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第六章 文化週間は甘く危険な幕開け

文化週間が始まり、学園内は普段よりもさらに華やかな空気に包まれていた。


模擬店といっても、そこは貴族学園――粗末な屋台などではなく、宝石のように飾り立てられた高級ブースが並ぶ。

お茶会は貴族たちの社交場と化し、演劇はプロ顔負けの舞台装飾、舞踏や歌唱もまるで公式の晩餐会のような格式がある。


「……相変わらず、浮かれてるわね」


私は廊下の掲示板を見つめ、ため息をついた。

煌びやかな催し物がずらりと並ぶその中――妙な文字列が目に入る。


《第一学園文化週間・特別企画『メイド喫茶』 主催:エリスティア・グラン=フィオーレ》


「……は?」


思わず二度見した。

場違いにも程がある。

この、格式と伝統を誇る学園で、“メイド喫茶”などという異端の催し物を誰が許したのか。

周囲でも、すでにささやき声が広がっていた。


「え、なにこの“メイド喫茶”って……」


「グラン=フィオーレ嬢が企画したらしいわよ」


「元婚約者が、悪役令嬢の次はメイドごっこ? プライドはどこへいったのかしら」


耳障りな声が飛び交う。

そんな視線の中、背後から聞き慣れた甘い声が降ってきた。


「お嬢様~♡ ご確認いただけましたか~? 今年の目玉企画、楽しみですね~♡」


振り返れば、銀髪を揺らしたフィーネが、満面の笑みで立っていた。


「ちょっと、待ちなさい。これ……あなた、まさか……」


「はいっ♡ お嬢様のお名前で、しっかり申請しておきました~」


「勝手に何してるのよ!」


「だって、お嬢様の魅力を、学園中に知らしめる絶好の機会ですもの~」


「違う、そういう問題じゃ……」


そこへ、また別の低い声が割り込んできた。


「お前、また妙なこと企んで……」


いつの間にかユリウスが背後に立ち、フィーネに向けて鋭い視線を向けている。

だが、フィーネはにこにこしながら肩をすくめた。


「護衛も従者も、学園生活も、全部まとめて甘~く楽しくしなきゃ損ですよ~♡」


「……」


私は頭を抱えた。

こうして私は、“文化週間の異端”――《メイド喫茶》に、否応なしに巻き込まれることになる。

しかも、“私自身がメイド服を着せられる”未来付きで――。


噂は、もう止まらなかった。


翌日には学園内を駆け巡り、その翌日には王都の街角まで広がり――ついには、屋敷にまで“期待の声”が押し寄せてきた。


『あのエリスティア様が、ついに庶民の真似事を!?』

『悪役令嬢が、メイドとして微笑む姿、これは見る価値がある!』

『仮面舞踏会の後の新たな伝説になるだろう――』


どこもかしこも、騒がしい。

屋敷に戻るなり、私は応接室のソファに沈み込み、思いきり頭を抱えた。


「む、無理よ……メイドなんて、接客なんて、そんなこと……」


お茶会や舞踏会での“貴族らしい”振る舞いは慣れていても、庶民のように“ご奉仕”するなど、考えたこともない。

なのに、フィーネときたら――。


「大丈夫ですよ、お嬢様♡」


甘く囁きながら、フィーネがいつの間にか私の隣に腰を下ろしていた。


「ご安心ください、屋敷で手取り足取り……いえ、指先から仕草まで、全部私が教えて差し上げます♡」


その言葉と共に、細い指先が私の手の甲に重なる。


「ちょ、ちょっと……」


「ほら、笑顔の練習です~♡」


にこにこと迫るフィーネに押され、私は戸惑いながらも立ち上がる。

私の部屋には既に見慣れぬ衣装が用意されていた。


シンプルだが、上質な生地と細やかな縫製が際立つ黒と白のメイド服。装飾は控えめなのに、不思議と気品が漂っている。


「お嬢様専用の特注です~♡」


フィーネがにこにこと笑い、私の目の前に立った。


「まさか、あなた……最初から用意してたの?」


「当然です♡ 学園でお嬢様が可憐にご奉仕する、その姿……ふふ、想像するだけで鼻血が出そうです~」


「だから、そんなこと勝手に決めて……」


言いかけたところで、フィーネは器用に私のドレスを脱がせ、あっという間にメイド服へと着替えさせていく。


「ちょ、ちょっと、もう少し心の準備を……!」


「大丈夫ですよ~♡ ささ、お手本をお見せしながら、しっかりご指導いたします♪」


フィーネは私の背後にぴたりと寄り添い、細い指で腰のリボンを結び直す。

そのとき、ふわりと香る甘い匂いと、すぐ耳元に寄せられた囁き声が私の鼓膜を震わせた。


「お嬢様……立ち居振る舞いは丁寧に、でも自然に♡ 肩の力を抜いて、ふんわり微笑んでくださいね~」


「ち、近いわよ、フィーネ……」


「ご指導ですから~♡ 必要な距離感なんです♪」


顔が触れそうなほどの距離で、フィーネがにっこりと微笑む。


「お嬢様~、それではまず、立ち方からですよ~♡」


フィーネは私の正面に立ち、軽やかにスカートの裾を摘まんで小さく礼をする。

その一連の動作が――驚くほど、優雅だった。


まるで、舞台の上で見せる淑女のように、指先の角度、背筋の伸び方、視線の位置まで、すべてが計算され尽くしている。


「え、ちょっと……フィーネ、あなた……本当に、メイド?」


「当然です~♡ 一流の“ご奉仕”には、一流の所作が必要ですから♪」


にっこりと笑いながら、フィーネは私の手を取り、優しく腰元へと添える。


「まずは姿勢。背筋を伸ばして、顎は引きすぎず、目線は自然に前方。そうそう、素晴らしいです、お嬢様♡」


細い指先が、私の肩や腰に触れる。

その触れ方が、驚くほど繊細で、でも迷いがなく、次第に私の体が自然と整えられていく。


「次は、お辞儀の仕方ですよ~♡」


フィーネは私の両手を優しく持ち、スカートの端をつまませる。

そのまま、ほんのわずかに膝を曲げ、上半身を傾け――


「そう、目線は下げすぎず、微笑みを忘れずに♡」


耳元で囁くフィーネの声が、甘く柔らかく、でも芯があって、否応なしに意識が集中する。


「……あなた、本当に、こんなに完璧な所作ができるなんて……」


「ふふ♡ お嬢様のためなら、当然ですよ♪」


ふと、フィーネ自身が手本を見せる。

立ち姿、歩き方、スカートのさばき方――そのすべてが、どこか高貴で、洗練されていて。


「……見惚れてしまいそうね」


思わず口をついて出た私の声に、フィーネは嬉しそうに微笑んだ。


「光栄です~♡ でも、今日の主役はお嬢様なんですから♪」


再び距離を詰め、耳元に顔を寄せる。


「もっと近づいてもいいですか~? ご指導ですから♡」


「……また、それを理由に……」


「ちゃんと、見惚れてもらえるように、完璧な“お嬢様メイド”に仕上げますから~♡」


フィーネの体温と甘い囁きに、また顔が熱くなる。

でも、その裏に隠された洗練された技術と、完璧な所作――


「……ふふ、まったく。あなた、ずるいわね」


私は苦笑しながらも、もう抗う気力はなかった。

鏡に映る自分の姿は、見慣れぬメイド服に身を包み――少しだけ、気品と誇りを纏っていた。


「……ふぅん、上出来だな」


背後から、低く響くユリウスの声。

振り返ると、いつの間にかソファに腰掛けていたユリウスが、じっとこちらを見つめていた。

腕を組み、無表情のようでいて――その琥珀色の瞳には、確かな熱が宿っている。


「……なに、座ってるのよ」


「客だ。今夜の“お嬢様メイド”の接客を、先に味わっておこうと思ってな」


「なっ……」


「ふふ♡ いいですね~、実戦形式で練習しましょう、お嬢様♪」


フィーネがすぐさま私の背中を押す。


「さ、どうぞお席へ♡ お客様の前ですから、可愛く“ご奉仕”してくださいね♪」


「ちょ、ちょっと……!」


半ば強引に、私はユリウスの前に立たされる。

彼は組んだ腕をほどき、顎を手で支えたまま、じっとこちらを見上げてくる。


「どうした、“メイド”さん。ご注文を伺わないのか?」


「……っ、く……」


フィーネの視線と、ユリウスの圧が重なる。

仕方なく、私は軽くスカートを摘まみ、ぎこちなく頭を下げた。


「……ご、ご注文を、どうぞ……」


その瞬間、ユリウスの目が細くなる。


「……紅茶をひとつ。それと、追加で“ご褒美”を」


「ご褒美、ですって?」


「今日も無事、帰ってきてくれてありがとな。……その礼だ」


ぶっきらぼうにそう言う声は、どこか甘く、耳に残る。


「ユリウス、そういうの……からかってるだけなら」


「違ぇよ」


わずかに手を伸ばし、私の指先を軽く取る。


「お前が、ちゃんと無事で、目の前にいる。それだけで充分だ」


「……な、なによ、それ」


顔が熱くなるのを感じると、すかさずフィーネが横から割り込んでくる。


「お客様、あまりお嬢様を困らせないでくださいね~♡」


「……お前こそ、さっきから距離が近すぎる」


「ご指導ですから~♡」


フィーネは笑いながら、私の肩にそっと手を添える。

だけど、ユリウスの視線はまっすぐ私を射抜いていた。


「お嬢様、もっと腰の位置を意識してくださいね~♡」


フィーネの甘ったるい声が耳元で響く。

気づけば、彼女の柔らかな腕が私の腰に回され、ぴたりと背後から身体を寄せられていた。


「ちょ、近すぎるってば……」


「これくらい、接客では当然です♡ お客様の目を惹きつける所作は“間合い”が大切ですから~」


そう囁くたびに、フィーネの吐息が首筋を撫で、胸元に柔らかな感触が触れる。

男の娘であるはずの彼女――なのに、なぜかこの密着は、異様に女らしく、そして、甘くて危険だ。


「肩の力は抜いて、腰はこの角度……そう、自然に。お嬢様なら絶対に優雅にできます♡」


耳元で囁くフィーネの声と、滑らかに導かれる指先の感触。

その指示に従い、私は一つひとつの動きを覚えていく。

スカートの裾を摘まむ角度、首の傾け方、指先の添え方――どれもが洗練され、見惚れるほど美しい。


(……すごい、本当に完璧)


私は密かに感心しながら、自分でも驚くほど所作を確実に身につけていた。


「よし……次は実践だ」


不意に低い声が入り込む。

ユリウスが、いつの間にかすっと距離を詰め、私の真正面に立っていた。


「また……来たの?」


「練習だからな」


そう言いながら、彼は私の手首を軽く取る。


「客だ。接客してみろ」


「……本当に、何なのよ」


渋々、私はスカートの裾を摘まみ、フィーネから教わった所作で一礼した。


「ご注文を……どうぞ」


「……上出来だ」


ユリウスはじっと見つめ、わずかに目元を和らげる。

だがそのまま、手首を引かれ、あっという間に身体を近づけられた。


「な、ちょっと……!」


「客の要望は、丁寧に聞くんだろ?」


「そ、そんなの聞いてないっ」


唇が触れるほどの距離――熱が肌を焼きそうなほど近い。

だが、私は逃げずに、教わった通り、動きを崩さず――


「お客様……失礼いたします」


小さな声で、完璧な所作のまま微笑み返した。

ユリウスが一瞬、驚いたように目を見開く。


「……強くなったな」


そう呟く声は、少しだけ嬉しそうで。

フィーネも、後ろでくすくすと笑っていた。


「さすがお嬢様♡ ちゃんと誘惑にも動じず、美しく振る舞えるようになりましたね~♪」


私は小さく息を吐き、胸元を押さえながら答えた。


「……誰のせいだと思ってるのよ、まったく」


けれど、確かな手応えと、自分の成長を感じながら――


私は、二人の甘い誘惑にも負けず、確実に“完璧なメイド”としての所作をものにしていくのだった。

翌朝、学園の廊下を歩いていると、すぐに背後から冷ややかな声が飛んできた。


「まったく……なんてふざけた企画を出してるの、あなた」


振り返ると、プラチナブロンドの髪を揺らしながらソフィーネ・エリュシオンが立っていた。

その表情は呆れ半分、そして――どこか顔が赤い。


「ふざけたって、私は出してないわよ。全部、フィーネの仕業」


「でも“あなたの名前”で学園メイド喫茶を提案したのは事実でしょ?」


ツンと鼻を鳴らしながら、ソフィーネは視線を逸らす。


「……それに、どうせこんな企画、あなた一人じゃ手が足りないでしょうし。仕方なく、私も参加してあげるわ」


「どうして?」


聞けば、プラチナブロンドの少女はツンと鼻を鳴らし、やや顔を赤らめながらもそっぽを向く。


「別に、深い理由なんてないわ。ただ――」


ふっと、誇らしげに顎を上げる。


「あなたの“悪名”と私の“名声”が合わされば、注目度は倍以上になるでしょう?」


そう言い放つものの、声の端はどこか誤魔化している。

私はじっと見つめ、ふっと肩をすくめた。


「……そうね。ふふ、ありがたいわ」


「べ、別に、あなたのためじゃないから」


ツンデレ全開の返しに、私は思わず微笑む。


たしかに、素直じゃない。

でも、少しだけ胸の奥が温かくなる。


「まぁ、勝手に参加するのは構わないけど、メイド喫茶、ちゃんとやる気はあるの?」


「当然よ。……それに、あなた一人が目立つなんて、面白くないでしょ!」


そのやり取りの最中、後ろから穏やかな声が割り込んだ。


「まぁ、面白そうですね。私もそのメイド喫茶、参加してみたいです」


振り返ると、柔らかな黒髪を揺らすアメリア・セレノア=クレインが、いつもの微笑を浮かべて立っていた。


「……アメリアも?」


「ええ。こういう“お遊び”、王都じゃなかなかできませんし、楽しそうですから」


そうして、いつの間にか三人揃ってメイド喫茶への参加が決定してしまった。



昼休み、学園の特別教室に集められた私たち。

そこには、完璧なメイド服姿のフィーネが待ち構えていた。


「ようこそ、お嬢様方♡ 本日より、特別“メイド指導”を行いま~す♪」


私は昨日、屋敷で散々この“指導”を受けたので、覚悟はできていた。

問題は――


「じゃ、私はこの子にやらせるから」


「私も、自分のメイドがいますし」


ソフィーネとアメリアは、当然のようにそれぞれの専属メイドを呼び出して、やらせようとする。

私は思わずツッコんだ。


「ちょっと、何してるのよ」


「何って、メイド喫茶なんだから、メイドにやらせるの当然でしょう?」


「ふふ、わたしもそのつもりでした」


二人は真顔で言い切った。

フィーネは相変わらず微笑みを崩さず、しかし目元だけが妙に鋭い。


「これはいけませんね~♡ やっぱり、ご本人のご指導が必要です」


次の瞬間――


「ちょ、ちょっと、近い! い、いやぁ、そんなとこ触らないでっ!」


「い、いや、待って……く、首筋はだめぇっ!」


ソフィーネとアメリアの叫びが、教室に響き渡る。

フィーネは一切表情を崩さず、完璧な仕草で二人の体を正しい所作へ導く。

その手つきは甘く、だが徹底的で、逃がさない。


「腰の位置、手首の角度、笑顔の形、全部お客様に見られてますよ~♡」


私はそんな様子を横目に、昨日の密着指導を思い出しながら、こっそり笑う。

やれやれ、こんな騒がしい“メイド喫茶”、波乱しかない気がする。


でも――少しだけ、楽しくなってきた。

学園・文化週間 本番当日。


一際目を引く場所に設けられた、例の“異端の催し物”。


それが――


《貴族令嬢による 特別メイド喫茶》


入り口には白と黒のリボンが飾られ、煌びやかな装飾が所狭しと並ぶ。

その異様な盛り上がりは、すでに王都の街まで広がっており、朝から貴族中心に客足は途切れなかった。


中でも――


「ようこそいらっしゃいました♡ 本日はごゆっくりおくつろぎくださいませ♪」


エリスティア・グラン=フィオーレ。

王都でも話題の、かつて“悪役令嬢”と呼ばれた令嬢が、白と黒の清楚なメイド服で頭を下げる姿は、まさに衝撃的だった。


客たち――特に男たちの目が輝く。


「おい見ろ、あの子……仮面舞踏会の」

「元婚約者が……いや、今は“ご奉仕”する側か」

「……想像以上に可憐だな」


噂話が絶えない中、さらに二人の令嬢が客席を回っていた。


「さっさと注文しなさいよ、時間は有限なの」


ツンとしながらも赤らめた頬を隠せず、完璧な所作で接客するソフィーネ・リュクレール。


「ふふ、お飲み物は何にいたしますか? 本日のおすすめは、私の笑顔と紅茶ですよ♪」


どこかマイペースな雰囲気を崩さず、しっかり客を魅了するアメリア・セレノア=クレイン。


三人とも、名家の看板娘にして容姿端麗。

その上、普段とは違うメイド服での“ご奉仕”とあれば、反響は異常なほどだった。


だが当然、これほどの規模を三人だけで回せるはずもなく――


「はい、ご案内はこちらです」


「お飲み物お待たせしました」


客席には、ソフィーネやアメリアの専属メイドたちがずらりと並ぶ。

数十人に及ぶ彼女たちも、華やかな衣装で接客に加わっていた。


その中でも、一際目を引くのは――


「ご注文はお決まりでしょうか、姫君」


シルバーのトレイを持ちながら、涼やかに微笑む青年。


そう、イケメン執事として堂々と立つ、ユリウス。


男たちの視線が看板娘に集まる一方で、ユリウスのクールな立ち居振る舞いには、淑女たちの黄色い歓声が飛び交っていた。


「キャー、あの執事、素敵すぎる……!」

「ユリウスって名前かしら……メニューに載せてほしいわ♡」

「もう一杯、彼に注文しようかしら」


王侯貴族の子女たちが、揃って頬を染めるその様は、また別の意味で話題を呼ぶ。


私はというと、恥ずかしさと慣れない接客で、気を抜けば顔が熱くなるばかり。


「フィーネ……これ、本当に私の名前で企画したの、反則よ」


「お嬢様のための企画ですもの~♡ たくさんのお客様が喜んでますし、結果オーライですよ♪」


嬉しそうに笑うフィーネは、指導した通りの流れるような所作で、控えめに影から見守っている。


「やれやれ、甘く見てたわね」


私はため息をつきつつ、再びトレイを手に、客席へと向かった。


この日の学園――

煌びやかで、甘く、そして騒がしい“異端のメイド喫茶”は、しばらく王都の噂から消えることはなかった。

予想を遥かに超える盛況ぶりに、メイド喫茶の内部は朝から目まぐるしい忙しさだった。


「エリス様、次のご案内はこちらです♡」


「注文、確認した。すぐ厨房に通す」


看板娘の三人――私、ソフィーネ、アメリア。それに、メイドたちやユリウスが加わって、ようやく回る混雑。

だが、とうとう運営側で判断が下された。


「看板娘の休憩は一人ずつ。順番に、交代で休ませます」


その場にいたメイド長がきっぱりと言い放つ。


「全員抜けると混乱しますので……特に“エリス様”は、無理なさらず」


客の反応と、私の体力を見ての判断らしい。


「……わかったわ」


しぶしぶ了承し、私は休憩時間をもらった。



「お嬢様~、せっかくの休憩ですし、少し学園内を回りましょう♡」


フィーネが甘く誘いかけ、横には、無言でついてくるユリウスの姿。

三人で学園内を歩くのは、久しぶりだった。


文化週間とあって、どこも煌びやかで華やかだ。

演劇や音楽、模擬店や茶会が並び、生徒や来客たちが楽しげに過ごしている。


「ほんと、にぎやかね……」


私は思わず、ため息をつく。

そんな私に、ユリウスがふと、視線を向けた。


「休憩時間だ。ちゃんと楽しめ」


「……あんたに言われたくないわ」


「なら、無理やり楽しませてやる」


そう言うなり、ユリウスはさらりと私の手を取った。


「ちょ、ちょっと!?」


「どうせ混んでる、離れるな」


ぶっきらぼうな声だが、手のひらは優しく包み込むように温かい。

横を見ると、フィーネがにこにこと微笑んでいた。


「お嬢様~、せっかくの休憩ですし、スイーツでも食べましょう♪」


「え、まだお店の休憩なのに?」


「うふふ、あれは“お仕事用”です。今は、楽しむための甘いものを、ですよ♡」


いつもの調子で甘やかすフィーネ。

それに、無言でエスコートするユリウス。


気づけば、私は彼らの間に挟まれたまま、にぎやかな学園の催しを回っていた。


「……少しだけ、ね」


小さく微笑み、私は二人と歩き出した。

三人で文化週間の催しを回り、人気のスイーツ店を見つけた頃。


「お嬢様~♡ ここ、評判なんですよ~。ぜひ食べてみましょう」


フィーネが無邪気に提案し、私たちは屋外のテラス席に座った。

ふわふわのケーキ、宝石みたいなゼリー、煌びやかなパフェ……まさに見た目から誘惑そのものだ。

けれど、誘惑は甘いお菓子だけじゃなかった。


「……ほら、クリームついてる」


ユリウスが不意に私の頬へ手を伸ばし、親指でそっと拭い取る。


「え、ちょ、近いってば……」


「気にするな」


淡々と言いながら、目元だけが優しく細められている。

耳元にふっと息がかかり、頬が熱くなる。


そこへ、フィーネが横からさらに距離を詰めてきた。


「お嬢様~♡ 甘いの、好きですよね? 私、こういう甘いのも、お口に運んで差し上げますよ?」


「い、いい、わたし自分で食べるからっ」


「え~、せっかくの休憩ですし、リラックスしましょう♡」


そう言いながら、スプーンを手に取り、私の口元に寄せてくる。

仕方なく一口食べると、甘さと同時に、フィーネの微笑みがすぐ目の前にあった。


「お嬢様の食べる顔、すっごく可愛いです~♡」


「……調子に乗らないの」


そう言いつつも、心のどこかがふわりと緩んでいく。

ユリウスはそんな私たちを見て、ふっと短く笑った。


「たまには悪くねぇな、こういうのも」


「ほんと、二人とも、からかってるでしょ……」


「お嬢様が可愛いから仕方ないです♡」


「お前が鈍いから、つけ込んでるだけだ」


ふたりの誘惑は、甘さとからかいが混ざり合い、私の心をじわじわと溶かしていく。

だけど――悪くなかった。

この短い休憩の間だけは、少しだけ、二人に甘えてもいいかもしれない。


そんなことを思いながら、私はまたスプーンを口に運んだ。

人気のスイーツを食べ終え、ひと息ついたところで。


「お嬢様、口元……」


そう言って、フィーネが手を伸ばしてきた。

またクリームでもついていたのかと身を引こうとした瞬間、フィーネの指先はそのまま私の顎を軽く支えた。


「ちょ、フィーネ?」


「ふふ♡ 大丈夫です、ちゃんと綺麗にしますから……」


甘い声とともに、フィーネの顔がぐっと近づく。ほんの数センチ、唇が触れそうな距離。

耳元にくすぐるような吐息がかかり、指先が頬を撫でる。


「お嬢様の可愛いお顔、全部わたしの手で整えて差し上げますから♡」


頬が熱くなるのを感じたと同時に、反対側から視線を感じた。


「調子に乗りすぎだ」


ユリウスが低く言いながら、私の肩を軽く引き寄せる。


「お、おい、なに……」


「いい機会だ。今度は俺の番だろ」


そう言って、今度はユリウスがすっと私の髪をかき上げ、耳元へ顔を寄せてきた。


「……少しくらい、お前も意識しろ」


低く甘い声が鼓膜を震わせる。

そのまま、首筋へかすかに唇が触れるような距離。

呼吸が乱れる。


「な、なにしてるの、ここ、学園の催しの真っ最中よ……」


「周りは誰も見てねぇし、誰にも邪魔させねぇ」


ユリウスの腕が私の背後に回り、フィーネは相変わらず甘い微笑みを崩さず、私の前髪を整えてくる。


「お嬢様、もっとリラックスしてください♡ 可愛いお顔が、さらに可愛くなりますよ~」


ふたりに囲まれ、耳元、頬、首筋……どこからともなく囁きと吐息が重なり、まともに呼吸ができない。


「……ほんと、ふたりとも……」


文句を言いかけたのに、声はかすれて、か細くなった。

結局、ふたりの甘い誘惑に、私はなす術もなく身を委ねるしかなかった。

甘い休憩時間は、ほんの一瞬だったはずなのに。


鼓動はまだ、落ち着かない。

頬を撫でた指先、耳元に響いた低い声、密着するような距離感――


「……ふぅ」


小さく息を整えて、私はメイド喫茶へと戻る。


「お嬢様、まだ顔が赤いですよ~♡」


「あなたのせいでしょうが……」


「ふふっ、じゃあもっと赤くして差し上げます?」


「それ以上は業務に差し支えるから、やめなさい」


そんなやり取りを交わしながら、私は制服のリボンを整え、扉を開ける。

そこは、朝よりもさらに賑わいを増した空間だった。


「おかえり、エリス」


ユリウスはすでにホールに立ち、イケメン執事の仮面を完璧にまとっている。

淑女たちの歓声が飛び交い、客席は満員。

そして、エリス、ソフィーネ、アメリア――看板娘たちの姿を一目見ようとする視線が、熱を帯びて交差する。


私は一度、深呼吸をした。

まだ、心臓の高鳴りは完全に消えていない。

けれど、私は“看板娘”として、きちんとこの役目を果たすと決めたのだ。


「いらっしゃいませ、ご主人様」


自然な笑顔で、客を迎える。

この一日だけは、逃げられないと悟っていたから。



そして、長いようで短かった文化週間の一日が終わる。

屋敷に戻ると、私はぐったりとソファに沈み込んだ。


「……疲れた」


「お嬢様、お疲れ様です♡ 本当によく頑張りました~」


フィーネが甘い声で紅茶を差し出し、その横ではユリウスが静かに立っている。

さっきまでの誘惑とは打って変わって、今は従者としての顔。

けれど、どこか優しい視線が、私に向けられているのを感じた。


「明日もまた、頑張らないとね」


そう呟きながら、私は紅茶を口にする。

温かな香りと味が、心と身体をゆっくりと解きほぐしていく。


「……今日はゆっくり休もう」


私は目を閉じ、いつの間にか訪れた静かな夜に身を委ねた。


怒涛のような文化週間が終わり、学園はようやく、日常の落ち着きを取り戻しつつあった。

あの異端のメイド喫茶騒動も、今では良い思い出……と言えなくもない。

私はそのお礼も兼ねて、ソフィーネとアメリアを自邸のサロンに招き、ささやかなお茶会を開くことにした。


屋敷のテラスには、彩り豊かな茶器と焼き菓子。

優雅な空間に、穏やかな陽光が差し込む。


「まったく、あなたって本当に、ろくでもない目立ち方ばかりするのね」


ツンとした態度でソフィーネがティーカップを揺らす。

それでも、わざわざ参加してくれた時点で、彼女なりの好意は隠せていない。


「でも、ちゃんと感謝してるわ。あなたが参加してくれたおかげで、随分と華やかになったもの」


「ふ、ふん……当然よ!」


照れ隠しのようにソフィーネは目を逸らす。

その様子に思わず微笑みがこぼれた。


そして、カップを置いたアメリアがふわりと立ち上がる。


「では、私はこのへんで失礼しますね」


「え? もう少しゆっくりしていけばいいのに」


そう促すが、アメリアは柔らかく首を振る。


アメリアが立ち上がり、椅子の背を軽く整える。

優雅な微笑み、そのまま軽やかに歩き出そうとしたとき、ふと、彼女の視線がテラス越しの庭に向けられた。

その瞳は、ほんの一瞬、冷たく研ぎ澄まされた色を宿す。


「……けれど、楽しかったですよ。久々に、純粋なお茶会でした」


一拍、間を置いて微笑み直すと、何事もなかったかのようにメアリアは屋敷を後にした。

私はその空気の変化に、わずかな違和感を覚えながら彼女を見送る。


そして、ソフィーネが紅茶を口にしながら、ぽつりと呟いた。


「あの子、まだ変われないのね」


「え?」


思わず振り向く私。

けれど、ソフィーネはそれ以上、深くは語らない。


「……なんでもないわ」


そう言って、再びティーカップを揺らす。

その横顔には、わずかに翳った影が差していた。

私はその意味を問いただせず、ただ静かに、残りのお茶を口に運ぶ。


柔らかな陽光の中、平穏な時間は流れ続ける。

だがその裏で、まだ終わらない何かが、確かに息づいているような気がしてならなかった――。

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