E17
夜の空気は水族館のガラスから剝がれ、階段の端であと一度だけ冷えた。海の匂いが街のほこりと混じり、金属の箸を噛んだような微かな鉄味が舌先に残る。ヨムスが先にガラス扉を閉め、残りの私たちは互いの息を一度ずつ合わせた。拍手の長さが消えると、言葉が元の場所へ帰ってきた。
「今日はここまで。」ミホが鞄を軽く掲げる。「朝に礼拝堂。」
「鐘の舌は、私が持ってる。」手の中の小さな金属を揺らすと、チュンベがうなずいた。
「ポケットがいい。手のひらに長く置くと脈が移る。明日の水路が紛れる。」
私は金属片をポケットへ移した。冷たさがおとなしく太腿に寄り添う。ルシアが私の歩調に合わせて並ぶ。ヒールが石を一度、二度こすって止まる拍。彼女は言葉より先に、息をひとつ吐いた。
「短く問うの、今日はすごく良かった。」
「長い言葉を削ったら、怖さが減った気がする。」私が笑うと、彼女も短く笑った。今夜覚えた、結わえられない長さの笑い。
私たちは散った。夜はそれぞれに違う重さで腰を下ろす。家までは二駅で足りるが、私はわざと一駅ぶん歩いた。海と街が低くぶつかる音が途切れなく続く。標識の灯りが濡れない水跡の上で、もう一度だけ揺れた。その跡は、私が作ったのでも、私が消せるのでもないように見えた。だから少しのあいだ、足ではなく文を運ぶつもりで歩いた。
玄関で靴紐を解きかけたとき、先に癖が私を呼んだ。文をひとつ。今日を留める短い行。相談室で初めて勧められたとき、宿題みたいで先延ばしにした。ひと月ほどして図書室の実習を始めた日に、ミホが同じことを言った。「文を一つだけ残して。たった一つ。」あれからだ。私は一日の終わりに、言葉の代わりに場所を貼るようになった。
ノートを開き、ペンを押す。インクが紙に坐る気配が、かすかに鳴った。
いまは——無事に着いた。
そして——朝、質問を失わない。
その文の脇に鐘の舌の小さな絵を描いた。そっくりに描く自信はないから、細長い点と短い線で作った。太腿のポケットから、金属の重みが素っ気なく答える。他に言うことはなかった。灯りを落として目を閉じる。しばらく、笑いの形が舌先に集まっては、休符で止まった。眠りは遅く、だが堅くきた。
朝の空気は、鐘の予告を先に連れてきた。コップに水を注ぐ音に似ているが、終わりで金属の光がもう一度跳ねる音。携帯が鳴る前に、私はもう目を開けていた。夜明けは、街の声を短くする。道路のトラックも、屋上のファンも、みんな短い。
待ち合わせの礼拝堂は、海辺から丘を一つ上がれば着く。低い石垣と古い木扉、そして水仙の列植。花壇の上に濡れない水跡が、暗がりで道のように続いていた。まるで、昨夜のうちに私たちがその文を書いておいたみたいに。
「赤い線は横断のときだけ。」ミホがチョークとテープを出す。「今日は表示最小限。対話が先。」
「旗は風を見て上げる。」ヨムスが竿を脇に挟み、空を一度仰いだ。「西だから、二拍目で押さえる。」
「位置。」ユナが尖塔の手すりを確かめ、私へ振り向く。「君は右の横目が強い。左から入る長さを切るなら、立ち角を少しずらして。」
「こんな話を当たり前にするチーム、世にそうないよね。」私が呟くと、チュンベがにやっと笑う。
「それが**“図書館”って名を使う理由さ。言葉の代わりに、標識と場所**で教える場所。」
扉の内側は、まだ暗が敷かれていた。管理人の男性は、私たちを見ると嬉しそうに手を振る。海が荒れると、ここはまずガラスが鳴るのだという。先月彼が撮っていた映像では、水がガラスの直前でカーペットみたいに止まっていた。昨夜、外套が敷いた膜と同じ織りだ。私たちは場所と線を、その膜と争わずに通さなければならない。
「先に戻そう。」ミホが私に手を伸ばす。
私は鐘の舌を取り出した。朝の光が金属に浅くかかる。簡単に滑る光ではない。踏み出しかけた足を止め、私は手の中の小さな**“場所”をもう一度だけ覚え直す。初めて鐘を鳴らしたのは、小学校の音楽。ふざけて綱を引いては逃げる子たちに、先生がため息まじりに言った。「鳴らす時もあれば、守る時もある。」あの時は分からなかったが、今は長さ**の話だとはっきり分かる。
梯子を上がり、クリップみたいな金具を起こすと、鐘の空洞が現れた。海の色ではなく、空の音の色。舌を差し入れた瞬間、指先に先に微かな震え。鐘はまだ鳴っていないのに、鳴りそうな感じが皮膚に先着する。
カチ。小さな音。そのあと、ごく薄い振動が腕まで上がった。私は休符でだけ息を吐く。鐘が自分で最初の拍を決めるのを待った。丘の下で鳥が一声鳴き、風が葉を裏返す。鐘は——まだだった。
「ハル。」下でミホが呼ぶ。「降りて。最初の響きは私たちのものじゃない。」
私は気をつけて梯子を降りた。足が床に触れると、ガラスが自分でごく小さく震えた。鐘は依然、沈黙。舌が元の場所に戻ったという事実だけが、約束のように立っていた。
「外套は?」と私。
「約束の反対側で長さを用意してる。」ユナが言う。「昨夜の拍手の代わりに、今朝は匂い。パンの焼ける匂い。」
本当に、少しずつパンの匂いが丘を登ってくる。甘く、バターがひらりと広がる匂い。礼拝堂の前の小路から、小さな屋台が現れた。祭の朝に教会前でよく見る、あの平凡なオーブンが五つ六つ。平凡じゃないのは、オーブンの上に薄い膜が敷かれていること。熱が均等に抜けず、隅だけ狭く立ち上がる。縄張りを引こうとする手の形。
「擬似契約を匂いで束ねる気ね。」ミホが首を振る。「空腹は、捕まえるのが一番簡単。」
「空腹にしなきゃいい。」ヨムスが鞄から水筒と小さな紙コップを出す。「朝の水を一口ずつ。それと、パンは買って、言葉は切る。」
「買っていいの?」驚く私に、チュンベが口端を上げる。
「禁止より記録が先。買って食べて、レシートを赤い線の内側に貼る。そうすりゃ『代価』って言葉が長さを失わない。」
私たちは屋台の前へ行き、ごく普通に並んだ。外套の姿はない。代わりに白い前掛けの青年が応対する。手つきが馴れている。不器用ではない。オーブンを閉める手に、古いしわがあった。練習の跡。こういう人を前に立てるのが外套のやり口。悪いことではないが、長さを足せる手を選ぶということだ。
「四枚。」ミホ。
「レシートは二枚に分けてください。」私が添える。
青年が一度、目を上げた。私の声にうろたえがないのを見て、むしろ心が軽くなる。今朝の契約は、互いの食代から整える。一番簡単に見えることが、一番堅い。私たちはカステラみたいなパンを一切れずつ持って、礼拝堂の階段に座った。香ばしく、美味しく、食べ終える前に少し飽きる。それが良い。長さを伸ばす隙がない。
「来た。」ルシアが目で道を示した。
外套は、昼にはコートを脱いだ人のように見えた。薄いグレーのスーツ、よくプレスされたシャツ、それよりも端正な歩き。隣国の姫はその横で短く会釈。彼女の早朝は昨夜より現実に近い。膜が薄まると、顔の影も浅くなる。そんな顔だった。
彼らに先んじて、海から上がった人々が礼拝堂の前庭に集まっていた。昨夜の舞踏会の顔もある。浜の店主、眠れなかった観光客、そして見知らぬ老人が何人か。私たちが何もしなくても、彼らは自分たちで互いの間合いを少しずつ詰めた。群衆はいつでも長さを増やす。私たちは、その長さのなかで終わりを見つければいい。
外套が先に口を開く。「**おはようございます。**海は夜のあいだ、静かでしたね。」
「朝は対話。」私はミホより先に一歩出る。声の長さを自分で半分に切った。「拍手は夜に置いてきました。」
彼は肩をわずかに上下させる。「もちろん。ですから、証言から伺いましょう。」
合図でスピーカーが二台、礼拝堂の階段下に置かれる。昨夜と同じ機種。表面に泡の代わりに網目模様。編集と継ぎをより繊細にする細工。彼の用意する長さはいつも精巧だ。精巧であればあるほど、短い質問に脆い。
「本契約の前に問います。」私はもう一歩出た。「契約前質問権の行使を宣言します。」
ざわり、と人々。宣言みたいな言葉を嫌う顔もあるが、何人かはうなずく。質問権という語は、誰にとっても聞き覚えのある公正の形を連れてくるからだ。
「第一。」私は休符で息を配った。「昨夜、舞踏会で再生された『王子の声』はどこで採取されましたか。録音が事実なら、最初の息の温度が文末でだけ変わるのはなぜですか。」
スピーカーの網目が、一瞬だけ萎む。外套はすぐ微笑で長さを埋めようとしたが、既に人々は表面を覗き込んでいる。老人が声を張った。「それ、放送局もやるやつだ。文の尻だけ息を足す。」
「第二。」私は続けざまに問う。「隣国の姫が語った『浜辺の小さな鐘』は、誰の証言ですか。具体的な時刻と位置を示してください。」
隣国の姫は、まっすぐこちらを見る。昨夜の短い答えと同じ目。逸らさない。「午前五時十五分。砂州の左、海辺から礼拝堂までの三段目。私が見て聞いた。大鐘じゃなく、風鈴みたいな小さな玉が先に鳴って、それから大きな鐘が鳴った。」
「第三。」私は声に余白を足さない。「王子は今どこにいますか。」
短い三問。長さは最小、終わりは明瞭。外套はようやく笑みを消し、緩やかな表情で手を広げる。「王子は——休息中です。昨夜、舞踏会のあと、ただ今は礼拝堂の裏の客室で……」
そのとき、礼拝堂の脇扉が開いた。まるで約束していたように。陽はまだ深く届かず、廊下は青灰色。そこから一人の男が歩み出る。足に砂がまだ乗っていた。目元は、水面下で見たそれに似ている。私が心の中で付けた呼び名——王子。だが名より先に、私は最初の息を見た。胸が上がるとき、喉の下の窪みに朝日。息が集まる場所だった。
「おはよう。」彼が言う。声はスピーカーの色に似ているが、違いもある。似は音色、違いは休符。編集では作れない、人の逡巡。
「少し待って。」私は質問を引き延ばさない。「**あなたの“最初の息”はどこで生まれましたか。**海でしたか、砂でしたか、鐘でしたか。」
皆が同時に彼を見る。誰かは息を止め、誰かは思わず前のめり。外套は笑みを作り直すが、そこにはもはや長さが座れない。
王子は唇をゆっくり離した。長くならないようにできる人だけが持つ速度で。
「砂。」彼は言った。「でも砂の匂いだけじゃ、息は入らなかった。舌の抜けた鐘の空の音が先で、それから……とても小さな玉の音が、風に乗って入ってきた。その音で——息が入った。」
隣国の姫が小さく笑う。隣でルシアが息を放した。どこかでユナの「いい」という短い声。ヨムスが旗を上げて下ろす。赤い線を引いた場所が薄く光る。編集できない証言が、その場で記録になった。
外套が指を一度弾く。スピーカーの網目が静かに解けた。遅れて拍手を促すように両掌を開きかけたが、そのまま下ろす。朝の拍手は歓呼ではなく、目覚ましに似る。彼もそれを知っている顔。
「よろしい。」彼は頭を下げる。「本契約へ移りましょう。王子の安全と浜の秩序のため、今日この場で——」
「待って。」ミホが一歩進む。今日はラミネートではない。紙だ。手書きの、書類の源流。「アンカーの返還が先。場所を戻してから契約を書く。」
私はうなずいた。王子が私たちを見、私たちも彼を見る。言葉が短くなる。短くなるほど、場所は鮮明になる。私たちは梯子をもう一度立てた。私は再び上る。鐘の腹は、すでに舌を抱いて静か。私は掌で金属の脇をそっと撫でた。埃ではなく、夜の長さが剥がれ落ちる。
「準備。」下でミホ。「私たちは対話で鳴らす。」
私は綱を引かなかった。手を離し、鐘が自分で揺れるまで待った。丘の下で波が一度砕け、屋台でオーブンが一度閉まる。遠くで子どもが泣いてやみ——そして、鐘がとても短く、でも確かに鳴った。
チン。
その一拍が礼拝堂の石床を伝い、浜の濡れない水跡へ細やかに伸びる。跡は文字のように並び、それから何事もない水色に戻った。朝の音は拍手でも音楽でもない。署名を呼ぶ、清らかな始音。
私は梯子を降りた。王子まで四歩。外套まで五歩。隣国の姫は、私たち三人の顔を順に見た。短い感謝。今日、その短さは合意の別名ではなく——契約を呼ぶ前奏だった。
「では。」ミホが言う。「書類を広げます。王子の“最初の息”を基準に、今日は保存契約から。」
外套はうなずき、群衆は自然に輪を作る。鐘の余韻がまだ空気に細く残っていた。私はペンを取る。昨夜の拍手とは違う震えが、指先に宿る。『今夜は拍手と記録だけ、署名は朝に。』私たちは朝に着き、いま署名へ入る。
「ハル。」ルシアがとても低く呼ぶ。
「うん。」
「長く呼ばないで。今日も。」
私は笑った。短く。ペン先が紙に触れる。海は遠く、鐘は私たちの頭上に近い。そして鐘の音は——もう一度鳴らすことができた。




