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E22

暁は海の内側から明るくなった。闇が退く速度は街に比べてずっと遅く、その遅さこそがここで信じるに足るものだと感じられた。波は夜のあいだ平たくなっていた背を伸ばして息をし、防波堤の石の隙間からは塩と苔の匂いが、裂きたての紙のように薄く広がった。私たち三人は同じ場所にいた。少女は昨夜座ったその座を守り、王子は半歩うしろで風を選っていた。私は濡れない水跡の最初の線を確かめる。夜にも消えなかったその細い乾いた線が、暁の光でふたたび目を覚ます。


言葉より先に、座。昨夜じゅう心に刻んだ順序が、朝の空気とともにいっそう鮮やかになる。私は靴を脱ぎ、靴下のつま先で石の目をなぞった。表面のざらつき、苔のぬめり、乾いた面の軽さ。「正面禁止、横で読む」はここでも有効だ。私は水跡を横目でさらいながら、一枡、一枡と足を置く。足跡ではなく、体重で記す感覚。王子が後ろで追う。石を選ぶ彼のリズムは、昨夜よりせかせかしておらず、不安も少なかった。


「足で書く文字は……どこに残るのでしょう。」王子が訊く。どこを見ても私を正面から見ない、その作法はもう自然だった。


「石が覚えます。」私は言う。「たとえ今日一日だけでも。今日一日あれば充分です。」


少女が手のひらを上げて見せる。手相の上に、昨夜の輪の痕がうっすら残っていた。金属ではなく、暁の名残りの光。彼女は手を膝に置き、つま先で水跡の線をトントンと叩く。トン、トン。短く一定。痛みが追いつけない拍だ。私は息を深く吸って、半分だけ吐き出した。長い文を口にするには、まだ早い刻限だった。


私たちは防波堤の縁に沿って並んで動いた。濡れない線の角ごとに、私は極短い停止を挟む。止まって一歩、また止まって一歩。王子はその停止の長さを真似、少女は停止と停止のあいだに足先を弾ませる。三人のリズムが文のように束ねられるまで、時間はいらなかった。


昨夜、暗がりからこちらを覗っていた網は、暁にはずっと遠ざかっていた。結びごとにまたたいた薄い文字も消え、海はまた水の言葉へ戻っている。代わりに遠く灯台から、人の咳払いのような音が一度、二度と短く跳ねた。出勤する誰かが埃と塩を払う音。世間と物語の境目が噛み合う音。


王子が、私を見ないまま言葉を継いだ。「昨日……『帽子』と呼べばいいでしょうか。あの人が言っていた暫定効力。太陽が昇れば終わるのですか。」


「終わる前に記録を残せば、終わらない部分が少し生まれます。」私は石の縁を足で指す。「いま私たちがしているのはそれです。座の文を一行、書きつけておくこと。」


「その次が——言葉ひと粒。」王子の声が、ほんの少しあたたかくなった。希望は明るさより温度に近い感情だということを、彼は今ようやく知ったようだった。


私たちが防波堤の、わずかにえぐれた地点に至ったとき、少女が先に止まった。昨夜の座より半枚ぶん内側。波が裾を舐めては返す場所。彼女は膝を抱き、ゆっくり背筋を伸ばす。風が髪の先を一度撫でて過ぎた。痛みが追ってこなかったことを、その肩が先に知らせる。


私は輪を取り出さなかった。今日は金属がなくても足りると、掌が言った。代わりにポケットのノートを開く。罫のないページ。罫がないからこそ書ける文もある。私はペンを取らず、ノートの下の角で石をそっと三箇所押さえた。始まり、停止、再開。紙に傷はひとつも残らないが、石はその押しをきっぱり覚える。


「ここから、言葉ひと粒。」私はごく小さく告げる。


王子が息を整え、少女へ半分だけ視線を送った。暁の光に彼の顔は、昨夜より焦りが少なく、強迫も薄い。それがこの座のもたらした変化だ。座が先に戻れば、人はついでに自然と戻る。私たちはその順序で今朝をつかんでいた。


少女が唇をいったん閉じ、たいへん慎重に開く。喉ではなく舌が、舌ではなく歯が先に動く音。長く封をしていた瓶を初めて開けるときの、微かな弾力。私は意味も分からず指をぎゅっと握った。王子は見えないところで背を立てた。


「よ—」少女の喉からこぼれたのは、音節の半分。舌先がやっと触れた子音。だが向きははっきりしていた。「—こ。」


ここ。


そのひと粒が落ちると、塩の匂いが半拍ぶん明るくなった。風の軌道がほんの少し変わる。足もとの石が応えるように軽く鳴った。その響きは灯台まで届いて戻り、私たちの立つ座の上で一度、円を描いた。言葉ひと粒の効力。これだけで今日一日は、もう少し保てる。


王子が目を閉じて開き、少女を見ないまま頭を下げた。「ようこそ。」彼は言った。短く端正。歓待の形式が過剰でないことは、今日に限っていっそう良いことだった。


少女が少しだけ背を伸ばす。頸の線に血が戻る。彼女は手のひらを海に向けて示した。「ここ」を、今いちど確かめるように。そのあと彼女は一本の指で空中に極小の曲線を描く。湯気のようにすぐ消える曲線。私はその曲線の意味が分かる気がした。「ここ」の次に来る語。〈大丈夫〉の意味をもつ何か。


私はペンを取り、ノートの角に小さな点を一つだけ打った。これ以上は書かない。これでいい。今日の順序を越えない範囲で、私たちにあるものだけを書いて残す態度。それがこの物語を守るやり方だった。


灯台の方から女性の声がした。「朝の記録班——ここで合ってる?」時刻のわりに目覚めのいい声。ミホだ。帽子ではない。昨日、私に横目を教えてくれたその人。私たちは振り返らず、手だけ上げて合図する。ミホが防波堤の縁を伝って下りてきた。靴の踵が石に当たる音は、昨夜の帽子より軽い。


「正面は禁止。」近づきながら、彼女は先に微笑む。「教わったとおり、ちゃんと守ってるね。」


「座から。」私は短く応じる。


「いいわ。」ミホは少女と王子のあいだ、私たち三人が作る角度の外側で止まった。「夜の暫定効力が落ちたって連絡——私が確認した。その代わり、暁の第一記録に補助効力を付与。位置は限定。終日維持は無理だけど、午前の潮位が変わる前までは保てる。」


「痛みは。」王子が問う。夜通し鍛えた沈着が、音節にまだ残っている。


「除外のまま。ただし、言葉は今日は一粒だけ。」ミホが頷く。「さっき書いたみたいね。よかった。トーンも良かったし、形も綺麗。」


少女がごく薄く笑った。ミホは少女の方へ手の甲をそっと差し出す。触れ合わないように、けれど触れそうな近さで。「待っているよ。」ミホが静かに言う。「ここで。ゆっくり。」


私たちの立つ座の外で、波がひとしきり大きくなる。遠く港の方角から、船のエンジン音が低く敷かれた。朝がほんとうに始まる合図。人の営みの音が、物語の隙間へ少しずつ染み込んでいく。


そのとき、防波堤の端から紙が一枚、風に乗って飛んできた。誰も持っていない契約書だった。安いコピー紙で、角はすでに水を吸って波打っている。紙は私たちの前でうろつき、濡れない水跡の縁で力尽きて、ぺたんと座り込んだ。題のない様式。空欄ばかりの書式。ミホが手を伸ばしかけて、ぎりぎりで止めた。


「触らないで。」私は先に口を開く。「正面から見せたら、先に私たちを書かれる。」


王子が半歩さがる。少女もつま先を上げて下ろす。風が止むと、紙は別の手を探した。自分で角をくるりと巻き上げ、手招きでもするように。空欄が、私たちの不安の物差しみたいにきらりと光る。


ミホが片口元を上げる。「こっちが夜じゅう計算してたのが、昼には用紙に化けるんだね。」独り言のように呟く。「海はいつもそう。」


「私たちのやることは同じです。」私は言う。「まず座を守って、先に記録を残して、言葉はあとで。」


「だね。」ミホは紙から目を外さずに頷く。「それと……昼の客が来る前に、少し時間を稼ごう。あれ、日が強くなると厄介になる。」


私たちは三人で——いや四人で、少女も含めて——紙から一定の距離をとり、半円に並んだ。正面を外した角度、でも同じ対象を一緒に読む位置。風がときどき吹くたび、紙は反発するように空欄を広げては閉じる。そのたびに水面に薄い光が砕けた。


王子が長く息を吸う。「あの書式は……誰が持ってきたんでしょう。」


「持ってくる人はいないの。」ミホが答える。「だから余計に厄介。送る側は、責任がないと信じているはずだから。」


私は膝を折り、掌で防波堤の目をひとなでする。塩の結晶が手に移った。砕けそうで砕けない縁。「書類はいつだってただ乗りを夢見る。その代わり、条件は必ずどこかに隠してある。」


「その条件を——先にこちらが決めたら。」王子の声が硬くなる。


「それが契約。」私は彼を見ずに笑う。「勝つには、まず『座の文』を書いて、その次に『言葉ひと粒』をこちらが選ぶこと。」


少女がその言葉を聞くと、ノートの方を見た。私はノートを掲げて見せる。罫のないページの余白。彼女は指先で空中に短い直線を描いた。一度、二度。私は頷く。今日選ぶべき言葉は、おそらく方向を示す語だろう。「前」ではなく、「そば」。〈行こう〉ではなく、〈いっしょに〉。血がふたたび巡る語。


遠い港から人声がまじり始めた。釣り竿がカチャリと鳴り、長靴を引きずって下りる足音が石の上で散る。私たちの空欄はじきに人の足音とぶつかる。その前までが私たちの時間。残りは昼の持ち分。


ミホが半歩さがる。「いったん引く。紙が座を替えたら知らせて。」彼女は帽子をかぶるみたいに手のひらを眉に当て、笑った。「それから——よくなった。昨夜より、ずっと。」


彼女が上がっていくと、王子と私は同時に息を吐いた。少女は両手を膝に重ね、防波堤の端と水面のあいだのどこか一点をじっと見つめ始める。痛みが追いつけない距離。その距離の上を、彼女の最初の語が周り続けた——〈ここ〉。


私はペンを回し、唇を湿らせる。「少ししたら、もう一粒。ゆっくり。」


王子が笑う。「急がない決心は……私たちを安全にしてくれる。」


「学びましたね。」私は言った。


そのとき、空欄がついにこちらへ滑り込んだ。風向きが変わる。紙は防波堤の縁の境目をすべるように入り、私たちの半円のいちばん薄い隙間へもぐり込んだ。瞬間、私たちは同時に視線を落とす。正面禁止。横で読む。私は紙の右下、王子は左上、少女は中央の空欄に、それぞれ目を置いた。


書式の極小の文字が、まるで乾ききる前のインクがにじむように広がっては、一行に収束する。〈申請者欄——資格確認〉。印字はそうあったが、私たちが読んだ意味は違った。「資格」ではなく「座」。私たちはたったいまその座を書いた。「確認」ではなく「確信」。私たちはたったいまその確信を分かち合った。


私はペン先で、ノートの角をもう一度押した。摩擦音はほとんど立たないが、石はまたもはっきり覚える。「却下。」私は低く言う。「座の宣言——優先。」


王子が同じ語を、別の角度で繰り返す。「却下。宣言——優先。」


少女がうなずき、指先で空中にもう一画を引いた。「ここ」の次の語。私たちはまだそれを音にしていない。今日許された言葉は、すでに使ったから。けれど言葉は音だけで存在するわけではない。海はその事実をよく知っていた。防波堤もそうだ。


紙が風を一つ掴むと、自分から折れた。折れた角は水跡の境を越えられず、コトリと転がる。日差しが本格的に強くなる前に、自分から引き下がる態度。昼の規則のなかへ。


私はノートを閉じた。王子が背を伸ばす。少女が膝の砂をトントン払う。朝になった。今日、私たちに許された順序——座、記録、言葉ひと粒——は守られた。あとは昼の務め。昼には昼の契約があり、その契約は夜に私たちが守ったものを足場に動くだろう。


踵を返すところで、王子が呼ばないやり方で私を引き留めた。「ハル。」彼がとても低く言う。名前を完成させず、半分だけ呼ぶ癖。私はその半分の呼称が好きになっていた。


「うん。」


「いつか……『ここ』の次の語も、私たちの番が来ますか。」


「来るよ。」私は海を見ないまま答える。「急がないと決めたから、きっと。」


私たちは防波堤の縁を上った。振り返らずに、けれど同じものを一緒に覚えながら。波は自分の速度を選び、風は自分の角度を変えた。塩の匂いが朝の匂いへ溶けていく。人の暮らしの音が近づいた。


そしてもう一度、遠くで鐘が鳴った。昼の最初の響き。私たちはその音を背に負って歩いた。今日は——大丈夫だった。明日は、尋ねるだろう。

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