第五章 たとえ世界が敵でも、君のために微笑む影であれ
夕暮れの王都は、橙色に染まった空の下、通りに影を伸ばしていた。
フィーネは石畳を軽やかに歩き、ふと背後を振り返る。
視線の先には、馬車へ向かうエリスの姿――その背中が完全に見えなくなった瞬間、フィーネの顔から“甘えた笑顔”がすっと消えた。
代わりに現れたのは、かつて“道具”として生きていた頃の冷徹な仮面。
銀髪を揺らしながら、フィーネは人混みに紛れ、足音も気配も消していく。
――この顔は、もう二度とお嬢様の前では見せない。
心の奥で、そう誓っている。
エリスの前では、あくまで明るく、無邪気なメイドとして。
けれど、それが叶わないこの街の裏側では――“影”として生きるしかない。
裏路地を抜け、人気のない小道を曲がる。
顔なじみの情報屋がいる店先へ、気配すらなく入り込んだ。
「……アメリア・セレノア=クレインの動き、出てます?」
細く低い声。愛嬌など一切排除された、かつて“商品”と呼ばれていた自分の残滓。
情報屋の男は目を細めたが、慣れたように書類を差し出す。
「さすが、手回しが早ぇな……相変わらず、あの顔とこの態度のギャップは怖ぇわ」
「余計なことを言わないで」
紙を受け取り、すぐ次の情報屋へ。
裏通りを渡り、夜の帳が降りるより先に、アメリアに関する噂、貴族の裏の繋がり、王都に広がる小さな火種をかき集める。
この時間をどれだけ使おうと、絶対に破らないルールがひとつある。
――エリスお嬢様が屋敷へ帰る前に、必ず戻り、支度を整えること。
お嬢様の前では、ただの“可愛いメイド”として、笑顔で迎える。
そのために、どんなに情報収集が長引こうとも、時間配分は完璧だ。
「……まだ余裕」
手際よく裏の仕事を終わらせると、フィーネはすぐに表通りへ戻る。
人混みをすり抜ける頃には、もう甘い微笑みを顔に戻していた。
屋敷の前に立つと、まるで何事もなかったかのようにドアを開ける。
いつもの香り、いつもの静けさ。
エリスの帰りを迎える前に、完璧な身支度と部屋の準備を終わらせた。
玄関先、軽やかな足取りで立ち、柔らかな笑顔を浮かべる。
「お嬢様~♡ おかえりなさいませ」
その声の裏に、冷酷な暗殺者の顔はもう微塵も残っていない。
お嬢様の世界に、余計な影を落とさせないために。
フィーネは今日も、裏の顔を誰にも悟らせぬまま、エリスの傍に立ち続ける。
書斎の灯火だけが、夜の屋敷に静かに揺れていた。
フィーネが何気ない笑顔で差し出した、小さな紙片。
エリスが着替えに部屋へ向かった隙を突いて、ユリウスはそれを無言で受け取る。
内容を目にしたのは、ほんの数秒。
だが、それで十分だった。
ユリウスの脳裏には、瞬時に文字と情報が全て刻み込まれている。
常人の理解を超える、IQ300と呼ばれる超越的な頭脳。
さらに、目にしたものを一瞬で記憶する、恐るべき瞬間記憶能力――
エリスのために鍛えた体躯と護衛の技術以上に、彼の本当の強さは、その知識量と分析力にある。
「……アメリア・セレノアの動き、やはり予想通りか」
低く、誰にも聞こえないような声で呟く。
紙はすぐに暖炉の炎にくべられ、あっという間に灰と化した。
情報は頭に刻んだ。それで十分。
この世界に紙という形で情報を残す必要はない。
屋敷内では、従順な執事であり続けるために。
裏では、冷酷な分析官として、すべての駒を読み解くために。
「次に、どのタイミングで動くか……」
フィーネが集めてきた、膨大な裏情報。
それを基に、王都の貴族社会の裏表、アメリアの人脈、陰謀の糸筋すら瞬時に計算し尽くす。
これがユリウスの裏の顔。
エリスの前では、決して見せない。
彼女のためだけに築き上げた、この冷酷無比な知性と記憶は、彼女の日常を守るために使う。
ノートも地図も必要ない。
彼の脳内にはすでに、王都全域の動きが、正確に網羅されている。
「……問題ない」
ユリウスは何事もなかったように書斎を後にし、夕食の席へと戻った。
エリスの前では、ただのぶっきらぼうな執事。
けれどその裏では、王都最奥の裏事情すら手の内に収める、影の分析官。
エリスの世界を守るために、冷徹に、完璧に。
ユリウスの頭脳は、今日も淡々と計算を続けている。
――フィーネの日常
◆朝(エリスの前:可憐なメイド)
「お嬢様~♡ 朝の紅茶をお持ちしました~。今日も本当に素敵です♪」
フィーネはいつも通り、軽やかな声と愛らしい笑顔を浮かべ、エリスの部屋へと入る。
銀のティーセットを滑らかに運び、淹れたての香り高い紅茶を、慎重に、しかし自然な所作でエリスの枕元に差し出す。
「おはようございます♡ 今日のご機嫌はいかがですか~?」
甘やかすように、親しげに。
まるで恋人のように、フィーネはエリスに近づき、布団を整え、柔らかく髪に指を通す。
毎朝のこの光景は、“可憐なメイド”として完璧に演じている“表”のフィーネだった。
「お嬢様、今日も本当にお美しいですよ♡ 髪も、ドレスも、全部お似合いですっ」
エリスの寝間着を脱がせ、白いブラウスのボタンを一つ一つ丁寧に留めながら、フィーネは時折、耳元で小さく囁く。
「……今日の学園も、たくさん楽しいことがありますように♡」
その声音は、ひたすら優しく、ひたすら甘い。
エリスももう慣れたものだが、フィーネの距離感には少しだけ照れてしまう。
だが――
鏡越しに、ふと映ったフィーネの瞳。
そこには、一瞬だけ、薄く冷えた光が宿っていた。
(……今日は、王都に“あの人物”が現れる日。
昨夜の情報網も反応してた……本当なら、学園の帰りにあの店で接触するはず)
表情は崩さず、甘い声もそのままに。
フィーネの脳裏では、すでに“裏の予定”が精密に組み立てられていた。
(お嬢様には絶対に関わらせない。私が全部、裏で処理する)
「さぁ、お嬢様♡ 今日も一日、ご一緒に楽しみましょうね~」
表向きは、今日もいつも通り。
けれど、フィーネは――常に、二つの顔を同時に生きている。
エリスのために。
誰よりも甘く、誰よりも冷酷に。
◆学園(表:従順なメイド/裏:隠密行動)
午前の講義が始まる前、学園の廊下を歩く私の隣には、いつものようにフィーネが控えている。
「お嬢様~♡ 今日もお綺麗です~。やっぱり視線、いっぱい集まっちゃいますね♡」
甘えた声と、ふわりと揺れる銀髪。
一見すれば、主人にべったりと懐いている愛らしいメイドにしか見えない。
だが、エリスのすぐ後ろを歩くフィーネの視線は、絶えず周囲を冷静に走査していた。
生徒たちの些細な動き、視線の交錯、通り過ぎる教師の袖口の色――
すべての情報を脳裏に瞬時に焼き付け、必要なら即座に“裏の顔”へと切り替わる準備をしている。
「お嬢様、教室のお席、整えておきましたよ~♡」
教室に入る直前、フィーネはエリスの肩越しに視線を交わす相手を見つける。
廊下の反対側――掲示板の陰に、一人の黒衣の青年。
その袖口には、わずかに見える《白い刺繍の輪》の印。
(……アメリア関連の情報屋。今朝の件、もう動いたのね)
フィーネは表情一つ変えず、スカートの裾から小さな書き置きを指先で滑らせる。
掲示板の脚元、決められた“引き渡しポイント”に、それをさりげなく落とす。
「お嬢様~、紅茶のおかわりいかがですか♡」
教室内に戻り、エリスの机にそっとティーポットを傾けるフィーネ。
その声音は相変わらず甘く、可憐な従順なメイドの顔。
だが、カップを満たしながら、視線の端で黒衣の青年が書き置きを回収するのを確認する。
(……今、裏の仲介人が“アメリアの次の動き”を伝えてきた。これは急がないと)
指先のわずかな動き一つにも、暗号と命令を込める。
「お嬢様~♡ 今日は放課後、どこか寄り道しませんか~?」
にこやかにそう提案しながら、内心ではすでに“情報網の次の連絡地点”を計算している。
◆放課後(裏:情報収集と暗殺者の顔)
「お嬢様、今日は夕食の買い出しをしてきますね~♡」
夕暮れの光が石畳を赤く染めるなか、フィーネは甘く微笑いながらエリスの手をそっと取る。
「新鮮な食材、しっかり選んできますから♡」
その声音も、仕草も、いつもの“従順な可愛いメイド”の顔。
だが、エリスが馬車へ乗り込んだ瞬間――フィーネの瞳から一切の甘さが消える。
フード付きの外套を頭からかぶり、銀色の髪を巧みに隠す。
その姿は、王都の雑踏に紛れるただの“影”と化していた。
裏路地へと足を運ぶフィーネ。
人気の少ない裏通り、くすんだ看板の酒場、歪んだ石畳の先に、情報屋や盗賊、裏の商人たちが集う“黒市”が広がる。
フィーネは迷いなく、その中央を歩く。
通りすがる者たちの視線が、一瞬だけ彼女を警戒するが、フードの奥にあるその冷え切った眼差しを見て、誰も余計な絡みはしない。
「あの銀髪の……いや、違う、今日はフードの影か……」
ひそひそと噂話が耳に入る。
王都の裏で、“銀の死神”と密かに囁かれる存在――それが、エリスの知らぬフィーネのもう一つの顔。
「……アメリア・セレノア=クレインの動き、知ってる?」
狭い路地裏、屋台の背後に潜んでいた情報屋に、フィーネは淡々と問いかける。
声に感情はなく、笑顔もない。ただ、研ぎ澄まされた“暗殺者”の冷たさだけが漂う。
「ひっ、あ、ああ……今日の昼以降、王都の東側で不審な動きが……」
情報屋の指が震える。
だがその震えの理由は、フィーネのナイフが、いつの間にか男の腰元に突きつけられているせいだ。
「情報に嘘があったら……次は、声も出せないようにするわ」
囁き声と共に、フィーネのナイフは静かに下がる。
(この顔は、もう二度とお嬢様には見せない。私は、お嬢様の前では“フィーネ”でいる)
罪も、血も、裏の汚れも、自分がすべて背負うと決めたから。
必要な情報を得たフィーネは、再び雑踏の中に消える。
そして――エリスが屋敷へ帰る前に、何もなかったかのように甘い微笑みを取り戻し、完璧な支度を終えるのだ。
◆夜(表:普段通りの甘える従者)
王都の空に、夜の帳が降り始める頃。
エリスが屋敷に戻る前、フィーネは必ず一足早く帰宅していた。
玄関先で屋敷の扉を閉めた瞬間――フードを外し、銀色の髪を丁寧に整える。
装いは完璧なメイド姿に戻し、鏡の前でリボンを結び直す。
白いエプロンドレス、揺れるリボン、柔らかな微笑み。
そのどれもが“お嬢様の従者”として相応しい、愛らしく従順な表情へと仕上げられる。
だが、その胸の内には、裏通りを巡り集めた“全ての情報”が正確に整理され、沈黙を保ちながら蓄積されている。
(お嬢様に心配はさせない。私はただ、隣で甘えるだけでいい)
馬車の音が屋敷の前に響いた瞬間、フィーネはすでに玄関ホールに立っていた。
「お嬢様~♡ 今日も本当にお疲れ様でした~」
無邪気な笑顔を浮かべ、軽やかに駆け寄る。
その顔には裏社会の気配も、影の気配も一切残さず、ただ従順な可憐さだけが宿る。
「夕食前にお着替え、手伝いますね♪ ……お背中のリボン、ほどきますから、少しだけじっとしててください♡」
甘える声色で、そっと背後に回る。
だが指先の動きは鋭く、素早く、まるで武器のような正確さで衣装を整える。
耳元で囁く声には微かな甘さ。
けれど、その心の奥底は既に“次の策”を巡らせている。
誰にも、エリスにさえ気づかせないまま、フィーネは今日も――可憐な従者として、完璧に日常へと溶け込んでいく。
◆エリス就寝後(裏:ユリウスとの連携)
屋敷が静まり返り、寝室から聞こえるエリスの穏やかな寝息を確認した頃。
フィーネは廊下を音もなく進み、執務室の前で一瞬だけ足を止める。
甘く柔らかな笑顔を浮かべると、そのまま静かに扉を開けた。
「こんばんは、ユリウス様♡」
変わらずの微笑み。けれど、その瞳の奥にだけ、裏の鋭さが宿っている。
ユリウスは書類に目を落としたまま、ちらりと視線だけを向けた。
「遅かったな」
「お嬢様のお顔を眺めていたら、つい時間が♡」
軽口と共に、フィーネは優雅な動きで室内に入る。
銀髪が揺れ、どこから見ても“可憐なメイド”のままだ。
だが、内ポケットから取り出した封筒だけは、決して装飾も飾りもない、純粋な“任務の証”。
フィーネはそのままデスクに封筒を置くと、にこりと笑ったまま言った。
「今夜集めた“全部”です。お嬢様には、まだ秘密ですよ♡」
ユリウスはその笑顔を見ても表情を変えず、手早く封を切り、中身を確認する。
卓越した記憶力と分析能力――一枚一枚の情報が、瞬時に脳内で地図のように整理されていく。
「アメリア、相変わらず下劣な真似を」
「ええ。でも、お嬢様の前では、そんなこと微塵も匂わせませんよ」
にこにこと笑うフィーネの表情は、まるで“何も知らない可憐な従者”のまま。
だが、その裏で得た情報量と冷徹な判断は、彼女を“影の守護者”たらしめていた。
ユリウスは資料の一部を燃やし、残った灰を無言で処理する。
「お前、疲れは?」
「この程度、どうということは♡」
「だが、油断はするな。お嬢様の前でお前が倒れるのは――一番まずい」
「ふふっ、大丈夫です♡ 私、“あの人の前では”絶対に崩れませんから」
その言葉にも、微笑みは一切崩れない。
どこまでも柔らかく、従順で、無邪気な笑顔の裏で――
二人は密かに、エリスの平穏と安全を確保し続けている。
夜の屋敷。
エリスが安心して眠るその裏で、ユリウスとフィーネの連携は完璧だった。
そして明日も、何事もなかったように――
「お嬢様~、朝の紅茶をお持ちしました~♡」
その笑顔を、エリスの前にだけ咲かせるのだ。
――ユリウスの日常
◆【朝】
屋敷の朝は、まだ夜の冷気がわずかに残る静かな時間から始まる。
ユリウスは、エリスが目覚めるはるか前――夜明けと同時に起床する。
無駄のない身支度を終え、燕尾服の襟を正し、黒革の手袋を手にはめると、屋敷内外の確認に入る。
まず、屋敷の外壁と敷地周辺を巡回する。
路地裏、死角、窓の影、植え込みの中まで一切見逃さない。
裏通りからの侵入痕跡、誰かが撒いた香料や目印、気配――微細な変化も即座に察知する。
「侵入痕なし、異常音なし、周囲の通行人は通常」
記憶力と分析力をフル稼働させ、すれ違う顔ぶれ、屋敷前の通行パターン、警備状況を頭に叩き込む。
一巡を終えると、今度は屋敷内へ戻る。
廊下、階段、隠し扉、暖炉裏、すべてを細かく点検し、物音ひとつ許さない空間を整える。
その後、使用人たちの行動確認。
彼らの表情、態度、普段と違う言動があれば即座に記憶し、裏で精査する。
すべてを終えた頃――エリスの部屋に灯りが入り、ようやく彼女が目覚める。
「……始まるな」
ユリウスは静かに廊下の壁際に立ち、扉の前で気配を消す。
室内からは、フィーネの甘ったるい声が響いてくる。
「お嬢様~♡ 今日も本当に素敵ですよ~」
フィーネがエリスの日常を整える間、ユリウスは無言で後方に控え続ける。
だが、その視線は決して気を抜かず、室内外の音、気配、物の配置まで瞬時に把握する。
「異常なし」
鏡越しに、エリスとフィーネが微笑み合う姿が映る。
だがユリウスは、その柔らかな時間の裏に潜む僅かな乱れすら見逃さない。
――もし、何か不審な影が忍び寄れば、その瞬間、排除する。
エリスの日常を壊す者は、決して許さない。
徹底した警戒と冷徹な監視の中で、ユリウスの「朝」は、静かに、しかし緊張の糸を張り巡らせたまま進んでいく。
◆【学園登校】
朝、屋敷を出発する際――ユリウスは必ず馬車の車輪、扉、車内を一通り確認する。暗器や毒、細工が仕込まれていないか、目視と触感で確かめるのが習慣だ。
「問題なし」
短く呟き、エリスの乗り込みを待つ。その間も周囲を警戒し、通りを行き交う人物の顔ぶれを記憶に刻む。目立つ不審者はいないか、尾行者はついていないか。全てを頭の中に記録する。
エリスが馬車に乗り込むと、ユリウスは彼女の隣に腰掛ける。
「護衛だ。文句は言わせない」
いつもの台詞を無愛想に吐きつつ、視線は窓の外へ。馬車が動き出すと、わずかな車輪の違和感や、道のざわめきにも耳を澄ます。
馬車内でフィーネがエリスに甘えたり、和やかな空気を作るのはいつものこと。だが、ユリウスはその裏で窓越しに通りを監視し続ける。
「……通行人、左側の赤い外套の男、視線がこちらに向きすぎだ」
わずかな異変も逃さない。必要なら、馬車が止まる前に動く準備も整えている。
学園の正門前に到着すると、ユリウスは先に馬車を降り、周囲の状況を確認する。門の衛兵、登校中の生徒、周囲の建物の窓――すべてを瞬時に視界に入れ、不審な要素がないかを分析する。
「問題なし、降りろ」
エリスを先に降ろし、すぐ背後に控えつつ校舎へと向かう。学園内では護衛の役目を徹底するが、必要以上に目立つことは避ける。
あくまで「執事」として自然に振る舞い、常に数歩後ろからエリスの行動を見守る。
――だが、万が一、自身がエリスの側を離れなければならない場面では。
「フィーネ、交代だ」
短い指示だけで、フィーネがスムーズに前に出る。
その瞬間から、フィーネが「表の顔」でエリスの世話をしつつ、「裏の目」として監視と情報収集を引き継ぐ。
この無駄のない連携は、長年の訓練と信頼から生まれたもの。
ユリウスは離れていても、必要なら即座に戻れる距離に常にいる。そして、エリスに悟られぬよう、裏で敵の気配や陰謀の兆候を探るのが彼のもう一つの役目だ。
「今日も、余計な波風は立たせない」
◆【昼】
昼休み、学園の中庭や食堂、講義棟周辺――生徒たちが自由に過ごすその時間、ユリウスはエリスの傍らでただ静かに控えている。
黒の燕尾服に身を包み、姿勢よく立つ様は、周囲から見れば“ただの忠実な執事”にしか映らない。
だが――その実態は違う。
ユリウスの琥珀色の瞳は常に動き、視界の端に映るすべてを捉え続けている。
昼食を取る貴族子弟たち、教員たちの目配せ、隅でひそひそと話す令嬢たち。
「……ソフィーナの取り巻き、三人。視線がこちらに集中。口の動きから“悪役令嬢”“舞踏会”……ふん、噂の延長か」
口には出さず、情報だけを脳内に記録していく。
ユリウスの脳は常人の領域を超えていた。
――IQ300。
――瞬間記憶能力。
一度見たもの、聞いた声、表情、姿勢、その場の空気。
すべてを記憶し、時系列・関連性・重要度ごとに脳内で即座に分類する。
「昼食のパンに残留魔力、微量の痕跡。厨房経由か、特定の意図は不明。継続監視」
エリスが紅茶を口にする間も、フィーネが甘えた声を上げるその背後でも、ユリウスは観察を止めない。
視線の向こう、アメリアの取り巻きが書類を回す。そこに書かれた文字列の断片まで瞬時に記憶する。
「“次の招待状”“予定変更”“王都の貴族区画”……ふむ、これは後でフィーネに精査させるべきだな」
必要とあらば、わずか数秒で教室や広場の配置図を頭に描き出し、最短の退路や隠れ場所を瞬時に計算できる。
ユリウスにとって、護衛とは「力」だけではない。
情報こそが最大の盾であり、エリスを守るための武器だ。
「表の顔は執事。裏の顔は、策を巡らせる盾と刃――」
だからこそ、誰にも気取られず、冷徹に、徹底的に。
エリスの周囲を、今日もすべて把握し続けている。
◆【放課後】
夕暮れが校舎を朱色に染め、学園の一日が終わる鐘が鳴る頃。
フィーネが甘えた声で「お嬢様~、今日は寄り道してきますね♡」と微笑む、その瞬間――
ユリウスはわずかに視線を交わし、無言で了承する。
だが、フィーネが裏の任務――つまり、王都の裏社会へ情報収集に向かう間、ユリウスは決してエリスから離れない。
「行くぞ」
たとえ学園から屋敷までの馬車移動、たとえ短い寄り道であっても、ユリウスは必ずエリスの隣に付き添う。
馬車の扉を開け、エリスが乗り込むその一瞬の隙さえ見逃さず、車輪の音、通りの人影、すべてに目を光らせる。
「今日の商人、視線の動き……不自然なし。通りの角、物陰に不審影なし」
声に出さず、脳内で状況を確認し続ける。
屋敷に着けば、エリスのドレスの裾を直すふりをしながら周囲を一掃。
廊下、階段、各部屋――すべての安全を確かめた上で、エリスを屋敷内に迎え入れる。
「フィーネが戻るまで、俺がすべての隙を埋める」
それがユリウスの矜持。
フィーネは愛嬌と甘さでエリスを支え、
ユリウスは冷静と知略でエリスを護る。
その連携の裏に、私情はない――いや、あるとしても、それを悟らせることは決してない。
フィーネがいない今、この時間、ユリウスはエリスの日常を完璧に守る盾そのものとなる。
「屋敷のすべてを安全圏とするまで、絶対に目は離さない」
それが、ユリウスの“放課後”の在り方だった。
◆【夜・屋敷】
静かな夜の屋敷――エリスの食事、書斎での勉強、入浴、そして就寝までの一連の時間。
ユリウスは従者として決して出しゃばらず、控えめな位置で見守る。
だがその目は、一瞬たりとも気を緩めない。
「廊下、異常なし」
「屋敷周囲、気配なし」
紅茶を淹れるフィーネの後ろ姿、窓に映る夜の闇。すべてを警戒の網の中に収める。
エリスが書斎でページをめくる間、ユリウスは隣の本棚を装うように立ち、視線を巡らせる。
彼女が入浴中も、脱衣所近くで“偶然”掃除のふりをして、外からの侵入経路を封鎖する。
そして――エリスが寝静まった深夜。
屋敷の執務室、重厚な扉が静かに閉じられると、フィーネが笑顔のまま現れる。
「お疲れ様です、ユリウス様♡ 今夜の“お土産”、まとめてきました~」
軽口の裏に、鋭利な情報の束。
フィーネが持ち帰った書類、口頭での報告、隠された暗号文。
ユリウスは無駄な言葉を交わさず、その場で全てを受け取る。
瞬間記憶能力――見た端から、情報が脳内のデータベースに刻まれていく。
「王都南区、アメリア派の資金の流れ、確認」
「学園内、次の標的、候補浮上」
「裏商会の動き、要監視」
その場で情報を組み立て、脅威度を算出。
必要なら、その夜のうちに指示を出し、裏の工作員たちを動かす準備を整える。
「お嬢様には、一切知らせない」
それが、二人の暗黙の合意。
フィーネは微笑みながら、くすくすと冗談を混ぜる。
ユリウスは無表情のまま、膨大な情報の渦を正確にさばき続ける。
この裏の時間こそが、エリスの日常を守るための“戦場”なのだ。
◆【深夜】
王都の夜が完全に静まり返るころ。
屋敷の灯りはほとんど落とされ、通りを行き交う人影も途絶えた頃合い。
ユリウスは一人、屋敷内を巡回する。
廊下の影、裏口の錠前、窓の施錠。
目に見える全ての防犯を確認し、さらに人目につかない隠し通路、非常脱出路までも入念に点検する。
地下倉庫の武具庫では、刃の切れ味を指先で確かめ、銃火器の弾数を数え、毒薬や特殊道具の保管状況までチェックする。
「……問題なし」
徹底的な確認を終えると、自室に戻る。
だが、休息と言っても、彼の眠りは常に浅い。
頭脳は整理を続け、耳は微細な音を拾い、筋肉は即応できるよう半ば緊張状態を保ったまま。
『お嬢様が安心して過ごせるなら、それでいい』
自分の安らぎよりも、彼女の安全。
それが、ユリウス=アレクトールの存在意義。
表では無口でぶっきらぼうな執事――時にからかい、時に突き放すように冷静な態度。
だが裏では、王都中の裏情報を網羅し、脅威を分析し、先手を打つ“影の参謀”。
エリスには決して気づかせず、その全てを水面下で遂行する。
「お前が、何も知らずに笑っていられるなら――それで十分だ」
まどろみに沈む直前、ほんの僅かに目を細めると、再び警戒の網を張り巡らせたまま、彼は静かに横になる。
夜が明けるまで、油断はしない。
この屋敷、この王都、そしてエリスの日常を守るために。