E13
夜の空気はガラスのように冷えていた。水族館の裏口を出ると、ユナが私の肘をコツンと突き、一言だけ置いた。
「塩の雨の匂いがしたら、三つ数えてから一歩下がる。いいね?」
「うん。」
「それから……あの子が歌いはじめたら、あなたの言葉を少し貸して。返すときは、あなたの言葉で返すの。」
ユナは笑ったが、目尻は暗かった。彼女の笑いは、いつも冗談ではじまり、案内文で終わる。私もそうやって学んだ。冗談で手渡すほうが、怖がらせずに済むから。
地下へ降りる通路では、蛍光灯が一つずつ遅れて点いた。ミホが懐中電灯を消しながら言う。
「潮線が入ってくる。敷居が開きます。正面は避けて、横から見て。線は今日は一本。」
「圧とか、数値は?」
「感じますよ。数字じゃなく感覚で。」
後ろでチュンベが音もなく笑った。「その感覚、けっこう正確。怖がる時じゃなく、やるべき時にちゃんと上がってくる。」
敷居は、ほんとうに濡れないものだった。床の水は段差を越えられず、透明なガラスのように伏せている。その表面には波紋ではなく、薄い呼吸の紋が浮いては消えた。敷居の口が開くというのは、空気が水の文章を少しだけ真似るということだ。
ルシアが一歩、先に出た。ゴムの運動靴がガラスの上に載り、足の裏から極薄い音——泡が弾ける音でもなく、ガラス片が触れ合う音が零れた。彼女が振り向く。
「息、貸すよ。」
「やり方は?」
「私が先に歌うから、あなたはあとから言って。切らないで。」
彼女の喉から一本の歌糸がのびた。音ではなく、線だった。線が私の鼻先をかすめ、薄い膜をつくる。膜の内側で息を吸ってみると、濡れない。水の下へ降りているのに濡れない方法があることが、まったく不自然に思えなくなる。違和感の席を、先に言葉が占めると、身体があとから着いてくる。
ミホが肩を叩いた。「いい。行きましょう。」
敷居の下には、「下」がなかった。下りではなく、丸く巻いた道が外へほどける。私たちは水平に滑り、いつのまにか魚の群れが私たちの上を通り過ぎた。上下が入れ替わる間、内臓がふわりと揺れたが、歌糸が呼吸をつなぎ止める。私は言葉を一つ選んだ。
「今は——大丈夫。」
その言葉は水に沈まず、きらりと光る小さな珠になって浮いた。真珠ほど滑らかでなく、塩の結晶より柔らかな言葉の卵。ルシアが掌でそれを受ける。
「言葉の卵だよ。あなたの言葉、少しのあいだ私が預かる。必要になったら返せる。」
「いつ使うの?」
「誰かがあなたの言葉を奪いに来たとき。あるいは、あなたの言葉があなたを揺らすとき。」
「私の言葉が、私を揺らすの?」
「人の言葉は、持ち主にも悪戯するから。」
ルシアは卵を耳朶へ寄せた。卵は砕けず透明になり、その透明が私の耳にまで触れた気がした。借りた息が言葉の形になって戻り、鼓膜の奥を「コツ」と叩いたようだった。
海は、海らしかった。それ以外に言いようのない瞬間。暗さが青くなく、青さが暗かった。上にも下にも星みたいな破片が漂う。砂は流れず、滑る。魚たちは道ゆく客のように静かに通り過ぎる。遠くで鐘のようなものが鳴った。いや、鐘だった。小さな礼拝堂の鐘が水中で鳴るはずはないのに、鳴っていた。私たちはその音へ足を向けた。
最初の地名は、標識が代わりに告げた。角のレリーフ——貝殻の上に小さな家と塔。ルシアが指先でその意匠をなぞる。
「潮市。言葉が滞在する市。」
「言葉が……滞在する?」
「あなたたちには文字、私たちには卵。」
市場の入り口は騒がしかった。騒がしさが静かだった。全部が水の中なのに、全部が音だ。ひらひらする鰭が帳面をめくり、珊瑚の隙間から伸びた手の影みたいなものが卵を受け取る。卵を照らす灯りは水ではなく空気。空気が小さな尾のように卵に付き、持ち上げていた。
「売りまーす! あったかい告白!『君が好き』二個で千円!」
「それ、ほんとの言葉?」
「栽培品だよ! 本物じゃないけど本物みたいに感じる言葉!」
幕みたいな声が前からツンと飛び出した。鱗の代わりに光沢の布をまとい、羽のような扇を持つ男が立ちふさがる。脇にぶら下げた小さなスピーカーには、見覚えのあるロゴ。
PRINCE SARDINES
「旅人さん。体験パッケージは如何? 今はいと仰るだけで、ガラ招待と往来許可を即時で。」
その声は、水の法則を知らなかった。「はい」という発音の尻に薄っぺらい語尾がいくつもくっつく。はい、はい、はい——。誰も引いていないのに勝手に引かれていく音。スピーカーは小さいのに、その背後の道は長かった。道が私たちの背後から入り込み、足首を掴む感じがした。
私の舌先が先に反応した。手探りのように言葉が出る。
「今は——いいえ。」
その言葉は、今度は卵にならなかった。なりかけて薄くなり、スピーカーの前できらめく膜に広がる。ルシアの歌糸と重なった膜だった。二つの膜が触れたところに小さな亀裂が入る。まるで「はい」の尻尾がそこでぶつかって折れたみたいに。
男は笑みを少しも崩さなかった。
「では、『後でのはい』。機会はそう多くありませんから。」
ミホが一歩前へ出た。「書面でください。」
「言葉のほうが速いですよ。」
「書類でしか動きません。水にも滲まないインクを使います。」
男はしばらく私たち眺め、肩をすくめて扇を畳み、横へ退いた。スピーカーが最後に一度だけ点滅し、黙る。通りすがりにチュンベが耳元で小さく囁いた。
「よかった。言葉で押してきたら、言葉で押し返すんじゃなく、言葉の席に縫い留めるんだ。」
店を抜け、私たちは珊瑚の柱の前で止まった。柱には小さな像が嵌められており、顔の片側が欠けている。その顔を、どこかで見た気がした。Bブロック落とし物室の作業台——封筒のあいだに立ててあった、白い石膏の少年。水中のこの像と、あの像が互いの影だったのだと、そのときやっと気づく。
ルシアが柱に付いた破片を一つはずす。破片は自ら落ちず、私たちを認識もしない。ただ、そこに長くいた石だ。彼女はそれを私の手に握らせた。
「あなたが持って。あなたの記憶に触ってる。」
「私の記憶?」
「昨日、その顔を長いこと見てたでしょ。」
その言葉で、ざわっと鳥肌が腕を走った。昨日、作業台で私はどれほど長くあの横顔を見ていたか。眼の曲線を空気に爪でなぞる真似までして。
破片の縁が掌にぴたりと合った。手相の線と石の線が重なる。たぶん偶然ではない。
市場の奥には小さな礼拝堂があった。扉は閉ざされているのに、鐘は開いていた。鐘は音で鳴らず、波で鳴る。鐘の形の波が屋根を越え、樹々のあいだへ染みていく。木は海の上みたいに暗く、葉は鱗のように反射した。
敷居の前でルシアが止まる。指がピン跡の瘢痕を撫でた。額に一瞬、緊張が浮かぶ。歌糸がとても細くなる。
「ここが……あの日?」
私は問う。彼女はうなずいた。
「風が吹いて、水が裏返って、船が折れた。私は彼を引き上げて……ここに横たえた。誰かが鐘を鳴らして、人が出てきた。」
「彼は、あなたじゃなく彼らを見たんだね。」
「それでいいって思った。生きてるほうが大事だって。」
彼女が額をそっと戸枠に当てる。息を吐くと扉がわずかに開いた。中には誰もいない。ベンチに海藻の花輪が一つ置かれ、中心に小さな穴が空いていた。何かが抜けた跡。いや、誰かが置いて、誰かが持ち去った跡。
ミホがベンチの下からボトルの栓を拾い上げる。表面に海藻インクの模様。記号にも署名にも見える曲線が二つ。
「魔女の薬瓶……の栓だね。」
「ここまで来たんだ。」私は独り言のように言う。
「来て、警告し、対価を述べ、戻ったのでしょう。」とミホ。「そして誰かは、その言葉を解さなかった。」
礼拝堂の裏へ回ると、小さな流れが海へ注ぐ場所があった。水勢は弱いが、向きは確か。向きのある水は、いつも匂いを持つ。嗅ぐ。甘い匂い。砂糖を海に溶かしたような匂い。そしてその匂いは、とても小さな穴から出ていた。岩と岩のあいだに嵌った、硬貨ほどの抜け孔。
ルシアが膝をつき、孔に耳を当てる。額に陰が差す。
「ここから言葉が抜けていく。」
「誰の言葉?」
「誰のでも。告白、約束、許可……抜けると、彼らは言葉の卵じゃなく許可証に変える。」
私は孔に指を当てた。水が指を押す。引き抜こうとすると、水はもっと強く押した。諦めると、すぐ力を抜いた。拒否を理解したのだろう。
「塞いだら……?」
「別の道を穿つさ。」とチュンベ。「私たちは道を消すというより、元の場所へ戻す仕事をしてる。」
「元の場所?」
「言葉は、誰の口から出たかへ戻る。許可は、誰の心から始まったかへ戻る。」
その時だった。サラサラ……水でも砂でもない、布の摩擦のような音が、礼拝堂の屋根の上で鳴った。私たちは同時に見上げる。屋根の上に小さな装置。風車の形だが、羽の先にスピーカーが付き、その横に王冠形の金属装飾。
PRINCE SARDINES
装置がひと回りして風を起こす。回る間、空気が水中を引き込んだ。風と水が編まれる場所に薄い帯が生まれる。その帯が私の喉まで伸びてくる。遠くから誰かが私の名前を呼ぶみたい。とても遠くて、「ない」と言えてしまうくらいの距離。
「聞かなくていい。」ルシアが私の手首を摑む。「私が呼ぶ。」
彼女が歌糸を長く引く。今度は歌糸ではなかった。三本の歌糸が一つに合わさり、ふいに広がる。線が膜になり、膜が道になる。その道が風車の回転を包む。羽が水の中で力を失う。音が細る。細った音の末に、とても薄い声が引っかかっていた。
「……ハル。」
本名ではなかった。人が私を呼ぶ名前。なのにその発音には、私が生まれる前に誰かが私に貼ったかもしれない最初の呼吸のかたちが混じっていた。誰が作った音か、どう知っているのか、問いがいっぺんに押し寄せる。そこでミホが肩を小突き、唇だけ動かす。
「今は——問わない。」
私はうなずいた。問わないことが答えではなく、順序である時がある。先にやるべきことを終えれば、問いは自分で答えを連れて戻ってくる。
ルシアが私の手を借りる。彼女の手が私の手の甲に重なり、指先が手相の線をなぞった。線と線が重なる間に、掌にとても小さな水滴が立つ。水滴の中に膜があり、膜の中に空気、空気の中に音。
「あなたの言葉、返すね。」
彼女がその水滴を私の耳朶にそっと触れさせる。水滴が消え、喉の奥が軽くなる。私は息を吸って吐いた。その息は私のものだった。
「今は——ここまで。」
言い終えると、礼拝堂の鐘が一度、音で鳴った。音が市場へ広がり、市場の音がまた音で応えた。誰かが卵を振り、誰かが卵を置く。丸いものたちのあいだで、すべてが束の間、自分の席を見つけた。
戻り際、屋根の装置はもう回っていなかった。風車の羽は海藻になって散り、王冠の飾りは錆びた鉄片へ戻って海砂に埋まった。
「ここに長く留まりたいけど、」ミホが言う。「一度に全部直そうとすると……先に壊れるのは誰か。」
「誰かって?」
「たいてい、自分。」
私は礼拝堂の壁に手を当てた。冷たく、弾力がある。生きものの弾力。壁から手を離し、ポケットの破片をもう一度握る。なぜ手相に合ったのか、なぜ昨日あの顔をあんなに長く見つめたのか——その理由を知るのは、明日の役目かもしれない。
敷居へ戻る頃、市場はさらに静かになっていた。静けさは水ではなく心から始まっているみたいだった。私たちは言葉を惜しみ、唇はほとんど動かさない。海はそれを聞き分けるようだった。
敷居の前で呼吸の膜が薄くなる。上と下が席を取り戻す間、耳に入ってくるのは海水の音ではなく、空調の風。空調は親切に一度だけ深く息をした。私たちの帰還を確かめるように。
階段を上がると、ミホがラミネートカードの角をトントンと叩いた。
「今日は、ここまで。」
「だな。」チュンベが帽子を外して顎を掻く。「ここからが始まりだ。」
ルシアは私にうなずいた。彼女の瞳には海の色が残っていたが、私の顔もはっきり映っていた。
「明日——問おう。」
「明日——問おう。」
扉を閉めようとした時、遠くで鐘がもう一度流れた。水の鐘か、空気の鐘か、区別できない。音の尾に、風が静かにぶら下がっていた。そしてその風の尾に、誰かの笑いがごく薄くまじっていた。
「いらっしゃいませ、お客さま。」
地下廊下の闇の端で、見慣れたパンフの光が一度、点滅した。PRINCEという文字が壁に短く反射して消える。誰も答えない。私たちは上へ向かった。返答は、明日の仕事だった。




