E16
鐘の音が水を一度だけ固く割って過ぎただけなのに、舞踏会場は何事もなかったように元の流れを取り戻した。変わったのは息の長さだけ。誰かに肩を軽く突かれるとびくりとしていた私の身体が、今度は先に休符を選ぶ。名前を長く引き寄せていた釣り糸がいったん切れたのだと、筋肉が先に悟った。
「よし。最初の峠は越えた。」ミホが私の横をかすめて囁く。「次は拍手。あっちは拍手を署名と取り違えさせようとしてくる。今夜は拍手は歓呼だってことを、ずっと思い出させて。」
「拍手は……歓呼。」私が復唱すると、チュンベが腰からチョークを抜き、床の紐に沿って小さな**×印**を打っていく。
「ここが拍手の当てどころ。ここに合わせれば長さは束ねられない。」手の甲でトン、トンと拍を示す。「正面は見ない。横目だけだ。」
「拍手も横目で見るの?」と笑うと、ヨムスが旗竿を肩に預けて付け足した。
「音は正面で伸びる。横から見れば短い。短い音は束ねられない。」
横目を使うと決めて世界を見ると、別のリズムが姿を現した。舞台上の外套の所作は相変わらず滑らかだが、肘の外に微かな躊躇が光る。風車はなめらかに回っているのに、根元で小さくガタつく。長さの継ぎ目は、横目にだけ浮かび上がる。
外套が両手を広げ、場内の空気をそっと押さえた。音楽が一段低まり、甘い匂いが水面を覆う。隣国の姫が舞台の中央へさらに一歩。彼女は水面に敷かれた薄い膜をもう一枚踏んで立つ。誰かが言葉の卵を手渡すと、それが長く伸びて糸に変わった。
「今宵の恩人を迎える礼の舞を。」外套の声が流れる。「感謝の拍手、告白の拍手、歓待の拍手。拍手とは——」
「歓呼。」私はルシアの手を強く握ってつぶやいた。「拍手は歓呼。」
ルシアがごく薄く笑みを描く。笑みの長さは短い。彼女の瞳が、私の口の形をなぞって読んだ。「歓呼。」
遠くで太鼓が二度鳴り、弦が長い息を吐く。外套が手振りで拍手の型を先に示し、場内がそのまま倣おうとした刹那——ミホが柱の脇に新しいラミネートを貼った。〈拍手は歓呼、署名は書面〉。角が一度、水の色をたわませる。
「労に報い、楽しみを分かち合う手拍子。」ヨムスが旗で低い拍を一つ、二つ、三つ描く。「ここ。ここ。ここ。」
人々の掌が、ヨムスの拍に合わせて動いた。赤い線と**×印の上で鳴る音は伸びない**。長さを引く手が現れるたび、拍手は一拍ずれて横に抜けた。外套の眉間が一瞬寄ってすぐ解けるが、表情にはまだ余裕がある。次の手が用意された顔。
「王子には約束があります。」外套が穏やかに笑う。「しかし王子の声は約束を違えない。その長さをお聞かせしましょう。」
風車の脇のスピーカーがゆっくり降り、舞台の前へ滑る。表面に微細な泡が生まれては消える。外套が手首をひねった瞬間、スピーカーから聞き覚えのある声色が流れた。低く静かな声。昨夜、水面下で聞いた、私が海の王子と呼んだ男の声——と同じ音色。
『ありがとうございます。あなたがいなければ——』
私は本能的に息を止めた。音は馴染み深い。だが横目には別のものが見えた。スピーカー表面の泡が、文の終わりでだけ弾ける。休みではなく編集点。昼間ユナが言っていた——「長さを切り貼りすると、息の温度が折れる」。私はルシアの手の甲を指先で軽く叩いた。「継ぎ合わせの声だ。」
ルシアが小さくうなずく。視線がスピーカーと赤い線を往復する。「スピーカーは沈まない。」彼女が耳元で囁く。「濡れない水が支えてる。」
「じゃあ水の上でしか壊れないように変えたら?」と私が問うと、いつの間にかそばに来ていたチュンベが答えた。
「紐はもっと細く、線はもっと赤く。」チョーク粉を払って笑う。「それと君の口から短い一言。契約前の質問権でな。」
「質問権?」
「本契約の前に、問うて確かめる。それが順序。」
私はスピーカーの前へ一歩進んだ。外套は私の動きを見たが、止めなかった。歓待の笑み。近づくほど甘い匂いが濃くなる。私は息を吸い、休符でだけ吐く。長さがかかる隙を作らない。
「あなたの“最初の息”は、どこで生まれましたか。」短く、くっきりと問う。「もし王子なら、その最初は海でしたか、砂でしたか、鐘でしたか。」
刹那。スピーカーから流れていた長さが細くなる。外套の瞼が一度、下りて上がった。彼は笑い、手のひらを返す。
「海は広く、砂は無数で、鐘は——」言葉を伸ばそうとした瞬間、ラミネートの印がひらりと光って文末に**“終わり”を留めた。外套は長さ**を縮め、口角だけを上げる。「鐘は、タイミングを教える。良い質問です。」
質問が空気中で長さを断った。誰かが「王子の最初の息……?」と首をかしげ、誰かがスピーカーの泡を覗き込む。ミホが私の後ろでもう一枚の書類を開いた。〈質問権:本契約前〉。線が一本、点が一つ。端正な文。
外套が隣国の姫に手を差し伸べる。彼女は一瞬、スピーカーと私を見比べ、小さくうなずいてこちらへ来た。ドレスの裾が膜の上を静かに滑る。
「私は——浜辺の小さな鐘です。」彼女の声は静かで、自分で長さを切っていた。外套がその静けさに長さを足そうとするが、彼女が先に休符で頭を下げた。長さは掴めない。
「ありがとうございます。」私は目を合わせて言う。「そして——今夜は拍手と記録だけ。署名は朝へ。」
ちょうどミホが**〈拍手は歓呼、署名は朝〉**を貼った。単純でいい。人々のあいだにうなずきが広がる。誰かが「朝の方が頭が冴える」とつぶやき、誰かが「そうだ、夜の署名は長い」と笑う。自分の手を見下ろしてから、そっと打ち合わせる者たち。
外套の外套襟が水波のように揺れる。無理に押し切らず、別の長さを選んだのだ。指先から薄いカードが水面へ浮かぶ。カードには「恩」「返礼」「贈り物」「代価」の語。彼はカードを輪のように撒きながら微笑む。「**一枚ずつ選んで、今夜の言葉を決めましょう。**言葉は美しい。言葉は——」
「言葉は記録。」ミホが切る。ラミネートペンが赤い線のそば、濡れない水の膜に文字を刻む。言葉は記録。記録は長さではない。
人々はカードを取ろうとして、文字を見て一拍止まった。ある者は「返礼」を持ち上げてから置き、またある者は「贈り物」と「代価」を同時に手にして逡巡。何も取らない者もいる。カードは空気のように漂い、赤い線を越えると重さを失って沈んだ。ヨムスが旗で紐の表面張力を軽く突くと、水が短く鳴る。
外套は笑みを消さない。だからこそ冷える。沈むカードを見ながら勘定の目。そして新たな手段——今度は言葉の卵——を取り出した。スピーカーの上へ、ぱらぱらと降る小さな卵。「ですよ」「いいですね」「もちろん」「今日だけ」みたいな短い文が肩や頭に当たる。触れた瞬間、口角が勝手に上がる。擬似契約が笑いのかたちで広がっていく。
「顔を上げて。」ユナの声が手すりの上から降りた。彼女は手拍子ではなく視線で拍を打つ。「笑いは先に“息”。それから休符で視線を移す。」
私はそのまま従った。言葉の卵が肩に触れる瞬間、笑いになろうとする舌先を休符で押さえる。笑いは出た。だが長さに結わえられない。こちら側の笑いは全体より短い。短いから長引かず、そのぶん清々しい。
「それでは——遊戯を変えましょう。」外套が手首を返す。背後の風車が速度を上げる。スピーカーの上に長い息が流れる。今度は声ではなく、ヴァイオリン。長くて甘い。自然に肩が揺れそうになる。身体が先に引かれそうになった瞬間——
「左—休符—右—休符。」ルシアが私の手の甲に場所を打つ。指先が二度、印を置く。私は足を下ろし、休符でだけ息を吸う。ヴァイオリンは甘いが終わりがない。終わりのない長さは、いずれ私たちを連れ去る。終わりが見えるまで待つことにした。
本当に、鐘が一度鳴った。遠くない。後頭部に近い空気で、金属の“終わり”が水を打つ。その音でヴァイオリンの長さが一拍折れる。折れ目で旋律が新しく始まる瞬間、私は足を帰還の場所へ運び、ルシアは同じ拍で待機の場所へ滑った。場所が入れ替わると、旋律の糸は私たちを取り逃がす。
「今夜はここまで。」ミホが外套の方へはっきり告げる。「今夜は拍手と舞と記録だけ。残りの本契約は朝に。」
外套は長い吐息をついた。その一息さえ、長さを調整したみたいだった。彼は隣国の姫に丁重に頭を下げる。姫は私へ一度、ミホへ一度、ルシアへ一度と順に視線を送った。無理に引き伸ばす力のない、短い感謝のまなざし。
「明日の朝、鐘が鳴ったらまた話しましょう。」と彼女。
「朝にも音楽は要るでしょう。」と外套。
「朝は音楽より“対話”を。」と私が先に言う。人々の間に小さな笑いが広がる。外套が肩をわずかに上下させた。敗北ではないが、退きだ。
音楽が静まり、風車の速度が落ちる。スピーカー表面の泡が消える。人々の足が床へ沈む。腰を叩く者、ドレスを整える者。微笑みながらラミネートの文を読み過ぎる者。赤い線の上で最後の拍手が何度か跳ねて止んだ。
私たちは掲示を回収した。ラミネートの角が指先に触れると、昼の図書室の匂いがかすかに過ぎる。ミホが書類を束ね、一枚を抜いて私に渡す。隅に小さな文字。〈今日の質問:最初の息〉。
「よくやった。」彼女は言う。「初手としてはちょうどいい。**明日までその質問を“持ちこたえる”**のが課題。」
「持ちこたえる……?」
「質問は投げるのと同じくらい、持っているのが難しい。」ユナが手すりから降りて続ける。「**明朝まで持ってて。**本契約の前にもう一度取り出せるように。」
私は紙をそっと折ってポケットにしまう。紙が濡れないのは、私たちが上手かったからだけじゃない。今夜は濡れない水が私たちの味方だったからだ。味方は変わる。だから今夜つくった味方を、こちら側に結び留める。休符で。
出口の方で、ヨムスがきれいに拭いた金属片を私に手渡した。さっきスピーカーに下がって落ちた鐘の舌だ。「君が質問した時に外れた。」と彼。「明日、礼拝堂に返そう。アンカーは元の場所へ。」
「アンカー。」私がつぶやく。短く切れる発音が舌先で心地よく止まる。アンカーは長さを束ねない。場所を思い出させるだけ。
「ハル。」ミホが最後の鞄を閉めながら呼ぶ。「今日の君、図書館みたいな口調が減ってたよ。」
「私も感じた。」ユナが笑う。「言葉を惜しんだんじゃなく、切り落とした。切ったのに残るものが多いんだね。」
「でも、舞台と対話と拍手が混ざると、まだ頭がごちゃごちゃだ。」と私が打ち明けると、チュンベが肩をすくめた。
「ごちゃごちゃなのは生きてる証拠。判子だけ押して言葉だけ長いのがゾンビだ。」
ルシアがその言葉にふっと笑う。彼女の笑いも短い。私が欲張らなくても手に掴めない長さ。それがよかった。
潮市を抜ける頃、背後で水が低くうなる。今夜の終わりを告げる、海だけの低い拍。私はポケットの紙と手の中の金属の舌を交互に押した。冷たく硬い感触が手相の上に短く残る。
ガラスの扉をくぐる直前、ルシアが私を呼んだ。
「ハル。」
「うん?」
「明日の朝——あなたが先に“質問権”を開いて。」彼女はゆっくり言う。「長く呼ばないで。」
「短く問う。」私は笑う。「朝に。」
敷居を越える瞬間、水族館のガラスが夜を背中へ押し戻す。外気が鼻先に入る。私は息を長く吸おうとして、休符で止め、短くに切り替えた。軽い笑いが階段にカチリと跳ねる。
遠く、礼拝堂の尖塔のあたりで小さな灯が瞬いた。風が凪ぎ、鐘がもう一度鳴りそうで鳴らない金属の予告だけが宙をかすめた。明日の朝、質問を携えてそこへ行く。アンカーを元の場所に戻し、長さではなく終わりで、言葉ではなく対話で、拍手ではなく署名で。
そして——今夜守り抜いた私の名前を、明日の私へ短く手渡す。
今は——よくやった。
そして——明日、問う。




