E21
夜は波の内側から染み上がってきた。背に触れる空気は昼より薄く、波は遠くで折られた紙のように、一枚ずつこちらへめくれてくる。海側には言葉を持たない少女、陸側には王子、そのあいだに私。昼に拾った輪は、私のノートの上で、冷えた鱗のように静かに冷えていた。
正面を見ない作法は、もう身体が覚えている。斜に立つ。視線をわずかに外す。誰かが先に私たちを見て、先に値段を付けるのを防ぐために。
「ここは夜が速い、と……本当ですね。」王子が脇で低く言う。「息が一拍ずつ、うしろへ押されます。」
「うしろを追えばいい。」私は海を見ずに答える。「先に走りたい気持ちだけ押さえれば、息は勝手に戻ってきます。」
少女は膝を抱えていた。足の甲に溜まった雫が、落ちそうで落ちないまま、長い時間を耐える。落ちる直前のその停止は、痛みをそのまま写し取った一文のようだった。
そのとき、甘い匂いがかすめる。砂糖が焦げはじめる、台所の隅の甘くて居心地の悪い匂い。私は半歩さがる。王子も続く。少女だけが定位置。海から上がる風がひと時よろめき、防波堤の影の先がきい、と顔を変えた。
闇のなかで、網が姿を見せる。誰も投げていないのに、結び目が闇に沿って育ってゆく。結びごとに薄い文字がまたたいては消えた。〈延長〉〈貸与〉〈返却遅延〉。海はしばしば書類をまねる。海はしばしば人の話しぶりを覚える。だから夜ごと、こんな文字がこちらの様子をうかがいに来る。
「正面、禁止。」私は先に語尾を沈める。「横で読みます。」
王子がごくわずかに首を傾けた。「では私は……左の陰影を。」
「いいですね。私は右のクリームラインを。」
同じものを、それぞれ別の角度で見る。昼間ミホに教わったとおりに。違いを持ち寄って、同じ結論を作る手順。
最初の結びが、肩の高さでかすかに弾んだ。〈担保:声 1〉。文字が極短く光る。
王子の息がわずかに掛かる。彼は私を見ず、私も彼を見ない。代わりに、輪の影だけを一緒に追う。ともに見ながら、正面を避けるやり方。今夜の礼儀。
「今すぐ、声を返してもらえますか。」王子が海ではなく、私の肩に向けて問う。文がひとつ。問いを重ねない態度。
結びが二つ三つ、微細に揺れた。風の中に〈いいえ〉に近い線が生まれては消える。少女の手の甲の雫が、そのとき落ちた。音がした。音らしくない音。だからこそ、いっそうはっきりした。
私は舌先だけで語を動かす。なら順序を換えよう。言葉より先に、場所。少女に要るのは言葉ではなく、足を置ける一枡だ。痛みの来ない一段。
「まずは場所。」王子が私の考えを先回りする。彼はときどき、要る言葉を先に見つける。そんなとき、私は彼をまた少年のように見てしまう。
私はノートを斜めに持ち上げ、輪をそっと押さえた。冷たさが手の甲を上ってくる。冷たいからといって、必ずしも痛いわけではない。耐えられるものと、耐えられないものは別だということを、私たちは今日、ほぼ同じ速度で理解していた。
「遅延を受け入れます。」私は海を見ないまま言う。「その代わり、痛みは——なし。」
結びがひとつほどけた。闇が薄く揺れる。その薄さを、少女が先に察した。膝をわずかにほどき、つま先で短い線を引く。王子がその線に沿って一歩移る。私の位置と重ならないよう、ほんの少しずらして。
「なぜ横に立つのかと問われたら、」私は小さく息を混ぜる。「正面は先に私たちを見る、と——昼に聞いたからです。」
王子が笑った。「気に入りました。」
甘香が濃くなる。網の縁が灯台の影を舐めた。ああいう匂いは普通、誰かの台所から出る。だが海に台所はない。そんなときは、どこかで契約が煮えているという合図だ。
私は息を縮める。長文を一息に言わないために。今は——呼ばない。内側だけで鳴らす。王子には肩のこわばりで、少女には足首の停止で伝わる。
網は私たちの寸法を測っている。海の向こう、礼拝堂の鐘が微かに震えた。誰も触れていないのに、鳴りそうで鳴らない。暗い側から来る音は、いつも半拍遅い。だから人は遅い音を恐れる。けれど今夜は、その遅さを待ってみることにした。焦らないと決めたことが、少しずつ私たちを安全にした。
「魔女の話を……昼に伺いました。」王子が、私に語るように、少女に語るように、風へ浮かべる。「代価を隠さない、と。」
「言いました。」
「だから——ありがとう。」彼は、ひと呼吸置いて添える。「隠していたのは、私たちではなかったから。私は……自分の気持ちを、です。」
風がその言葉の尻尾を持っていく。風が、こういうことをしてくれる時がある。緊張のあとに一度の弛緩。弛緩のあとに短い集中。
少女がようやく私たちを見た。一人ずつ順番に。そして海へ戻したとき、彼女の瞳のきらめきがひとつ、消えてまた灯る。押さえていた語が、微かに揺れる形。
私は短くうなずく。「いいですね。今夜の結論はこうです。輪は——場所。言葉は——あと。痛みは——なし。遅延は——受容。」
言い終わると、網の結びが最後に揺れた。承諾か保留か、どちらにせよ、夜は過ぎていく予定だった。その一点で十分だった。
鐘がいちど鳴った。誰の手も触れていないのに、誰かの心は確かにここにあった。
私たちは位置をわずかに移す。防波堤の縁に沿って延びる細い道。昼に濡れなかった水跡は、夜にもそのまま生きていた。水跡は、たいてい嘘をつかない。その上に影を重ねれば、その日のいちばん安全な動線がだいたい現れる。
「この道を、そのまま行けば、もしかして——」王子が言いかけて呑み込む。視線が先に海を意識した。
「陸の約束は、陸にあるときだけ効くわけじゃない。」私は引き取る。「水も約束を覚えています。濡れない道は、誰かの決心が通った跡だから。」
少女が顔を上げる。濡れない水跡に沿って、つま先で小さく踏む。コツ、コツ、コツ。音はほとんど立たないが、拍は確かだった。ほどよく速く、ほどよく遅い。痛みが追いつけない速さで。
網は一定の間合いでこちらを監視する。結びがひとつ、新しい語を見せた。〈前払い請求〉。すぐに消える。無作法な文。海が人の文書を真似るとき、いちばん下手なのはこういう単語だ。私たちは応じない。応じることは即ち反応で、反応はすなわち枷。代わりに、道を固める。道を固めるのは返答ではない。ただの決心だ。
「この道を……どこまで延ばしましょう。」王子が、私の肩を見ながら問う。
「少女が望むところまで。」私はノートを畳んでポケットに入れる。輪を、もう一度、手の中へ。「彼女が『座る』と決める場所まで。」
「座る場所があってはじめて、言葉も座る。」王子が独り言のようにこぼす。彼はもう、言葉の順序をほとんど理解している。ときどき私より早い。
濡れない道が、灯台の影の足首を過ぎ、低く垂れた鎖の下をくぐり、海側へ少し傾く。その端で、少女が止まった。足首が揺れる。ふくらはぎまで登ろうとした痛みが、私の手の輪がかすかに震えた瞬間、また降りた。
私は輪を少女側へ差し出す。「少しだけ。手の甲に——載せても?」
彼女が目で答える。いいの合図。私はそっと載せた。輪はひと時、彼女の体温を覚えた。冷たくも熱くもない温度。人と海のあいだの朝に似た温度。輪が微かに色を変える。金属の光から水の色へ、水の色から暁の色へ。
「これなら、座れます。」王子が先に気づく。「今なら——」
少女は慎重に腰を下ろした。防波堤の石は硬い。けれど今日は、石のほうが先に身をよけてくれたようだった。痛みは追いつけなかった。その事実の確認に、長い時間はいらない。少女の肩から力が抜ける。暗がりでも、その一点だけは鮮明だ。
網の結びが遠ざかる。アクセルを踏んでいて、急にブレーキを踏んだ車のように、少し間の抜けた眠気を残した。夜風が、その眠気をさらっていく。私たちはしばらく、何も言わない。沈黙が、私たち三人を同じ温度に結んだ。
「これから……どうしますか。」王子が、私に代わりを求めない声で問う。彼は今日ずっと、自分で問い、自分で答えようとしていた。それを知っているのは、私たち三人だけ。
「待ちます。」私は言う。「人の言葉が戻るまで。でも先に人を戻さないといけないから——その前に、名前のない対話をもう少し。」
少女が空を仰ぐ。星は多くない。けれど海は、星がなくても光る。波が自分で星の真似をするから。彼女が指で空中に円を描く。小さな円。つぎに、もう少し大きな円。最後に、極小の点をひとつ。
「円、円、点。」王子が描かれた空気を見て復唱する。「これは……座を意味しますか?」
少女がうなずく。円は一人の座、もうひとつの円は二人の座、最後の点は——言葉ひと粒。
私は笑いをこらえた。緊張のあとの小さなユーモアは、夜の揺れを和らげる。「では、点を一粒だけ許可、ですね。」
少女が、今度ははっきり笑った。無音の笑いにも温度がある。その温度が、私の手の輪へも伝わる。輪はいっとき熱くなり、すぐ冷えた。
そのとき、灯台のほうから靴音がした。砂ではなく石だけが鳴らす摩擦音。海が出す音ではなく、人の音。私たちは同時に、頭を上げない。代わりに、それぞれ見ていた方向から、半拍だけ持ち上げる。
黒い帽子の庇が、光を閉じては開く。昔、優等生がかぶっていたような端正な形の帽子だが、今夜の端正さは、どこか居心地が悪い。帽子は私たちを見ず、私たちも帽子を見ない。帽子は、それを知っているふうだった。だから、まっすぐに言う。
「正面を避ける訓練は、すでに合格。」昼に聞いた声。ミホではない。ミホより一段低く、一段深い人。「では、すぐ本題。」
王子がごく微かに足を入れ替え、息を整える。私は輪を掌のほうへ巻き込んだ。少女は座を立たない。彼女が動けば、やっと繋ぎとめた〈痛みなし〉が揺らぐかもしれない。
帽子は一歩近づく。靴底が水跡の境界線を踏みそうで踏まず、止まった。境界は踏まれなかった。ほっとする。
「代行です。」帽子が言う。「そちらが〈遅延〉を選んだ報せが下りました。痛みの除外は——暫定で受理。その代わり、座の効力は海の向こうへは拡張されない。この夜、この道、この高さに限定。」
私は息を吸う。「暫定でも、受け入れます。」
「よろしい。」帽子が声を落とす。「では次。〈声〉。返せるか——今は、無理。あなた方が理解したとおりの理由。順序が違うから。」
王子が今度は一拍先に出る。「だから順序を正しています。座を先に作り、次に……名前のない対話で記憶を呼び戻す。言葉はそのあと。」
「そのあと。」帽子が短くなぞる。「では訊きます。なぜ、わざわざ〈そのあと〉でなければならないのか。」
私は輪を掲げた。金属ではない、暁に近い光が一瞬、庇にかかった。「これは誰かが置いていった座です。座は『返して』という言葉より先に戻ってきます。その法則を、海が作ったのではないと——私たちは知っています。」
帽子が少し笑う。「そういう言い回し、好きですよ。図書館の子たち。」
その言の端で、灯台が一度鳴った。今度は本当に鳴った。誰が押したのかは分からない。風か、波か、あるいは私たち三人の心か。帽子は庇を押さえ、光をもう一度閉じた。
「いいでしょう。」彼が言う。「その座、今夜は効力を認める。代わりに——朝が来たら、あなた方から先に記録を残すこと。正面ではない角度で。言葉ではなく、足で。そのあとに、言葉ひと粒。」
「言葉ひと粒。」王子が繰り返す。肩が、わずかに軽くなった。
帽子は背を向けた。靴音がもう一度、防波堤を渡る。網は帽子について行かない。網は海のもので、帽子は……今夜だけ借りてきた人だから。
少女が手の甲の輪を下ろす。輪は音もなく、自然に私の手へ戻った。少女が私と王子を順に見る。〈点〉、と、その目が言う。
「ひと粒。」私が答える。「朝に。」
王子がそれに合わせて、静かにうなずいた。海は星の真似をしながら、夜をもう少し引き延ばす。その分の時間を、私たちは少女の足首に載せた。痛みが追ってこないよう、濡れない道の上で、息を分け合いながら。
朝が来たら、私たちはまず足で記録する。言葉は、そのあとにすると決めた。今夜じゅうその約束を支えてくれたのは、海ではなく、人の心の側だった。
鐘が遠くで、最後にとても小さく鳴った。そして止んだ。
夜は、過ぎてゆくことを決めた顔をしていた。




