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E26

夜が図書館を押し沈めた。海から戻ってきた匂いが敷居をまたぐたび、カウンターのガラス内側に据えた塩灯が、ごくわずかに呼吸した。残ったのは水煙ではなく〈水の文〉で、襟元に薄く貼りついたそれが、記録室の紙繊維を伝ってゆっくり広がっていく。今日はひと握りの砂がガラスの中に固定され、一行の言葉が帳面に残った。私たちはその場面を引き延ばさず、ただ静かに座っていた。引き延ばせば引き延ばすほど、値が安くなる――昼のうちに、嫌というほど見たからだ。


春配がやかんの蓋を開けるあいだ、少女はペンダントを握った手を膝の上に置いた。ガラスの内側で砂が崩れ落ちていないか確かめるように、指先をほんのわずか動かす――その動きが、妙に歌に見えた。言葉ではなく、リズムの側のものとして。王子は背もたれに背をつけずに座っている。背を預けると、問いが深くなったときに身体が先に後ろへ引いてしまうから、いつも前へ残るほうを選ぶのだ。


「名を決めよう。」春配がカップを配りながら言った。「契約は、名を掲げてこそぴたりと貼りつく。今日は『人の復権』の一行目だったし、明日からは〈人として〉呼ぶ回数が増える。」


少女は少し考えてから首を傾げた。耳の後ろへ払った濡れ髪が、ようやく乾きかけていた。「……私は、海に属していたくはありません。」


その文が終わるまで、部屋は静かだった。その言葉は「海を捨てる」ではない。所有を降ろすことと、帰属しないことは違う。帰属しないとは、どこへでもひとまず留まれる、に近い。


「なら、海から来たけれど海の名ではない、〈座〉の名を。」私は言った。「戻って来る座を覚えていられる名。君から選んで。」


少女はペンダントの砂をそっと撫でた。砂は位置をわずかに移すだけで、かたちを変えない。「……ネリア。」


春配が眉を一度上げる。「ネレイアから一つ外したね。」


「長さを削れば、削ったぶんを私が埋められる気がして。」少女――ネリアが笑う。「長く呼ばれると、私が振り向く速度が遅くなりそうで。」


王子が短く頷いた。「短く、遠くへ行く。」


私たちは帳面の余白に小さな円を一つ描いた。名は円の中心にそっと置かれた。とがった音はまだ載せない。誰の呼びかけでも割れにくいよう、まずは円を固く。


春配が別の帳面を出してくる。表紙の裏に爪ほどの水染みが残る、港湾庁の寄贈本。角は磨り減り、余白には灯台の交代日誌から剝いだらしい数字が鉛筆でいくつか記されている。彼は顎に手を当て、私たちをちらりと見た。「今日、君たちが海へ下ろした言葉、『待ってて』――あれは良かった。ただ、二人だけで知っていると値が小さい。三人で知って、ようやく値になる。」


彼の言う三人は、私たち三人ではない。〈場面・人・証言〉だ。場面と人が互いを食い合わず、その間を証言が渡ってこそ、長く残る。


「だから、王子が必要なの。」ミホが継いだ。「王子は〈証人〉として立って、『救われた人』ではなく『待てる人』へと変わって。」


王子は視線を落として、また上げた。「証人は、言葉を節約しなければ。」


春配がくすりと笑う。「言葉は減らしても、体温は惜しむな。」


その夜の二つ目の仕事を決めた。海へ下りる階段は、昼の値札が貼られるとひびが入る。だから夜の値で保存する。〈保存〉は、売らない側の名だ。帽子はそれを嫌うだろうが、翌日、私たちは先に貼らねばならない。言葉は、先に貼った側が責任を負う。私たちは、責任を負える文だけを選んだ。


私は帳面を一枚、びり、と千切って持ち出した。紙の軽さは、天気を先に教えてくれる。今日は湿りが内側から乾き始めていて、それは風が陸へわずかに振れている徴だ。風が街の内へ入り込むと、海はさらに薄くなる。薄いほど、道は長く伸びる。


「帽子は?」王子が訊く。


「帽子をかぶって来る。」春配は素っ気なく言う。「でも今日は、印を押した。文の値で。」


「その文を夜へ移すのは、私たちの役目。」ミホが砂時計を返した。「王子――今日は『王子』で立たないで。」


王子であって王子を降ろすのは簡単に見えて、簡単ではない。誰かが王子と呼んだ瞬間、その人の足もとには、階段の代わりに手すりが設えられる。手すりは見栄えがよく、事故は手すりで起こる。私たちは手すりを外して階段を出すことに慣れてはいたが、王子自身が自分の呼称を手放すのは初めてだった。


「では、今日の呼び名は。」私が訊く。


王子は少し考えて、唇だけを短く動かした。「木こり。」


私たちは皆、笑った。木こりは〈切らないための切り方〉が上手い者の名だ。切らないために、何を切るかを最初に知る者。要らない言葉、要らない視線、要らない拍手――それらを先に刈り込むこと。今日はそれが要る。


夜風が港の匂いを連れてくる。灯りは昼よりずっと少なく、少ないぶんだけ居場所を見つけている。防波堤の金属手すりからは温もりが抜け、闇をいくらか硬くしていた。昼にロープを張っていた緑のベストは見えない。代わりに白い折り畳み標識が一つ立ち、黒のマーカーで書かれた文字が夜の湿りでわずかに膨れている。


〈夜間「階段体験」中止。波の観覧のみ可〉


筆圧は不快な類いではなかった。書く手が一度、ためらった印だ。ためらいはたいてい、向こうが初めてこちらの言葉を読んだ徴。


「今日は、手すりじゃなく、まず呼吸を片づけよう。」木こり――王子が低く言う。


標識には触れない。代わりに、その脇の空気に手を置いた。ミホが掌で空気を押し、昼の拍手の残滓が残っている層を、そっと剝いでいく。掌で当てることは、誰かの肩を撫でることに似ている。肩の代わりに空気で、嗚咽の代わりに雑音を。


ネリアはフードをかぶらなかった。濡れた髪が風をとらえ、それだけで道を作った。彼女は昼に覚えた座を忘れず、足を先に動かさず、目だけで下り始める。階段は闇の中でもかたちを出した。濡れない水跡が、夜でも濡れないという事実が、不思議な安堵になった。昼の金と夜の場面なら、私たちは夜を先に信じる。


帽子が影から歩み出る。相変わらず正面を避ける目で、こちらを見る。「今夜は文を変えたね。『観覧』か。」


「見物と観覧は違う。」ミホが言う。「見物は食べ、観覧は残す。」


帽子は何も言わなかった。左手に丸めたラベルのロールが見え、風に角が少し浮く。今夜は貼らないつもりなのだろう、その手をわざとポケットに入れた。


「今日は印を押したよ。」私は言う。「文の値で。夜は印より、署名がいい。」


帽子の口角がほんの少し動く。「署名は、誰の名で?『王子』?『少女』?『観覧者』?」


「座。」木こりが答えた。「座の名で。」


帽子はそれ以上問わなかった。手すりに近い側――風が波を薄くする縁を避けて、一歩退く。見たくても、少し遠くに立たせる礼。そういう礼は、金より長持ちする。


私たちは一緒に、長く息を吐いた。海が、ごくゆっくりそれに倣う。ネリアの足が、階段の一段目の手前で止まる。彼女は今夜は下りなかった。代わりに、両の手を海へ向けて広げた。その掌の温度を、海が先に確かめられるように。水が先に沈んでからでないと、人の足は行き場を語らないから。


私はガラス棒を出さなかった。昼の雑音はもう抜けきり、夜は雑音を嫌う。代わりに港湾庁の帳面から剝いだ小片を取り出し、標識の裏側にテープでごく弱く留めた。三行だけの文だ。


〈今夜の観覧法:①足は後ろへ。②目は下へ。③言葉はあとで。〉


帽子がちらりと見る。「値札はないんだね。」


「観覧に値札はありません。」ミホが言う。「その代わり、次の場面を残す。」


王子が声を削ぐ。「次の場面を残さない観覧は、見物と同じです。」


人がぽつぽつと集まってくる。昼のようには騒がない。夜は、騒ぐ者をたやすく恥ずかしがらせる。子どもの手を引く女がいて、防水のジャンパーを着た釣り人もいた。皆、〈闇の目〉で海を見た。闇の目は、昼の目より欲をかかない。


そのとき、うっすらとした歌声が聞こえた。歌というより、息と息の間に挟まって出た道の痕跡。ネリアが口を開き、波がその口を横切りながら音を半音、下げていく。夜は音を下げる側で、その下げが言葉より遠くへ届く。


その音に、誰かが嗚咽を飲み込んだ。嗚咽は拍手ではないが、拍手より長く行く。少女の肩が一度震えた。痛みの震えではない。失くした声を早く取り戻しすぎないために、自分で自分をつかまえる側の震え。王子がごく弱い手つきで〈だいじょうぶ〉を送る。ミホは首を傾けて〈もう少し〉を重ねた。


帽子が横へ退く。彼の踏んでいた座を、子どもが目で踏む。子どもの手首を握る女が、極小さな声でありがとうと言った。帽子は聞こえないふりをしたが、帽子は〈聞こえないふり〉がさほど上手くない。ポケットの中でラベルのロールを転がす速さが、ほんの少し落ちた。


私たちは夜を長くは引き延ばさない。場面を伸ばせば質感が先にほつれるから。ネリアが唇を閉じ、海は自分の呼吸へ戻る。階段の一段目が、するすると解けて消えた。人々は散っていく。笑顔もあり、静かな顔もある。どちらでもいい。夜はどちらも連れていく。


帽子が最後にこちらを見る。「明日の昼には、また誰かがロープを張る。階段を売り、観覧を見物へ変えようとするだろう。」


「明日の昼には、観覧法がもう貼ってある。」私は言う。「それを剝がすなら、明日の人たちが先に剝がすことになる。なら、私たちは明日も観覧客でいられる。」


「私が剝がしたら?」帽子が訊く。


「帽子だけかぶって歩く人は、目立つんですよ。」ミホが短く笑う。「今日みたいに目深にかぶるほうが、よく見える。」


帽子はさらに帽子を押し下げた。それが彼の挨拶だった。彼はラベルのロールを取り出し、どこにも貼らず、そのまま畳んでポケットから抜いた。ラベルは言葉と同じで、触れるほどにテカる。テカりは次の文を難しくする。彼はそれを知っていた。少なくとも、今夜は。


私たちは図書館へ戻った。春配が扉を半分開けて待っていた。私たちを見るなり、帳面ではなく小さな箱を差し出す。中には一字の判が寝かされていた。とても古い木目が指先に伝わる。


「声の代わりに、よく使う印。」彼が箱を卓上へ置く。「押すかどうかは、君が決めな。」


ネリアが箱を覗き込む。側面に、ごく薄く刃で刻んだような字がある。〈待〉。わたしたちは目を合わせた。昼の場面が夜までつながってここへ届いたなら、明日の昼までだってつなげられる。印を押すのは簡単だ。簡単なことを明日へ延ばすのは難しい。


「押す?」私は訊く。


ネリアは首を振った。「……今日は、言葉で残します。」


彼女は鉛筆を取った。紙の近くへ唇を寄せ、先に息を集める。そして、昼に聞いた音の長さだけ、ゆっくりと字を書く。帳面の余白に、やはり一行。


「待ってて。」


私は、その言葉が〈お願い〉ではなくなる未来を一瞬だけ見た。誰かを待たせることと、誰かのために待ってやることが、互いを食わずに並んで立つ場面。私たちは、その場面を強いないと契約した。代わりに、その場面が自分で来られるよう座を掃く。手すりではなく階段を。値札ではなく観覧を。帽子ではなく額を。


夜がすっかり冷めても、ガラスの中の砂は崩れ落ちなかった。砂は内側で、かえって固まった。それが帰還の証だった。灯りを消してからも、しばらく座っていた。床を伝って入ってくる気配があった。海は図書館の気配を知っていて、図書館も海の気配を覚えはじめていた。互いの敷居に少しずつ慣れていく夜は、明日の骨折りを減らしてくれる。


王子が立ち上がった。木こりが斧を下ろすみたいに静かに。「明日は、灯台へ行きます。」


「灯台?」ミホが訊く。


「光を変えるなら、火を先に見ないと。」王子は短く笑う。「手すりじゃなく、階段で上る火。」


春配が頷いた。「灯台交代日誌、早朝の帳面は開けておこう。」


私たちはそれぞれの闇を手に、外へ出た。今日の言葉は今日のうちに土へ埋めた。埋めるほどに長持ちする種類の言葉がある。〈待ってて〉がそうだ。風が踵についてきた。踵は今日の最後の場面。夜はそれだけで足りた。そして、次の場面は――朝が教えてくれる。

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