、私はまず席を整えた**。今日の文を座らせ、明日の質問を残す。


部屋は静かで、ベッド脇の古いノートが置かれていた。灰色の表紙、角が擦れて紙がふくらんだノート。最初のページには、中学生の字でいびつに書かれている。今は——息を数え、最後まで読む。 その下に、幼い私が描いた小さなチェックボックスがずらり。思わず笑みがこぼれた。癖は長く生き、名前はあとから付く。ノートを閉じて灯りを消し、そっとささやく。


「明日は——訊ねる。なぜかを」


外では空調みたいな風音が窓の隙間をかすめた。扉は、遠くにいても、やはり、静かに息をしているようだった。

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