第三章 失われた昨日と、守りたい今日
舞踏会の喧騒が過ぎた翌朝――
学園は休みで、屋敷はいつもより静けさに包まれていた。
エリスは朝の紅茶を飲み終えると、テラスに出て軽く伸びをした。
昨日の疲れはまだ身体に残っていたが、不思議と気分は軽い。
そのとき。
「お嬢様~♡ 準備はできてますか?」
軽やかな声と共に現れたのは、銀髪にリボンを揺らすメイド、フィーネだった。
「……フィーネ。準備って?」
「今日のお買い物ですよ。ほら、今夜のティータイム用のお菓子と、特別な紅茶♪
昨日の“ご褒美”として、ちゃんと約束したじゃないですか~♡」
「…………っ」
思い出してしまった。
昨夜、着替えの最中に“例の男”の行方を尋ねたエリスに、フィーネは笑顔でこう告げたのだ。
『ちゃんと教育しておきました♡ ……だから明日、買い物、付き合ってくださいね?
そのかわり、いっぱい甘えますから♪』
――ふざけた話、と思ったのに。
“別にそこまでしてもらったわけじゃないし”とか、
“用事としてなら同行くらい……”とか、
なんだかんだで流されて了承してしまった自分が、今になって悔やまれる。
「……あれ、真に受けてたのね」
「もちろんです! というわけで、お嬢様、今日はたっぷり甘えさせてもらいます♡」
エリスは少し呆れたように肩をすくめ、それでも微かに笑みを浮かべた。
「……好きにしていいのは、買い出しの範囲までよ? “それ以上”は無しだからね」
「はいは~い♡ (“範囲内”の解釈は私次第ですけど♪)」
王都・中央市場 午前九時過ぎ
街の空気は朝の光にきらめき、中央市場にはすでに多くの人々が行き交っていた。
果物の香り、焼きたてパンの匂い、そして茶葉と香辛料の深い香りが入り混じっている。
「ふふん♪ お嬢様、今日はいつもと違って、ラフなお召し物ですね~。その雰囲気、なんだか恋人と買い出ししてるみたい♡」
「誰が誰の恋人よ……まったく、調子に乗りすぎ」
「えへへ、照れちゃって~♪」
フィーネは店先に並んだ茶葉をひとつずつ指先で持ち上げて香りを確かめる。
どこか本気なのがまた悩ましい。
「お嬢様、どう思います? この《白銀の花咲きティアラ》か、それとも《蒼玉の深海紅茶》……エリス様に似合うのは、どちらかしら♡」
「……名前が仰々しすぎるわね。後者は味が重すぎる気がする」
「ですよね~! やっぱり《白銀の~》の方にしましょう♡」
エリスの意見を尊重するように見せながら、どこか「自分のセレクトに自信満々」な顔をするフィーネ。
そのあとも――
「わあ、チョコレート専門の露店が出てますっ。買いましょう買いましょう♡」
「え、でもそれ今夜用じゃ……」
「これは“試食”です!」
「そう言ってまた余計な物を……ちょ、勝手に口元に近づけないで!」
「あーん♡」
エリスはチョコを口に押し込まれて、反射的に頬を染めた。
通りすがりの老婆がにこやかに「まぁ、仲のいいお嬢様方だこと」と言って通り過ぎていく。
「……はぁ」
「照れ顔も最高に可愛いですねぇ、お嬢様♡」
小さなリボンの店にて
最後に立ち寄ったのは、フィーネが以前から「秘密にしていた」という小物店。
中には上品で愛らしいリボンやアクセサリーが整然と並んでいた。
「お嬢様、この髪飾り、きっとお似合いですよ♪」
フィーネが差し出したのは、銀糸で織られた小さなリボン。
清楚でありながら、芯のある美しさを感じさせる――まるでエリスのようなデザインだった。
「……自分で選んだらどう?」
「いえ、これは“贈り物”です♡」
「っ……勝手に、そんな……」
「お嬢様のそういうところが、大好きなんです」
耳元で囁かれ、エリスは赤くなって言葉に詰まった。
買い出しを終えて、手にはたくさんの荷物。
しかしエリスは、何故か重さを感じなかった。
「……楽しかったですか?」
「……まぁ、悪くはなかったわ。あんまり調子に乗らないでね」
「はいっ、ではお昼までに戻って、午後の“ユリウス様”とのデートに備えましょうね♡」
「ちょ、ちょっと! 何勝手に決めてるのよ!」
「私たちのスケジュール帳に、すでに書いてありますよ♪ “午後:執事と午後の憩い”って♡」
「そんなの知らないっ……!」
笑い声とともに、午前の市場はやさしい陽光に包まれていた。
昼過ぎ。買い出しから戻ったエリスが、ティーセットの荷を下ろしていると、屋敷の奥からユリウスが現れた。
「戻りましたか。……随分と荷物が多いな」
「ええ。……フィーネが、甘えるって言って聞かなかったの」
「……ふん。想像はつくな。あいつの“甘える”は一歩間違えば暴走だからな」
ユリウスはそう言いながらも、エリスの手からそっと包みを受け取る。
その手つきは慣れていて、さりげなく重いものを優先して持っていた。
「午後、出かけると言ってたわね。……何の用?」
「図書院だ。先日依頼していた“魔法理論における貴族式礼儀解釈”の写本が届いた。それと……別件で、領地からの報告書の確認もある」
「……お堅い用事ね」
「俺らしいだろ」
「……うん、らしい」
そのやりとりに、エリスはどこか安心したように微笑む。
変に気取らず、威張らず、けれど一歩引いた場所から自分を見守るその姿――
最近になって、その距離感の“温かさ”をようやく理解し始めた気がする。
王都・中央図書院 午後二時
大理石の階段を上がり、重厚な扉をくぐると、館内には静寂が満ちていた。
窓から差し込む午後の陽が、木の床を柔らかく照らしている。
エリスとユリウスは並んで書架の合間を歩いていた。
「……ここ、好き」
エリスがぽつりと呟いた。
「誰も、何も言わないし。静かで、ただ、言葉と向き合える。そういう場所」
「……わかる」
ユリウスの声もまた、低く穏やかだった。
「無駄な取り繕いがいらない場所だ。……お前はそういう静けさを、大切にできる人だと思う」
「……ふふ、褒めてるつもり?」
「事実だ。俺はお世辞は言わない」
書架の奥に進むと、魔導系写本の保管棚が見えた。
その一角に、予約していた写本が並べられている。
ユリウスが冊子を受け取り、開いた瞬間、顔に少し柔らかな色が宿った。
「お前が先日探していた図解も、追加で挟まれてる。図書司書が気を利かせたらしい」
「……ありがとう。まさかこんなに早く届くなんて」
「お前が嬉しそうに話すのを見てたら、俺も少し動きたくなっただけだ」
「……へぇ、やっぱり優しいのね、あなた」
「勘違いするな。執事として当然のことをしただけだ」
そう言いながらも、目は逸らしている。
エリスはその様子に小さく笑い、隣に座った。
読書室にて
陽が傾き始める頃、二人は隣同士に腰掛け、写本を静かに読み込んでいた。
紙をめくる音だけが、部屋にやさしく響いている。
しばらく沈黙が続いたあと、ユリウスが不意に言った。
「……今夜は冷えそうだ。体を冷やすなよ」
「……ええ。昨日の舞踏会の夜も、そう言ってくれたわね」
「……覚えてたか」
「忘れるわけないじゃない。あなたのそういう細かい気遣い、ちゃんとわかってるわよ」
ユリウスは一瞬、動きを止め、それから深く息をついた。
「……なら、いい」
「ねえ、ユリウス」
「なんだ」
「私が“誰か”を選ぶ日が来たとして――もし、そういう未来があったなら、
あなたはどうするの?」
静かな質問。
しばしの沈黙のあと、ユリウスは手を止めずに答えた。
「……お前が選んだ相手を、俺は徹底的に調べて、過去も家系も性格も全部把握して、
許可できそうならそいつに“教える”。お前の守り方を」
「ふふっ……怖いわね」
「当然だ。お前を任せるなら、それくらいはして当然だろ」
そう口にする彼の目は、真剣で、けれどどこか穏やかだった。
「ただ……」
「ただ?」
「俺が“お前に選ばれる側”になる気がないとは、一言も言ってないがな」
「……っ」
エリスは顔を赤らめて、目を逸らした。
ユリウスは、いつも通りの表情のまま、本に目を戻す。
「……さて。そろそろ戻るか」
「ええ……もう、そんな時間」
陽が西へと傾き、書架の影が長く伸びていた。
ユリウスがそっと手を差し出す。
エリスは一瞬だけ躊躇い、そしてそれを取った。
ほんの短い時間。
けれど、それは確かに「心を交わす午後」だった。
静かだった屋敷が、夕餉の支度とともにゆっくりと温かさを取り戻していく。
図書院から戻ったエリスとユリウスが玄関をくぐると、
ちょうど迎えるように、フィーネがふわりと笑顔で現れた。
「おかえりなさ~い♡」
「……あれ? あなた、まだ戻ってないと思ってたんだけど」
エリスが不思議そうに首を傾げる。
「へへっ。先回りですよ♪ お嬢様が図書院に寄るって、ちゃんとスケジュールに書いてありましたから」
「……いつの間に、そんな情報を」
「うふふ♡ 女の勘と屋敷の厨房筋からの密告です♪」
フィーネはまるでいたずらっ子のように目を細める。
「というわけで、お夕飯の準備も済んでますから、先にお着替えをどうぞ♡」
「……わかったわ。今日も、振り回されてる気がするけど……ありがと」
エリスが階段を上がろうとすると、背後からフィーネが声をかける。
「お嬢様~、着替えはわたしが手伝いますからね♪」
「……わざわざ言わなくていいわよ、もう……」
小さくため息をつきながらも、エリスの口元には笑みが浮かんでいた。
重厚な食卓には、ささやかだが温かな夕食が並ぶ。
フィーネお手製のポタージュに、今朝買ったパン、茶葉で煮込んだ風味ある鶏肉料理。
「……これ、午前中の買い出しで見た食材ばかりじゃない」
「ふふ、せっかくですからね♡ ちゃんと“実食体験”までが、ご褒美ですよ~」
「……口実のために連れ出したんじゃないでしょうね?」
「うふふふふ~? 秘密です♡」
対するユリウスは、静かに食事を進めながら、二人のやりとりを時折見守っている。
「……いつも思うが、お前たちは飽きもせずよく喋るな」
「えーっ? せっかく三人揃ってるんですから、こういう時間、大事にしましょうよ」
「賑やかすぎると味が落ちる」
「それでも完食するくせに♡」
にこにこと笑うフィーネに、ユリウスはため息をつきながらもスープをすくった。
エリスはそんなやり取りを眺めつつ、胸の奥にある安らぎを噛みしめていた。
(……ああ、こういう時間も、悪くない)
夜も更け、エリスが自室で休んでいるころ。
静まり返った屋敷の一室、書斎では二人の“従者”が向かい合っていた。
「……お嬢様、最近ようやく笑顔が増えてきたと思いません?」
フィーネが窓辺に肘をついて、外の夜空を見ながらぽつりと言う。
「ま、あれでも無理してる時はあるがな」
ユリウスは書類を整えながら、短く返す。
「でも、その無理を“見せられるようになった”のも進歩ですよ。昔は、それさえ隠してましたもんね」
「……ああ。少しずつ、変わってきてる。あいつ自身がな」
フィーネはふと、背を向けたまま笑う。
「でも変わらないですね、ユリウス様の“口の悪さ”だけは」
「うるさい。……お前が騒がしい分、バランス取ってるんだよ」
「ふふっ、それなら、ちょうどいいってことで♡」
月の光が静かに二人を照らす。
「……エリス様には、ちゃんと“未来”を掴んでほしいな」
「そのために、俺たちがいるんだろ。お前も、俺もな」
「……はいっ」
交わした言葉は多くない。
だが、それ以上に強い“同じ願い”がそこにあった。
窓の外では冷たい風が木々を揺らしていた。
フィーネと短く言葉を交わした後、ユリウスは執務机に置いた紅茶に手を伸ばし、そのまま飲まずに、遠い夜空を見つめた。
(……結局、俺たちはまだ、あの夜の続きを歩いてるんだ)
静かな回想が、心の奥底から甦る。
かつて、ユリウスは小貴族「アレクトール家」の嫡男だった。
文官である父の失態が原因で、家は没落する。
領地は失われ、屋敷は王家に差し押さえられ、母は病に倒れ、早々に他界した。
残されたのは、貴族の誇りと、守るべきもののない名前だけだった。
そして彼は――十歳で「売られた」。
仕える先は名門「グラン=フィオーレ侯爵家」。
その家の一人娘が、のちのエリスティアだった。
「……なんで、こんな真似を……」
銀器を磨きながら、少年ユリウスは苛立ち混じりに呟いた。
磨き布を握る手は細く、まだ年端もいかない少年のものだったが、その動きには妙に無駄がなかった。
――というより、ただの使用人がするには、あまりに“貴族らしすぎる”所作。
だが本人の表情には誇りどころか、屈辱と投げやりな感情が滲んでいた。
「僕は……こんな場所にいるはずじゃなかった……」
幼いながらも矜持を捨てきれずにいた。
かつて名門と呼ばれた家に生まれながら、父の失策一つで没落し、奉公へと売られた自分。
白手袋で磨く銀器も、執事教育の礼法も、すべてが自尊心を傷つけるものにしか思えなかった。
そのとき――
「それ、とても綺麗ね」
不意に背後から聞こえた少女の声に、ユリウスはぴくりと肩を揺らした。
振り返ると、そこには陽だまりのような金髪を揺らす小さな少女が立っていた。
ふわりとしたドレス、透き通る碧眼。
そして何より印象的だったのは、彼女の表情だった。
小さな胸に手を当てるようにして、じっと彼の手元を見つめている。
見下すでも、命令するでも、からかうでもない――ただ、純粋なまなざし。
「指先、すごく丁寧。あなた、器用なのね」
それは子供特有の率直な感想だった。
なのに、その一言は、ユリウスの胸を不思議と打った。
「……あんた、誰にでもそう言うのか」
警戒と苛立ちを隠せない声で問い返す。
だが少女――エリスは、ただ首をかしげて言った。
「? 褒められることをしたら、褒めるのが当然じゃない?」
当然――その一言が、まるで違う世界の言葉のように響いた。
「……誰も、そんなふうに言わなかったよ。ここに来てからも……それどころか、“貴族のくせに”って……」
こぼれそうになった言葉を、ユリウスは途中で飲み込んだ。
だが、エリスは構わず、にこっと微笑んだ。
「でも私はそう思うもの。あなたの拭いたお皿、とても綺麗だったし、私も嬉しかったわ」
「嬉しかった……?」
「ええ。だって、食べるときに綺麗なものが並んでいたら、気持ちも華やぐでしょ?」
どこまでも素直で、優しい言葉。
ユリウスは不意を突かれたように沈黙した。
誰かに“褒められる”ことも、“感謝される”ことも、久しくなかった。
――ああ、この子は“本物”だ。
そう思った。
名門の娘という立場でもなく、媚びでもなく、ただ“自分の心で”見て、言葉をくれる存在。
「……ありがとう」
それが、ユリウスが初めて自分から言った“感謝”の言葉だった。
彼女は小さく首を振った。
「どういたしまして。私はエリス。あなたは?」
「ユリウス……です。今日から、グラン=フィオーレ家で働くことに……なった」
「じゃあ、今日からよろしくね、ユリウス」
エリスは、小さな手を差し出した。
その手を、ユリウスはほんの一瞬ためらって――そっと握った。
そのぬくもりは、彼がこの屋敷で初めて感じた「居場所」だった。
あの出会いから数年。
ユリウスは立派な少年使用人として育っていた。
毎朝の訓練、昼の執務、夜の礼法と筆記の復習――貴族の家に仕える者として、彼は文句一つ言わず身を尽くした。
……いや、違う。
彼女がいたからだ。
あのとき、自分の誇りを肯定してくれた、小さな金髪の少女――エリス。
彼女のためなら、皿を磨くのも、食器を並べるのも、仕えることも、悪くなかった。
ただ、彼女のそばにいて、彼女が笑ってくれればそれで良かった。
だが――
「エリスお嬢様、もう少し背筋を伸ばして」
「笑みは口角だけで。目には感情を出さないように」
「王子殿下の婚約者として、隙のない所作を身につけてください」
王家より通された教育係は、容赦なくエリスを「理想の婚約者」に仕立て上げていく。
まだ十二にも満たない少女に求められたのは、
感情の制御、政略の理解、令嬢としての演技――すなわち“作られた器”だった。
初めは困ったように笑っていたエリスも、やがて違和感を口元にしまい、
鏡に向かって無表情で笑う練習を繰り返すようになる。
「……お嬢様」
ユリウスは彼女を呼び止めたかった。
けれど――
忙しそうにドレスの裾を翻す彼女に、それを告げる資格が自分にあるのか、いつも立ち止まってしまった。
「あなたは、口を出さなくていいわ」
あるとき、ふと漏れたエリスの声は冷たかった。
心からの言葉ではないとわかっていた。
それでも、その一言が胸の奥に突き刺さった。
彼女は、変わったわけじゃない。変わらされているだけだ。
それはわかっていた。
けれど、誰よりも近くにいたユリウスが、何もできずにいることが、歯痒くてたまらなかった。
夜、ベッドに入ってから天井を睨みながら、何度も自問する。
「俺は……執事だ。口出しは、できない」
「でも……このまま、黙って見てるだけなのか……?」
明るく笑ってくれたあの頃のエリスを、
銀器の輝きを褒めてくれたあの少女を、ユリウスは今も忘れていなかった。
だが日々の教育、舞踏会、視察、立ち居振る舞い、そして王家との定期面会――
「王子の婚約者」という名の鉄枷は、エリスを少しずつ、完璧で無機質な“仮面の令嬢”へと変えていく。
ふと、部屋の隅に控えるユリウスと目が合っても――
彼女はもう、あの頃のように笑わない。
「ありがとう、ユリウス。いつも支えてくれてるわね」
口ではそう言うが、どこか遠くにいるような瞳だった。
――それが、いちばん、苦しかった。
**
どうして助けてやれない。
どうして、彼女の孤独に寄り添ってやれない。
彼が彼女のそばにいるのは、“執事”としての役目だからだ。
けれどそれだけでは、もう耐えられなくなっていた。
**
それでも彼は、傍を離れなかった。
その微笑みがどれほど作り物であっても、
彼女の傍にいる限り、いつか本当の笑顔を取り戻せると――どこかで願っていた。
だから彼は、忠義を尽くしながら、ずっと隣に立ち続けていた。
**
それが間違いだと気づくのは、もう少し先――
あの悲劇の夜を迎える、その時までだった。
王都をあげての大舞踏会――
それは煌びやかで、何もかもが夢のような一夜だった。
貴族たちは仮面をつけて踊り、笑い、称え合い、
その夜だけは全ての因習が帳の向こうへと消えた。
そして夜も更け、
グラン=フィオーレ侯爵家の馬車は静かに城門を抜け、帰路につこうとしていた。
エリスは窓辺に寄りかかり、深いため息をつく。
華やかなドレスを纏っていても、その瞳に浮かぶのは疲れと虚しさだけだった。
「……夢みたいね、こんな夜」
「それでも、現実は冷たいもんです」
隣で控えていたのは、まだ十代後半のユリウス。
だがその言葉には、年齢を越えた痛みが滲んでいた。
そのとき――
ヒュッ
小さな風切り音が耳を裂いた。
「――!?」
瞬間、馬車の窓が砕けた。
「伏せろ!!」
ユリウスが叫ぶよりも早く、鋭い刃が座席のクッションを裂いた。
馬が悲鳴のような声を上げて暴れ出す。
御者が叫ぶ声が途切れ、馬車が傾いた。
何者かが、襲ってきた。
「な、なに……!? 誰か、誰か来て――!」
「お嬢様! 下がってろ、絶対に動くな!」
目にも止まらぬ速さで馬車の扉を蹴破り、ユリウスが外へ飛び出した。
舞踏会の帰りとは思えない、夜闇の中の殺気。
その先に――黒装束の男がいた。
短剣を構え、殺意をそのまま刃に乗せたような目。
「グラン=フィオーレの紋章……王子の車列か? それとも――構わん、どちらでも」
男が呟いた次の瞬間、襲撃者は跳ねるように地を蹴った。
「ちっ……!」
ユリウスは咄嗟にナイフを抜いた。
訓練は受けていた。だが、本物の“死”を前にした戦いなど――初めてだった。
それでも。
「俺が……守るって決めたんだ!」
小さな頃、彼女が褒めてくれた。
自分の価値を、初めて認めてくれた。その手のぬくもりだけが、今の自分を繋いでいる。
だからもう、誇りも、恐怖も、どうでもよかった。
「お嬢様は、俺の誇りだ!」
刺客の刃が閃き、ユリウスの肩を裂いた。
鮮血が夜気に散る。それでも彼は立っていた。
地面に転がりながらも、渾身の力でナイフを突き立てる。
「ぐっ……! ガキが……!」
襲撃者が倒れ、呻き声を残して地に伏した。
だが、その瞬間――
「あっ……!」
エリスの声。
振り返った先、別車列にいた――両親の馬車が、爆音と共に燃え上がった。
――ドォンッ!!
夜空が、炎に染まる。
火柱が舞い上がり、まるで地獄の門が開かれたかのようだった。
「……うそ……いや、いや、いや……!」
エリスが馬車を飛び降り、ふらつく足で火の海へ向かおうとする。
「やめろ!! 行っちゃダメだ!!」
ユリウスがその腕を掴んで引き止めた。
「中には……! 父様と母様がっ……! 行かなきゃ、助けなきゃっ……!」
「無理だ!! 見ろよ、もう、もう間に合わねぇ……っ!!」
涙と煤にまみれながら、ユリウスは必死にエリスを抱き止める。
その肩にしがみつきながら、エリスは声を張り裂けんばかりに叫んだ。
「返して……っ!! パパとママを、返してよぉ!!!」
夜風が、静かに吹いた。
燃える音だけが響く中、彼女の悲鳴は夜空に吸い込まれていった。
それが――ふたりの全てを変えた、決定的な夜だった。
燃え盛る火の粉が夜空に舞ったあの夜。
エリスの家は、貴族としての威光も、家族の温もりも、一夜にして奪われた。
その襲撃は、王家にとって不都合な真実だった。
標的は王子・レオナルド――
だが狙われたのは、同じ紋章を掲げていたグラン=フィオーレの馬車。
王家は「手違いによる事故」として事件を葬り、真実に蓋をした。
レオナルドは、責任を恐れた。
表向きの政略結婚はそのまま継続され、彼は“自分だけが無傷であること”を選んだ。
すべてを失ったエリスに、残されたのは――ただ一人の少年執事。
ユリウス=アレクトール。
彼もまた、本来なら貴族の子であり、剣や知識をもって政に立つはずの存在だった。
だが没落し、執事として売られ、そして今――
その立場で、命を賭して彼女を守った。
それが彼の“誇り”だった。
だが、あの夜は終わっていなかった。
──守れなかった。
あの時の自分では、護りきれなかった。
彼女の家も、家族も、笑顔も……何ひとつ、救えなかった。
その悔しさが、骨の奥にまで染みついた。
「……剣を握る」
その夜から、ユリウスは変わった。
執事としての務めに、礼節も忠誠も疑いはなかった。
だが、それだけでは足りないと、身をもって思い知らされた。
「執事であっても、護るためになら、誓いも血も惜しまない」
彼は己を叩き直した。
朝な夕な、剣を振った。
隙あらば書を読み、情報戦の理を学んだ。
毒も、魔術も、手段のすべてを選ばずに習得した。
屋敷の者は「変わった」と言った。
冷たく、鋭く、隙のない人間になったと。
だがエリスだけは知っていた。
その瞳の奥にあるのは、あの夜の灯火――
震える彼女の手を、ぎゅっと握り返した、あの夜の執念と祈りだった。
ユリウスは執事として笑わなくなった。
だがその背に宿るのは、冷たさではない。
誰よりも強く、誰よりも傍で――“ただ一人のために在る”という、絶対の覚悟だった。
そして今、夜の屋敷の一室。
彼は一人、帳の中で剣を磨きながら、ふと窓の外を見やった。
月は雲に隠れ、風が木の枝を揺らしていた。
「……また、ああなるくらいなら」
彼は小さく呟く。
その声は低く、決意の色で染められていた。
「全部、切り捨ててもいい。貴族の誇りも、命すらも……もうどうでもいい。でも――あんただけは、今度こそ俺が守る。何があっても、絶対に」
彼の瞳に、剣の刃が微かに映った。
それは、誓いの証。
そして、静かに目を閉じた彼の胸に、今も残るのは――
あの夜、炎の中でも決して離れなかった、あの小さな手の温もり。
それが彼を、執事以上の存在に変えた。
ただの忠誠では届かないと知ったからこそ、
彼はその手を握り返し続けている。
すべてが終わるその日まで。
その瞳は、かつて何も映していなかった。
生まれてすぐに奴隷商の手に渡り、「価値のある外見」と「従順さ」のみを叩き込まれた日々。
人としてではなく、“商品”として、見た目の整った体と柔らかな物腰を磨かされた。
そして。
「どうせなら、殺せる人形に育てろ」
そんな一言で、フィーネは“暗殺者”となった。
毒、刃、偽装、微笑――
抱き寄せた胸にナイフを隠し、口づけと共に毒を仕込む。
“可憐な愛玩人形”を演じながら、数多の貴族や政敵を沈黙させてきた。
褒美は少しの食事と、また次の「役割」。
名前はなく、番号だけ。
ご主人様は変わっても、命令はひとつ。
「笑って、近づいて、殺せ」
どんなに綺麗なドレスを着せられても、
どんなに優しい声をかけられても、
フィーネの心は凍ったままだった。
目は、すべてを拒んでいた。
光など、そこにはなかった。
けれど――
ある日、ひとつの取引で連れてこられた屋敷。
その主は、“冷酷無比の悪役令嬢”として知られる名家の娘だった。
エリスティア・グラン=フィオーレ。
金色の髪に氷のような微笑を浮かべ、冷ややかな声で言い放った。
「買い取るわ。条件はただ一つ――私にだけ、嘘をつかないこと」
フィーネはそのときも、無感情に膝をついた。
「ご命令を。私は、なんでも致します。毒も刃も、笑顔も」
けれど、次の瞬間だった。
エリスは彼女の顎にそっと手を伸ばし、瞳を覗き込んで言った。
「そうじゃないの。“あなた”が、望むことをするのよ」
その言葉が、意味を成さなかった。
望むこと?
そんなもの、考えたことすらない。
“自由”という言葉を、与えられたことすらなかったのだから。
傍に立っていた執事――漆黒の燕尾服をまとった少年、ユリウスは静かに言った。
「もし逃げるなら、今が最後です。
逃げないなら、この先は“エリスお嬢様の傍”で生きることになる」
それは、命令ではなかった。
まるで、選択肢のようだった。
……生きる?
そのとき初めて、フィーネの胸に、知らない熱が灯った。
その屋敷では、誰もフィーネに刃を向けなかった。
誰も、嘘をつかせなかった。
仕事はメイドとして、主に仕え、笑顔を“作る”のではなく、笑顔を“知る”こと。
エリスは、冷たい仮面を被りながらも、夜には一人で涙を流す少女だった。
ユリウスは、ぶっきらぼうで無愛想ながら、誰よりもその心を守ろうとしていた。
偽りの仮面を被った者たちだけが知る、孤独と優しさ。
フィーネは初めて“人として扱われた”。
その衝撃に、涙の流し方すらわからなかった。
「……私、エリス様にお仕えします」
そう口にした瞬間、
フィーネの中に初めて、“生きたい”という願いが生まれた。
それ以来。
彼女は、メイドとして、スパイとして、時に毒を嗅ぎ分け、時に媚びて情報を奪い、けれどいつも心は――エリスとユリウスの傍にあると信じていた。
その微笑みの裏にあるのは、かつての“空虚”ではない。
救われた命への忠義と、手を取ってくれた人たちへの、限りない想いだった。
それは、ほんのわずかな隙だった。
エリスとフィーネは、舞踏会の帰りに立ち寄った小さな書店から出たところだった。
ユリウスは屋敷への急用で一足先に離れていた。
視界が歪むような違和感のあと――
「……なに、これ……身体が……動か、な……」
フィーネは目を見開いたまま、その場に膝をついた。
エリスも同様に、身体に力が入らないまま意識が闇に沈んでいく。
◆
冷たい空気が肌を刺していた。
二人が目を覚ましたのは、薄暗い倉庫のような場所。
天井は低く、壁には古びた鎖と鉄格子。薬の残り香が鼻を刺した。
「……ここは……」
エリスがかすかに声を出し、フィーネは彼女の体を抱き起こす。
だが、身体は重く、指先の震えが止まらない。
完全に回復しているわけではない。毒ではなく、何らかの拘束薬――
動けないようにするための、厄介な“道具”。
そのとき、隣の部屋からくぐもった声が聞こえてきた。
「――二人とも高値がつく。まさか本物の“悪役令嬢”様とはな……」
「白い髪の方は……あれは顔がいい、殺しもできるらしい。
今夜、奴隷商が買いに来るそうだ。手間が省ける」
フィーネの背筋が凍る。
――まただ。
また、自分は「品物」として売られるのか。
今度は、エリスまで巻き込んで。
これまで幾度も暗殺に手を染め、微笑の裏で命を刈り取ってきた自分が、
こんなふうに、無様に、ただ連れ去られ、ひとつも守れない。
「……こんな、はずじゃなかった……」
フィーネは肩を震わせ、膝を抱えた。
かつてなら、この程度の状況、容易く打開できていたはずだ。
毒も、刃も、策略も、媚びさえも使って。
でも、今の自分には――
そのとき。
「フィーネ」
そっと、手が彼女の頬に触れた。
見ると、エリスが微笑んでいた。
静かで、優しく、哀しいほどの――覚悟の表情で。
「……あなたは、光の中で生きて」
「……っ、何、を……言ってるの……?」
「私は、誰かの盾として、生きるために生まれたわ。でも、あなたは違う。光に触れてしまったの。だから……」
エリスの言葉に、フィーネは顔を歪めた。
「やめて……そんな言い方、やめてよ……っ!私は……私はただ……!あなたの手を取って、やっと、“生きたい”って……思えたのに……!」
涙が、初めて溢れた。
冷酷な仮面を被り続けた彼女の瞳から、温もりある雫が零れ落ちる。
「私は……あなたに、救われたの……なのに……」
「だったら、今度はあなたが生きて。……私の代わりに、誰かを救って」
その瞬間、遠くで鉄扉の軋む音が響いた。
誰かが近づいてくる。
時間はもう、ない。
フィーネは、エリスの言葉に縋るように首を振った。
「やだ……嫌だよ……私は……もう誰も置いていきたくない……」
だけど、エリスは微笑んだままだった。
それはまるで、かつて彼女がフィーネに差し伸べた、あの最初の「手」のようだった。
――今度は、光へ向かうための、最後の手だった。
「この子だけでも上物だ。傷つけすぎんなよ」
「へへ、嬢ちゃん、いい声で泣いてくれよ?」
エリスは無理やり立たされ、薄暗い倉庫の奥――
粗末な鉄枠の檻のような空間へと引きずられていく。
フィーネの手は、まだ痺れていた。
足も動かない。
目の前が霞み、指の先の感覚さえ曖昧だった。
だが――その耳は、聞き逃さなかった。
「やめて……っ、離して……っ!」
エリスのか細い声。
気丈な彼女が、必死に耐えている声。
「……やめて……お願い……っ!」
フィーネの中で何かが音を立てて弾けた。
ナイフの刃を、自分の太ももに突き立てた。
「っぐ……!」
脳を突き抜ける痛みが、全身に電流のように走る。
だが、その痛みが彼女を目覚めさせる。
かつて繰り返された「薬を盛られて殺しを命じられた日々」。
体が効かなくても、意識さえ戻れば「本能」で殺れる――それは、訓練という名の地獄で覚えた術だった。
「……立って、動け、殺れ」
自分の中の“道具”の記憶を引きずり出しながら、
フィーネはゆっくりと立ち上がった。
笑え。呼吸を殺せ。
声帯を閉じ、足音を断て。
「――私は、エリス様を護るって決めたの」
自分の意思で。
音もなく、風もなく。
殺気すら抑えて、フィーネは歩き出す。
影よりも静かに、倉庫の奥へ。
◆
「ひっ……離しなさい、私は……!」
鉄枠の奥、エリスは男たちに囲まれていた。
片方の腕を押さえつけられ、衣服に手をかけられる――
その瞬間。
「……っ」
何かが、男の首から噴き出した。
「あ、あ、ぐ……」
呻いた男がその場で崩れ落ちる。
視界の奥、立っていたのは――血飛沫を浴びたフィーネだった。
「なっ、てめぇ! いつの間に――」
もう一人の男が咄嗟に剣を抜く。だが、その動きは遅すぎた。
フィーネの姿がぶれたかと思えば、視界から消える。
「がッ――!?」
男の喉が裂かれる。声も悲鳴もない。
ただ、綺麗に血が咲いたように飛び散った。
無駄な動き一つない、滑るような暗殺術。
“奴隷”として、“道具”として仕込まれたそれを、
彼女は今――自らの意思で解き放っていた。
エリスを傷つけさせないために。
大切な人を、守るために。
それはこれまでの“命令された殺し”ではない。
心から湧き上がる、「願い」の刃だった。
◆
全てが終わった時、倉庫には沈黙が戻っていた。
「……フィーネ……」
震えるエリスに、フィーネは膝をついて目線を合わせる。
「もう、大丈夫です。……間に合って、よかった」
震える手で、乱れた衣服を直しながらエリスが口を開く。
「どうして、動けたの……薬が……効いてたはず、なのに……」
「――“生きたい”って思ったんです。あなたと、ちゃんと」
かつて光の差さなかった瞳が、今はまっすぐに彼女を見ていた。
「誰かに命じられてじゃなくて、自分で選んだんです。あなたと……生きるって」
その言葉に、エリスの頬を涙が伝う。
フィーネは微笑みながら、その頬に触れた。
「……だから、何があっても。もう、あなたの前で“ただの道具”には戻らないって、決めましたから」
薄暗い倉庫の中で、二人だけの灯が灯る。
それは、決して折れない、初めて手にした“絆”だった。
燃えるような夕陽が、監禁されていた倉庫を朱に染めていた。
瓦礫と血の匂いが残るその場所から、エリスとフィーネはようやく外に出た。
「……大丈夫、歩けますか?」
フィーネは片腕でエリスの体を支えながら、泥と血に塗れた足を一歩ずつ進める。
その細い肩に、気高い令嬢の体重は決して軽くない。
だがフィーネは一言の弱音も吐かなかった。
そのとき――
「……お嬢様ッ!!」
木立の間から駆けてきたのは、漆黒の燕尾服を纏った男――ユリウスだった。
「ユリウス……!」
「遅れて、申し訳ありませんッ!」
彼は地に膝をつき、すぐさまエリスの傷と様子を確認する。
その目には、執事の仮面を越えた焦燥と安堵が浮かんでいた。
「……お嬢様は、無事です。ですが、この件は……」
「ええ。どうせ、また“なかったこと”にされるだろう」
ユリウスが、少し皮肉を込めて呟いた。
事実――王家は今回も沈黙した。
襲撃犯は“盗賊”とされ、奴隷売買の線も消され、すべてが記録から消えた。
“王家の瑕疵”が露呈しては困る――
それが、この国の常識だった。
■
その夜。
エリスは疲労と薬の影響から深い眠りについていた。
広い屋敷のテラス、風が冷たいが、空気は澄んでいる。
ランプの灯火に照らされながら、ユリウスとフィーネが静かに並んで座っていた。
「……ありがとう」
ユリウスが不器用に言った。
「俺が間に合わなかった。その分まで……あんたが、守ってくれた」
「……“あんた”って呼び方、変わらないですね。ま、いいですけど」
フィーネは肩をすくめながら、ランプの灯に目を細めた。
「でも、私は別に……誰かに言われたわけじゃないんです。
あのとき、ただ……エリス様が泣くのが、嫌だった。
あの人の“冷たい仮面”が、壊れてしまうのが、耐えられなかった」
「……ああ。俺も、そうだった」
ユリウスは空を仰ぎ見て、小さく息を吐いた。
「家を失って、すべてが灰色に見えたとき。
あの人だけが、俺の手を取ってくれた。……あの小さな指が、今でも焼き付いて離れない」
フィーネはその言葉を聞いて、ふと視線を落とす。
「出会い方も、立場も違うけど。想いは……同じですね」
「同じだ」
二人の視線が重なった。
その間に交わされる言葉はない。
だが確かに、通じるものがあった。
「……だから、守る」
ユリウスがぽつりと呟く。
「何があっても、誰に裏切られても。
あの人だけは、俺が、俺たちが――守り抜く」
「ええ。過去に誰かに操られてきた私も、
今度は自分の意思で、誰かを守る側になる」
「“悪役令嬢”なんて呼ばれても構わない。
あの人が貫こうとする生き方を、俺たちは支えるだけだ」
「……ふふ、まったく。執事とメイドが、そろって命がけなんて」
「……馬鹿だな、俺たち」
「ええ、ほんとに」
二人は、互いに苦笑し合った。
そして再び、屋敷の灯の下へ――
眠るエリスの元へと、静かに戻っていく。
その背中はもう、“従者”ではなかった。
それは、一人の少女を――
誰よりも美しく、誰よりも強く在ろうとするその人を、
命にかえてでも支えたいと願った、二人の“誓いの騎士”の姿だった。
夢のなかで、エリスは笑っていた。
父の膝の上、母の手の中。暖かな陽だまりの中で、花咲く庭に響く笑い声――
あれは、確かに自分が愛されていた日々。何ひとつ恐れることもなく、
何も守らなくてよかった頃の、かけがえのない記憶。
「お父様、もう一回、あれやって!」
「仕方ないな、エリスは甘え上手だなぁ」
優しい笑い声が胸をくすぐり、母がその横で微笑む。
なにもかもが、まぶしくて、愛おしい。
やがて景色が流れ、場面が変わる。
──銀器を磨く少年。つんと尖った視線の先にいた、あのぶっきらぼうな少年・ユリウス。
「……あんた、誰にでもそう言うのか?」
「いいことをしたら褒めるのが当たり前でしょう?」
最初に、真正面から彼に言葉をかけた日の記憶。
冷たくも真面目なその瞳は、どこか頑なで、そして誰よりも繊細だった。
次に現れたのは、牢のような暗がりの中で震えていた銀髪の少女のような男の娘。
まだ名も知らぬ彼女の前に立ち、言葉をかけたあの日。
仮面をつけるように言葉を整えた自分にさえ、彼女は救いのように微笑み返してくれた。
フィーネ。
――愛くるしく、けれど誰よりも深い闇を抱えていた少女。
やがて、仮面が顔に張り付いてしまった日々。
レオナルドとの婚約、策略、体裁、振る舞い。
心を凍らせてでも、家を守らねばならなかった。
それでも。
彼女の隣には、あのぶっきらぼうなユリウスが。
その背中を支えるように、笑顔のフィーネがいた。
そして今――
夢はまるで現かのように鮮やかに、三人の現在を映し出していた。
広い庭園の先、木漏れ日の下に立つふたり。
ユリウスは少し顔をしかめたように、口数少なく何かを話している。
フィーネはくすくすと笑いながら、それに応えている。
そこには、確かに“今”があった。
三人で過ごす、日々の温もりがあった。
エリスは思わず、駆け出す。ふたりのもとへ行こうとして。
けれど、何歩進んでも――距離は縮まらない。
「……!」
足は動いているはずなのに、届かない。
どれだけ手を伸ばしても、指先が空をかくばかり。
ふたりは微笑んだまま、こちらを見ない。
「ユリウス……フィーネ……!」
呼びかけても、声は届かない。
わかっていた。
この日々が永遠ではないことも。
誰かのもとに嫁ぐ日が、いずれ来ることも。
誰かが傷つき、離れてしまう日が来るかもしれないということも。
――“終わり”があることを、エリスはずっと前から知っていた。
それでも、願ってしまった。
この夢のような時間が、もう少しだけ、続いてくれたらと。
ふたりの笑顔を、もう少しだけ、自分のそばにとどめておけたらと。
けれど夢は夢。
光が揺れ、世界が崩れ始める。
そのとき――
「お嬢様。……戻る時間です」
どこかで聞いた声が、微かに届いた。
遠くにいたはずのユリウスが、こちらへと手を差し伸べていた。
その隣で、フィーネがいつものようににこにこと微笑んでいる。
――夢の中の距離が、ほんの一瞬だけ、縮まった気がした。
エリスはそっと手を伸ばし――そして、目を覚ました。
ベッドの天蓋の隙間から差す朝の光。
まだ残る温もりの余韻のなかで、彼女は小さく息を吐いた。
そして、胸にそっと手を置く。
「……大丈夫。まだ……今は、ここにいられる」
それは、まるで自分に言い聞かせるような、静かな祈りだった。