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E15

日が傾くと、水族館のガラスが真っ先に夜を受け入れた。昼のあいだに付いた手形と水の鱗粉は暗がりの中でゆっくりと消え、内側の青だけが残る。展示室の合間の廊下に、私は細いテープを貼っておいた。床にかすかな線が生まれる。つま先が線を越えないように、二歩ごとに息を整え、左で休符をつくってから右へつなぐ。踊りは拍子ではなく休符で覚える。今日、初めて知ったことだった。


ユナが、音楽でもない無音に合わせて手を叩く。音ではなく視線で拍を打つやり方。彼女が掌で空気を「タッ」と押さえると、私の肩がその場にすっと沈んだ。


「そこ、止まって。もう一度。左—休符—右—休符。」


「息は?」


「休符でだけ大きく。動いている間は短く。」


「言葉は?」


「**私があなたの言葉を貸してって言った時だけ。**それ以外はあなたが持ってて。」


私は唇を閉じてうなずく。足裏が線の上を滑るように撫でた。最初はぎこちなかったのに、三回目で昨日の水中の感覚が戻ってくる。鼻先で歌糸をつかまえていた感覚。息が濡れずに通り抜けていった感覚。足が記憶に従って動くと、指先が自然に互いを見つけ合った。宙に見えない取っ手があって、その取っ手を握って回るようだった。


「いいね。」ユナはうなずいて下がる。「あなたが立つべき場所は拍じゃなく休符。忘れないで。誰かが母音を長く引いても、休符で切るの。」


「長く引く……『ア—』みたいなの?」


「そう。あなたの名前の最初の息に触れる長さ。それを“合意”みたいに使おうとするはず。私たちは休符で断つ。断っても歌は切れない。」


ユナが私の肩を軽く叩き、裏口の方へ顎で示す。ミホ、チュンベ、ヨムスがもう暗いガラスの前に立っていた。ミホはラミネートの束、チュンベは耐水チョークと細い紐、ヨムスは無風でも翻る小さな旗。


「今夜の舞踏会は沈没船の肋骨の下。」とミホ。ガラスが私たちの呼吸を映し返す。「入口ごとに掲示、柱ごとに赤線。床には細い紐で待機(留まる)/帰還の場所を表示。音楽が長さを強要しても、休符で切る。そして——」


「踊れ。」チュンベが笑う。「書類だけ掲げて突っ立ってると、あっちは**“形”**が出来上がる。踊る方が今夜は筋が通る。」


「危険の兆候は?」ヨムスが旗を揺らして問う。


「誰かの名前が長くつながる時、誰かの足が床から離れる時、スピーカーが私の声を真似する時。」ミホが私に一瞬視線をよこす。「ハル、今夜はあなたが中心。あなたの名前が掛かってる。」


そう言われて、かえって息が落ち着いた。**私が中心なら、私が壊れなければいい。**単純な結論だ。身体が理解できるように、さっき覚えた休符をもう一度なぞる。左—休符—右—休符。息—休符—言葉—休符。


ルシアは少し遅れて現れた。海からそのまま出てきて、薄いタオルで髪をぎゅっと押し包んだらしい。水滴は一滴も落ちない。濡れない水が彼女の肩からガラスのように流れ、床で消えた。彼女は私の前に止まる。今日は髪留めの代わりに赤い紐で後ろを結び、ズボンの空いていたボタン穴には透明の輪が一つ。待機の場所を忘れない印に見えた。


「踊ったこと、ある?」と彼女。


「**今日が初めて。**つまり、ちゃんとは。」


「大丈夫。ちゃんとしてるのは最初だけ。」彼女が手を差し出す。「行こ。」


敷居は夜になると昨日よりたやすく開いた。床のガラスが一度、息をするみたいに光り、そのきらめきが階段のように敷かれる。私たちはその階段を踏まずに通り過ぎる。歌糸が先に進み、息があとを追う。潮市の広場に着くと、飾りはすでに点っていた。商人の灯りの代わりに、言葉の卵が長く連なって天井みたいに吊られている。互いの告白と謝罪と「今日だけ」が光に変わって市場を照らしていた。


沈没船の肋骨は円い舞台になっていた。肋骨のように湾曲した木材が輪を描き、その上に薄い膜が浮かんで反射光をつくる。人々が下に集まった。水に身を任せてゆっくり漂う者、床に足を付けて立つ者。音楽はまだ始まっていないのに、身体はもう音楽のように動いていた。PRINCE SARDINESのマークがあちこちで光る。翼にスピーカーを付けた風車が、舞台の高みで軽く回っていた。


私たちは先に掲示を貼った。〈許可は合意によってのみ成立する〉——破本官がくれた原則文。ラミネートの表面に小さな言葉の卵を溶かして留めると、紙は水中でもぶれない。その下に**〈発話様式の倫理条項〉も。「言葉の長さは音楽であって、同意ではない」という一句を太い線で。ミホが沈没船の柱ごとに赤い線を細く引く。正面からは見えず、横目にだけ縁が立つ線。チュンベは床に針のような細い紐を円形に敷いた。紐は待機の場所と帰還の場所**を分ける境界。ヨムスは舞台の両脇に旗を挿した。風はないが、旗はゆっくり揺れる。


人々は掲示をちらりと見た。うなずく者、肩をすくめる者。「今夜は音楽を聴こう」と言う者、「書類はつまらない」とつぶやく者。面白さと安全はいつも反対側に立っているように見えるが、今夜ばかりは同じ側であってほしかった。


舞台に人が上がる。昨日の扇、今日は長い外套。彼は笑みをゆっくりと開いては畳む。表情を畳む時、目が長くなる。長さは武器だ。彼はスピーカー付きの翼のあいだに立ち、無言で手を上げる。音が始まった。弦の低い息、管の細いアクセント、遠くから上がる鐘。——そして延ばされた母音。


「ア—」


その長さが、私の舌根を先に引っ張る。「ハ—」が出かかった。私は休符を思い出す。**左—休符—右—休符。舌先が歯に触れる。「いいえ」**がまだ口を出る前に、休符が先に出た。音のない休符。その休符が長さを断ち切る。切れ目から軽い息が出た。


「今は——いいえ。」


私の言葉は卵にならなかった。今夜は舞台の上へは出ていかない。代わりに喉から胸へ、腹で止まる。内側に“待機の場所”があると、その小さな文が知らせてくれた。ルシアが私の手を取る。手相の線にぴたりと重なる。彼女は笑わない。かわりに息で笑う。その温度が手の甲に伝わった。


「踊ろう。」


彼女が先に動く。つま先が床からほんの少し離れて降りる。右足が一拍遅れて後ろを踏み、左がもう一度前へ。休符でだけ深く吸い、次の休符でだけゆっくり吐く。彼女は歌わないが、歌の線が肩と腰と指先を通る。私はその線に沿って動く。彼女を追わず、休符を合わせる。二人の休符が重なるところで水がなめらかになる。水がなめらかだと長さは滑る。長さが滑れば、母音は私たちをつかめない。


人々がゆっくりこちらへ向かう。真似る者、眺める者。舞台上の外套は笑みだけで拍を割る。背後の風車が大きくひと回りし、場内の母音が同時に伸びた。ア—、オ—、ウ—。長さは音楽のように聞こえ、音楽は誘惑のように聞こえる。私は肩をゆっくり落として上げ、休符だけで応える。


外套が手振りで促す方から、白いドレスの女が登場した。彼女は足でなく水を踏んで降りてくる。足の下で薄い膜ができる。そして彼女は笑った。笑いは音ではなく匂い。甘い匂い。ユナがいつも言っていた匂い。匂いが空気のように広がる。


「隣国の姫だ。」誰かが囁く。


彼女は褒められ慣れた人の笑みを浮かべ、舞台の中央で軽く頭を下げた。外套が「本日の主役」とでも紹介するような余白をつくる。だが外套は彼女の名前を呼ばない。代わりに、私の名前をとてもゆっくり、とても短く呼んだ。


「……ハル。」


短い。だが短い分だけ正確。耳が反応する前に肩が、肩が反応する前に足が反応した。一拍だけ。ぴたりと一拍だけ前に出た。ルシアの手が、私の手の甲の上でぴくりとした。彼女が指を一度、押す。その押しが休符になった。私は止まる。停止は逃走ではない。場所だ。


「大丈夫?」彼女が口の形で問う。


私はごく小さくうなずく。**「大丈夫。」**口の形だけで。


その時、外套が掲示の方へ身体を向けた。ラミネートを水にかざすように扇でなでて過ぎる。文字が波で揺れる。彼は文字を読まないし、読めないわけでもない。代わりに**文字の“場所”を触ろうとする。〈許可は合意によってのみ成立〉**の右端の小さな隅。そこを扇の先で「トン」と突きながら言う。


「合意……どれほど厄介か、皆さんよくご存じでしょう? 今夜くらいは、厄介を忘れて——」


彼の言葉が終わる前に、鐘がひゅうっと長く過ぎた。本物の鐘ではない。破本官の署名が文末へ割り込んで生む小さな金属質。ラミネートの角に印章が刻まれている。印は扇の先を押し返した。水中なのに、紙が金属みたいに硬くなる瞬間がある。外套の手首がわずかに反った。


人々がささやく。誰かが小さく拍手した。誰かがその音に合わせて足を動かす。音楽が本格的に始まる。弦が上がり、管が下がり、太鼓が遠くでひとつ鳴る。母音はその間で長さを探し、休符は長さの間に道を開けた。


私たちは二人だけで踊らない。半歩後ろでミホが赤線の内側をなぞるように回る。彼女の回転は境界そのもの。チュンベは床の紐が浮かないよう、つま先でそっと押さえる。ヨムスは旗を持って低い拍を示した。旗が揺れるたび、周りの書類代行たちが顔を上げる。「今日は少し違う」という表情で。


外套は易々とは退かない。踊りを知っている。手首は水の速度を正確に読み、足は拍と休符の交点を先取りしつづける。彼が近づくと、甘い匂いは濃くなる。私は休符でしか吸わない。匂いが私の文を長くしないように。


「王子は今夜は遅れます。」外套がすれ違いざまに囁く。「代官が参りました。本名は持参していません。あなたが持ってくるのでしょう。」


「**本名は私のもの。**私が取りに行かない。」


「ほんとうに?」彼の笑みはやわらぐ。「人はみな、自分の名前を見たがる。誰かが先に呼んでくれる時の方が、より美しく。」


彼は隣国の姫の方へ手をやる。彼女がこちらへ一歩。足もとに膜がもう一枚厚くなる。ドレスが水面を切る。彼女が私に手を差し出す。何も言わないのに、ありがとうという文が彼女の目に刻まれていた。その文は卵にはならず、空気のように広がる。私はそれを理解できた。それは私へでもあり、私だけへでもない。彼女の人生のある時点から放たれる、受けた恩への反射のようなもの。


ルシアがごく静かに私の手を強く握る。その力は競争ではなく恐れでもない。場所だ。私はその場所で手を少し上げて隣国の姫に挨拶した。彼女がうなずく。その笑みは、誰かの人生が良い方向へ誤解される瞬間にだけ出る笑み。私はその笑みを憎めなかった。


音楽が一段上がる。風車がさらに速く回る。スピーカーからより長い長さが流れ出る。ア—ア—ア—。長さは音楽を覆い、音楽は長さを煽る。人々の足が少しずつ床から浮く。笑う者、目を閉じる者、手を上げる者。手が互いの手を探し、触れ合う瞬間、“合意の似姿”がもっとも尤もらしくなる。


「今。」ミホの唇が遠くで形を作る。


私はルシアと正対した。彼女の瞳の中で沈没船の背骨が揺れる。私は彼女の肩に手を置いて、休符で離す。彼女が私の肘を取って、休符で下ろす。**私たちは休符で踊る。**長さには応じず、休符だけに応じる。長さが私たちを引けば、休符で切る。切った場所で息を吸う。私の息は私のもの。


外套は私たちの間に割って入らない。代わりに、私たち二人を一本の長さにまとめようとする。扇が頭上で円を描く。円の中心が私たち。中心から出なければ、中心が“長さ”になる。私は待機の紐の方へ一歩、帰還の紐の方へ一歩。紐の上で足が弾力を得る。じっと固まるのではなく、場所替えで円から抜ける。ルシアも同じ瞬間に反対側へ。二人の長さが交差し、外套の円から抜け出す。


歓声が上がる。歓声は合意ではない。けれど歓声の中には合意へ向かう小さな意志がある。誰かが「ブラボー」、誰かが手を叩く。誰かが「そうやって踊るんだ」とつぶやく。誰かは何も言わず目を閉じた。目を閉じるのは、ときどき同意より正直だ。


外套が一度、ほんのわずかに頭を下げる。敗北の礼ではない。次の手の予告だ。彼は風車の方へ歩く。翼の脇のスピーカーを一つ外し、床の水に置いた。スピーカーは沈まない。濡れない水に、スピーカーが静かに座る。その上に鐘の舌のような小さな金属を載せ、きわめて短く囁く。


「今——“はい”。」


音はほとんど聞こえない。だが長さはたしか。短く、鋭く、的確。舌が——いや、舌の影が反応した。本名ではなく、本名になり得た最初の呼吸が裏返る。背筋が冷える。ルシアの手が私の手の甲を探す。指先が震えた。私はその震えをつかまえた。つかまえながら思う。ここまで耐えた休符は、次でも効くのか?


その時、鐘が鳴った。今度は本当の鐘。礼拝堂のあの鐘。水を越え、風をたどって、沈没船のど真ん中へ。鐘は長くない。一度。硬く。だがその一度が“終わり”だった。終わりは長さより強い。****終わりのある音楽は強要を押し戻す。破本官の印章が掲示の末尾で光る。ラミネートが刃のように煌めく。スピーカー上の金属が滑り落ち、濡れない水の上を一度弾んで、待機の紐の上で止まった。


外套がめずらしく表情を変えた。ごく短い、薄い皺。彼は金属を拾わない。つま先で脇へ押し、後ろへ下がる。風車が少し遅くなった。今夜の音楽がこちらへ一拍ぶんほど傾いた気がした。


「最後まで。」ミホの眼差しが舞台脇で光る。


私はもう一度、ルシアを見た。彼女の瞳に鐘の“終わり”が刻まれている。彼女が息を吸う。私はその息に重ねて息をする。二人の息が一度、正確に合った。合った瞬間、音楽が一瞬止まったように感じた。休符が場内を横切る。私たちはその休符の上に立つ。


舞踏会はこれからだ。けれど私たちの一拍目はもう過ぎた。一拍目は誘惑に呑まれる時か、誘惑を越える時。今夜の私たちの一拍目は——越える方だった。王子はまだ来ない。代官たちは笑みを収めない。夜は長い。長さはなお武器になるだろう。それでも私は知っていた。休符がある限り、長さは剣ではなくリボンになる。リボンは結ぶことも、解くこともできる。


「ハル。」


今度はとても近い。ルシアの声だ。彼女が私の名を呼ぶ長さは、短くも長くもない。ちょうど、私たちの休符に掛かっていた。


「うん。」


「一緒に、最後まで。」


「一緒に、最後まで。」


私たちはまた足を運ぶ。待機の場所で一拍、帰還の場所で一拍。そしてその間の休符。音楽がその休符に従ってくる。海も、人も、もしかするとこの夜さえも。

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