3 誠、世界を知る
さて、そこから誠は口を閉ざすことを決めていた。
それはわからないことだらけだったからである。それはもう多岐にわたる。
ひと月ほど経ってようやく世界の理が分かり始めた頃のことだった。平均より少しだけ早く立ち上がれるようになった時、誠は素材の味しかしない離乳食を口にしながら悶々としていた。
欲求不満だった訳ではない。流石にまだ欲情するような肉体はしておらず。それよりも食欲、睡眠欲を満たすことが優先されていた。
では何に頭を悩ませているかと言えば、様々である。挙げていけばきりがなく、また本人すらも明言し難い、もしくはよく分からずともなんとなく心の深いところで小さな棘が突き刺さっているような事柄についてだった。
しかし困窮しているかという点では、否である。むしろ前世に比べいくらも恵まれていた。それでも前世を望郷してしまうのは、歪と言って過言ではない家庭環境にあった。
彩花が母であることは間違いなく、病院へ連れ立ったり甲斐甲斐しく面倒を見てくれた、名を真由と呼ぶ女性もまた母だった。というとどういうことなのか、疑問に思うだろうが、間違いなく誠は彩花の股から生まれ落ち、しかし真由も戸籍上母であった。
気付いた時、誠は卒倒しかけていた。同性愛者の婚姻が認められ、誠が連れ子だからということもなく、父親がいてその結婚相手が複数いたというだけである。
現代において古風な考えであるが一夫多妻制、誠の知る歴史上でも珍しくないことだった。日本でも江戸時代に大奥があり、一世紀前まで妾という存在は確かにあった。ただそれも今は昔のこと、男女平等が声高に叫ばれる現代には受け入れがたく、強行すればただの浮気だ不倫だとバッシングされるに終わる。当人同士の問題と言えばその通りなのだが、続けていく上で障害も多いことだろう。
話がそこで終わるならば、まだ良かった。誠も、まぁ変わった家に生まれてしまったものだと踏ん切りがついたことだろう。ただそうはならなかった。
なぜなら、まだ他に母親がいたからだ。
ついでに父親も複数いた。
……。
精神の容量を大きく超えた事実に、誠はまた数日心を閉ざしていた。
Cohousingという生活様式がある。
いくつかの家族が集まり、お互いの家の他に共同の生活空間を設け、食事や子育て、交流などを行うというものだ。
あまり耳馴染みのない言葉かもしれない、始まりは北欧、今も続く生活様式であるが多くに広まっているとは言えないからだ。
原因は一概にこうと言えないのだが、最たるものは他人との共同生活が出来るかという点である。これが学生ならば寮生活という場があるため受け入れやすいのだが、一家というくくりが既にある上で、他の家庭との交流もしなければならない。当然プライベートな場所、時間はあり、相手の人となりがわかっていても、苦手な人は苦手なのである。
だから全員を家族にしてしまえば解決する、いやそうはならないだろう。
コハウジングというものを知らなかった誠が――いや知っていても衝撃を受けただろうが――まず感じたのは理解不能による不快感だった。次に嫌悪感である。なにせ男性と女性の距離感が異常に近いのだ、それもパートナー以外の異性に対してである。そもそもこれと決まったパートナーなど居ないようにも見えて、誠はひとつの結論を得ていた。
それはどれが父親なのだ、ということ。流石に母親が誰かは明白なのが唯一の救いだった。
父母共に五人ずつ、それが共同で暮らしている。子供は誠含め四人、さらに妊娠中の女性が二人いる為、しばらくすると十六人家族になることだろう。出来の悪い法螺話を聞かされているようで、法螺話ならどれほど心救われただろうか、目を閉じてまた開いてみてもなんら変わらない光景が広がっていた。
目眩から倒れるように眠り、時折口の中が酸っぱいもので満たされる生活を送る零歳児、誠が微かに抱いていた期待が打ち砕かれたのは、それから数日後のことだった。
目の前に広がるのは青々とした芝生であり、空は快晴、時折強く吹く風は冬の訪れを告げていた。
ベビーカーに乗せられて連れ出されたのは全部屋自分の持ち物であるマンションからほど近いところ。遊具が並び水場や砂場がある、いわゆる公園デビューというものだ。
兄姉を連れて真由が進む。基本子供の面倒を見ているのが彼女なのは、他の大人が仕事で外に出ているからだった。専業主婦が一人に残りの九人がフルタイムで働いている、単純に考えて経済的に裕福な理由がそこにはあった。
緩い陽の下、メッシュ加工のサンシェイド越しに顔を照らされた誠は最近お得意となった仏頂面を幾分かほころばせていた。本の虫と揶揄されるほど勉強にのめりこんでいた記憶はあれど元々運動が嫌いではなく、ひとりベッドの上で静かに考え込まない環境が彼にとって救いとなっていた。出来ることなら自分の足で駆けてみたいものだが、外界は危険が多い、そうでなくとも手に取ったものをやたらと口に運ぶのが子供というもの、親の言うことを正しく理解し返事ができるまではしばらくお預けを食らっていた。
仕方なく梢の囁きに耳を傾けていた誠をよそに、兄姉は友達を見つけたようで一目散に駆けだしていた。羨望の眼差しを向けていた誠も、その影を追うようにベビーカーが向かっていく。
同年代だろう、小さな子供達の群れの中へ消えていった背中とは別に、近寄る人の姿があった。
「あら真由さん、久しぶりじゃない。どうしたの?」
「お久しぶりです。今日は天気もいいですから、この子もデビューさせていいかなと思いまして」
話しかけてきたのは二十代前半から半ばに見える女性だった。おそらくどの子かの親である彼女は誠を一瞥すると、いや一瞥では済まず身をかがめて覗き込んでいた。
突然大人の顔が目の前に来ることなど日常茶飯事ではあるため、いつものように無反応を示していた誠は伸びてきた手を反射的に払いのけていた。実母の執拗な頬攻めは相変わらずであり、この一か月ですっかり対処が出来るようになってしまった弊害だった。
だが幼児のほっぺとはある種魔性があるようで、女性は懲りずに再挑戦を試みていた。当たり前だが仕方ないとなるはずもなく、誠は返す手で叩き落とす。一度目なら偶然も考慮されるが、二度目となれば意志を持って行動しているように見えるだろう。まだろくに話せもしない子供の抵抗がツボに入ったようで、女性との攻防はしばらく続いていた。
いい加減にしろよ、と誠は思う。律儀に反抗せず一度くらい甘んじればいいものを、性根の真面目さがかえって自分を追い込んでいるなど気付いた様子もなく、凝り固まった表情筋とは逆に機敏に動く腕は疲労による限界を迎えようとしていた。
そこに至ってようやくちょっかいの手は止み、誠は一息つく。期待していた平穏はどこへやら、過度な運動により気だるくなった身体は休息を欲していた。
「面白い子ね」
「ほっぺつつかれるの嫌みたいなんですよね。家でも睦月がよくやるんですけれど、いつもこんな感じで」
井戸端会議の様相である、立ち上がった妙齢の女性と真由の会話を疲れた顔をしていた誠は聞きながら、ひとつ疑問を感じていた。
話に出てきた『睦月』という人物に心あたりがなかったからである。
すぐにぴんとこなかったのは無理もない、睦月とは旧暦で一月のこと、他人に自分の家族を紹介する際、名前を覚えることが大変なので和風月名で呼ぶことが一般化していた。第一夫人、第二夫人と呼ばないのは家庭内に序列がないことを気にしての配慮だ。ちなみに男性のほうは太郎、次郎となる。
話の流れから実母、彩花のことを指しているまでわかった誠は、睦月とのつながりを考えていた。勉強は出来ても雑学にはてんで学がないことが災いして糸口を掴めないままうんうんと唸る様子は長年勤めあげた政治家のようであり、大人の目線は既に他所へと向いていた。
「あなたは皐月(五月)よね? そろそろ?」
「いえ、卯月(四月)がまだなので。来年二人産まれる予定ですからその次の予定です」
「ちゃんと計画してるのねぇ。うちなんて授かりものだからと四人も重なっちゃって大変だったわ」
大人の会話は難しい、耳に入る言葉に、誠はそんなことを考えていた。
……いや、待て。
聞き捨てならぬと視線が泳ぐ。なんと言った、まさか、まさかである。
そんな荒浪の中を進む小舟のような誠の心情を知らず、大人達は和気藹々と会話を続けていた。
コハウジング、いやもはや重婚、多夫多妻と言った方がいいだろう、その環境は誠の家だけのものではなく、近所にまで波及していた。




