E14
朝の空気は、潮の引いた砂のように薄かった。玄関を開けて一歩出ると、靴底がかすかに貼りついては離れる。昨日持ち帰った欠片をポケットから出し、手相の線に合わせてみる。縁はやはりぴたりと嵌まった。偶然ではない——敷居からすくってきた方角のようだった。
水族館の裏では、ガラスが水気を吐くみたいに白い霧を吹いている。ユナが社員食堂からテイクアウトのカップを二つ持ち出し、一つを私の手に載せた。
「やけどしないで。今日は長く息を止めないこと。借りた息が奪われる息に変わる瞬間があるから。」
「どんな時?」
「あなたの名前を、先に向こうが呼んだら。」
「昨日——聞こえた。」
ユナは蓋を少しひねり、笑った。
「そうだと思った。だから今日は問うことから始めよう。誰があなたの名前を知っているかを。」
Bブロックの地下へ向かう途中、ミホはラミネートの綴りを紐で手首に巻く。チュンベはチョークを二本、もう片方のポケットには扁平な小刀。柄にはテープが幾重にも巻いてある。ヨムスは騒音計の電源を落とし、代わりに小さな旗を広げた。風がなくても翻る旗。水中でもよく目立つ色。
「今日は**市場(潮市/チョシ)**の奥まで入ります。」とミホ。「言葉細工師のところで『母音税』の帳簿を閲覧して、**Funnel**方面の書類交付記録を確認。」
「母音税?」と私。
「母音の長さを税みたいに課す規定。あなたの名前の最初の音を伸ばして呼ぶやり方が、ここに引っかかる。長くなるほど、あなたが**“はい”**に寄る仕掛け。」
「長く呼ばれたら、同意したことになるの?」
「彼らはそう作ろうとする。私たちは、ちがうと戻せばいい。」
敷居はまだ閉じていた。濡れない段差が透明に光り、やがてガラス面にひびのような小さな気泡が生まれる。ルシアが先にゴムの上靴で表面を押した。昨日と同じように歌糸が伸びて私の鼻先に触れる。息は詰まらず、怖くもない。昨日の違和は、一晩で今日の規則に変わる。
私たちが下へ——いや、外へ歩み入ると、水の色は最初から深かった。暗さではなく密度がある。その密度をくぐるたび、言葉が軽くなる。言葉はすぐ卵になり、しばらく私たちのそばにいて、消える。潮市は昨日よりずっと多くの声で騒ぎ、珊瑚の柱ごとに小さな看板がぶら下がり、その下にそれぞれの声帯のかたちが吊られていた。
「特注の告白、今日だけ半額!」
「謝罪セット、『ごめん』十個束!」
「書類代行! “はい”三回連続発話の録音で許可証すぐ!」
最後の呼び込みが耳に引っかかる。書類代行は、この場所では偽物の婉曲に違いない。ミホがその店を顎で示す。
「まず、そこ。」
男の喉は乾いていた——水の中なのに、喉が乾く表情があるのだと初めて知る。笑いながら、舌先で唇を湿らせる。
「いらっしゃいませ。即日で処理します。発話録音は現場でカンタンに——」
「書面で。」ミホが切る。「あなた方が使う発話様式の標準を見せて。」
男は崩さなかった笑みを一瞬だけ畳み、珊瑚の隙間から古いファイルを取り出した。表紙の塩が白く粉を吹いている。ミホが受け取ると、男は早口に続けた。
「顧客の利便が最優先ですから。最近は誰も待ちたがらない。“はい”さえ言えばすぐ道が開くべきでしょ。私たちはただ道を作るだけ。」
「道は誰が作るの?」と私。
男は眉をわずかに上げた。「空。風。風は——王子のもの。」
扇の先で王冠のマークが光る。PRINCE SARDINES。昨日、屋根の上の装置と同じ意匠。見せられた帳簿には発話録音の様式が並び、短い句——「今」「はい」「すぐ」「ただちに」。それぞれの横に小さな記号。母音の長さを示す波印。
「母音を長くすると道が開くんですよ。」男は得意げに言い、扇で**長い「ア—」**を引いた。
その瞬間、耳朶が本能的にひくつく。長さは私の名前の最初の息と接続する。ハ。彼が「ア—」を伸ばすと、私の中の「ハ—」も一緒に引き延ばされる錯覚。ルシアが私の手首をぎゅっと掴み、手相の線を指先で押さえる。
「止まって。」
私は**「いいえ」**を先に心の内で掴み、口の外へゆっくり押し出した。
「今は——いいえ。」
言葉が卵になって男の胸元の前で瞬く。男の視線が、その一瞬でわずかに揺れた。
「お客さん、それじゃ非効率ですよ。」男の声が低くなる。「世の中は速い方が良い方。早く手に入れれば、早く幸せに。時間のロスは若さのロス。とくに恋では。」
「恋から“合意”を削れば、それは恋ではありません。」ミホがファイルを閉じる。「これは書類じゃない、罠。“はい”に寄生する罠。——公式帳簿を閲覧します。」
男は肩をすくめる。「ご随意に。」
彼の笑みには失地も怒りもない。あるのは余裕——背後で誰かが押している余裕。私たちはその場を離れ、さらに奥へ。帳簿を管理する小さな事務所は珊瑚の山の陰。扉の前に老人が座っている。肌は水の色を着込んだ石灰のようで、目はガラスのように澄んでいた。
「閲覧かい?」と老人。
「はい。『母音税』と発話様式、それからFunnel関連の記録を。」
老人は眼鏡の代わりに薄いガラス片を目の前に掲げ、私たちを上下に透かす。それからするりと立ち上がった。中は本の匂いがした。水中で本の匂いがするなんて信じがたいが、匂いが告げていた——ここは記録が滞在する場所だと。
「破本官と呼ばれてるよ。」老人は胸を軽く叩く。「裂けたものを継いで、もう一度読めるようにする役。」
「おばあ……」ルシアが慎重に声を出す。「私——」
「知ってるよ。」破本官が笑う。「お前たちの家はいつも敷居に先に立つ。海の王の娘はそれぞれ敷居を三度くぐり、お前は一番末だ。」
私はルシアを見る。彼女は気まずそうな子どもみたいに肩をすくめ、笑った。
「いつも出るのは一番遅くて、その代わり一番長く残ってた。」
破本官が帳簿をひろげる。『母音税規定』のページ。小さな波印とともに**「呼名の長さ制」。名前を呼ぶ長さが奇数拍にかかると「同意に準ずる」——破本官はそこへ静かに×印**を引いた。
「これは改め済みだよ。母音が長いから合意、短いから拒絶、じゃない。長さは音楽で、合意は心だ。」
「じゃあ、どうして市場ではまだ——」と私。
「直し足りないほど、誰かが長く儲かる。」破本官の目から笑い皺が消える。「王子の商人たちさ。」
ミホは別の帳簿を開く。Funnel登録。そこには「書類代行」で届出された業者一覧と、スピーカー装置の設置許可がずらり。設置場所は海辺の礼拝堂、防波堤、沈船跡、灯台下……昨日私たちが回った場所がびっしり。
「許可は誰が出した?」とミホ。
「出してないよ。」破本官が右上の欄をトントン叩く。「ここ、印が空っぽだろ。空の印は権威のまがい。彼らに真似できるのは……**文句**だけ。」
「じゃあ私たちは?」
「本当の権威は——返すんだ。」破本官は私の手を見る。手相の上の欠片がかすかに光を受ける。「それはあんたが持つこと。見る眼が道を作る。」
ルシアが無意識に瘢痕へ触れる。破本官の視線がその指先を追った。
「痛むかい? 歌っていてやった傷のようだね。」
「はい。ときどき。」ルシアは素直に答える。「彼らが私の息をタイミングでさらおうとする時……ここが先に鳴る。」
「歌を変えな。」破本官は微笑をたたえたまま言う。「長い音を最初に置かず、終わりに置く。間に休みを入れる。休みがないと——先にあんたが苦しくなる。」
それは歌の秘訣であり、同時に生活の秘訣に聞こえた。破本官は引き出しから薄紙を二枚出す。ひとつは『許可=合意』の原則、もう一つは『発話様式の倫理条項』。どちらも古いインクで、明瞭な印がある。
「持ってお行き。」破本官。「**道中で見せな。**説明より先に、紙が止めてくれることがある。」
立ち上がろうとしたとき、帳簿の奥で音がした。紙が擦れる音——いや、紙が水に滲む音。帳簿の隙間で小さなスピーカーが起動する。破本官がとっさに帳簿を閉じて抑えたが、すでに一文が漏れた。
「今——“はい”と言えば。」
その文は昨日と違う。長さがない。短すぎて余韻がない。だが短いぶん鋭い。聞いた瞬間、舌が自然に**“はい”の形に巻き込まれる**矢じりみたいな言葉。私は舌先を噛み、歯を少し合わせ、きわめてゆっくり言った。
「今は——いいえ。」
卵は生まれない。代わりに内側の息が一度重くなり、自分で重みを放す。破本官がうなずいた。
「いいね。**その言葉は、もうあんたの歌だ。**誰が真似しても、終わりの休符までは盗れない。」
事務所を出ると、市場の騒ぎが一段低くなっていた。静かというより、調律が済んだ感じ。広場を横切る。真ん中には古い沈船の片方の骨が立ち、夜は舞踏会になると噂の場所。今夜。文字はないのに、皆がそう言っているように見えた。
骨の下に盤が広げられ、小さな印刷機。紙ではなく薄い膜を吐き出す機械。膜には文字でなく音の長さと拍の記号。Funnelの許可証は文字ではなく、音の設計図でできていた。図の下に小さな地券——**「所有者」**の欄。
私は身を乗り出す。ミホが肩を押さえたが、間に合わない。私の目が先に読んだ。その欄の文字——私の名前。人前で使うほうじゃない、家でもあまり使わない、小学校に上がる前に誰かが私へ貼ったかもしれない、ずっと古い呼吸の形が混ざった名前。母音の長さが私の歌糸と合わせてあるのを、舌が先に理解した。
「これ、誰が書いたの。」低く漏れる。問いというより断定。
印刷機の傍らの若い男が、驚いた兎みたいに目を丸くする。彼は私たちを知らないが、私たちが覗いているのは知っている。彼は地券を覆おうとし、チュンベが先に手を伸ばし、手首を紳士的にとどめた。力ではなく、作法の勝負。
「これは公文です。」ミホが静かに言う。「閲覧権があります。名前の盗用、音長の改竄、合意の偽装。どこで受けました?」
若い男の喉仏が上下する。謝りたい人の喉。だが背後から誰かが押す。影が彼の肩にそっと手を置く。指先に小さな王冠ピン。
「うちの子が失礼を。」影が笑う。昨日の扇の声。「すべては手続きどおり。お客様が“はい”と仰った時だけ発行されます。」
「私がいつ“はい”と言った?」と私。
影は柔らかく答える。「昨夜、礼拝堂。鐘が一度鳴った時。とても短い**“はい”**があった。聞こえない長さの。」
私は“はい”と言った覚えがない。言葉は言われてこそ言葉——なのに彼らは長さを言葉扱いする。破本官が私の右へ立つ。水中でも一筋の皺も乱れない顔で。
「長さは音楽、合意じゃない。」破本官。「この子の名前の盗用をやったのはお前じゃないだろう。だが、お前の後ろにいる者を代わって立つこともできまい。」
影は頭を垂れる。承認か嘲りか判じ難い角度。扇を閉じ、むしろ生臭さを消す。匂いが消えると、残るのは空気と水だけ。
「今夜、舞踏会があります。」影。「往来許可パスを受けるなら、一度は踊らないと。簡単です。音に身を任せるだけ。人は言葉の代わりに身体でも合意しますから。」
「私たちは書類で合意します。」ミホ。
影は扇を畳む。「では、書類と舞を同時に。美しいですね。」
笑みを残し、影は退く。若い男は最後まで謝れなかった。謝罪は言葉の卵になるはずなのに、彼の口からは膜だけが立っては、すぐ消えた。
私たちは印刷機から目を離す。膜は帳簿の中に吸い込まれ、私の名前の設計図は水のゆらぎに洗われて薄れた。だが骨の下ではすでに音が積もっている。管の低い息、弦の長い震え、水の拍。今夜には多くの身体が一つの場所で互いの長さを合わせて動くだろう。長さが集まると長さの錯覚が生まれ、その錯覚はしばしば合意の似姿となる。
戻る途中、ルシアが歩みを落とす。つま先が砂の上に細い畝を残す。彼女の手が私の手の甲にふわりとのり、昨日と同じように、手相の線の上で指先が留まる。
「今夜——一緒に来て。」
「舞踏会?」
「うん。あなたの言葉があなたに残ってるか、私の歌が私に残ってるか、その場所で確かめたい。それに……踊りは、たまに言葉より正直。」
私はうなずいた。答えのいらない質問で、質問のいらない答え。破本官は私たちを見比べ、遠い昔話のように付け足す。
「**踊るなら、始まりと終わりのあいだに休符を。**休符のない音楽は、強要に弱い。」
敷居へ戻る前、礼拝堂をもう一度回る。鐘は昼寝のように静か。ベンチの花環の穴はまだ空のまま。ミホが花環を手のひらで支え、裏返す。細かな砂がこぼれ、その中から細長い金属が転がり出た。小刀の柄。とても小さく、軽いのに、よく切れる。柄に海藻の茎が結わえてある。
ルシアが息を吸い、首の後ろで一瞬とまる。彼女は柄に触れず、海藻だけをほどき、刀身を海水で洗う。刃先から細い線が抜けた。血の線ではなく、物語の線。誰かを刺せば生き残れるという説得のかわりに、誰を生かしてもいいという記憶が刃に座る。
「誰が入れたんだろう。」と私。
「姉たちかも。あるいは魔女。」とルシア。「どっちにしても……今日は私が使わない。」
私たちは刀を礼拝堂の石台に置いた。誰かがすぐ取りに来られるように。それは殺す道具から生き延びた記録へ、と変わりつつあった。
敷居を越えると、空気の音が戻る。空調の息はむやみに勤勉で、人の息はどうしても怠け者。その隙間で、今夜の音楽が予熱されていく。ガラスが尾のように震え、私たちの身体から海の匂いを掻き落とす。
ユナは待っていなかった。代わりに冷蔵庫に一枚のメモ。
——今夜、あなたが踊るのを見たい。
でも、あなたの言葉はあなたが持って。〈ユナ〉
私はポケットから欠片を取り出し、手のひらに合わせて目を閉じる。手相の線と石の線が重なり、線と線の余白が明日の問いのように開く。私はごく静かに心の中で言った。
今は——踊りを学ぼう。
そして——休符を忘れない。




