13 TL協会
「山? 駄目ですよ、準備もしてないし」
健太郎の希望は、真由を前にして無惨な形で終わりを迎えていた。
どれだけ安全に気を配ると力説しても子育てに関しては真由が監督者である以上、彼女の許可がなければ行動に移すことはできない。気温や気圧の変化による体力の消耗、それに伴う体調の変化の判断には真由の同行が必要で、乳飲み子をふたり抱えた彼女は手が離せないのだから許可が出るはずもなかった。
当初の目的がとん挫した健太郎は仕方なく庭先に誠を連れ出ていた。公園ほどではないが子供が駆け回るには十分な広さのそこは、青々とした芝生で一面覆われている。よく子供たちが寝そべり、真由から文句を言われている姿を見かける場所でもあった。
何も聞かされていない誠は、一度屋内に戻っていった健太郎を直立不動で待っていた。待つべきなのかすらわからず、かといって好きにしていいという指示もなかったので、右も左もわからない新入社員のようにただずんでいた。
それほど待たず、現れた健太郎は赤いキャリーワゴンを引いていた。普段はアウトドア用品で満載となっているが、側面が高く誠からは中身を窺い知ることが出来なかった。
「さて……何か興味あるもの、あるか?」
「見えません」
誠が正直に告げると、「悪い悪い」と軽く詫びながら健太郎が抱きかかえる。上から見れば、おおよそ一般的な球技の出来る道具が、ワゴンの中にこれでもかと詰め込まれていた。
選り取りみどりだが、それがかえって誠を困らせる。スポーツ経験といえば学校の体育の授業くらいで、競技用と同じサイズのボールはどれも今の身体にとって大きすぎるものだった。
長男含め年長が興味を持たないため、プラスチック製のカラーバットもなく、とてもではないが子供が遊ぶに適していない。一番小さいボールがゴルフボールという時点で、誠は子供への配慮という考えを諦めていた。
仕方なく選んだのはサッカーボールである。さすがに蹴るくらいは――不格好だとしても――できるだろうという皮算用だったが、誠は思いのほか苦戦を強いられていた。
蹴るという行為はまず足を引くことから始まる。軸足に力を入れ支えとしながら、振り子の要領で足を動かすのだ。そのため前提としての足を引く行動がスムーズに行われなければ、その後の一連の流れもうまく運べないのは当然の帰結だった。
つまるところ、一本足で立てずに転げた、それだけの事である。
柔らかい芝生の上でよかった、と誠は思う。盛大に尻もちをついても立ち上がることができるのだから。ぱっぱと服についた草を払いながら再挑戦、どうにか蹴ることは出来たものの、数歩先に立つ健太郎の足元に届くことなく縫い目を見せつけていた。
「……口のわりには下手だな」
特に理由のない健太郎の感想が誠の神経を逆撫でする。いつ、誰が、何分前に、エースストライカーであると言ったのか。激怒も辞さない覚悟だった。
しかし、何事も癇癪を起こせば解決すると、子供の理屈で誠は生きていない。期待を下回ったなら実績で挽回すると言わんばかりに再挑戦、先程より慎重に、たっぷりの時間をかけて蹴り出せば、どうにか足をボールに当てることは成功していた。
硬い。誠はつま先から伝わる感触をそう表した。ボールは模様がはっきり見えるほどゆっくり転がり、メートルも進まずに止まる。
「……わー、上手」
白々しくて、悔しくて。まだ手足の伸びきらない幼児の努力を笑われたと誠は感じていた。能面の下に憤怒の表情を浮かべながらボールを持ち上げ、両手も回らないそれをどうにか抱えて、怒りそのままにワゴンへ戻す。この野郎やってやるぜ――と言うのは現実が見えていない子どもの証。誠は知的に、
「どう見ても対象年齢外です。児童虐待ですよ」
……恐らく知的に、反論していた。
赤いカラーボールが宙を舞う。緩い放物線を描いて行ったり来たり、夏空を彩っていた。
それは特筆すべきところのない、ただのキャッチボールだった。ボールを投げ、受け取り、また返す。唯一変なところを挙げるとすれば、誠が一球投げるごとに全力で振りかぶり、そのせいでひどいフォームになっていることくらいか。
これでも進歩したのだ。初めの一球は地面に叩きつけるだけで、その後も思うように飛距離が出ず、十球、二十球と繰り返してようやくキャッチボールと呼べるようになってきた。まだ返球は満足に取れていないが、それは今後の課題である。
投げ、受け取る。それが数回続いた時だった。
「健太郎さん」
「ん?」
球を投げながら、誠が相手の名を呼ぶ。無言でひたすらというのはいささか殺風景であるから、彩りを添えるつもりで声を掛けていた。
「僕のお父さんって、わかってるんですか?」
「ん? ここにいるし、家の中にもいるだろ」
「あー、そうじゃなくて。すみません、質問が悪かったですね。ゲノム的な話です」
「さあ?」
気の抜けた返答と共にボールが高く飛ぶ。フライを受けるのは初めて、誠は注意深く落下点に身体を置くが、目測は大外れ。無情にも頭の上を通過していくボールを目で追いながら、反った背中を元に戻せずまた尻もちをついていた。
「大丈夫かー?」
心配する気配のない声に、誠はそのまま倒れ込んだ。心配して欲しいのではない、単純に疲れたからだった。
そよ風に揺れる芝生が襟首をくすぐる。目の前には梅雨明けの青空。ターコイズブルーのキャンバスに、真っ白な絵の具が流れていた。
「……変なこと言っていいですか?」
誠の顔に影がかかる。真っ黒で大きい影に押し潰されそうだった。
「なんだ?」
「血のつながっていない子どもって可愛いですか?」
「そりゃあ、子どもは可愛いだろ」
返ってきたのはさも当然だと言う言葉である。
それが誠にはわからなかった。本心から言っているのか、それとも建前なのか。もしくは幼少期からの刷り込みで、子供は可愛いものだと疑えなくなっているのか。
じゃあなんで聞いたのか、それは誠にもわからない。いっそ嘘でも可愛くないと言われれば良かったのか、しかし普段感じる愛情が嘘だと思いたくなくて、本人の言葉通り変なことを聞いていた。
「TL協会みたいなこと言うなよ。怖いなぁ」
「TL協会? なんですか、それ?」
降り注がれる言葉に眉を寄せる。聞いた事のない名称は、雰囲気から良くないものだということだけ伝わっていた。
「『真実の愛を求める会』って言う宗教団体だよ。トゥルーラブでTL協会」
「『協』の字はどこから出てきたんですか?」
「語感」
投げやりな言い方に、投げやりな理由。TL会とTL協会、確かに“協会”のほうがすんなり口にできて、なるほどと誠はうなずいた。
しかし面白いもので、世界が違えど日本人の宗教嫌いは変わらないようである。そのくせクリスマスや参拝する文化は失われていないところが、誠が前世から価値観を切り替えられない要因にもなっていた。
「真実の愛……ですか。どんな感じなんです?」
聞けば返事がある、とはならず、健太郎は吐くような真似をして、
「そんなもんに興味持つな。変な考えがうつるぞ」
「知らずのうちに感染しているほうが怖いですって」
ああ言えばこう言う、そこら辺にいる子供のようには誤魔化されない誠が、言い負かされないように言い返す。
健太郎は「うるさい」と一蹴することなく、頬を掻きながら躊躇いがちに口を開いていた。
「あー、“シングル”ってわかるか?」
「一夫一妻の家族のことですよね」
「また難しい言葉を知ってんなぁ」
しみじみと呟く健太郎に誠は可笑しくなって少しだけ笑みを見せる。誠にとってシングルという呼称のほうが難しい言葉なのだ、では前世で呼ばれているシングルマザー、シングルファザーはなんと呼ばれているのだろうか。
そんなことを考える誠をよそに、
「TL協会ってのはな、その“シングル”のほうが正しい家族のあり方だって広めてる連中のことだ」
「……へー」
健太郎の説明に、深く踏み込むような行為を慎んでいた。被保護者の立場から、あまり食いつくのは悪いと考えて。
しかし、心情は真逆である。なんだ、そんな感性が近い集団があったのかと喜びに胸を弾ませる。シングルを毛嫌いするあまり、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということもありうるため、健太郎の態度を否定的に捉えていた。
しかし、
「国会前でデモしてるくらいなら文句は言わねえけど、犯罪行為がまかり通るようじゃなぁ……」
「犯罪?」
「信者相手に金をむしり取って、出すもんなくなりゃ海外に奴隷として売り払う。“シングル”が認められてる国で結婚するって名目だから犯罪じゃないって理屈らしくて、後で『こんなはずじゃなかった』って泣きつかれてもどうにもならんらしい。」
他にも信者による暴行行為や嫌がらせ、過度な勧誘などがあるとのこと。いかな寛容に捉えようとも人身売買は度が過ぎている、もう残りの話など耳に入らず、今からでも聞かなかったことにできないかと、誠は真剣に悩んでいた。
 




