第四章 仮面の裏で揺れる影
まぶたをこすりながら、私はベッドから起き上がった。カーテンの隙間から差し込む光が、室内をやわらかく照らしている。
思いのほか、身体は軽い。昨日の疲れがまだ残っていると思ったのに、案外、悪くない目覚めだった。
けれど、そんな私の目覚めを待っていたかのように、カーテンの向こうから銀色のリボンがふわりと揺れた。
「おはようございます、お嬢様♡」
声とともに、フィーネがいつもの微笑みを浮かべて部屋に入ってくる。
「朝から……ずいぶん機嫌がいいのね」
「昨日のお嬢様、寝顔がとっても可愛かったですから♡ そのおかげです♪」
顔が赤くなる前に、布団を払いのけて立ち上がった。フィーネは嬉しそうに私の服を整え、まるで当然のように腕を絡めてくる。
そのまま食堂に向かうと、すでに朝食の準備は整っていた。テーブルには、香ばしく焼かれたパンとフルーツ、湯気の立つ紅茶が並んでいる。
ユリウスはいつも通りの無表情で、席についていた。私の顔を見ると、軽く顎をしゃくって挨拶代わりの視線を寄こす。
「顔色は悪くないな。ちゃんと眠れたか」
「おかげさまでね」
「お嬢様の寝顔、最高に癒されましたもんね~」
「黙って」
パンをちぎりながら、私はため息をつく。だけど、不思議と心は穏やかだった。
朝食を終え、馬車の準備が整った頃、ユリウスが控えめに声をかけてきた。
「学園まで送る。用意しろ」
「自分で歩けるわよ」
「その口ぶりが、今危険な目に遭わない保証になるならな」
皮肉げに返され、言い返す隙を失った。結局、私は今日もふたりに囲まれて登校する。
屋敷の前に出ると、黒塗りの馬車が待っていた。フィーネはさりげなく私の荷物を整え、ユリウスは手を差し出す。
「さ、恋人みたいに手を取って馬車へどうぞ♡」
「だから、恋人じゃないって言ってるでしょう」
ぶつぶつ言いながらも、結局はその手を取るしかない。乗り込むと、馬車は軽く揺れながら石畳を走り出した。
「今日の授業は?」
「礼法学と魔法理論。午後は選択講義だ」
「私もご一緒しますからね~」
「お前がついてくると、騒がしくなる」
「静かに甘えますから♡」
ユリウスが小さくため息をついたのを横目に、私は窓の外に目を向けた。
街並みが流れ、やがて学園の白い門が見えてくる。
石造りの高い校舎、整えられた花壇、登校する生徒たちの賑わい。王都の名門らしい、きらびやかで整然とした風景だった。
馬車を降りると、すぐにフィーネが私の後ろにつき、ユリウスが歩調を合わせてくる。
学園の廊下を歩きながら、私は周囲の視線に気を配った。表面上は穏やかでも、貴族の学び舎は常に“値踏み”がつきまとう場所だ。
「お嬢様、制服姿、相変わらず素敵です♡」
いきなり耳元に囁かれて、心臓が跳ねた。
「ちょ、近いって……!」
「リボンがちょっと乱れてますね~。ほら、ちゃんと直さないと♡」
そう言いながら、フィーネの指先が私の首元にふれる。くすぐったいような、でもどこか落ち着かない感覚。
「やめてよ……人が見てる」
「見てようが見てなかろうが、お嬢様は可愛いんです♡」
私は視線を逸らし、早足で教室へ向かうしかなかった。
昼休み、教室に戻ると、ユリウスがすでに席の近くで待っていた。
「お前が忘れていった。午後の資料だ」
彼の手には、次の授業の資料が整えられていた。
「わざわざ持ってこなくても」
「俺の仕事だ」
低い声でそう言いながら、ふと顔を寄せる。
「顔色、悪くないな」
「……さっきも聞いたわよ」
「しつこく確認するのが、護衛の仕事だ」
その声音が、不思議と胸に沁みた。
廊下の向こう、フィーネがにこにこしながらこちらを見ている。
「ふふっ、今日も隙あらば、ですねぇ♡」
まったく、このふたりといると、気が抜ける暇がない。
でも――それが、どこか心地よくなっている自分が、一番やっかいだった。
午後の講義が始まる頃、私は小さく息をつく。
今日もまた、騒がしくて、静かで、どうしようもなく温かな一日が続いていく。
……それだけは、きっと、悪くない。
学園長室の重厚な扉が、冷たく閉ざされた。
中に入ると、学園長――バルド・クラーレンは、机の前に腕を組んで座っていた。
「ご足労いただきました、グラン=フィオーレ嬢」
私、エリスティア・グラン=フィオーレは、静かに椅子に腰掛けた。
学園長室に呼ばれるのは、これで二度目だ。
最初は、レオナルドの策略によるものだった。
王子殿下の権威を笠に着た嫌がらせ――表向きは「婚約者としての品位を問う」という建前だったが、実際は私を吊るし上げ、追い詰めるための場だった。
バルド・クラーレンも、王家には逆らえない。
その忠誠心と保身は、前回の態度でも嫌というほど理解している。
だからこそ、今回も同じだと、私は覚悟していた。
「エリスティアさん。あなたは学園において、“元悪役令嬢”としての立場を利用し、たびたび問題を引き起こしていると耳にしています」
淡々と、冷ややかな声が室内に響く。
「……特に、先日の舞踏会での一件。仮面舞踏の最中、目立つ仮面で挑発的な振る舞いをし、王子殿下に恥をかかせ、主催者アメリア嬢との不穏な関係を露呈させた、と」
「事実が歪められて伝わっているようですね」
私は真っ直ぐに視線を返す。
「私がしたのは、ただ“与えられた役割”を演じただけです。それが学園にとって不都合なら、最初に“王子殿下”へ忠告すべきでした」
バルドの顔色がわずかに変わる。
「学園は王家と密接な関係にあります。……そのため、波風は好ましくないのです」
「王家の顔を立てるために、私に沈黙を強いるおつもりですか」
「事を荒立てぬための“忠告”です」
「ならば、その忠告は、アメリア嬢と王子殿下にも平等にすべきでした」
私の声は揺れない。
背後から、鋭い気配が走る。
ユリウスが静かに一歩前に出る。
その瞳は、鋼のように冷たく、室内の空気を凍りつかせた。
「お嬢様への理不尽な詰問には、我々が容赦しません」
フィーネは変わらぬ微笑みを浮かべながら、テーブルに指先を滑らせる。
可愛らしい仕草の裏で、その手には“仕込み道具”の気配があることを、私は知っている。
バルドは一瞬だけ喉を鳴らし、視線を逸らした。
「私の振る舞いが問題だとおっしゃるなら、堂々と告発なさってください。私はその全てに、正面から応じます」
バルドの眉がわずかに動いた。
「……以前とは、随分と様子が違いますね」
「私は変わりました」
「ならば、それを証明し続けなさい。学園内の秩序を乱さぬように」
「“秩序”とは、権力者の顔色を伺うことですか?」
私の言葉に、バルドは答えず、椅子から立ち上がった。
「これ以上は不毛です。……好きにしなさい。ただし、いかなる結果も、あなた自身で受け止めなさい」
私は席を立ち、静かに一礼する。
「望むところです」
学園長室を出ると、ユリウスとフィーネが無言でついてきた。
「余計なことは言わなかったな」
「当然よ。今の私は、以前と違う」
フィーネがくすくすと笑いながら、横を歩く。
「でも、お嬢様……めちゃくちゃ格好良かったです♡」
私は小さく笑った。
「次は、学園の中でも本当の私を見せつけてやるわ」
仮面も、遠慮も捨てて――“元悪役令嬢”の本領発揮といきましょうか。
学園が終わり、私たちは王都の石畳を抜け、待機していた屋敷の馬車に乗り込んだ。
夕陽が斜めに差し込み、馬車の窓から橙色の光が揺れている。
ユリウスは私の隣に座り、いつも通り無駄のない動作で外の様子を確認していたが、ときどき視線をこちらに流してくる。
「……なによ」
「いや、別に。今日のお前、やたら目立ってたからな。……見てて飽きなかっただけだ」
「それ、褒めてるつもり?」
「そう聞こえたなら、そうなんだろ」
ぶっきらぼうな物言いに、ため息をつこうとした瞬間、向かいの席に座るフィーネが身を乗り出してきた。
「お嬢様~♡ 今日も本当に素敵でした~。さすがです、私のお嬢様!」
スカートの裾を揺らしながら、いたずらっぽく笑いかけてくる。
「あなた、距離感が……」
「馬車の中ですし、こういうときくらい甘えさせてください♡」
そう言いながら、足を組み替え、わざと私の膝に軽く触れてくる。密室という安心感を逆手に取った仕草だった。
「こら、人が見てるかもしれないのよ……」
「この窓、カーテン閉めてますし、スリルがあっていいじゃないですか♡」
「お前な……」
隣のユリウスが呆れたように眉をひそめるが、特に止める気配はない。むしろ少しだけ口角が上がっていた。
私はふうっと小さくため息をつき、外の景色に目を向けた。
こうして、二人の言葉に振り回されながら、馬車はゆっくりと屋敷へと向かっていく。
屋敷に着き、自室に戻ると、すでにフィーネが支度を整えていた。
ベッドの端にはふわりとした寝間着が用意され、室内にはほのかな花の香りが漂っている。
「さあ、お嬢様。お着替えですよ♡」
「……待って、まだ心の準備が」
「準備なんて必要ありません♡ 甘えていい時間なんですから」
フィーネはするりと私の背後に回り、器用にドレスのリボンを解きはじめる。
冷たい指先がうなじを撫で、耳元でささやく声が、余計に落ち着かせてくれない。
「今日のご褒美、忘れてませんよね? わたし、いっぱい我慢したんですから」
「だからって、距離が近すぎ……」
「もっと近づいてもいいんですよ?」
唇が耳のすぐ横をかすめ、私は慌てて身体をよじる。
「だ、だから……! もう、自分で着替えるから、外で待ってなさい!」
「え~、寂しいなぁ。でも、わかりました♡」
しぶしぶと言いながらも、フィーネは最後に肩にそっと触れてから、ひらりと部屋を出ていった。
その背中に、私の顔は熱くなるばかりだった。
夜、書斎での勉強時間。
机に広げた書物を読み込んでいると、ユリウスが黙って近づいてくる。
「集中してるか?」
「ええ、問題ないわ」
「なら、ちょっとくらい邪魔しても大丈夫だな」
「……は?」
言葉を終える前に、ユリウスは私の隣の椅子に腰掛け、すっと距離を詰めた。
ぶっきらぼうな顔で、けれど視線はどこか優しい。
「今日の帰り道、ちょっとだけお前の“素”が見えた気がした。……悪くなかった」
「……また、からかって」
「違ぇよ」
低い声が近くで響く。思わず息が詰まった。
「お前がちゃんと強がってないとき、俺は好きだ」
そう言って、ユリウスは軽く私の頭に手を置いた。
重くも、優しくもない、その手つきが妙に安心感を与える。
「……集中できないわよ」
「じゃあ、もっと集中させてやる。横で見てるから」
「それ、余計に気が散るって言ってるの」
「そういう顔も、悪くない」
私は顔を伏せたまま、ページをめくる。
二人の誘惑が、今日も私の日常を乱していく。
けれど、それが――心地悪くはなかった。
朝の陽が差し込む屋敷のテラスで、私は軽くストレッチをしながら深呼吸をした。
静かな朝。けれど、これが終われば、また“いつもの”時間が始まる。
案の定、背後から気配が近づいてきた。
「おはよう、お嬢様♡ 今日も相変わらず、お美しいですねぇ」
振り返れば、フィーネが嬉しそうに笑顔を向けてくる。艶やかな銀髪が朝の光を反射して、やけに眩しい。
「そんなの、朝から言わなくていいの」
「言いたくなっちゃうんですもの♡」
フィーネは当然のように私の腕を取って寄り添ってくる。まるで恋人の登校風景のようだが、これが平常運転なのだから困る。
屋敷の玄関には、すでにユリウスが控えていた。きっちりと整った金髪と燕尾服の出で立ち、いつも通りの無駄のない立ち居振る舞いだ。
「準備はできたか」
「……あなたたち、朝から変わらないわね」
「お前もな。朝一番の顔、悪くない」
ぶっきらぼうに言いながら、ユリウスは小さく目を細める。その仕草は無駄に色気があるのだから厄介だ。
結局、フィーネに腕を絡められ、ユリウスに見つめられながら、私は馬車に乗り込んだ。
◆
揺れる馬車の中、フィーネは私の隣で嬉々として座り、早速スカートの裾をつまんで身を寄せてくる。
「お嬢様の今日の髪型、とっても可愛いですよ♡」
「そういうのは屋敷で済ませなさいって言ったでしょう」
「でも、馬車の中は“ふたりきり”ですから♡」
「……私もいるんだが」
正面の席に座るユリウスが呆れたように眉をひそめるが、私の視線に気づくとふと目を細める。
「お前も、いつもより顔色いいな。……俺の世話が効いてるか」
「別に、あなたのせいじゃないわ」
そう口にしたが、言葉が終わる前にユリウスの手が私の手の上に重ねられる。
重たくもなく、ただ包むような優しい力加減が、心を不意に揺らした。
「……余計なことばかりして」
「慣れろ」
私は顔をそむけたまま、頬が熱くなるのを抑えた。
やがて、王都の通りを抜け、学園の門が見えてくる。
◆
学園の敷地に足を踏み入れた途端、空気が変わる。
生徒たちの視線、ざわめき、微妙な間合い――すべて、舞踏会以来の日常だ。
馬車を降りて歩き始めたそのとき、目の前の通路の先に見慣れた金茶色の髪が現れた。
気品ある歩き方、控えめな笑み、だがその瞳は決して油断の色を見せない。
アメリア・セレノア=クレイン。
王都クレイン伯爵家の令嬢、そして“次なる王妃候補”とも噂される、社交界の優等生。
「ごきげんよう、エリスティア様」
遠くない距離でアメリアが立ち止まり、控えめな微笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、アメリア嬢。お早い登校ね」
「ええ、学び舎ですもの。大切な場所に遅れるわけにはいきません」
一見、穏やかな挨拶。
だが、その裏に張り詰めた気配が交錯するのを、私は感じ取っていた。
フィーネが笑顔のまま、私の背後に控え、ユリウスが無言でこちらを見守る。
「今朝の王都は、特に清々しいですわね。おかげで、とても良い一日になりそうです」
アメリアの微笑みの奥に、静かな火種が見える。
アメリアの穏やかな挨拶の奥に潜む、微かな棘。
その一瞬の気配を、誰よりも敏感に察知したのはフィーネだった。
私が口を開くよりも早く、彼女の姿は音もなく消える――と思えば、次の瞬間、アメリアの背後にぴたりと立っていた。
銀糸の髪がふわりと揺れ、細い指が軽くアメリアの肩に触れる。
「アメリア様♡ あまり、お嬢様を困らせないでくださいね?」
耳元で、甘やかすように囁くその声は、まるでお茶会の誘いのように柔らかい。だが、その裏に隠された冷たさは隠しきれない。
だが――アメリアは、微動だにしなかった。
涼しげな笑顔のまま、視線だけを背後のフィーネへと流す。その碧眼には冷えた鋼の光が宿っていた。
「……舞踏会ではお気遣いいただき、ありがとうございます」
アメリアの声は礼儀正しい。だが、そこにこめられた一言が鋭い。
「けれど、あまり調子に乗らないことね」
フィーネを見下ろすように、わずかに顎を上げる。その瞳は、優雅な淑女の仮面を剥ぎ取れば、間違いなく狩人のものだった。
それだけ言い残すと、アメリアはくるりと踵を返し、優雅な足取りで去っていく。
残されたフィーネは、手を胸に当てながら、やや誇張した表情で私のもとへ戻ってきた。
「ひゃぁ~……怖かったです~、お嬢様。私、心臓止まるかと思いました♡」
「……あなた、完全に楽しんでたわよね」
「だって、護るのが私の仕事ですから~♡」
そう言いながら、また私の腕に絡みついてくるフィーネ。
その甘えた態度の裏側には、先ほど見せた“獣の本能”がしっかりと滲んでいた。
私はため息をつきつつ、遠ざかるアメリアの背中を見送る。
昼休み――中庭の片隅、木陰に敷かれたベンチに腰掛け、私は持参した紅茶を口に運んでいた。
目の前には、当然のようにユリウスとフィーネ。
「ふん、さっきから避けるのが上手くなったな」
ぶっきらぼうな声音でそう言いながら、ユリウスが隣に腰を下ろし、さりげなく距離を詰めてくる。
金髪が陽に揺れ、鋭い琥珀色の瞳がじっと私を見つめている。
「……学園でまで誘惑しないでって言ってるの」
「誘惑? ただ隣に座っただけだ」
「座る位置が近すぎるのよ」
そんなやり取りの横で、フィーネが楽しそうに私の膝に手を乗せてくる。
銀糸の髪を揺らし、にこにこと無邪気な笑顔を浮かべながら。
「お昼の時間くらい、甘えてもいいじゃないですか~♡ お嬢様、今日も本当に素敵でしたよ~」
「……フィーネ、場所を考えなさい」
「場所が学園だからこそ、スリルがあっていいんですよ♡」
ため息をつきながら、その手を振り払おうとした瞬間――
「……ふぅん、仲がいいのね」
冷えた声が、頭上から降ってきた。
顔を上げると、陽光を背に立つ少女――ソフィーナ・エリュシオンがそこにいた。
黄金色の髪をなびかせ、艶やかな制服に身を包んだまま、私を見下ろしている。
「……なに、用?」
「忠告しに来たのよ。アメリアには気をつけなさい」
突然の言葉に、私は思わず目を細めた。
ソフィーナと言えば、つい先日まで私を貶めようと画策していたはず。それが、今さらこんなことを――
「どういう風の吹き回し? あなたが私に忠告なんて」
「べ、別に、あなたのためじゃないわ」
ソフィーナはぷいっと顔をそらし、ツンとした態度を取る。
その瞬間、フィーネとソフィーナの視線がかち合った。
フィーネは、柔らかな笑みを浮かべながら静かに一歩踏み出す。
銀髪が風に揺れ、その微笑みの奥に冷たい光が宿る。
「ソフィーナ様、先日のお茶会では大変お世話になりました~♡」
「ッ――」
ソフィーナの表情が、瞬く間に青ざめた。
かすれた声が漏れ、肩が小さく震える。
“お茶会”――
フィーネの無邪気な笑顔の裏に潜んでいた毒と圧力を、ソフィーナはよく知っているはずだ。
「と、とにかく、忠告はしたから! 勘違いしないでよねっ!」
早口でそう言い残し、ソフィーナは早足で立ち去っていった。
私は小さく息をつき、紅茶を口に運ぶ。
隣のユリウスは、面倒そうに眉をひそめ、フィーネはいたずらっぽく私を見上げている。
学園の一日が終わり、夕暮れの空が橙色に染まり始めた頃。
私たちは校門を抜け、馬車へと向かっていた。
フィーネがふいにくるりと私の前に回り込み、にこにこと笑いかけてくる。
「お嬢様~、今日は寄り道して帰りますね♡ 夕食の買い出し、してきますから」
「買い出し? 珍しいわね、食材はまだ十分あったはずだけど」
「ふふっ、でも新鮮なものは早い者勝ちですし♡ せっかく王都にいるんですもの、選び抜きたいな~って」
銀髪を揺らしながら笑うフィーネの表情は、普段通りの無邪気なもの。
でも、長年そばにいれば、その奥にかすかに漂う“裏の気配”も、見逃せはしない。
「……また余計なことしないでよ」
「なにをおっしゃいますか♡ 私はただ、お嬢様の食卓を彩る健気なメイドです~」
そう言い残し、フィーネはふわりとスカートを翻して、軽やかに通りへ消えていった。
私は小さくため息をつき、馬車へ乗り込もうとしたその時――
「……午後の課題、まだ片付いてなかったな」
ユリウスが、手にした書類を軽く掲げて言った。
「課題なんて、屋敷でやればいいのに」
「図書院の資料が要る。ついでに、ちょっと見ておきたいものもあるしな」
「ふぅん……また“都合よく”寄り道?」
「勘ぐるなよ、ただの勉強だ」
ぶっきらぼうに言いながら、ユリウスはすっと視線を外す。
ああ、まただ――この“自然な口実”。きっと何か裏で探りを入れるつもりだ。
でも、それ以上問い詰めたところで、彼が余計に口をつぐむだけ。
私はわざとらしく肩をすくめた。
「わかったわよ。私もついていく」
ユリウスが少し目を細めたが、拒む素振りはなかった。
「好きにしろ。ただ、図書院の中じゃ騒ぐなよ」
「誰が騒ぐのよ……」
私はため息をつきながらも、彼の隣について歩き出した。
夕暮れの王都、通りには行き交う人々と、淡い灯りがともり始めている。
その中を、フィーネは情報を探りに。ユリウスは、私とともに“表の顔”で図書院へ。
二人とも、私に余計な不安をかけないよう、わざと自然に振る舞っていることは、なんとなく察している。
でも、だからこそ――
私は何も聞かず、ただ隣を歩く。
その方が、お互いに都合がいい。
図書院の重厚な扉が近づき、夕陽はゆっくりと沈んでいった。
図書院には、およそ一時間ほど滞在した。
私とユリウスは必要な資料を確認し終えると、そのまま屋敷へ戻るため馬車に乗り込んだ。
夕暮れの街並みを揺らしながら、王都の石畳を抜ける馬車。
すでに陽は傾き、遠くの空が濃紺に染まり始めていた。
屋敷に到着すると、正面玄関には先に帰っていたフィーネが、にこやかに立っていた。
「おかえりなさいませ~♡ お嬢様、ユリウス様」
「もう戻ってたのね」
「もちろんです♪ 夕食の準備も万端ですよ。それより、お嬢様、夕食前にお着替えしましょう」
フィーネは自然な仕草で私の腕を取り、そのまま二階の私室へと誘導する。
その途中――さりげなく後ろを振り返ると、ユリウスに小さな紙片を渡した。
エリス本人にはまったく悟らせず、完璧な手際だった。
ユリウスも顔色一つ変えずにそれを受け取る。
私はその様子に特別気づくこともなく、フィーネに着替えを手伝われるまま、夕食の準備を済ませた。
***
その間、ユリウスは書斎の奥――執務机に腰掛けると、ポケットからさきほどの小さな紙を取り出した。
そこには、簡潔な筆跡で情報が記されている。
フィーネが市場や裏通りで掴んできた、“アメリア・セレノア=クレイン”に関する、微かな動き――
具体的な内容を読み終えると、ユリウスは無言で暖炉に火をくべ、紙を燃やした。
火の中で情報が音もなく灰へと変わっていく。
「……ふん」
短く息を吐くと、彼もまた、何事もなかったように食堂へ戻る。
***
夕食の時間――
フィーネはいつも通りおどけた笑顔で、ユリウスはぶっきらぼうな態度を崩さず、私を囲んだ。
私はそんな二人に呆れつつも、普段通りの食卓を楽しんでいた。
何も知らない、知る必要のないままに――
やがて、夜が深まり、私は自室で静かに眠りにつく。
***
深夜、屋敷内の人気が消えたころ。
暗い執務室に、ユリウスとフィーネが顔を合わせた。
「……報告通り、妙な動きが出始めてる」
「ふふっ、やっぱり予想通りですね」
フィーネは気軽な口調ながらも、目の奥には微かな緊張が宿る。
ユリウスは窓の外を見つめたまま、低く呟いた。
「アメリアの背後、もう少し掘る必要があるな」
「お嬢様には、余計な心配をかけたくないですしね」
二人は目配せだけで、互いの意思を確認し合う。
「いつも通りだ。俺たちの仕事は、あの人を“日常”の中で守ることだ」
「はいはい、任せてください♡」
夜風が窓を揺らし、静寂が屋敷を包み込む。
だが、私の知らないところで、ふたりは今日も動き続けていた。