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E10 —— 席で“名前”を聴く日

朝は湯を上げる前に、まず今日使う言葉の長さを見積もった。4-4-6。四拍吸って、四拍つかまえ、六拍長く吐く。息の終点に触れる音が、部屋の薄い空気にそっと座る。灰色のノートの最後の点の下に、一行を貼りつける。

「今は——“席”で名前を聴く。そして——私から先に貼らない。」

句点が触れた瞬間、胸の奥で**……アがごく短くきらめいて消えた。ラもウ**も続かない。今日は呼ばない日。問い、待つ日。


水族館では、ユナが冷蔵庫の上のキャンディ袋をトントン叩き、目で合図した。

「最後まで読む人は糖が切れる。マニュアルに追記しとく?」

「それは私たちだけの秘密項目で」

ユナはニヤリと笑い、袋から一粒つまんで私の手のひらにのせた。

「でもさ、最近のあんた、語尾が……“座る”音がする。椅子にお尻を先につけてから喋る人みたい」

「それが計画。座った言葉は引きずられないから」

「おっ。じゃ、今日も座らせて。引きずられたら——電話」

「その前に“二歩”」

なんでもない冗談みたいにやり取りして、ペンギンの餌の準備へ散る。MSDSの警句を上から下まで復唱。甘い匂いがかすめたら二歩後退——正面禁止——横目で確認——最後まで読む。 二つの世界が同じリズムで私をひとつに縛り直してくれるのが、妙に心強かった。


退勤印を押して横断歩道を渡りながら、財布のラミネートカードの角を親指でコツ。

二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線。

五行が指先で整えば、心も整う。Bブロックのガラスロビーに薄い曇りが一度すっと走って消えた。正面で見ればただの曇り。


地下の廊下にはミホとチュンベが先に来ていた。チュンベは差圧計と騒音計を肩ベルトに、ミホは薄いバインダーと作業用の鍵を持っている。

「ハルさん」ミホが鍵を差し出す。「今日は落とし物室、あなたが“言葉のパス”。私は塩水さんと照合室で**『雑音』原本スプールの確認。チュンベはレッドライン地図の補強**」

「一人で入って大丈夫ですか」

「規定上、単独実習は“二次教育”通過後に可。ハルさんは昨日**『名前復権—基礎』を終えて、『強制禁止/質問優先/結論は明日』の誓約にも署名した。だから可」

チュンベが添える。「圧は俺が見張る。おかしけりゃ即“中止メッセージ”」

「中止メッセージは……『今は——止める。そして——外へ出る。』**」

「それ」チュンベが笑う。「最後まで、はっきり」


ラベルプリンターから空ラベルを数枚抜き取りポケットへ。透明ポケット三枚、アクリルの席二枚、赤い丸シール束、チョーク一本。落とし物室の扉を開ける前に、先に一行を敷いた。

「今は——名前を問う。そして——私から先に貼らない。」

語尾が座ると、手首の力が一定に沈む。今日やる動作にそれぞれの席が決まる感触。


落とし物室の中は、ドライヤーの低いハミングでふくらんでいた。温湿度計は照度OK/湿度OKを瞬く。作業台の上に席を二枚、平行に置き、昨日持ち帰ったガラス(半)の袋と、前日から保留中のボタン(半)、ピン(半)の袋を赤い点と一緒に載せる。三つの袋を正三角形に並べかけて、手を止めた。形を揃えるのは、私が“貼る”行為になりかねない。私は袋同士を二歩間隔に等間にして、一直線に並べた。

「席は一つが“聴く席”、一つが“記録席”」独り言の札を付け、作業台の縁にチョークで短い線を引く。線は正面では埃のようで、横目でだけ艶が立つ。線を越えない——自分にかける規則。


まず呼称の確認。ラベルの一行目を声に出して読む。「ピン(半)、ボタン(半)、ガラス(半)。」 つけられた呼び名を確認。つづいて自己呼称の誘導。強制禁止。私はラミネートカードの裏を舌先でそっと湿らせ、低く一行をのせる。

「今は——名前を問う。そして——私から先に貼らない。」

言葉が席に座ると、まずピン(半)の袋を聴く席に移す。袋のビニールが照度の筋を受けて細い艶を上げた。正面禁止。横目だけで艶を見る。

「ピン(半)。あなたが自分をどう呼ぶか——自己呼称」

しばらく静寂。ハミングと私の呼吸だけがカウントダウンみたいに部屋を満たす。そこへ、ポケットのヘアピンがコツと一度鳴った。……ル———舌のつけ根に母音が先に落ちる。語尾を噛みたくなる衝動を、二歩分後ろへ送る。貼れば、剥がれる。

「記録」袋を記録席へ戻し、カードに記す。自己呼称——『……ル—』——出所:ピン(半)近接/発話者なし/舌根感覚——確定保留。 赤い点を一つ。


次はボタン(半)。聴く席へ移すと、曲面の艶が作業灯の下で丸くふくらむ。コンマ六を数え、語尾が最後まで届く空間を内側に少し空ける。

「ボタン(半)。自己呼称」

ハミングに重なって、どこかでごく薄い金属音がカチと噛み合い外れる。ボタン穴が呼吸の真似をするみたいに、影をわずかに変えた。舌先のあたりで次の音節が付くか付かないか。—シ—

正面を避け、横目で艶を辿る。語尾を私の言葉で継いだ瞬間、それは私の言葉になってしまう。だからしない。

「記録」カードに。自己呼称——『—シ—』——出所:ボタン(半)近接/発話者なし/“歯間”感覚——確定保留。 赤い点。


最後にガラス(半)。聴く席に座らせると、曲面の濡れない水じみがごく薄く回った。水に濡れていないのに水の艶を持つ表面。海辺で拾い上げたから可能な結。私は4-4-6をもう一度数え、句点の重さをそっと置く。

「ガラス(半)。自己呼称」

何の音もしない。代わりに光が動いた。作業灯の下、照度が半拍遅れて変わる感覚。その遅れがアに似ていた。—ア。 昨夜、防波堤でどうしても付かなかった最後の音節。私はその遅延に触れない。私の手がその遅れを急かすと、要求の文が侵入する余白を作ってしまうかもしれない。

「記録」自己呼称——『—ア』——出所:ガラス(半)近接/発話者なし/照度遅延——確定保留。 赤い点。


三つの袋の**『呼称』の下には、いま小さな点と異なる感覚の短いメモが並んだ。ピンの……ル—、ボタンの—シ—、ガラスの—ア**。三つを一席に合わせれば当然の語になる——が、合わせない。合わせるのは結論で、結論は明日。今日は——記録。


ふと、ドライヤーのハミングがごく短く揺れて戻る。チュンベの声がハンディ無線の向こうから。

「圧4.7。レッドライン維持。異常なし。」

「こちら——正常」私は現場ログの調子で短く返す。「席三つ、赤い点維持」


作業台右の内線端末が静かに震える。画面には見慣れたアンケートの通知。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉—Q8. 今、“名前復権”をお手伝いしましょうか? 音声入力なしで可。 画面中央を赤い線がごく細く一度走る。

親指が予測変換みたいに『はい』へ落ちるのを二歩遅らせ、コンマ六をもう一つ重ねる。そして先に一行。

「今は——いいえ。」

送信と同時に、作業灯の影が半拍遅れて動き、元へ戻った。要求の文は空白を狙う。空白を“文”で先に満たしておけば、要求が触れる席も薄くなる。 相談室で覚えたやり方と、保存マニュアルが重なる地点が、まさにここにある——と毎日少しずつ体が覚える。


ピン(半)に戻る。さっきはポケットのヘアピンが先に反応したが、今回は袋そのものからごく細いコトンという音。プラスチックが熱で鳴る音に似て、しかし少し言葉の形。袋を記録席→聴く席→記録席とゆっくり往復させる。席の移動自体が強制にならないよう、二歩の間隔とコンマ六を間に置いて。

「質問を変える」ごく低く、語尾を押し切る。「『ルシア(岬)』か、『ルシア(見習い)』か——“呼称”の領域だけで。点で答えてもいい」

袋が音を出すはずもない——のに、照度が、ビニールの艶が、ごく細い“点”みたいに瞬いた。一度だけ。正面を避けたまま、その瞬きを光の言葉だと仮定して記す。

ピン(半)——呼称質問——点一つ——『ルシア(見習い)』可能性↑?——確定保留。 赤い点をもう一押し。


ボタン(半)が先に答えたのは意外だった。袋の内側で、空気泡が抜けるみたいなスという音。ボタン穴二つが、ひと呼吸吐くみたいに影を変える。

「質問。L。呼出符号か、イニシャルか。」

今回は反応なし。代わってガラス(半)の曲面にLの角が一瞬立った。偶然の反射でありうる——けれど今は“席の中”、質問の“結”に沿って現れたのだから記録の対象。

ガラス(半)——L角——“区画呼出符号”仮説、強化——確定保留。 そして小さな点を一つ。


三つの袋が互いを映し、互いの艶を似せ合っていく感じがした。このへんで止める。合が作ろうとする感覚を線で割るのが保存の仕事。私は作業台の縁にチョークの線をもう一本増やす。線は正面で消え、横目でだけ生きる。線を増やしていると、スマホがもう一度震えた。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉—Q9. 今日中に“安全な結末”を予約しますか? 音声サンプルなしで可。 今度は赤い線が二度走る。焦りが増した。

「今は——いいえ。」

送信。何の母音もついてこない。空白をかわすやり方が正しかったと受け取る。


扉がコトと鳴り、廊下の風がすこし変わる。チュンベだ。

「圧4.6。レッドライン一本、補強必要」

「こちら、“席”の前に一本追加」私は現場ログ調。「チョーク線、増設」

敷居に立つチュンベが、顎で椅子の下を指す。

「お。その足、線超えかけ」

私は半歩引く。線は、壊さないから“線”。いつもの冗談が背中をすっとなでる。


三つの袋の一行ずつを締めようとした時、ミホから短いメッセージ。

照合室——『雑音』スプール、初期“記憶音節”の推定。昼は一音、日没前は二音まで。要求文とのミックス痕跡なし。

その後ろに、もう一行。

「今は——合わせない。そして——“席”で聴く。」

私は同じ文を声に出さずに唇でなぞる。合わせない。今日は集めない。三つの自己呼称は異なる感覚でつかまえられ、それぞれ席を持った。次は——復権。だが復権は、名前が自分で戻る準備を整えた時だけ。


作業灯の下、ピン(半)のビニールがごく薄くコツンと二度鳴る。……ア—ラ。 私の胸の奥で、その音が合になりそうでならない。私は保留を選ぶ。

「今は——ここまで。そして——明日、“復権”を検討する。」

語尾が届くと、ハミングが一度なめらかに。三つの艶が同時に半拍遅れて揺れる。“席に座った”合図として十分。


落とし物室を出るとき、作業台のアクリルの席を二枚とも空にしておいた。一つは“聴く席”、一つは“記録席”。席が残っていれば、明日言葉を座らせるのも易い。扉の前で、もう一行。

「今は——扉を閉じる。そして——明日、あけておいた“席”に戻る。」

取っ手を引くと、扉は静かに吸って、静かに吐いた。


廊下を曲がって照合室へ。ミホと塩水が肩を並べ、スプールを覗いている。薄いテープに点のような歪みがスと滑る。塩水が顔を上げた。

「ここでは“要求文”の痕跡は見えない。歌の欠片だけ」

「席の問題だった、ということ」ミホが添える。「だからアンカー接近が必要で、防波堤では二音まで聴けた」

「こちら——“席”で三つの自己呼称」私は報告する。「ピン——『……ル—』、ボタン——『—シ—』、ガラス——『—ア』。合は——保留」

「いいですね」ミホは小さくチェックを打つ。「復権は明日。自己呼称がもう一度繰り返されたら、その時本当の名前をお願いする」

「お願いは……どうやって?」

「一行で。『今は——名前を受け取り直す。そして——強制しない。』——ハルさんのトーンで」


チュンベが茶化すように割り込む。

「最後まで。語尾がにじむと——風に持っていかれる」

「最後まで」私は繰り返す。“終わり”は、ときどき“扉”。


退館サインでロビーへ上がる途中、スマホがコトと震えた。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉—Q10. 明日の午前、“安全な結末”を予約しますか? 声なしで可。 今度は赤い線が三度走る。焦りが子どもっぽく見えるほど。私は入力欄に一行だけ残した。

「今は——いいえ。」

送信。母音も、艶も、リムも続かない。無音は時にいちばん正確な席。


外へ出る道すがら、自動ドアのガラスに薄い曇りが長く伸びて切れた。今日じゅう見続けた**“リム”みたいな曇り**。それに名前は与えない。ただの曇り、ただの水気、ただの空調。 名前を貼れば、剥がれる。今日の教訓は古くて正確だった。


家に戻って灰色のノートを開く。最後の行の下に小さな点を三つ——ピン(半)/ボタン(半)/ガラス(半)。そして今日の最後の一行を選ぶ前に、長く抑えていた質問をゆっくり取り出してみた。誰が“先に”名前を走り書きしたのか。 その形は今日のあいだに少し変わった。いまはこう言うほうが正しい。誰が“名前の席”を先に残したのか。

私はペンをとり、最後まで一行を貼る。

「今は——記録を閉じる。そして——明日、“名前の席”を確かめる。」

句点が触れた瞬間、とても遠くで波が一度鳴った。あるはずのない音だが、今日一日座らせてきた席の間に自然に座った。その音にも名前は貼らない。ただの波で、風で、明日だ。扉は遠くでも、相変わらず、静かに息をしていた。

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