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8 誠、ぶっ叩かれる

 なすがまま、腕を強く引かれた誠は首を回して後ろを振り返る。

 そこには嗚咽(おえつ)ひとつ()らさずに立つ志乃の姿があった。悔しくて、ズボンが(ゆが)むほど強く握りしめても涙を見せず、ただ誠を強く睨んでいる。

 今、彼女に味方はいない。実の母親ですら諦めたように座りこんでいる。しかし志乃の目は爛々(らんらん)と輝き、真一文字(まいちもんじ)に結んだ口からは今にも恨みの言葉が飛び出してきそうだった。

 その光景に、誠は見覚えがあった。いや、より正しく言うなら、体感(たいかん)したことがあった。

 前世の自分と重なる。父と母が離婚して、まだ誠が幼き頃のことである。いつも通り友達と遊んでいて、迎えに来る保護者たち。ひとり、またひとりと輪の中から抜けていき、最後は自分ひとりとなった。母親は迎えに来ないと分かっていてもただ暗くなるまで待ち続けたあの姿、あの言葉にできない気持ちを今度は眺める側になるとは、想像もしていなかった。

 子供と侮るなかれ、予想以上に周りをよく見ているのだ。普段から腫れ物(はれもの)扱いされている亜弓の姿を見て育った志乃が世を恨んでいてもおかしくない。いや、恨まずにいられるはずがないのだ。誠がそうであったように、そして今、自分が恨まれる要因を作る側になってしまったことがこれ以上ない屈辱(くつじょく)と思えていた。

「ちょ、はなして!」

 焦るようにその場を後にしたがる真由へ、誠は全力で抗う。

 だめだ、このままでいいはずがない。その思いは大人の足を止めるに十分な力を発揮し、上から覗き見る真由は信じられないものを見る目をしていた。

「まゆさん、たたいちゃだめ」

 叱るにしてもまずは話から入るべきである、相手は言葉の通じない猿じゃないのだ、真由の行いは文化的で知性がある現代人の行動ではなかった。

 その彼女は身をかがめ、同じ目線に立つと、

「悪いことをしたなら怒って当然ですよ」

「いってきかせればいいはずです」

「間違ったことをしたら痛い目をみる、それを知ることも大事なんです」

 力強く言い切る様子から、一歩も引く気がない意思を誠は感じていた。

 ……なんなんだよ。

 (いきどお)りを隠さず、拳を作る。真由は至って平常心だ、つまりこの対応がこの世界では普通なのだろう。その証拠に亜弓も志乃をかばうような様子を見せていなかった。

 賢い判断があるとするならば、受け入れるしかない。みんながやってる「当たり前のこと」を声高に否定し暴れるなんて、忌避(きひ)される行為だ。精神は子供じゃないのだからそのくらいの理解力を誠は持っていた。

 でも、無理だった。

「まちがったこととだれがきめたの?」

「……わたし?」

「じゃあ――」

 真由の答えを聞いて誠は踵を返す。そしてそのまま進み、ベンチに座ったままうろたえてばかりの亜弓の前に立つ。

 そして、深々と頭を下げていた。

「ごめんなさい」

「な、なにが?」

「まゆさんが、しのちゃんをなぐったこと。ぼくはまちがってるとおもうからごめんなさい」

 詭弁(きべん)、揚げ足取りの類だ。当然、亜弓は困ったように目線を泳がせるばかりで答えることができず、正しい反応を求めて最後に誠を見ていた。

 だから誠は更に歩み寄り、

「おたがいさまだから、なぐってください」

「……えっ」

 無茶苦茶な要求に亜弓は首を捻っていた。なぜ誰にも危害を加えていない子供を殴らなければいけないのか——そんな表情である。

 でもそうじゃないのだ、と誠は更に一歩進む。志乃の気持ちが少しでも晴れるなら、亜弓が母親として子を守る姿を見せられるなら、一発くらい殴られてもお釣りがくる。

「まーくん、変なこと言ってないで帰りますよ」

「あゆみさん、しのちゃんをわらわせてあげてください」

 子供の名前が出て亜弓は志乃を一瞥する。状況を理解できていないようで、志乃は亜弓の顔だけを凝視していた。

「――ごめんなさい」

 覚悟を決めたように立ち上がり小さく息を止める亜弓。いざ殴られるとなると怖く、誠は目をぎゅっと瞑って歯を食いしばり、その時を待つ。

 ――パンッ。

 衝撃に頭が揺れる。叩かれた、そこまでは誠の予想通り。

 しかし予定外だったのは、(たて)の打撃ではなく(よこ)だったこと。

 平手(ひらて)は聞いてないんですけど……。

 頬を貫通して歯茎(はぐき)まで届く痛みに誠は涙を浮かべていた。音からしてこれ以上だっただろう拳を耐えた志乃を尊敬する。

 ぐわんと身体が揺れるが、倒れるわけにはいかないと誠は震える足で踏ん張っていた。そして一礼、何も言うことなく亜弓の前から去っていた。




「ママ」

 静けさだけが残る公園で、志乃の声に(ほう)けていた亜弓は肩を跳ねさせていた。

 先程までのことが夢のように感じる。しかし見つめる手のひらは溶岩を掴んでいるかのように熱い。

 亜弓が人を叩いたことは今まで一度もなかった、叩かれている人はいくらも見てきたのに。その度、仕方ない、それが教育なのだと納得する反面、痛みに泣けず、怨嗟(えんさ)を感謝の言葉に変える姿が本当に正しいのかと自問することも少なくなかった。

 教育という授業がある。小学校から高校まで、十二年間学ぶ学問だ。大学の入試には出ないものの必修で、内申点に深く関わる為気が抜けない。そこには必ず体罰の項目が含まれていた。

 体罰とは、子供の間違いを矯正するために必要であるが、叩かれるものの痛みを知らねばただの暴力である。

 言葉のニュアンスに多少違いはあれど、必ずその文言は含まれている。叩かれるものの痛みなど知っていたつもりでいた。しかし叩く側の気持ちまで考えたことがなかった。

 痛い、痛いのだ。手のひらが、そして心が。大いなる禁忌(きんき)を破ってしまったような罪悪感が胸を締め付け離れない。

 なんてことをしてしまったのだろう、なんでこんなことをさせたのだろう。自問に項垂(うなだ)れていると、志乃がその手を握って言う。

「あのこ……わるいこなの?」

「……優しい子よ」

 変な子だけど、という言葉を亜弓は胸の中に留まらせていた。

 へぇ、と志乃はあまり興味がなさげにしていた。それよりもじっと亜弓を見つめると、

「ママ、たのしい?」

「え、どうして?」

「ニコニコしてる」

 という志乃も満面の笑みを浮かべていた。

 スっと、亜弓は血の気が引く。こんな顔で笑う子だっただろうか、思えば自分も久しく笑うことがなかった。結婚前は世間に逆らってでも心豊かな生活が送れると信じていた。だが、蓋を開けてみれば孤独。味方である夫は仕事で四六時中一緒にいることは出来ず、むしろ大半の時間を子供とふたりで過ごすこととなっていた。助けを外に求めることは出来ず、いや自分で選んだ道だと肩肘張(かたひじは)って生活していたのだ。キャンキャンと吠える小型犬のように周りが敵だらけに見えていては、気が休まるはずもない。

 子は親を見て育つ、そんな当たり前のことすら忘れるほど余裕がなかったことに気付いて、亜弓は手を伸ばしていた。

 志乃の手を引き、抱きしめる。抱きしめ返されて、より力を込めていた。

「志乃、あの子と友達になれる?」

「やだ」

「えっと……どうして?」

「ママはわたしのママだもん」

 一瞬、志乃の言葉が理解出来ず亜弓は固まる。そんな当たり前のこととの関係性を見いだせず、いや、抱きかかえて寝ていた時の姿を見て早合点したのかと納得し、思わず吹き出して笑う。

「大丈夫よ。私の子は志乃だけだから」

「うん!」

 抱きしめていた腕をほどき、目の前の志乃の頭を撫でる。まさかあんな小さな子供の言葉で気持ちが楽になったなんて、自分も安い女ねと自嘲しながら帰路へと向かっていた。



「――で、その変な女に叩かれた、と」

 場所は変わり、誠の家では小さな家族会議が開かれていた。といっても参加者は三人、誠と真由、そして彩花だ。仕事終わり、居間にあるソファに座っていた彩花へ真由が一日の出来事を報告、当然亜弓の話が浮上してくる訳で、その証拠として誠が立たされていた。

 赤くぷっくりと腫れ上がる頬を見て、彩花は気だるげな目を真由に向ける。

「それで?」

「それでじゃないでしょ。これからどうするか相談してるの」

「相談つってもなぁ。本人から叩かれに行ったんだろ?」

「そうだけど、そもそもそれ自体おかしいじゃない!」

 真由の言葉は正論で、しかしそれも聞き飽きたというように彩花が手を仰いで振り払う。

 そして、誠に目を向けると、

「痛かった?」

 頷く。

「ムカついた?」

 首を横に振る。

「やり返したいか?」

 これもまた誠は否定する。

「じゃあいいじゃん。本人も納得してんだからさ」

「そうじゃなくて、大人として抗議するなりあるでしょ! 他の子供にまで影響があったらどうするの!?」

 真由と彩花の話は平行線を辿るばかりで交わる様子がない。

 犬猿の、という程ではないにしても、ふたりの言い争いは日常のことだった。仲は悪くないがとことん性格が合わず衝突する。正確には真由から必要以上に突っかかっているのだが。

 喧々諤々(けんけんがくがく)、騒々しいことこの上ない。これは長くなるなと予想した誠は、忍び寄る眠気にいざなわれるがまま、静かに寝室へと向かっていた。

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