E19
防波堤の縁に沿って伸びる細い道は、昼の陽ざしの下でも消えなかった。水ではないのに水のようにきらめき、言葉ではないのに文のようにつながっていた。私はノートの最初のページを開き、ペンを持ち上げたまま、しばし止まる。言葉より先に場所を置け——そう合図した少女のまなざしが、まだ手の甲に残っていたからだ。
王子は半歩うしろに立ち、私は少女と並んで歩いた。彼女は言葉の代わりに、足で書いた。つま先で、くい、と。海のほうへ一点、陸のほうへ一点、そして私たちの前に、ごく浅い分かれ道。その折り目は、古いページを半分に折ってから開いた瞬間のように、紙の中央に正しく通っていた。
「ここで、最初に濡れなかったんだね。」
私が低く言うと、少女はうなずいた。そのうなずきは水みたいに軽い。彼女は手のひらを開いて見せる。手相のあいだに集まった湿りがいちど陽をつかみ、短く流れた。掌には一文字だけ残る。
〈最初〉。
私はノートの余白に同じ字を書き留めた。横目を使いたい衝動が首筋で何度か顔を出したが、わざと正面だけを見る。今日の横目は仕事場だけ——朝のうちに自分の口でそう決めた。決めたことを守るのが、今日の契約だった。
分かれ道の右は、防波堤の下へ降りる石段。浅い波が二段下で息をしていて、段の底には水膜のように文字が敷かれている。少女がかかとでその角をそっと押す。文は鮮明になった。
『降り——ないでおこう。』
王子が私を見る。私はうなずく。「ここは境界線だそうです。上からだけ見ましょう。」
彼は言葉の代わりに、石段脇のレンガへ手を置いた。掌が冷えた石の息をひと撫でしてすぎる。そのとき、耳のどこかで鐘の音がかすかに鳴った。礼拝堂の鐘ではない。レンガたちが低い声で互いの重さを分け合う音。音を追って横目が勝手に点きかけ、私はいったん深く目を閉じて開いた。
「ハルさん。」王子が言った。「もし……記憶が違っていなければ、昨夜、私は水の上でいちど目を開けました。すぐ沈みましたが。あのとき聞いた音も、こんな——」
彼は唇だけで、短い音を真似た。鐘の舌が鳴る直前の、息の音のような。私は首を横に振り、それからうなずく。「ええ、似ています。でも今日は、その音にも先に名前は与えません。場所だけ、記します。」
少女がふいに身をかがめた。視線が石段脇の狭い裂け目に入っていく。海と陸の境界がぶつかってできた、ごく細い継ぎ目。継ぎ目のあいだに何かが挟まっていた。陽がいちどきらめき、すぐ影が覆う。少女は手のひらを開き、私のノートに新しい字を落とした。
〈返して。〉
私は膝を折って覗き込む。金属の丸い光。貝殻の内側みたいな色。輪だ。輝きそのものが無色で、かえって水の色に似ている。指二節ぶんほどの輪。内側に塩が薄く乾いていた。
手を入れれば届く距離だったが、先に手は入れない。水の道に先に触れると、その道がこちらの道に変わる瞬間がある。今朝ずっと習ってきたのは、その瞬間を急がないやり方だ。私は少女を見る。
彼女は首を横に振り、王子を見る。王子が、とてもゆっくり手を前へ出した。だが指先が裂け目の空気に触れる前に、少女はもういちど私を見た。私はノートに短く書く。
〈委任——王子〉。
王子は息を整え、片膝をつく。海水に触れないよう手首を内へ軽く巻く。指が輪に触れると、塩が先にほどけた。さく、と、微かな音。輪が掌に乗る。重さはない。重さがないものが、こんなに冷たいのだと、指先で初めて知った。
王子は輪を少女に手渡さない。自分が持ったまま、少女に見せた。選ぶ権利が移った、と言葉の代わりに示すやり方。少女は首を横に振る。目が、ごくわずかに笑った。そして輪を私のほうに示す。
私は手を伸ばしつつ、すぐには受け取らない。先に場所をつくる。ノートから一枚を破り、輪の下に差し入れて、その上に載せた。紙の白と輪の無色が、互いを重くしないように。紙の角が午前の風をいちどつかんで手放した。
そのときだ。水の下から、網が一枚せり上がった。誰かの投げた釣り糸ではない、袋のない網。水の影が防波堤の下をすべっていく。網の流れではなく、網の影。水でない影が音を持たないはずはないのに、その音は妙に、風にしか聞こえなかった。
私は横目をひと瞬きだけ点ける。目の結び目ごとに、塩がひとつずつ結ばれては解けていた。結び目と結び目のあいだには、ごく短い符号。〈発行〉〈貸与〉〈請求〉——目が読んでしまう字面。声の破片を債権みたいに束ねようとする手癖。昨夜、階段下で見た継ぎ足しの紙肌に、よく似ていた。
「待って。」私は言う。「今は触らないで。網が先に上がるのを見よう。」
少女がうなずく。つま先で防波堤の角を、トン、トンと二度叩く。水跡が横に一度、縦に一度引かれた。網の影はその〈十〉の前で引きの速さを失う。結び目どうしがかすかに絡む音が、遠い風に運ばれてきた。〈場所——先に〉。さっき彼女が見せたその言葉が、水の上でもういちど効いた。
王子が長く息を吐く。「この輪の持ち主は——」
言い切る前に、言葉ではなく輪を持つ手が先に震えた。震えは恐れではない。古いものを危うく扱う者の緊張。彼は輪を私のノートの上に置き、そっと手のひらを引いた。私はペンで輪の外側をゆっくり一周なぞり、この場所のかたちを記録する。
網の影が水中でいちど身をよじる。結び目の符号が〈回収〉へ変わりかけた瞬間、防波堤側から短い足音。ミホだ。後ろにヨムスが水筒を二本抱え、ルシアは畳んだ旗を縦に持って来る。彼女が旗の先で水上に薄く引かれた〈十〉を示す。「ここは触らない線、で合ってる?」
「合ってる。」私は言う。「それから、これは——」
私はノートの輪を指す。ミホが一歩進んで、輪を目の高さに上げた。陽が輪の内側をいちどなでる。彼女は先に息を整えた。息が止まると、鐘の息がきわ薄く聞こえた。礼拝堂の鐘ではない。風がレンガを鳴らす鐘、あるいは塩が陽を鳴らす鐘。
「アンカーの可能性が高い。」ミホが言う。「消えない場所。形は単純、素材は変換に鈍感、触感は無色。そして——」
彼女は輪を掌から手の甲へひと渡しして、うっすら笑った。「重さがない。なのに冷える。」
少女が掌を差し出す。私は輪を紙ごと持ち上げ、彼女の手の上へ運んだ。彼女は輪を受け取らない。掌を、ほんの少しだけ傾けて、輪の影だけを見る。そして水跡で、短い文をもうひとつ残した。
『返す——あとで。』
私はそのまま書き写す。今日は〈あとで〉という言葉を信じてもいい——ふと、そう思えた。〈あとで〉は言い訳ではなく、約束になりうる。場所を先に置き、言葉はあと。約束はその間で育つ。
網の影が水の下で、もういちど集まって解けた。ヨムスが防波堤の端に立ち、水筒を旗のように高く掲げる。「右!」低く通る声。ルシアが旗を左へ倒す。二本の線が水の上でXをつくる。網の影は、その交差の前で方角を失った。塩の結び目が、いっせいにほぐれる。
「今回は——継ぎ足しじゃなく、解れだな。」ヨムスがつぶやく。
「解れにも手順がある。」ミホが言う。「誰が結んだか分からないから、解くときも名前は呼ばない。黙音でほどくのがいい。」
彼女が目で合図する。私はペン先で空気をひと撫で。ペンの先がこすってできた一本の『—』が、防波堤と海のあいだに薄く置かれる。ざわめきは、その線より先に通り過ぎていった。網の影はひとしきりの風ののちに解け、海は自分の息を取り戻すように均されて揺れた。
王子が、ノートの上の輪を見やる。「これは……どこに置くのがいいでしょう。」
「どこでもなく、今日はここ。」ミホは輪をもういちどノートに載せる。「礼拝堂へ持ち帰れば物語の中心がずれるし、海へ戻せば場所の意味が消える。防波堤——昼と夜が半分ずつ触れるこの縁がいい。人と水が互いを傷つけにくい高さ。」
少女がうなずく。目が〈大丈夫〉と言う。そして、私のほうへ一歩近づいた。今度は掌ではなく、手の甲の雫が文字になった。流れながら残った文は、とても短い。
〈名前〉。
私はペンを止める。名前は契約のいちばん深い線に触れる。自分で呼ばない限り、他人の口に載せることはできない。私は、ゆっくり左右に首を振った。少女は笑みに似たものを作る。防波堤の縁に腰を下ろし、海と陸のちょうど中間に、つま先をかけた。そして手の甲に、さらに短い字。
〈すぐ〉。
その一字が陽のなかで乾ききるころ、礼拝堂のほうから鐘の音がもういちど届く。今度ははっきり礼拝堂。昼の鐘で、今日の鐘。二拍ほど遅れて、人の声が続く。外套の美声も混ざっているだろう。〈午後にまた〉という彼の言葉は、いかにもその人らしく、時間の約束を律義に守るはずだ。
ミホが礼拝堂のほうをいちど振り返り、少女に言う。「今日はここまで、でいい?」
少女がうなずく。ゆっくり立ち上がり、防波堤の縁に置いた私のノート上の輪をもういちど見て、その横につま先で小さな丸をひとつ描いた。丸はすぐ乾いた。乾いて、残った。〈あとで〉の標のように。
王子が手を差し出し、少女に挨拶する。少女は手の代わりに視線を渡す——それで十分。ルシアは旗を畳んで肩に乗せ、ヨムスは水筒を静かに下ろす。私たちは同時に一拍、吸って吐いた。その息をどこへ置くか、あえて決めなかった。
戻る道で、私はノートを胸に抱いて歩いた。紙の角がTシャツの内側でかすかに当たる。少女は礼拝堂へは向かわない。防波堤の陰をなぞって、海のほうへゆっくり歩く。足についた砂が、言葉ではない言葉を背に残した。その言葉はすぐ風に消え、消えたことで残った。
礼拝堂へ着くと、外套はすでにスピーカーの網目を外して手に持っていた。遠目にも笑みを失わない。私たちが、何も手にしていないことを、遠目にも見抜いただろう。にもかかわらず、彼が先に挨拶する。
「午後の手続きを始めましょう。」
「その前に、」ミホが言う。「一行だけ、足します。」
彼女は私のノートから一枚を破り、礼拝堂の柱に貼った。鉛筆で、とても平凡な字で。私は隣で読み上げる。あまりに平凡で、かえって頼もしい文。
『今日は——ここまで。明日は——ここから。』
外套の笑みがごくわずかに揺れた。すぐに取り繕い、私たちもそれ以上は付け足さない。付け足さないことが、今日の私たちにいちばん似合う言葉だったからだ。
陽は西へ、もう少し傾く。海は午後の光を受けて、より浅い色になった。私は顔を上げ、礼拝堂の鐘を見上げる。鐘の胴が陽を飲み、舌は静かだ。鳴らなかった。だから——鳴っていた。
私は胸の内だけに一行を記す。毎晩の玄関先の一行ではなく、今日という場所へ置く一行。
『今は——言葉の代わりに場所。そして——名前は、まもなく。』




