7 誠、母と話す
「ありがとうございます」
「どーいたしまして」
その声は興味なさげに抑揚が抑えられていた。
その後会話はなく、そよ風の踊り、雲の遊泳――無味な時間だけが経過していた。
誠にとって悪くない時間だった。前世の六畳一間のボロアパートには娯楽と呼べるものはなく、かりかりとペン先が紙を引っ掻く音だけが響いていた。虚弱により寝たきりとなった母親との時間が想起されるようで、懐かしさすら感じていた。
と言ってもそれは誠だけの事情である。隣に座る女性からすれば突然やってきた子供が横に座り、枯れた老人のように風を読んでいるのだ、奇妙なものを見るような目を向けて、
「……楽しい?」
「はい」
元気よく答えられては続く言葉が浮かばないという表情をしていた。
「おか……おねえさんはたのしくないですか?」
「楽しそうに見える?」
誠が目を向けると意地悪そうな横顔があった。首を横に振れば、
「こんなおばさんじゃなくて友達と遊んできなさい」
むべなるかな、軽くあしらわれる。
まだ三十代でおばさんとは、自己評価が低いなぁと、気楽なことを考えながら誠は一歩踏み出していた。
「おねえさん、なまえは?」
「……」
「ごめんなさい、ぼくはまこと。ごんべんになるってかいてまことです」
「漢字、分かるの?」
目を見開く女性の声がうわずる。あぁ、ついやらかしてしまったと反省しながら誠は遠慮がちに頷くかたわら拳一つ分、間がひらく。心理的距離は物理的距離の何倍も離れていることを明示していて、いわゆるバッドコミュニケーション、誠の心に効果は抜群だ。
しかし、自滅により深く項垂れる彼の頭上に、救いの手が差し伸べられていた。
「亜弓、アジアの亜に弓矢の弓。分かる?」
「……うん」
「変な子」
なんとか会話は続けられたものの、一度決まった心象は覆ることなく、虚しさと悲しみに煤けてしまいそう。えも言えぬ表情の誠へ、亜弓はくくと喉を鳴らして、
「頭いいんだね」
正解の分からない問いにまた悩まされる。
昔から、母親以外から褒められるような経験がなかった、そうですねと認めるのも嫌味のようで、否定するのもまた嫌味に聞こえる。ただでさえ見た目不相応な経験が脳内にあるのだ、どうしようもなくなった誠は乾いた笑いでお茶を濁すほかなかった。都合が悪くなった人特有の行動である。
一歳児の行動にしては世間に揉まれすぎているがそれも今更、亜弓は目の奥から睨みを利かせると、
「なら分かるでしょ。私といても白い目で見られるだけよ」
「……しんぐるだからですか?」
「わかってるんなら尚のことよ。変でしょ?」
変、なのは確かだ。マイノリティなのだから。
しかし、誠は首を横に振る。
「ひとりをすきになる、ひとりからすきになられる。それってすてきだよ」
「……」
誠は特別変わったことを言ったつもりはなかった。あくまで前世の普遍的な考えを口にしただけで、正しいや間違っているなどの、肯定や否定は含まれていない。うまく人生を歩むには郷に入っては郷に従えの精神が必要であることも、自分を偽り続けても苦しいだけということも、この時はそれほど深く考えた言葉ではなかった。
しかし亜弓は一瞬だけ目を見開いて、すぐに目の色を濁らせてから言う。
「――子供の意見ね」
「うーん、そうかも。おねえさんみたいにひとをすきになったことがないから」
誠の歳で身を焦がすような恋をしていたら変であることは当然として、一拍置き、
「ぼく、ぎゅうにくがいちばんすき」
「……はい?」
「おとといのたんじょうびにはじめてたべたんだ。すっごくおいしかった。いちばんっていいよね」
「……まぁ、そう……かな」
「いちばんすきなものをたべるのがすきなひともいる。いろいろたべるのがすきなひともいる。どっちもまちがってないのに、どっちかしかだめなんてへんだよね」
誠はつらつらと思ったことを口にしていた。
ニュースを見た、新聞を読んだ。その中で納得できないことがあるとするならば多様性への容認のなさだった。
保守的と言ってもいい。法律に反していないのに過激なほどマイノリティを排除しようとする。過去に看過できない大事件があったのかもしれないが、より軋轢を生むことになれば溝が埋まることはない。宗教問題みたいなもので、いずれ大きな噴火が起こり得ることだろう。
そうなれば最悪であるし、現状ですら気分がよくない。ましてや迫害されているのが前世の母に似ている人だとしたらなおさらである。そんな私情だけで誠は世の中を批判していた。
「あなた、変わってるわね」
「かもね。おねえさんもだけど」
誠が言うと、亜弓は見たこともない柔らかな笑みを浮かべていた。
そして、
「でも、牛さんはあなたのこと、嫌いかもね」
軽口すら飛び出す余裕である。
「……うん、それはそう」
屠殺される肉牛の姿を想像して、誠は唇を前に突き出していた。
「……ん」
それは突然のことだった。
前触れもなく襲ってきたのは眠気――久しぶりに頭を使い、口を動かしたせいか、本能が前のめりに飛び出さんとしていた。
ようやく和やかになってきたというのにこれでは片手落ちである、必死に起きていようとするも、瞼は重く垂れ下がり、大きな頭で船を漕ぐ始末。気を紛らわそうと口を開いても、飛び出したのは大きな欠伸だけだった。
「ん、眠いの?」
亜弓から問われ、誠は首を振って否定する。その目はとろんと垂れて薄目を開けているので精一杯、誰が見ても痩せ我慢にしか受け取れない様子だった。
「ほら」
誠は薄れゆく意識の中、ふわりと身体が羽になる感覚を覚えていた。脇に差し込まれた手が持ち上げ、そのまま亜弓の膝の上に座らされる。柔らかく温かい背もたれに身を預ければ、我慢する必要がないと言うように頭を軽く撫でられていた。
ただでさえ眠いというのにこの至れり尽くせり、誠は抗う術もなく、ゆっくりと暗い海原へ沈んでいった。
それから数分後のことである。
「あー、だめっ!」
甘ったるいかなぎり声が誠の耳を打つ。まどろみの中、薄ら目を開けて見れば、自分と大して変わらない身長の女児がいた。
知らない顔だった。それよりも睡眠欲を満たすためにまた目を閉じる。
マシュマロの雲の中を泳ぐような夢心地に、意識を手放しかけたその時、
「志乃、駄目でしょ」
ぐいぐいと足首を引っ張られ、身体が滑り落ちそうになるところをがっちりと抱えられる。幸いなことに志乃と呼ばれた女児の力は弱く、上半身と下半身が永遠の別れを迎えずに済んでいた。
人体綱引きが行われているさなか、誠は霧がかった頭で状況の把握に努めていた。この女児は誰なのか、恐らく、いやほぼ間違いなく亜弓の実子だろう。引っ張られているのは退けという合図、ひどいことを言うなぁと考えてからそれもそうかと考え直すまで数秒もかからなかった。
他人の家の子が母親の膝の上を陣取っていたら、こんな対応になる。つまり、非は誠にあった。
「ごめんなさい、すぐどきます」
そろそろパンツが見えそうになって、誠が告げた言葉は女児には届かなかったらしく、引っ張りっこはまだ終わらない。気だるい頭を持ち上げると、ちょっとした笑顔が見えて、「あ、これ遊ばれてるな」と誠は理解する。
「――まーくん!」
その女児の背後から現れたのは、誠の母親のひとり、真由だった。
瞬間、ややこしい事になったと誠は確信する。女性ふたり――片方は一歳程度の子供だとしても――に、ぬいぐるみのように遊ばれている光景は面白くないことだろう。
亜弓も真由の存在に気付いて止めるよう強く諭すが、志乃が手を止める様子はない。ちょっと不安定なハンモックと思えばそれほど悪くないのではと見当違いのことを誠が考え始めていたときだった。
ゴチン。硬いもの同士が勢いよくぶつかる音が響くと同時に、下半身の支えがなくなり誠は地面に足を滑らせていた。
「この、悪い子っ!」
ざりざりと砂を擦り身体を起こしてみれば、誠が見たのは頭を押さえうずくまる志乃と、握りこぶしを顔の前で作っている、鬼の形相の真由だった。普段の温和な雰囲気からかけ離れた表情に、只事じゃないと誠に確信させていた。
確かに只事じゃないのだ、人様の子供の頭をぶん殴るなんて。音からして相当痛そうであり、泣く余裕もないのか志乃は堪えるように息を吐いている。
「まゆさん、なにしてるの?」
「まーくん大丈夫!? 怪我はない?」
「いや――」
反論しようとして、誠は奪い取られるように抱きしめられていた。そのまま間合いを開けるように数歩離れて、ようやく地面に立たされる。
全身をくまなく触られ、気分は犯罪者のよう。警察による所持品検査じみた行いを通過した誠に、真由はようやく安堵の表情を見せていた。
「ほら、あっちへ行きましょ」




