E09 —— 朝の呼吸と、名前を貼らない日
朝は湯を火にかける前に、まず部屋の息を数えた。4-4-6。四拍吸って、四拍つかまえ、六拍長く吐く。空気がそろう日は、言葉もそろう——相談室で教わった文句だ。
ノートを開き、昨夜の最後の点の下に一行を先に座らせる。
「今は——残された“名前”を確かめる。そして——私から先に貼らない。」
句点が触れると、胸の奥で**……アが短くきらめいて消えた。ラもウも続かない。“呼ばない”という今日の約束**が、言葉より先に身体に座った感じだった。
水族館では、ユナが冷蔵庫の上のブドウ糖キャンディの袋をトントン指で叩いていた。
「最後まで読む人は、糖が切れる〜。昨日も言ったけど今日も言うよ、ハル。一個取りな」
「一個で十分」私は笑って一粒だけ舌にのせる。
「でもさ、最近……語尾にコンマが見えるんだよね」ユナは目を細め、キャンディを口に放り込んだ。「最後まで読むけど、あえて遅延を作ってる感じ?」
「そう。二拍遅らせると、選択が変わる瞬間がある」
「それ、演劇部で習ったやつ?」
「半分は。残り半分は……図書館で」
ペンギンの餌を用意しながら、MSDSの警句を復唱する。甘い匂いがかすめたら二歩後退——正面禁止——横目で確認——最後まで読む。 水族館の規則と言葉と、図書館の規則と言葉は互いの文を共有していた。同じリズムが二つの世界をつなぐ。片方で身についた身体の拍が、もう片方で私を救ってくれた。それだけで、今日問うべきことの半分は用意できたようなものだ。
退勤印を押してBブロックへ渡るとき、財布のラミネートカードの角を親指でコツと押す。
二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線。
五行が指先で整うと、心も整う。ロビーのガラスに薄い曇りが一度すっと走って消えた。正面で見ればただの曇り。それが今日の最初の安堵だった。
地下の廊下に降りると、ミホが薄いバインダーを差し出す。表紙には、昨日手書きで見たものが活字になっていた。〈名前復権——基礎〉。冒頭に太字で三行。呼称の確認——自己呼称の誘導——“本当の名前”の復権(在れば)。 その下に小さく、強制禁止/質問優先/結論は明日。
「今日はもう一つあります」ミホが裏ページをめくる。港湾庁・分館——Bブロック保存パートナーシップ(3年)。夜間巡回ログの閲覧協力、聴取区画の共同使用。『アンカー接近』の実験——事前通知で可。
「法的にどこまで問えて、どこまで覗けるかの線が明確ってことですね」
「ええ。だから昼は行政照合、夜は聴取と“名前”確認。それと……」ミホはバインダーをトンと閉じた。「昨日、塩水さんがくれた**『雑音』テープ**、今日は水のそばで聴きます。アンカー接近で」
チュンベは肩ベルトに下げた騒音計と差圧計をカチャッと鳴らして割り込む。
「圧4.9。外気湿度64。今日は風の“尻尾”が短い。言葉は長く、文は短く。レッドラインは二本で始めて、夜は三本にする予定。」
「安全は、退屈であって安全」私は先に語尾を座らせる。
「そういうこと」チュンベが笑った。
ラベリング室に入る前に、落とし物室へ寄り、白い半粒と、昨日防波堤で拾い上げたボタン半分の袋を、席の上に並べる。二つの袋の下に赤い点を一つずつ貼り、ラベルの呼称欄を確認。ピン(半)/ボタン(半)。
「今日はあの二つの“自己呼称”は押さない」ミホが私の手首を軽く押さえる。「現場で『歌の欠片』と『声』を先にきっちり分けるから」
「歌の欠片=残されたもの、声=要求されたもの」私が反芻すると、彼女は親指でラミカードの隅をコツ。
「貼れば、剥がれる。今日もその原則を忘れないで」
港湾庁・分館は作業台に白布が敷かれていた。塩水はゴムパッドを手のひらでぎゅっと押し付けてから顔を上げる。
「お待ちしてました。昼は照合室、夕方は防波堤の聴取区画。『雑音』テープは午後の潮時を切り替えて一回、日没前にもう一回」
「潮時?」私が尋ねると、塩水は帳簿の脇の潮汐表を指さした。
「潮の上下が録音層に影響します。『雑音』ってラベルは、何も保証しないって意味ですが、時には**『歌の欠片が座る席がなかった』って意味にもなる。まず席を作りましょう**」
照合室は昼光色の蛍光灯で明るく、壁の白が海の銀を少し受けていた。塩水が**『海霧——雑音』と書かれたカセットを袖で軽く拭い、シールド再生機に差し込む。
「ボタンは私が。一行はハルさん」
私は先に席を敷く。
「今は——聴くが、ついていかない。そして——残されたものを先に見る。」
語尾が座ると、メーターの小針が静かに揺れた。ピッというスタート音のあと、風が薄い膜みたいにスピーカーをコツと叩く。案内音声は出ない。代わりに、遠い原点から誰かの呼吸だけが規則正しく流れてきた。最後まで吐こうとする呼吸。私は舞台袖で仲間の発声を聴く耳でリズムを捉える。4-4-6。四、四、六。
「……4-4-6」私が囁くと、塩水が騒音計のグラフを指した。
「そのとおり。吸四、止四、吐六。訓練された発声ですね」
「歌の欠片?」ミホ。
「まだ呼吸だけ。歌には貼り付いていない**」塩水は微振動カットを押して、空調の残響を少しだけ削る。「席不足かもしれないし、要求がないのかもしれない」
テープはしばらく沈黙を抱えた。沈黙は空ではない。マイクが遠い水と近い金属を同時に手探りしている感じ——波と欄干のあいだ。その間に、音の点が生まれる。
……ル— 次の音節は付かない。“貼れば剥がれる”が自らを守ったみたいだった。
私は正面を避け、横目でスピーカーグリルの光の目をなでる。音は艶を追いかける。アを足そうとする試みも、来ない。
「席さえあれば貼れたかもしれない第一音」ミホが静かに言う。「でも要求がないから、残されたまま止まった」
「だから雑音」塩水はテープを止め、印を一つ残す。「報告書では雑音と書かれたけれど、実際は歌の欠片の試みだった可能性がある」
壁時計の針が三時を越え、コトと鳴る。塩水が窓越しに海をひと掃きした。
「日没前に潮が変わる。その時、水のそばへもう一度。風が変われば、欠片が座る席も変わります」
その合間に、行政照合を進めた。『人員変動報告』のルシア項、夜間巡回のL表記。塩水の説明は一貫している。Lは区画の呼出符号の可能性が高い。だが確定は保留。ルシアは地名にも呼称にも使われる。地名と呼称が跨がる場所では、名前は簡単に剥がれる。だから強制禁止だ。
斜陽になった頃、防波堤の聴取区画に立つ。チュンベが赤い線を三本に増やした。
「夜になるほど**“手”が増える。線をもっと握れ」
機械にカセットを差し込む塩水の手つきは清潔だ。私は先に一行を敷く。
「今は——聴くが、貼らない。そして——残されたものを先に記録する。」
風が一瞬止まって**、また吹く。再生機が回る。昼とは違い、夜の海は塩っ気が喉の奥をかすかに掻いた。スピーカーから呼吸がまず出る。4-4-6。そのすぐ後、風と波がコツと石を叩く音を置く。そして、昼には付かなかった第二音節が、今度はごく薄く寄り添った。
……ル—シ—
貼らないために、舌先に上がるアを自分で噛む。私に先に名前を貼る権利はない。その瞬間、ミホの息の糸が半音低く揺れ、塩水の手の甲の産毛が立つのが横目に映った。三人の感覚が合になる直前、波が欄干の下で二度石を打つ。リズムが変わり、最後の音節が飲まれた。
「今は——ここまで」ミホが掌をぎゅっと握って開く。「確定は保留」
「歌の欠片、二音節まで」塩水がまとめる。「要求はなく、残されたものが自力で道を探している」
チュンベが騒音計をのぞき込みながら言う。「レイヤーが混ざった。風の手、水の手、言葉の手。空白を誰が先に撫でるかの勝負だね」
停止しようとした刹那、私のスマホがかすかに震えた。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉——Q6. 今、“安全な結末”をご提供できます。音声サンプルを一度だけお聞かせください。 画面中央を赤い線が三度すっと走る。今回はマイク許可のポップアップ付き。『許可/拒否』。許可のボタンだけ赤い縁がわずかに濃い。
親指が予測変換みたいに許可へ落ちるのを、私は二歩遅らせ、コンマ六を二回重ねる。そして、一行を先に敷いた。
「今は——マイクを切り、テキストだけで記録する。」
ボタンは拒否。送信欄には一行だけ残す。
「今は——いいえ。」
送信と同時に、胸の奥で**……アが鳴って消えた。ラもウも続かない。要求をかわした席には、残されたものの息**だけが残った。
「いいね」塩水は私の画面をちらっと見て、無言で親指を立てた。「夜は要求が強まる」
「でも文が先」ミホの調子はぶれない。「今日は記録。結論は——」
「明日」私は受けて語尾を座らせる。
片付けていると、チュンベが欄干の下を指した。
「あの隙間……光った」
誰も正面から覗き込まない。横目だけで、欄干下の石と石の艶を撫でる。確かにごく小さな光が刺さっている。昨日のボタン(半)より小さく、薄い。塩水がロングピンセットを渡し、チュンベがレッドライン内から長く伸ばす。二度は空振り、三度目にカチっと音がして、何かが先端にかかった。
透明袋の上にのせると、それはガラス玉の半分だった。半月の切断面は濡れておらず、曲面には濡れない水じみのような薄い艶が巡っていた。
「今日も半分ですね」私はラベルの呼称欄に**『ガラス(半)』と書く。
「ここ数日、こういうのが増えてます」塩水が首を振る。「指輪の半分、ボタンの半分、玉の半分。どれも濡れない**。席さえあれば勝手に集まるような感じ」
「歌の欠片と同系かも」ミホが袋を閉じ、赤い点を押す。「自己呼称は——今日は保留」
帰りのバスで、私はジッパーファイルの中の三つの袋の角を交互に指で押す。ピン(半)/ボタン(半)/ガラス(半)——三種の“半分”の艶がビニール越しに伝わってくる。半分が集まる理由はたいてい二つ。
一、誰かが意図的に“席”を多く残しているから。
二、誰かに“席”を奪われ、周縁が剥がれて流れ着いているから。
今日の記録だけでは、どちらも確定できない。だから保留。保留は逃げではない。席を残す行為だ。
Bブロックの照合室で、今日の報告を整える。
アンカー接近——『雑音』カセット(海霧・甚)再生:昼=呼吸(4-4-6)のみ確認、歌の欠片の付着失敗。日没前=歌の欠片二音節(「ル—シ—」)まで付着、最後の音節は波の衝撃で消失。挿入文(「あなたの小さな声…」)は本カセットには無し=“要求”と区別。夜間アンケートの『音声サンプル』要求ポップアップ確認=拒否&テキスト回答(「今は——いいえ。」)。防波堤でガラス(半)を追加回収(艶/濡れ無し)。人員変動/夜間巡回——L表記=区画呼出符号の可能性↑(確定は保留)。『ルシア』=地名/呼称の境界は維持。結語——歌の欠片=残されたもの、声=要求されたもの の区別は有効。名前復権は明日、落とし物室の席にて。
ミホが最後の行の端に小さなチェックを置く。
「今夜はここまで。明日は二手に分かれます。ハルさんは落とし物室の席で“半分”三つの自己呼称を再誘導。私は塩水さんと『雑音』の元スプールを照合室で剥ぐ。チュンベはレッドラインの地図を修正」
チュンベは肩をすくめ**る。
「安全は退屈であって安全。地図が退屈じゃないと、道に迷う」
落とし物室に降り、ピン(半)/ボタン(半)/ガラス(半)の袋を、席の上に並べた。三つの艶は、互いの影を覚えているみたいに似た揺れを見せる。私はそれぞれの呼称の下に小さな点を一つずつ打つ。確定保留。強制禁止。
その時、ポケットのヘアピンがコツ、コツとごく軽く二度鳴った。……ア—ラ。 今日はウは付かなかった。名前を貼る日ではないから。
退館のサインをして出るとき、ロビーのガラスの曇りが、長い“間”みたいに伸びて切れた。私はそれに名前を与えない。ただの曇り。ただの水気。ただの空調。名前を貼った瞬間、剥がれるのを今日も何度も見た。
玄関を出て、信号待ちのラインに靴先を合わせ、最後の一行を選び、語尾までしっかり差し出す。
「今は——記録を閉じる。そして——明日、“席”の上で名前を聴く。」
句点に触れると、胸の奥でとても浅い……アが鳴った。ラもウも来ない。正確だ。
夜は思ったより静かで、部屋の空気もおとなしい。机の上の灰色のノートを開くと、中学生の字でいびつに並ぶ古い“一行”が迎える。
「今は——息を数え、最後まで読む。」
下にはチェックボックスがきれいに列を作っている。私はペン先を一瞬宙に浮かせ、最後の枠にとても小さな点を打った。確定保留。閉じる代わりに、ノートの横に三つの袋を重ねておく。ピン(半)/ボタン(半)/ガラス(半)——半分たちの席。
消灯しようとしたとき、スマホがまたコトと震えた。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉——Q7. 明日の午前、“安全な結末”を予約しますか? 音声サンプル無しで可。 画面中央を赤い線が今度は一度だけすっと走る。私は予測変換みたいに浮く親指を二歩遅らせ、入力欄に一行だけ残した。
「今は——いいえ。」
送信。何の音も続かない。その無音のほうが、むしろ席に見えた。
ベッドのスイッチを落とし、暗闇が部屋を満たすあいだ、私は明日の順番を心の中でもう一度整列させる。
呼称の確認 → 自己呼称の誘導 → 復権(在れば)。強制禁止/質問優先/結論は明日。
舞台で段取りを指でなぞる癖が、ここでも役に立つ。新しい世界ではなく、長く使ってきた世界の別の層。角度を失わなければ、道は失わない。
目を閉じる直前、とても遠くで波が一度聞こえた。あるはずのない音だったけれど、今日聴いた数多の**“語尾”の間に自然に座った。私はそれにも名前を貼らない**。ただの波。ただの風。そして——
「今は——寝る。そして——明日、問う。」
言葉は引き出しに戻るみたいに静かに自分の席へ入っていった。扉は遠くでも、相変わらず、静かに息をしていた。




