E28 — 潮の匂いに沿って扉が開く
扉は自ら肩をよけるように一歩身を引き、内側の空気は昼間より塩が薄い代わりに、鉄と紙、それに乾いた海藻の細い鱗の匂いがくっきり混ざっていた。防波堤の下へ降りる狭い階段で一度、二度、三度と息を選んで吐くと、風が闇に触れる地点ごとに銀の膜が薄くつやめき、昼に引いておいた線を横目で合わせれば、「濡れない水跡」がここで分かれてまたつながっていくのが分かった。私たちはその細い道を取り逃がすまいとする者のように、つま先をそろえて慎重に身を傾け、下へ向かった。
ルシが半歩先で立ち止まり、床の塗装が斜めに削れた箇所を靴先でそっと押してから、顔だけこちらへ向ける。リングが明るすぎも暗すぎもしない音で短く震え、まるで今日の順番を確かめるみたいに、軽く笑った。
「今日は、あなたが先に見るのが正しい。」
「私が?」
「最初に『物語』を見た人の視線で入らないと、絡む。この道は、見る順番ひとつで性格が変わるから。」
その言葉が妙にすんなり身体に入ってくるのが、少し怖かった。私は相変わらずこの世界では新参者なのに、私の目が先だったという事実だけが、今日に限って揺るがない基準のように感じられたのだ。ロウェルは階段の手すりに鞄を立てかけ、古い六分儀を取り出して小さな角度を測り、図面へ写す。海の道具なのに、都市の下水の配線を載せても妙に合ってしまうのが、いつ見ても不思議だ。ジョラは闇側に立ち、無言で私たちの背中を守る。背を預かる人間はたいてい口数が少ない――だから、信頼できる。
「深呼吸を二回。」ルシが言う。「前だけ見よう。」
私はごくわずかにうなずき、ひとつ、ふたつと深く息を入れる。壁と床の交わる線があやふやに揺れ、やがて防波堤の鋼板の間、放置された排水溝の蓋が、働き者の癖みたいな小さな音だけ残して持ち上がる。下から上がってくる風は、塩と鉄、遠い水鱗の匂いを一緒に引き上げてくる。その後ろに、ごく薄いが今なら判別できる紙の匂い――昨日剥がした表紙に残る粉じんのような、乾きかけの歌詞の紙目――がついていた。
「開かなかったんじゃない。」私はつぶやく。「もう一度、開くのを待ってたんですね。」
「そう。」ルシが口角を上げる。「扉には気分がある。ここは歓迎じゃない、継続確認のほう。」
蓋を持ち上げると、はしごがのびた。下は思ったより深くない。水はくるぶしに触れるか触れないかで、光が細い織り目を作って水面の上を風みたいに流れていく。「濡れない水跡」は、水の上に浮かぶ透明な道になって、私たちを待っている。ずっと以前、誰かがこの道を歩き、その足跡が「水と和解する方法」を忘れないために置いていった約束のようにも見えた。ジョラが短く告げる。
「足を引きずるな。道を外れたら、普通の水がおまえの足を選ぶ。」
私はうなずいて靴紐を締め直し、最初の一歩をのせる瞬間、足首をかすめる感覚に違和を覚えた。水なのに濡れない――いや、水だが失わない、のほうが近い。湿り気が消えるのではなく、私の肌がある程度の濡れを「自分のもの」として受け入れ、不快に感じない状態へ移る、と説明するほうが体には通りがいい。常識には反するが、身体はそちらの説明にたやすく説得される。
通路の壁には、昔の洪水の標が幾段も打たれていた。年号が刻まれたもの、名前が刻まれたもの。つま先で道を探りながら、誰かの手が刻んだ浅い溝を追っていくうちに思う。水が触れた場所には、たいてい人の名前が置かれるのだろう、と。触れたから、受け取ったから、証言せよ――そういう書き方。私はその考えに続けて、舌先に引っかかる名を、できるだけ慎重に呼んでみた。
「ネレイア。」
風が動く。振り返らなくても、背中の視線が一瞬、同時に私の肩をかすめたのがわかった。ルシが低く尋ねる。
「その名前、どこで覚えた?」
「港湾庁の交代日誌。七月十四日付。『朝いちばんの風が海から上がり、名前を一度だけ湿らせる。Nereia――』まで書いて、インクが滲んでました。船長が書類を閉じながら『今日は――』で止めた跡があって。」
「それを、あなたが読んだの?」
「紙の裏に透けて残った筆圧を、横目で追えば……ある程度は。」
ルシはとても小さく笑った。その笑いは、今日の道筋が逸れていないという合図みたいに軽い。
「いい。じゃあ、その名前を追おう。」
通路が低くなるあたりから、海はさらに近い。床の道はS字にわずかに曲がり、曲がるたび、波紋が内側へ一拍集まり、外側へ一拍遅れて流れていく。誰かが足早に歩き、またゆっくり、そして息を整えた痕が重なっている。私は空いた場所ごとに耳を澄ます――言葉ではなく、呼吸の長さを聴く感じで。
「ここで――止まった。」私は言う。「一度振り返って、振り返ったことを悔やんだ。だからまた前へ。その次は……誰かを海へ渡したか、誰かに海を渡したか。」
「両方、かもな。」ロウェルが低く添える。「海はたいてい複数形だ。」
もう一つはしごを降りると、正面に金属の扉。公共施設に使うありふれた防水扉だが、ゴムパッキンの間から、ごく薄い光がにじんでいる。内側から外へ流れる光だ。私は手のひらを扉へ当てた。冷たく硬い。だが、その表面の下で、壁に風が触れる時に生じるような微かな震えがある。ルシが肩を軽く叩いてささやく。
「この扉は『開けろ』とは言わない。代わりに『開けてもいい』という許しを待つ。許しはたいてい、名前と一緒に来る。」
私はうなずいた。こじ開ければ、昨日が今日を傷つける――それを、もう身体が先に知っている。許しを待つ扉には、許しを運べばいい。許しは言葉と、言葉の居場所から来る。唇を湿らせ、昨日家の前で独り言のように磨いていた一行を、今日に合わせて少しだけ換え、ゆっくりと言った。
「私はハル。名前は盗まない。扉が名前を覚えているなら、その記憶を読ませて。扉が名前を忘れているなら――ここに、書き留める。」
しばし、何も起きない時間が過ぎ――扉が、自ら緩んだ。錠が外れる音はしない。ただ、押し引きするゴムの息がわずかに変わった。私は把手を回す。扉は騒々しくなく、そこにあったものを少し移すみたいな手つきで、開いた。
部屋は大きくない。床は低く、天井はもっと低い。壁には港図と磯の断面スケッチがびっしり貼られている。ピンは赤、青、ときどき小さな貝殻。中央には小さな木箱。箱の上の古い表紙には「AIR DAUGHTERS」と金箔がかすかに残り、隅の風車が風もないのにゆっくり一回転して止まる――その時、波の音が、まず足首で鳴った。
室内なのに、水が後ろへ退いて砂を掻く音。もう一度前へ来てつま先を触り、何でもないふりをして退く音。音は目を連れてきて、目は闇の一番低いところへ連れていく。箱の後ろ、壁と壁の継ぎ目の陰。そこから誰かがゆっくり起き上がった。
髪が水と一緒に持ち上がって降りるときの重み。闇でも消えない白い肌の輪郭。水切りみたいに震える肩の呼吸。私は一歩も近づけないまま、舌先でまず言葉を止めた。挨拶はいつだって声から始めるべきなのに――彼女は、声を預けなかった人のように見えた。あるいは、預けたが、まだ取りに来られない人。
ルシが小さく手を上げ、「待て」を描く。誰の登場でも、最初の呼吸は相手に返す――今日もその原則に従う。彼女は唇を開くが、音は出さない。代わりに、手が動く。手首から指先へ、薄い線が空中に描かれる。反転した螺旋、二度の点、小さな雫、波線の上の短い画――昨日、港湾庁の交代日誌の筆圧を剥がして読んだのと同じ感覚でその跡をたどると、言葉がゆっくりと形を持った。
――私は、ネリア。
その名前が部屋の空気層を通って私の耳に届くまでに、一息半、時間がかかった。その間に、妙な安堵と、可笑しな怖さが同時に膨らむ。昨日、私が呼んでみた名前が、今日の人とぴたり重なるということ。紙に押し残ったインクの湿りが、誰かの肩から今しがた落ちた水と同じ温度を持つと証明される瞬間、人は思ったより簡単に、言葉を失う。ネリアは私たちをひとりずつ見渡し、そっと箱に手を置き、帳面を繰るみたいに蓋を半ば持ち上げ、また閉じた。開けられるが、今は開けない――そういう合図。誰も問わなかったのに、私は理解し、そしてありがたかった。開けないという選択が、どれだけ多くを守ってきたか、ここ数日で嫌というほど学んだから。
「君の声はどこにある。」ルシが、珍しく子どものようにやわらかな調子で尋ねる。「いや、言い換えよう。声の代わりに、君は何を預けた?」
ネリアは両手を腹に運び、肋骨の下、心臓の位置を二本の指でそっと押して、離す。その小さな身振りは、見慣れないのに、なつかしい。初めて見る品が、ずっと前から自分の机の上にあったみたいに、既視感のついた異物。彼女は再び空中に線を描いた。
――名前、経路、戻る道。
声ではなく、名前と道。海の魔女が請求した代価は舌だった、という昔話の代わりに、この世界では名前なのかもしれない、という話。名とは、世界の中で自分をもう一度探し当てる経路だ、という話。ミホがごく短く息を吸って吐き、低い決意が声に添う。
「契約は、まだ……有効?」
ネリアは首を振る。そしてごく短く、二度うなずいた――有効ではない、でも、まだ回復の余地はある。そんな意味。
私は、自分のするべきことを思い出す。新しく契約を書くか、すでに書かれた契約を読むか。その中間あたりで、私たちにできるのは、署名を求めないやり方で、もう一度お互いを紹介し直すことかもしれない。だから先に口を開いた。
「私はハル。こっちは……私より長くこの仕事をしている仲間たち。今日は私が先に見て、私が先に聴く。君がよければ、君が預けたものを君自身が取り戻せるように、私は名前の在り処を読む。それが君の望みなら。」
彼女は真っ直ぐに私を見る。心臓が大きく一度打ち、その拍が耳に昇る前に、彼女はとてもゆっくりうなずいた。隅の風車が、誰かに押されたみたいに一回、二回と回って止まり、箱の「AIR DAUGHTERS」の金箔が一度だけ光を集めて流す。床の薄い道が箱のほうへ、さらに明るくなった。
私は箱の前で膝をつき、手のひらを蓋へ置く。開けないという選択を尊重するなら、開けずに読まなければいけない。紙の裏を横目で読むみたいに、蓋の下からのぼってくる微細な刻印を、皮膚で聴くつもりで手を押さえる。古い紙の温度が、ごくかすかに立ち上がった。誰かがこの表紙を貼った日の湿り気、文字を打ち込んだ小さな槌の、頑固なリズムが手の甲へ広がる。やがて、一つの文が、表紙の下から浮かび上がった。
――風の娘たちへ。名前を失った者がこの箱の前に立ったとき、彼の帰り道を問わず、西の波が止むところまで同行せよ。言葉の代わりに手を、手の代わりに足を、足の代わりに――歌詞のない息を。
歌詞のない息。私は目を開いた。ネリアがほんの少し、息を整えている。荒い息ではない。一行の歌を呑み込んで、もう一度吐き出す人の呼吸。私の舌先は自然に乾き、手袋を脱いで水の道に素手をのせると、ようやく道が私の温度を受け入れた。息を長くひとつ吸い、その長さに合わせて、ゆっくりと言う。
「一緒に行こう。君が失くした名前を、君自身が呼べるようになるまで。扉は私たちが開けず、君に開くようにしよう。私は――君の名前を盗まない。」
ルシがうなずき、ジョラが背後をもう一度確かめ、ロウェルは六分儀の角度を少しだけ直してスケッチを修正し、鉛筆を耳に挿す。部屋の扉の隙間がごく弱く震えた。海は遠くない――私たちが動けば、海も一度、いっしょに動く。ネリアが一歩出る。水滴が道の上に落ち、道が自分でその水気を抱き取った。彼女は私の手の甲を見て、ほんの一瞬指先を震わせ、慎重に私の手の甲へ手を重ねる。冷たくない。むしろ、長く乾いた紙へ手を置く時の温度。文書と文書の間に挟まった空気の温み。名前が行き来するのに、ちょうどいい温度。
その時、部屋の外で、とても低い警報音が鳴った。港の深部から響く鐘のようで、しかし確かに警報のリズム。ルシの目が細くなり、ロウェルが時計を見もしないで言う。
「外の水が上がる速度が速い。誰か、または何かが、この道を使って出るか、入るかしようとしてる。」
ジョラが蝶番に手を当て、一度さわる。
「扉の息が上がってる。急げばこっち、遅れれば海の側が先に開く。」
私は、ネリアの手が私の手の甲でさらに強くなるのを感じた。その力は「怖れ」にも「選択」にも近い。人が敷居でためらうとき、その半分は怖いからで、残り半分は、選ぶためだ――そう思い返し、だから尋ねる。
「ここで、訊こう。君が望む結末を、私は強制しない。けれど君が望む方向へ行けるよう、道は作る。望むなら、今日は海へ出ずに引き返してもいい。望むなら、今日は名前を呼ばず、代わりに好きな匂いをひとつだけ記録して戻ってもいい。君の選択が、君の契約になるように。」
ネリアは首を伏せ、上げる。そして、ごくほのかに微笑んだ。水の中で長く過ごした人の微笑みは、光といっしょに動く。彼女は指で、空気にごく短い線を描いた。
――一緒に。
その一語が、部屋のすべての風を同じ向きに回した。ルシが私を見ないまま、しかし確かに私に言う。
「じゃあ今日は、『同行』を記録しよう。結末じゃなく、ひとつの歩みを。」
外の警報のリズムが、さらに一拍早くなる。床に薄く浮いた道が、ぱり、と震え、箱の金箔文字が最後に一度ふくらんで、しぼむ。私はネリアの手をもう少ししっかり握り、私たちが来た道――S字に曲がっていた細い水跡の最初のカーブへ、足を向けた。
ミホが簡潔に確認する。
「規則、再確認。最後まで直進。振り返らない。呼ばれても応えない。そして――名前を見つけたら、手を差し出す。」
ロウェルが受ける。
「左右に回廊が二本。右は風、左は水。今日は水が味方――右は音の作る蜃気楼の確率が高い。」
ジョラが締める。
「誰かに塞がれたら、押し切らずに退け。今日は、戦わない側が遠くまで行ける。」
私は笑わなかった。けれど、心は少し軽くなる。規則とは結局、お互いを思い出させる文だ。確認しておけば、道の上で一度ぶん、揺れ幅を減らせる。私たちは敷居を越えた。
通路はさっきより浅く、闇もさっきより浅い。闇が浅いというのは、水が光をさらに連れてくるということ。水が光を連れてくる場所は、すなわち海の前室。壁に打たれた標のいくつかが低い角度で反射し、道しるべになる。標の中には、昨日私たちが見た天気の記録、おととい聞いた航路の助言、ずっと前の誰かが残した「振り返れば失う」といった短い指針が混じっている。長くない文たちが、私たちを前へ押した。
最初のカーブは無事に抜け、二つ目のカーブで風が耳をかすめ、名前でないものを名前のように呼ぶ。ジョラが手を上げ、虚空を一度、撫で下ろすと、音は波の泡みたいにしゅっと消えた。三つ目のカーブで水が足首の上へ一手の幅だけ上がり、すぐ降りる。その降り方が、誰かの呼吸に似ている。ルシが小さく、独り言のようにこぼした。
「いい。扉は……私たちに開く。」
「その台詞、あなたは好きね。」ミホが返す。「でも今日は、その台詞が私たちを助ける。」
私は答えず、息を長くひとつ吸った。ネリアの手から、私の指の間へ温もりが移る。彼女が私の手の甲に、小さく一画を引く――名前、経路、戻る道――三つの語は、今日はただ進行方向を指す記号ではなく、隣に立つ人を指す記号みたいに感じられた。
最後のカーブを回ると、視界がひらけ、天井が少し高くなる。床のさざ波は消え、代わりに岩が現れ、岩の隙間ごとに塩の花が咲いている。遠くから海が岩を打って砕ける音が、路地で人の名前を呼ぶみたいに鮮やかに近づいた、ちょうどその時、闇が薄くなる音といっしょに、片側の石門が袖をまくる人みたいに肩をひねり、隙間から海の息がぐんと押し寄せた。
ルシが止まる。
「ここが前室。」
ロウェルが六分儀を畳んで鞄に差す。
「それから、西。」
ミホが軽く手を上げる。
「宣言、する?」
私はネリアと視線を合わせた。彼女の目は、水ではなく石のような硬さと、水のような揺れを同時に宿している。その二つの感情が、引き合ったり、押し合ったりして、中央に薄い道を作る――それを、とても近い場所で見た。
「今日は私たち――」私はゆっくりと言う。「結末を強いない。今日、記録するのは結末じゃない。同行のはじまり。」
ルシが残りを添えた。
「そして扉は、私たちが開けない。扉が――私たちに開く。」
言い終えるより先に、石門がごくかすかに一つ、息を吐き、次の呼吸で隙間が広がる。水が薄いレースみたいに私たちの足首をなで、塩の花がはらはらと落ちて小さな鱗のように水面に散った。
その時、背後で微かな摩擦音。ジョラが半身だけひねって通路の後ろを見る。私は振り返らないが、彼の肩の力で状況が読める。とても慎重で、それでいて見覚えのある緊張――遅れてついてくる足音が、この道の後端を踏んでいる。
ミホが言う。
「呼ばれても――応えないで。今日は、私たちだけ。」
私たちは答えの代わりに一歩、前へ出た。水の道は足の下で切れず、ネリアが私の手を少し強く握り、その力は明瞭になった。名前を守り、名前を探し、名前を取り戻すために、人が握る力――その力がどこまで届くのか、私は知りたかった。
石門の内側は広い。海はまだ半歩だけ退いており、代わりに風が先に私たちを迎える。風は服の繊維の間を通り抜けて、ふっと止まった。その躊躇いは、誰かの問いのようで、問いは「誰」でも「なぜ」でもなく――「今?」だった。
私はうなずいた。今。
すると風が一拍遅れてうなずき返し、ようやく海が背を伸ばして一歩入ってくる。水は床の細い道に従わず、私たちの足元から薄くふくらんで、また沈む。むこうから、こちらへ来る者への、配慮の仕草のようだった。
ルシが静かに笑う。
「礼儀のある扉だね。」
「礼儀は、強い者だけの徳じゃないわ。」ミホが答える。「今日は扉のほうが私たちより強い。ただ、それだけ丁寧なこと。」
私たちは岩の縁に立ち、海の呼吸をもう一度待つ。そのあいだに、ネリアが私の手の甲に、もう一度ごく小さな一画を引いた。今度は順序が違う――経路、名前、戻る道――そして最後に、指先がほんの一瞬だけ止まる。戻る道のところで。
私はごくわずかにうなずいた。
「戻る道は、君が決めて。」
彼女は私の目を見たまま、静かにうなずく。その頷きが落ちる音と、海が入ってくる音が、ほとんど同じタイミングで重なった。石門の隙間がもう一度広がり、海が私たちの前で長く息を吐き、その終わり目に薄い水面がきらりと広がる。
ロウェルが低くつぶやく。
「西の波が止む場所……今日は、そこまで。」
ジョラが短く応じる。
「後ろは俺が閉じる。来るものは来させ、行くものは行かせろ。」
私は最後に、肩越しではなく、横を見る。並んで立つ者同士の息が同じ高さで上がって、下がり、ほんの少しだけ長くなるのを確かめる。それだけで人は安心し、安心は、より大きな決心を可能にする。私たちは同時に、最初の一歩を踏み出した。
水は私たちを受け、濡れない道は水の上に薄く浮かんで方角を示し、岩は私たちが踏まない面を静かに光へ換える。背後では塩の花が砕けて小さな音を立て、さらに遠くで誰かの足が一度だけ滑る音がして、止む。その停止が、今日の規則を守ろうとする最後の良心のように聞こえた。私は振り返らなかった。
私たちは水の細い道の上へ入っていく。海が一度、私たちを呼ぶ。石門は――自ら開く音を立てた。
その音が終わるころ、ネリアが息を吸った。歌詞のない息。その息は、今度はごく弱い反響を作った。誰かが長く閉じていた本の最初の頁をそっと繰る音のような、これからのページが実在するという静かな確信のような。
私はその反響を、君の指で数えるみたいに心の中で途切れなくたどり、反響が消えきる前に、とてもはっきりと言った。
「私たちは――今、ここに到着した。」
言葉が終わると、海がもう一度息を整え、前室の空気が軽くふくらんだ。到着はいつだって、新しい出発のもう一つの顔だ――この潮の匂いに満ちた場所でも、人はそれを忘れない。
そして私たちは、その顔を見合わせた。




