表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/30

E23

灯台の鐘が二度目に鳴るころ、暮らしの音が海の言葉の上に重なりはじめた。釣り竿が石に当たる音、長靴で駆けてきた子が足を止める音、「今日はいけそうだな」といった大づかみの予感。私たちは同じ座に立っていたが、座を離れる用意をしていた。座を離れるとき、文を丸ごと抱えていくことはできない。代わりに、持ち運べるように畳むやり方があった。


私は防波堤の縁でいちばん薄い影を掌で撫でた。手相に塩気と細かな砂が付いた。少女はその手をじっと見て、まるでその手相を拭ってやるように自分の手の甲を差し出した。私は首を振る。「これは持っていくものじゃなくて、置いていくもの。こっちに付いたのは確認用。」私は手をはたき、塩の粉をノートの角に軽く叩きつけた。紙は匂いを覚えるのが得意だ。ミホが上りかけの階段から手招きした。


「ぜんぶ見えてた。よかったよ。」降りながら言い、ポケットからオレンジの紐が付いたネックストラップを三つ取り出して差し出す。「臨時入域。『港湾局協力』の文言は印字済み、実際に協力する必要はない。その代わり、質問には短く答えて。」


王子が黒髪を耳にかける。「誰の質問に。」


「釣り人、朝ラン、好奇心の強いティーン、たまにとても親切な大人。」ミホは肩をすくめた。「どれも大丈夫。正面さえ避ければ。」


少女にはフードが要った。ミホがリュックから薄いグレーのフーディーを出し、目で許可を求める。少女はゆっくり頷いた。髪先がフードの中へおさまるとき、かすかに海の匂いがした。私たちは一列には歩かない。半歩ずつ重なる広いV字。真ん中に少女。それぞれの横目が、互いの影を覆った。


防波堤から道へ移ると、問題の紙があとを追ってきた。風の力が弱まると、今度は題を付けて転がってくる。「遺失物受領台帳(仮)」。受領者欄には、我先にとこちらへ這ってくる空欄。ミホが腰だけ折って、クリップボードで紙の角をコツンと突いた。紙は、近寄りすぎたのに気づいたらしく、角を巻いて逃げるふりをした。


「昼の書式は、礼儀を覚えたふりをするね。」ミホがにやりと笑う。「でも近づけば厄介。」


「『資格確認』だの『受領台帳』だの……言い換えて来るだけ。」私が言う。


「昼の言葉はきれいだから。」ミホが言った。「まず言葉をきれいにして、あとで跡を残す。私たちは逆にしなきゃ。」


私たちは側溝の蓋を通るたびに速度を落とした。少女がその上でつま先を止める。鉄の文様が波の背のようにうねっている。彼女は顔を上げず、踵で模様の向きを読む。痛みは追いつけない。王子がその隣で静かに説明した。


「あれは水の抜け道です。街ごとに道の刻み方が違う。ここは海へ直で落ちる。」


初めて会ったときより、彼の「説明」はぎこちなさが減っていた。私の耳にも、その言葉には向きがあった。人は自分の足で読んだものを他人に言うときに、はじめて確信を得る。それがいまの彼の表情にあった。少女が蓋の四角の一マスをコツンと叩く。〈ここ〉のきょうだいみたいな仕草。


割れた陽がガラスに跳ねる。私たちはわざと一本裏へ回った。港湾事務所の前を通れば、誰かが書類を持って当然のように道を塞ぐのが目に見えていたから。回り道の樋の下で、カモメが紙をひょいと咥えた。書式は空中でくしゃりと形を変え、今度は青いリボンを付けた。「体験イベント申込書」。カモメがその「申込書」を咥えて旋回する。リボンは風に切れた。紙がばたついて、電柱にぴたりと貼りついた。


「ホチキス?」王子がつぶやく。


「あるよ。」ミホがクリップボードを半ば掲げて応じた。「でもあれは電柱担当。どうせ日向で乾く。昼はあのまま貼りついて、夕刻いきなり人の顔に戻る。」


「人の顔に?」私が訊く。


「ときどき。」ミホは笑い、すぐ顔を引き締める。「笑いごとばかりでもない。」


私はノートを掲げ、紙の位置を横目で記した。角の電柱、二段目のボルトライン。昼の規則は私たちの仕事じゃない。けれど、昼が誰かの「ふつう」を勝手に広げるとき、また呼ばれる。そのときのために「どこに貼られていたか」くらいは記しておくといい。


「裏へ。」ミホが手で合図する。「車が少なく、視線の速さが鈍い道。」


私たちは干物屋の壁づたいに歩いた。乾いた魚の瞳が陽のなかで小さな点を打つ。少女が立ち止まり、尾のあたりの爪先ほどの銀粉を見た。彼女が半分だけ唇を開く。今日の「言葉」はもう使った。私は自分の手の甲に親指で短い曲線を描く。彼女はわかった。私の手の甲の曲線が〈そば〉だということを、彼女はもう知っていた。声にはしていないけれど、私たち三人ともう一つの影に——その曲線は充分伝わった。


角で、安全ベストの男が腕を組んで立っていた。昨夜の「帽子」だ。帽子は朝も帽子をかぶる。縁なしの帽子のほうが怖いことを、私は昨夜知った。彼の足もとにファイルが開いていた。今日は白ではなくグレー。「事前引継ぎ合意書」。一語が、胸の内側を擦る感じがした。〈合意〉が〈契約〉のふりをする空気。


「おはよう。」帽子が言った。相変わらず、私たちを正面からは見ない。プロは視線で突っ込まない。「いい日です。今日は昼へ渡しましょう。」


ミホが一歩出て笑った。笑いは短く、目は笑っていない。「昼へ渡すには、まず夜の座を確認する印が要る。あなたたちの印、昨日は砂、今日は指紋に化けた。指紋は昼にやわい。」


「砂はお嫌いで。」帽子は気軽に言う。「では、もっと端正に。印を用意しました。」


彼がファイルをくるりと返す。透明ケースの中に薄い金属。現場から掬い取ったみたいに自然な円。斜めに日が当たり、波の揺らぎが半分閉じ込められている。夜の座をコピーしたような擬装。私は半拍遅れて足を引いた。王子も続く。ミホの手首がわずかに強ばった。


「それは印じゃない。」私は言った。「座の切断面です。」


帽子が首を傾げる。「どういう意味で。」


「昨夜の防波堤の縁を、そのまま型取りしたんでしょう。」私は手相の塩の粉を示す。「こっちは付いても香りしか残らない。でもそれは触れた途端、削ぎ取る。〈ここ〉を正確に複製する代わりに、〈ここ〉を切り落とす。」


帽子が渋く笑う。「最近の若い方は、用語の勘がいい。」


「そう呼びます。座を切る印。」ミホが割って入る。「その合意書にそれを押したら、今日の午後には、あの子がまた喉を痛める。」


王子の肩が半寸上がって、落ちた。彼は何も言わず、横目も揺らさない。足の甲の筋肉が一度震えた。〈いまは——言葉を使わない〉を、私たちはもう書いている。私は奥歯を一度押し、長く息を吐いた。


「では、どうしましょう。」帽子が言った。声はたしかに「知りたい」距離を保っている。けれどつま先は、もう私たちのV字の外側を裁断していた。〈合意〉のつま先だ。〈契約〉は〈ここ〉を先に立て、条件を書く。〈合意〉は先に空欄を差し出し、つま先で人の配置を決める。


「座の文を先に確かめます。」私が言う。「夜に書いた文を、昼の字体に変換する。印はあと。座の複製は私たちの引き出しだけで。」


「引き出し、ね……」帽子が舌を打つ。「有名な引き出しだ。」


「ええ。」ミホが言った。「Bブロック、二階。港湾資料保存の引き出し。潮の匂いがする引き出し。」


帽子は微かに笑った。「結局いつも図書館に帰る。あなたたちは。たまには外で完結してくれたら、こちらは楽なのに。」


「床ではなく紙で終わらせると、床が覚えない。」私は静かに言う。「そしたら明日、同じ座を書けない。」


帽子が少し首をかしげる。「それほど重要ですか。」


「それがあなたがたの仕事を減らすの。」ミホがつっけんどんに言った。「同じ座で同じ言葉で終えてくれれば、昼にあなたたちが説明するとき、楽になる。」


帽子は肩をすくめ、道を譲るように身を引いた。「ハル。」彼が私の名を半分だけ呼んだ。その半分は王子のものとは違う。保留ではなく、圧だ。「引き出しで終えるなら、鍵は。」


「鍵はいつも内側に。」私が言う。「外から借りるものじゃない。」


帽子は答えず、つばを押さえた。つま先で側溝の蓋をコツンとつつく。鉄が鳴る。その響きは、さっきの灯台より浅い。彼は身を引いた。「じゃあ今日も、本の匂いを嗅ぎに行きますか。」


私たちは彼の脇を通り過ぎた。少女はほんの一瞬、頭を下げた。挨拶という身振り。帽子は半拍遅れて帽子のつばを上げた。彼の礼儀は、正面を避ける礼儀だった。まだ救いがあった。


人で賑わう横断歩道の前で、少女がふいに止まった。赤い人が点滅している。青に変わると、人の流れが川のように押し出された。少女が両手でフードの縁を握る。風と人の匂いが一度に押し寄せ、肩へぶつかった。彼女のつま先が、防波堤の石を探すみたいに床を探る。私は彼女の手の甲と自分の手の甲の間に、触れない距離を作った。彼女がそれをなぞる。


王子が私の肩越しに低く言う。「ここ、速いですね。」


「速いこと自体は悪くない。」私が言う。「問題なのは、速くないのに速いふりをする人。」


青い人が何度か点滅すると、流れが途切れた。私たちは周囲と違う速度で渡った。向こうの路地へ入ると、風が一トーン沈む。夏がまだ抜けきらない路地。昨夜の海の匂いと、昼の薄い果物の匂いが混ざっていた。路地の端に人が立っていた。


女だった。短い髪。風に逆らって立ち、私たちを正面からは見ない。掌を軽く上げ、私たちを一人ずつ別々に挨拶する。人数分だけの軽く正確な会釈。首には小さなガラスの欠片が下がっている。単純な飾りに見えたが、陽が変わると欠片の内側で波の光が二度揺れた。鱗ではなく、ガラス。海の言葉を一度くぐったガラスだけが鳴らす、鈍い澄み。


「味方よ。」女が先に言った。声は低いが遠くまで届く。「そっちも、届ける側。」王子と私を指すように顎で示す。「そして——その子。」


少女がゆっくり顔を上げた。女のガラス片が〈ここ〉という音節と触れるかたちで揺れた。痛みは追いつかない。私は背を壁から少し離した。誰かが「値」を言うときの距離だ。


「同じ側。」女が言う。「同じ海の光を拾う。ただ、やり方が違う。」


「どんなやり方です。」ミホが先に訊いた。淡々としているが、指がかすかに動く。引き出しの位置を数える指。


「あなたたちは座から書く。」女がガラス片をつまむ。「うちは値から言う。」


その一語が、路地の影を少しずらした。値。誰かには〈代価〉で、誰かには〈価格〉。私は舌先で上の歯の裏を押した。言葉が出る前に、歯が先に座を取る。


「値はもう言った。」私は低く言う。「昨夜、〈ここ〉を苛まない値。」


「それは夜の値。」女が首を振る。「昼の値は別。昼は人が多い。目が多い。口が多い。だから値も増える。」


王子が息を吸う。「では、何を望む。」


「不要な優しさ。」女が笑う。「昼はそれがいちばん高い。人は昼に、優しい言葉で他人を縛るから。」


彼女は少女に親指をゆっくり立てて見せる。「その子に今日の昼、降ってくる優しい言葉の半分を、あなたたちが代わりに受けて。『大丈夫?』『つらくない?』『どこか痛む?』みたいなの。直接は答えず、横へ流すの。今日、言葉をひと粒もう使った子には、優しさは刃よ。」


その言葉が、路地の温度を少し変えた。私は少女を見なかった。横目の内側で、フードの縁がとてもゆっくり揺れた。彼女は知っていた。優しさが人を傷つけるときがあること。王子が静かに言った。


「その値は……僕たちが払える。」


女が頷く。「いいわ。なら、ひとつ渡す。引き出しの鍵は——」


彼女がガラス片を下ろす。光が床に落ち、四角い欠片に割れた。「取っ手の反対側、取っ手のない面。そこにごく薄い溝がある。爪じゃなくて、言葉の前歯で開ける。音を立てずに。今日はそうやって。」


ミホが息を呑む。「それ、うちの内部マニュアルにもない——」


「マニュアルは昼が好むもの。」女が言う。「夜は記憶を好む。あなたは記憶が強いでしょう。だから今日は、マニュアルじゃなく記憶で開けて。」


女は少し顎を上げ、陽を喉に掛けてから下ろした。ガラスの中の海が最後にもう一度だけ揺れた。彼女は背を向けた。背を向けるときも私たちを正面からは見ない。路地の空気が足首ほど押され、また解けた。


彼女が去っても、路地にはしばらくガラスの匂いが残った。海とガラスのあいだにある泣き声のような匂い。ミホが低く口笛を吹きかけて、やめた。


「彼女、夜にも昼にも書類が嫌いだね。」ミホが言った。「でも……感謝したほうがいいかも。」


私たちは互いの肩線の外で頷き合った。昼が始まった。私たちが受け持つ優しさの量もいっしょに増えた。港を過ぎ、図書館のある街へ入ると、犬にリードを付ける手がぽつぽつ見えた。子がアイスを持って顔を出す。誰かが電話で足を止める。優しさが四方から小さな言葉の形でこちらへ駆けてくる。


「だいじょ——」最初の優しさが滑ってきた。王子が半歩前へ出る。声は低く、きっぱり。


「大丈夫です。ありがとうございます。」


「どこ——」二つ目が来る。今度は私が出た。


「ここまでは、私たちが同行します。」


「つら——」三つ目が入口あたりで立ち上がる。ミホが軽く手を上げた。


「もうすぐ安全な影に入ります。」


優しさを反射するのは、わざわざ理屈で説き伏せることではない。誰が先に言ったか、誰が目的だったかも重要ではない。優しさがこちらへ届く前に、別の方向へ流れていく小さな勾配。私たちはその勾配を身体で作った。言葉は最小限。言葉は今日、私たちにひと粒しかないのだから。


図書館の階段を上ると、風が変わった。紙の匂いと古い木の息の混じる空気。Bブロック入口のドアノブは、陽を受けない金属色だった。踊り場で誰かの足音が近づくまで、誰も口を開かなかった。足音が止まる。扉が開く。受付の奥、暁にこちらを見下ろしていたあの眼差しがふたたび現れた。今日は眼鏡の上に目が先に来る。「春配」だった。


「正面は禁止。」彼が先に言い、私たちは同時に笑った。


「引き出し。」私が言う。


春配が頷いて道を空けた。「反対側から。」


私たちは自習室を抜け、資料保存室へ入る。引き出しが壁沿いに低く寝そべっていた。鉄ではなく木。手垢のついた取っ手が等間隔で付いている。どこにでもありそうな形、けれどどこにもない道。ミホがいちばん端から三つ目の前に立った。取っ手がなかった。いや、あるべき場所にない。彼女が指で撫で下ろす。つるりとして、爪の入る隙がない。


「言葉の前歯。」私が低く言う。


少女がとても慎重に頷いた。彼女の唇が〈ここ〉の形で一度開き、閉じる。つづいて王子が引き出しの面に顔を近づけた。歯が木に触れる、ごく小さな音。子どもの悪戯にも見える動作。だが音は悪戯ではない。木目が歯のエナメルをかすかに擦る。その擦れが「大丈夫」の反対語を残し、すぐに消えた。王子がもう一度、そっと面を押す。「カチ」ではなく、「フウ」という息が鳴る。引き出しがわずかに送れて、開いた。


中は塩と木粉と海風がいっしょに付いていた。夜の座を複製するのではなく、夜の座を記憶する作りの小さな洞。私たちは手を深く入れなかった。内側の空気をひとくち吸い、少女が半歩だけ身を傾ける。肩が下がる。痛みはまだ追いつけない。私はそこでようやく長く息を吐いた。


「ここから先は……」春配が戸口で言った。「人の役目です。」


彼は語尾を伸ばさない。伸ばさない言葉がいちばん長く残ることを、ここの人たちは知っている。ミホが少女の横に腰を下ろした。王子は半歩うしろで、背を椅子の背にそっと預ける。私は引き出しの側面に掌を当て、木の手触りを書いた。〈ここ〉の座を、もう一度折り入れた。


外では足音が混じりあう。昼の優しさが図書館の匂いと交わる。私たちはそれぞれの座を守ったまま、優しさを横へ流す用意をした。今日一日は、それが私たちの支払う値だった。夕方の前まで。夕方が来れば、また海が先に話す。そのときはまた問い直す。どこから、どうやって、どれだけ。


今は——静かに大丈夫だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ