E29 — 歌詞のない息で道を渡る
海は私たちの足もとで、もう一度だけ深く息をした。その呼吸の長さが通路の壁をなで、塩をいったん剝いでは、また薄く塗り戻していくあいだ、私たちは石門を越え、広がった前室の縁で互いの肩の高さを合わせた。たった一度の整列だけで、道がもう揺れないという確信のようなものが生まれ、誰からともなく長い息を吸い、同じ拍で吐く。そのリズムに合わせて、水がごく薄い膜のように張れては畳まれ、つま先を先へと導いた。
ルシは指二関節ぶんだけ前を歩く。リングは光らないが、金属の体温が手首へごく淡く広がり、今日は言葉よりも「言葉の順番」を確かめる標のように感じられた。ロウェルは六分儀を畳んだまま、ポケットの中で角度をもう一度なぞり、風の筋と水の筋が交差する一点に、心の中で小さな点を打つ。ジョラはいつものように後ろを預かり、踵が床を離れる瞬間を数え、誰も振り返らなくても「背後」を見えるようにしてくれる。ミホはコートを合わせ、カードの角を親指できゅっと撫でた。その縁の微細な鋸歯は、涙や雨粒を拭ってはじめて文様が現れるのだと教わった。昨日はそれで名前を書く真似をした。だから今日は、名前そのものを「書かない」方法を見つけなければならない。
私はネリアの手を握ったまま、もはやこの体温が互いから生まれたものなのか、あるいは水と石がつくる前室の空気から滲んだものなのか、区別のつかないほどに薄まった温みを感じながら、口を開く。文を急がず、しかし、道の目を取りこぼさない速度で。
「もう少しだけ、前へ。今日は言葉じゃなく、呼吸で道を開く。」
ネリアは、とても用心深い眼差しでうなずく。頷きが降りてくるあいだ、肩の筋が水切りの石のようにふるりと震え、やがて静まる。彼女は私の手の甲を見つめ、言葉の代わりに指の力をほんのすこし緩めた――「信じる」という語のかわりに、握っていた力を分け合って、歩調を合わせる仕草で。
一つ目の弧は柔らかく、二つ目の弧は少し急で、三つ目の弧に入る直前、脇の回廊から風が、名前でないものを名前みたいに呼んだ――その声色は、昨日の防波堤で聞いた香水売りの説得に似ている。開けていない小瓶から滲んでくる「はじまりの香り」のような口調。そしてそこに、もう一つの調子が混じる。ごく低い金属の響き――防波堤で胸に提げていた細いホイッスルの、メタリックな記憶。誰かが、私たちを呼んでいた。名ではない音で。
ルシは振り向かずに手を上げ、空中へ細い線を二度、引いた。線と線の交点にリングを軽く当てて、極小の共振をつくる。共振は、壁に貼りついた塩を振るい落とすには小さすぎるが、音が呼び寄せる蜃気楼には十分だった。風が一度折れ、道の縁に寄る波紋が、やわらいだ。
「前へ。」ルシの声は、いつものとおり淡白だ。その淡白さこそ、今日いちばん強い装飾なのだと、私は知っている。
ジョラが低い声を添える。
「背後、三歩。速度が合った。うちの呼吸を真似ている。」
「誰?」――ミホは問いを口にしないまま、「誰」ではなく「何」なのかを確かめたがっている息を、一緒に吐き出した。
「断定できない。」ジョラは微かに首を振り、ひと音だけ落とす。「匂い。」
その言葉と同時に――風の層の下へ、砂糖水のつやのような匂い、ロープとオイル、処女航海の余熱が混ざった香が、天井から落ちる水滴みたいに薄く降ってきた。昨日、「今日の匂いだ」と言って空瓶を振ってみせた、あの男の指先の温度まで、いっしょに駆けてくる。
私は、呼吸の段取りをさらに長くした。歌詞のない息――けれど文が貼りつく準備のできた息。その息を吐き切ってから、言う。
「私たちは、匂いとは契約しない。今日、私たちが引く線に、代価の欄は空いていない。」
ネリアが空中へ短く一画、引いた。――分かっている。その一画が波紋に触れて消えると、背後の足音が一度崩れ、また私たちの速度を真似た。真似は本物に追いつけない。だが、揺れている心には、十分な罅を入れる。だから、規則を唱えるのではなく、規則を身体に棲まわせる必要がある。私は三つ目の弧で足首を少し立て、水が撫でる角度を変え、道の目を足裏ではっきり拾い直した。
右の回廊をやり過ごすとき、ロウェルは無言で手首をひねり、六分儀の仮想角を描いた。風圧線が手首の小さな動きと、どこかでぴたりと重なる瞬間を探り当て、極めて低く――独白のように、しかし確かに皆に聞こえる声で――つぶやく。
「今。北北西一点。西の波の、最初の滞り。」
「最初?」思わず問い返す。「滞りは、何度もあるの?」
「海は、止まり方を知らない。」ロウェルは瞬きをせず答える。「だから『止まった場所』じゃなく、『止まりたかった場所』を記録する。あれが最初の滞り。印があるはずだ。」
印は、岩だった。岩肌は塩の花で覆われ、内側はガラスのように滑らかで、誰かが座って長く待っていた痕跡のように縁がわずかに丸い。そしてその縁に、昨日、部屋で見た金箔の綴り――「AIR DAUGHTERS」の“A”に似て、しかしこの街の古い記法で刻まれた符が、浅く彫られていた。異国の機関名みたいに見えたあの綴りが、実は「風を集める者たち」の古い約束を、この地の手で移し替えた印だったのだと、私はようやく気づく。風の娘たち――風を辿って道を作る者たち。彼女らが残した、最初の滞り。
ミホはカードの角を、岩の符へごくそっと当てた。鋸歯が塩の花を触れると、塩は砂のように崩れ、筆画がくっきりする。同時に、カードの表面に――かつてミホが言ったように、涙や雨粒が掠めてはじめて立ち上がる微細な文様が、うすく揺らめいた。今日の乾いた空気には、水気が足りない。なら、呼吸が要る。
「君の息を、少しだけ貸して。」私はネリアに言った。「声じゃなく息。歌詞を剝いだ――息。」
ネリアは私の目を見る。逡巡がある。その半分は怖れで、残り半分は選択だ。だから私は、その二つを尊重して、先に自分の息を差し出す順序を選ぶ。ゆっくり吸い込み、吐き出す長さを――紙一枚の薄さで――カードの表面へ流し込んだ。カードがかすかに震え、縁の鋸歯が「音のない音」を鳴らす。
ネリアが、その長さに合わせて息を吐く。音ではない、けれど拍だ。歌詞はない、けれど歌詞が抜けた跡の圧で読める旋律の影。カードの地に、さざ波のような銀の斜線が広がり、刻みの筆画へ薄く掛かった。扉は名を求めなかった。許しを待っていた。許しはたいてい名と一緒にやって来る。けれど、今日の許しは――名に似た息でも、届きうる。
岩が、ほう、と微かに息をつく。符の内側で溜まっていた水が一度だけ表へ押し出され、表面張力に押し戻されて内へつく。そのつき戻りの端で、薄いガラス膜が持ち上がっては、また落ちた。道がひらく時の音だ。
私たちは岩の縁をなぞりながら、海が「止まりたかった」場所をつないで歩く。二つ目の滞りは少し低く、三つ目の滞りは岩間から風がふっと湧いて消える場所、四つ目の滞りでは立ち止まらなければならなかった。誰かが先にここを通り、必ず支払うべき代価を刻んでいった痕だったから。
――この場で、戻り道を問わないこと。あなたの「ハル」から一時間ぶんの言葉を剝いで、水に預けること。
その文を読んだ瞬間、私の身体が先に反応した。「ハル」という語が、私の名に触れた。ありふれた単語でありながら、私の固有の呼称でもあるその音が、岩の表で一瞬だけ光る。名の片割れを持ち出す策略にも見える。だが同時に、この道を作った者たちが言う「ハル」がまさに「一日の時間」を意味している――字義通りの可能性もある。いずれにせよ、今日は代価を払う原則が要る。対価のない甘い申し出は契約ではない。曖昧すぎる請求は詐術だ。だが、いまの請求は曖昧ではなく、むしろこちらへ選択を残していた。
ミホが私の顔を見て、読む。そしてカードの角度を少しだけ傾け、光を入れ替えた。
「あなたで、いい。」ミホの声は乾いている。だが、この乾きこそ、感情の過熱を防ぐ最も実用的な器具だと、私は知っている。「もちろん、別の選択もある。言葉を剝ぐのは、あなたじゃなくてもいい。」
ジョラが短く言った。
「俺がやる。」
ロウェルがすぐ受ける。
「いや。」彼は首を振る。「道を読む者は、表層に残しておかないと。変数が出たら、図面を引き直す。」
ルシが私を見る。無言で、しかし明確に――「あなたが選んで」と。
私はネリアの手を、もう少し強く握る。そして、ごくゆっくりと言った。
「私の一日から、一時間の言葉を剝いで水に預ける。その間、私は話さない。歌詞のない息だけで歩く。その代わり、目的地に着いたら、剝いで預けた時間は私の口へ戻るように。今日の取引は――今日の終わりまでに閉じる。」
海は契約書ではない。けれど、海はおおむね契約に忠実だ。少なくとも、この街が海と交わしてきた文は、ずっとそうだった。私はそう信じている。そして、ときに信は、扉を開ける。
ルシが浅く息を吸い、吐いた。
「確認する。今日、ここで、ハルは一時間ぶんの言葉を水に預ける。見返りに道が開き、到着したら言葉は戻る。契約の効力は、今夜の終わりまで。」
言い終わると、岩の表に薄い金色が一度だけ走り、道が下へ滑って開いた。四つ目の滞りが、解けたのだ。
そこから私は、話さなかった。言葉が消えると、耳はかえって冴える。通路の水面がふと高い音を出すとか、風が通りすがりに塩を一粒だけ運ぶとか、ネリアの息が私の息と、ほんの一瞬だけズレるとか――そんな些細な変化が、文より先に届く。ひととき言葉を水に預けた者だけが受け取れる、手向けのような配慮だ。
背後で、足音の主が一度滑り、止まった。私の名を呼べない者が、歩調を立て直す音。少なくとも、私たちが代価を払っているあいだは、海は私たちの味方だ。
五つ目の滞りは、岩ではなくガラスだった。ガラスというより、古いアンプルのように細長い、塩水と空気が交差する管が編まれ、荒い格子戸をなしている。一つひとつの目は、誰かの名前を長いあいだ容れてから空にした容器のように見えた。空だが、空ではない質感。「AIR DAUGHTERS」の仕事場が、ここまで張り出していた証でもある。水面で掬い上げたものを「水の娘」へ手渡す直前に預かった、境の保管庫。
ミホはカードを胸へ納め、こんどは素手で格子のガラスを撫でた。指先に塩の粉がわずかに移り、彼は小さく吐息を洩らす。
「ここは、音を受けない。代わりに――画を受ける。」
私は口が利けない。けれど、ネリアはもう分かっているという顔でうなずいた。彼女は私の手を離さず、もう片方の手で空へ画を描く。昨日、部屋で読んだ、あの四つの線――反転した渦、二度の点、小さな雫、波の上の短い一画。格子戸がその動きを追って、わずかに震えた。だが、まだ開かない。今日の道は複数の鍵を求める。風の娘の鍵が一つ。水の娘の鍵が一つ。そして、風と水をつなぐ第三のもの――歌詞のない息。
ルシはリングを親指と人差し指に移し、軽く弾いた。音は鳴らない。だが、指先に温みが宿る。彼女が長く息を吸い、ひどく緩やかに吐いて、格子へ寄せると、内側の気圧が入れ替わった。小さな渦が生まれ、ネリアの描いた画に沿って静かに解けていく。
そして最後は、私の番だ。私は言葉の時間を水に預けているから、声で開けることはできない。だから、息を長く、とても長く引き上げ、音の形が生まれる寸前の圧だけを残して、ガラスの肌に載せた。圧が表面張力に触れる。次の瞬間、格子のガラスが、一枚の薄膜みたいに共鳴した。塩の光が、くるりと反転する。
格子戸が開く。アンプルの口々が、風を吸うみたいに、私たちを迎え入れた。
中は狭い。だが、「狭い」は、内容の大きさとは別の語だ。アンプルが列をなし、それぞれの口金には糸のように細い金属の札が揺れている。読める文字で刻まれたものもあれば、水の揺らぎを文字へ変換したみたいな符号もあり、まったく標もないものもある。ただ、どのアンプルの前にも小さな金属の輪が打ち込まれ、輪の内側に浅い擦り跡があった。誰かが立ち、手を一度置いて、戻り道を問わずに「一緒に」という語だけ残していった数だけ。
ネリアはゆっくり歩き、ひとつのアンプルの前に立った。札に文字はない。代わりに端がごく浅く二度折れて、小さな影を二つ、落としている。昨日、読んだ「二度の点」が蘇る。彼女が手を上げ、アンプルの側面に触れると、内部の塩水が、とても小さく揺れた。その揺れの速さが――私の心臓と合った。胸が大きく一度打ち、その拍が耳へ上がる前に、私はもう分かってしまった。これが「名」の場所だと。声で呼べば奪われるその名は、息だけで触れてこそ、返ってくるのだと。
ミホは私の視線を読み、うなずいた。
「開けない。」彼の声は、私が預けた一時間分の言葉の代わりに、皆のための決心を音に整えてくれる。「今日はアンプルを開けない。代わりに、アンプルが『開きたがる』ぶんだけ、息で読む。返す時に――その時開けても、遅くない。」
ルシが、ほんの少し笑う。
「扉は、私たちが開けない。扉が私たちに開く。アンプルも同じ。」
ジョラが後ろを一瞥する。報告の声は、さっきより硬い。
「つけてきた足が――敷居で止まった。ここには入れない。代価がない。」
ロウェルは、アンプルの配列と札の間隔を目で測る。とても低い声だが、皆に届く。
「この部屋は、風の娘と水の娘の共用だ。札の金属は、両方の規格に従っている。つまり……これを『香り』に変えるなら、少なくともどちらかの規約を破らなきゃならない、ってこと。」
香水売り。空瓶。今日の匂い。私は口を利けないが、頭の中では文が走る。奴はここまで来たが、敷居を越えられない。だから外で、私たちの呼吸を真似して、どうにか道を盗もうとした。けれど、代価がなければ扉は開かない。少なくとも、今日は、ここでは。
ネリアがアンプルの前で、長い息を吸った。そして、とても長く、とてもゆっくり吐いた。塩水が、その呼吸の長さに合わせ、水面に浮かぶ小舟みたいに一度だけ持ち上がり、静かに沈む。沈み切ると同時に、札が微かに揺れ、音でも光でもない――しかし確かな信号を、部屋に残した。
――ここにいる。私は、ここにいる。
信号は、私に届いた。同時に風にも、たぶん海にも。私たちは目を合わせる。誰も話さない。代わりに、手が動く。私の手はネリアの手をより強く握り、ルシの指はリングを一度裏返し、ミホの親指はカードの角を、もう一度撫でた。ロウェルの手は六分儀を取り出さず、ジョラの手は敷居に触れて、確かめる。
その時だ。扉の外で、ごく静かに、しかし明瞭な音がした。金属が金属に擦れる音。小さなホイッスルが手のひらで転がって、止まる音。そして、言葉ではない。もっと素朴なもの――風が狭い隙間を通るときにつくる、けれど人の意志で長さを選んだ、低く長い呼吸。その息には、歌詞が付いていた。歌詞のない息で開く部屋の前に、誰かが「歌詞のある息」を差し出してきた。不適切さは、ときに鍵になる。
私は話せない。だから目で、ミホを呼ぶ。ミホは、短く首を振った――「応じるな」。彼は手を上げ、カードの角を敷居に当て、ごく短い文を刻む。
――今日は、同行のみ。
扉の外の息が、一拍ぶれ、止んだ。止みの裏側から、糸のように細い足音が退く。王子。防波堤で、私たちへ駆けてきたあの顔。彼はここまで来た。だが、今日は彼の番ではない。順番を乱さないことは、この世界で数少ない、本物の力だ。
私たちはアンプルを開けないまま、その前へ手を置き、歌詞のない息で「名の居所」を確かめた。三度、その確認が繰り返されると、床がかすかに鳴り、格子戸は最初よりも柔らかな拍で揺れた。戻り道が、足もとへ静かに折りたたまれる。
帰り路は、来たときより短い。道が、私たちを覚えたからだ。一つ目の滞りで、風が肩を撫でて行き、二つ目の滞りで、水が足首を押して一手ぶん前へ出してくれる。三つ目の滞りで、背後の足音が完全に消えた。四つ目の滞りで、私が預けていた一時間の言葉が戻ってくる。大きな音で届くのではなく、ただ、唇の内側に薄い熱として戻る。私は口を開く。話したくなる。だが、すぐには話さない。言葉はいつだって、空気より遅れて到着すべきだ。空気が先に、道を開く。
最後に、石門の前へ立つと、ルシが私の肩を軽く叩いた。
「確認。」彼女は言う。「私たちは、今日、結末を強いなかった。同行を記録し、代価を払い、道は開き、名前は――開けずに読んだ。」
ミホが振り向く。誰もいない。だが、誰かの質問が、まだ空気に薄く残っている。「今?」ではなく、「次?」という問い。次は、問いの形だけにとどまらない。答えは、いつも、到着する。
ロウェルは石門脇の塩の花に指先で触れる。花は砕けて小さな鱗のように水面へ散った。彼はその沈む速さを目で数え、ごく短く言う。
「浮け。水が、外へ送る準備をした。」
ジョラが最後に敷居へ触れる。
「出る。振り向く。その先があるなら、その先をやる。」
私はネリアの手を握り直す。彼女は私の目を見て、とても静かに――しかしはっきりと――笑った。水の中で長く過ごした者の笑みは、光と一緒に動く。その光が今日は、前室の闇を浅くして、私たちの前を、もう少しだけ明るくした。
石門を越えると、外気が海の躯で押し寄せ、私たちを包み、背へ退く。防波堤の音が遠くから近くへ寄ってくる。その音の前を、灰色の傘の先が、ごく細く裂いて立っていた。灰色の傘の下、男。黒いケース。空の瓶、香り、そして説得の道筋。
彼は笑った。笑いが、ゆっくりと傘骨を伝って落ちる。
「いい散歩でしたね。」
ルシが一歩、前へ出る。リングが、今日いちばん短く、光った。
「今日の代価は、私たちが払った。あなたは払っていない。」
彼は軽く肩をすくめる。
「代価、ね。香りには、いつだって代価がある。ただ――誰が払うかが違うだけ。」
ミホはカードを取り出し、角を日差しへ斜めに立てた。表に、部屋で刻んだごく短い文――「今日は、同行のみ」――が微かな反射で浮かぶ。
「今日は、同行のみ。」ミホが言う。「それと――扉は、私たちが開けない。」
男は、その文句を、昨日の防波堤と同じように繰り返した。だが昨日と違って、彼の調子には、ごくわずかな揺れがあった。
「では――扉は、あなた方に開く?」
彼が私たちではなく、ネリアを見ていることは、分かっていた。彼の視線は、真っ直ぐに彼女へ向かう。彼はケースを開けない。空瓶も取り出さない。ただ、傘の先で海面を、そっと突いた。水滴がひとつ、立った。昨日と同じ、丸くて壊れない水滴。だが昨日と違って、その滴は、こちらへ転がってこなかった。海は今日、私たちから離れなかった。
その時、防波堤の反対側で、足音がした。白いシャツの男。首の細いホイッスル。昨日とは違う、今日の呼吸。彼は走らない。歩いてくる。そして、止まる。私たちと灰色の傘の男の、ちょうど真ん中あたり――ぴったりの距離で。
彼は私たちを見ない。視線は、ネリアだけへ。彼女も、彼を見た。風がひと呼吸、止まる。水が一拍、遅れて吸い込む。そして、誰も話さない。
沈黙は、今日の最後の代価だ。誰が先に破るかで、次の文が変わる。選択の席は真ん中にあり、私たちはその席を避けない。
私は、唇の内側で、戻ってきた一時間分の言葉を確かめた。言葉は戻った。けれど、私はまだ話さないことにした。ネリアが、ゆっくりと――しかし確かに――うなずく。「今は――まだ」ではなく、「今は――ここ」という合図。
ルシが長く息を吸い、ミホは手首の力をほどき、ロウェルは視線を水平に並べ、ジョラは足の力を足首へ集める。灰色の傘が、光を一度、畳んでは開く。白いシャツの男は、ホイッスルをつまみ、放す。
そして、海が――一度、私たちを呼ぶように吸い込んだ。
私たちは、その呼びかけの前で、次の文の最初の語を選ぼうとした。選択は一語から始まり、道になる。道は人を連れて行き、人は――名を守る。




