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第二章 甘さと殺気と忠誠と

数日後。

中央王都アルセレインにある、王宮直属の大社交会会場――《白銀の円舞館》。

その入口には、真紅の絨毯が敷かれ、煌びやかな灯りが宵の空を染めていた。


「これが……」


私、エリスティア・グラン=フィオーレは、馬車を降りながらその壮麗な景色に一瞬、息を呑む。


かつて、この場所に何度も立ったことがある。

王子の婚約者として、社交界の表舞台にいた時代。

だが今は――違う。


私は一人の元・悪役令嬢として、そして己の意思で立っている。

円舞館の大理石の床に、エリスのヒールが優雅に音を響かせる。


彼女の隣を歩くのは、漆黒の燕尾服に身を包んだ執事――ユリウス。

その姿は、単なる護衛や付き人ではなく、**“エスコート役”**としての完璧な振る舞いを纏っていた。


会場に集う貴族たちの間で、エスコートとして男性と現れることは、ある意味で強い意志の表明でもある。


その視線をものともせず、ユリウスはエリスにひざを軽く折って手を差し出す。


「エスコートを、光栄に思います。……お嬢様」


「……ええ。よろしくね、ユリウス」


そして、その二歩後ろには、白銀の髪を夜空のような濃紺のドレスに包んだ少年――フィーネが静かに従っていた。


そのドレスはまるで影のように控えめで、シンプルなシルエットに刺繍すら最小限。

けれど、それゆえに、エリスの宝石をちりばめた深紅のドレスが一層映えて見えるよう計算された“従者の美学”だった。


「……今日の主役はエリス様ですからね♡ わたくしの存在なんて、影で十分です」


舞踏会の幕が上がると同時に、社交界の“獣たち”は牙を研ぎはじめる。


華やかに着飾った令嬢たちが、シャンデリアの光の下で笑い合い、

その裏では、誰よりも強い光を放つ“あの女”に視線が集中していた。


──エリスティア・グラン=フィオーレ。


悪役令嬢として振る舞っていた頃の気配はもうそこにはなく、

彼女はまるで、闇夜に咲く紅い薔薇のように気高く、美しかった。


「ずいぶん変わったわね、あの方……」

「以前のようなトゲトゲしさが消えて、なんというか……洗練されてる?」


「でも“元婚約者”でしょう? もう捨てられた身よ」

「この場に舞い戻るなんて、痛々しいわ♡」


──そんな声が、あちこちでささやかれる。


それらを浴びながらも、エリスはまったく動じなかった。

ユリウスが静かに隣に立ち、

フィーネが半歩後ろからついているその姿だけで、周囲の空気は妙な緊張感を帯びる。


「……気配が悪いですね。“見せしめ”に呼ばれたつもりなんでしょうか」


フィーネが低く呟く。


「問題ない。お嬢様が立っている限り、誰にも指一本触れさせない」


ユリウスの声は静かで、それでいて刃のように鋭い。


周囲に集まる令嬢たちの中には、“悪役令嬢”として知られていた者たちもちらほら見えた。

かつてエリスの後に続くように王子を追っていた連中。

今はレオナルドに切られ、新たな地位を求めてアメリアに媚びている者ばかり。


そんな中、再び空気がざわつく。


──王子・レオナルドの登場だった。


「ふん、見違えたな。まるで、かつての君とは別人のようだ」


皮肉を滲ませながらも、軽い口調でエリスの元へ近づく。


だがその瞬間、ユリウスとフィーネが、無言で前に半歩出た。


ユリウスの瞳は鋼のように冷たく、

フィーネの笑顔は、逆に一切の感情を読み取れぬ不気味さを帯びていた。


──ピリ、と空気が張り詰める。


レオナルドの額に、汗が一筋流れる。

脳裏に――**先日の“教育”**の一部始終が、勝手に再生された。


(あの映像……! いや、違う、今は周囲の目が……だがこの二人は本気で……)


「……ふ、ふん。今日は舞踏会だ。場を乱すような真似はするなよ」


明らかに声の調子を崩しながら、

レオナルドは何も言えぬまま、そそくさとその場を後にした。


その背に向け、フィーネはにっこりと手を振る。


「お元気そうで、何よりです♡」


そして、そのすぐあと。


「まあ……これはこれは。

本日はご来場いただき、ありがとうございます、エリスティア様」


――柔らかく響く声。

レオナルドとはまるで対照的に、完璧な所作と美しい笑顔で現れたのは、


アメリア・セレノア=クレイン。


金糸の巻き髪を揺らし、純白と桃色のドレスに身を包んだ少女は、

まさしく“純真無垢な侯爵令嬢”の理想像そのものだった。


「まさか、招待を受けてくださるとは思いませんでしたわ。でも本当によかった。……こうして、またお話しできる機会があって」


エリスは、その笑顔をじっと見つめながら、静かに口を開いた。


「ええ。お招きいただき、感謝しています、アメリア嬢」


アメリアの微笑みは、崩れない。

だが、その奥にある――「何か」を、エリスは確かに感じ取っていた。


(これは、挑戦状。……とても丁寧な“宣戦布告”だわ)


社交会は、夜の深まりとともに華やかさを増していく。

絹の裾がすれる音と、上品に抑えられた笑い声。

そして、王宮仕込みの楽師が奏でる優雅なワルツが、空間を満たしていた。


エリスは、ユリウスのエスコートのもとで数人の貴族と短く挨拶を交わしていたが、

その視線のほとんどが“探るような興味”に満ちていることに気づいていた。


(皆、様子を見ているのね。私が――“また悪役令嬢になるか”どうか)


そんな中、再びアメリアが現れた。

今度は、仮面舞踏の開幕を告げる案内役として、中央の舞台に立っていた。


「皆様、本日はご参集ありがとうございますわ。

今宵は、わたくしアメリア・セレノア=クレインの主催による、特別な余興をご用意しております♡」


軽やかに笑う彼女の後ろで、数人の侍女が大きな銀盆を運んでくる。


その中には――仮面が並んでいた。


「今から始まる舞踏は、“匿名”で楽しんでいただきますの。

仮面をつけていただき、お互いの素性を知らぬまま、舞を交わすのです」


「仮面舞踏会、ですか?」

エリスが訊ねると、アメリアは優しく微笑んだ。


「ええ。もちろん、すべての仮面には“番号”がついておりますから、無作為に振り分けられます。

――わたくしのような者でも、どなたと踊れるかわからない。とても公平でしょう?」


(公平、ね……)


だが、エリスの胸に、微かな違和感が残った。


そして案の定――


「おや……」


フィーネが盆を見て、眉をひそめる。


「お嬢様に渡された仮面だけ、妙に装飾が派手ですわね。しかも、番号“13”……」


「はっきりと“目立つ番号”だな」

ユリウスも低く言う。


盆の上に整然と並ぶ中で、エリスに差し出された仮面だけが、赤と金で豪奢に飾られていた。

まるで、注目を集めるために作られたかのように。


(つまり、あえて目立つ仮面をつけさせて、私を笑いものにするつもり……?)


舞踏会で仮面をつけるということは、仮面の“演じる役割”を引き受けるという意味でもある。

悪役然とした派手な仮面――かつてのエリスを想起させるようなものを、皆の前で着けさせれば、

「やっぱりあの女は滑稽だ」と、印象付けることができる。


アメリアの笑顔は、ひたすらに無垢で、邪気がなかった。


「お似合いですわ、エリスティア様。今のあなたに、ふさわしい仮面ですもの」


その言葉に、周囲の令嬢たちがくすくすと笑い声を漏らす。


フィーネが、すっとエリスに近づき、小声で囁く。


「どうなさいますか?ここで断れば“空気が読めない悪役”の再演ですし、受ければ――」


「……受けましょう」


エリスは仮面を手に取り、口元に微笑を浮かべた。


「その上で、“演じるべき役割”を選ぶのは――私よ」


フィーネとユリウスが目を見開く。


そして次の瞬間、エリスは堂々と仮面を顔にあてがい、

静かに一礼して、舞踏の列へと加わった。


仮面の奥から、彼女の視線が鋭く光った。


(なら、仮面を使ってみせましょう。あなたたちが恐れる“本当の悪役”を)


舞踏会が始まると同時に、ホールの空気は一変した。


男女ともに仮面をつけ、正装のまま静かに手を取り、ワルツの調べに合わせて舞い始める。

仮面越しに視線を交わしながらも、誰が誰なのか――あえて明かさない幻想の世界。

だが、それは同時に、匿名性を利用した“意図的な演出”も可能な空間だった。


エリスのつけた仮面は、やはり目立っていた。


金と深紅の組み合わせ、繊細なレースと宝石をあしらった仮面。

まるで「主役です」と言わんばかりの華やかさ。

そして、彼女に向けられる視線は――冷笑、探る目、そして羨望。


「まるで、昔に戻ったみたいですわね」


仮面越しに、ひとりの令嬢がエリスに声をかけた。

声色は柔らかいが、侮りと軽蔑が混じっていた。


「きっとまた、王子様にすがりに来たと思われてますわ。まあ……哀れ♡」


エリスは黙って微笑む。

気にしていない素振りを通すことで、相手の“狙い”を無効化する。


(私が動揺するのを、待っている)


彼女は気づいていた。

この舞踏会全体が、「罠」だと。


エリスに派手な仮面を与えたのも、最初のダンスの相手に“あえて冷淡な男”を用意したのも、

すべて――アメリアの“演出”だった。


(でも、そんな薄っぺらな策略、通用しないわ)


──音楽が変わる。


次の舞が始まり、男女が再び組み直す時間。

その瞬間――


「失礼、パートナーになってもよろしいですか?」


背後から、低く心地よい声がかけられた。


振り向くと、そこには漆黒の仮面をつけた一人の男性がいた。

燕尾服、礼節ある所作、そして――仮面越しでもわかる、強く鋭い琥珀の瞳。


「ユリウス……?」


「仮面舞踏ですので、素性は伏せておくのが礼儀です」


低く囁く声には、かすかな微笑すら感じさせる。

エリスは口元を緩めると、そっと手を差し出した。


「それでは、紳士殿。よろしくお願いしますわ」


ホールの中央で二人が舞い始めると、

まるでそこだけが別世界のように、優美で、完璧な調和が生まれる。


──周囲の視線が変わった。


侮りから、驚き、そして明確な警戒へ。


(誰……? あの男……? 王家筋?)

(いや、あの舞は並の貴族じゃない……)


舞の最中、ユリウスが静かに囁いた。


「視線は私に集めておきます。お嬢様は、仮面の下で“余裕の笑み”を絶やさずに」


「……ええ、頼もしいわね」


舞が終わると同時に、今度は別方向からフィーネが近づいてきた。


「お次はわたしと踊っていただけますか、お嬢様♡」


「貴女が誘う側なのね……」


「仮面舞踏ですから♡ 身分も、立場も、すべてが“仮面”のもとでは等しく踊る。つまり、わたしとエリス様は“対等”ということで♡」


フィーネとエリスが踊る様子に、周囲はさらにざわつく。


(あれは男……? いや、少女? どちら……?)

(あの動き、護衛? 貴族の隠し子?)


そして、静かにざわつく空気の中――

ふたたび、主催者であるアメリアが中央へと歩み出た。


「まあ、素敵な舞をなさっておられましたわね、エリスティア様」


「お褒めに預かり光栄です。……ですが、少し驚きました」


「何が、でしょう?」


エリスは仮面越しに視線を合わせ、口元にほほ笑みを浮かべる。


「仮面舞踏とはいえ、こうして“私だけを目立たせるような仮面”をお選びくださるとは。ずいぶんと、私のことを気にかけてくださっているのですね。……嬉しいですわ」


アメリアの笑顔が、わずかに引きつる。


(かわすつもりね。私の仕掛けを)


だが、エリスはさらに一歩踏み込む。


「そしてこうして、貴族令嬢や御子息方がそろって私を見に来ているということは――私の存在が、もう一度注目を集めているということ。“今の私”に」


アメリアは言葉を返さなかった。

その沈黙の中で、楽師たちが次の舞曲を奏で始める。

“仮面の下で踊る者”は、もはやエリスのほうだった。

アメリアの仕掛けた仮面舞踏会は、エリスを再び“舞台の中心”へと引き戻すことになったのだ。


仮面舞踏が終盤へと向かう頃――

一瞬の静寂が、会場に満ちた。

楽師たちの演奏が止まり、アメリアが手を軽く上げる。


「さて。最後に、ささやかな余興をご用意しておりますの」


彼女は柔らかに微笑みながら、ゆっくりと手を鳴らす。

その合図に呼応して、一人の男がホールの奥から現れた。


細身の体格に、貴族風の装束。年齢は二十代半ば。

場違いなほど鋭い目をしていた。


「皆様ご存知でしょうか。こちらは、元グラン=フィオーレ家に仕えていた、かつての書記官。エリスティア様の……過去を、よくご存知の方ですわ」


ざわめきが走る。


「なっ……!?」


フィーネが眉をひそめた。

ユリウスも険しい目で男を見据える。


(“仕えていた者”を使って、過去の暴露劇……! 下衆な手ね)


だがエリスは、まったく動じなかった。

仮面を外すことなく、ただ静かにその男を見つめている。

男は、ゆっくりと口を開いた。


「グラン=フィオーレ家令嬢、エリスティア様は……かつて侍女に対して理不尽な叱責を繰り返し、使用人泣かせとして、貴族間では有名でした」


「ほら……やっぱり」

「昔の悪役令嬢そのものじゃないの」


ざわざわと空気が揺らぎ始める。


だが、次の瞬間――その空気を断ち切るように、


「その侍女……今、リゼルって名前で結婚して幸せに暮らしてますよ?」


フィーネが、にこりと微笑んだ。


「あなたが嘘をつくとき、目が泳ぐ癖、まだ直っていませんね。それに……この会場に来る前、なぜ娼館街に寄ってから来たんですか?」


「な、なんだと……!」


「さっきまでお連れだった“赤毛の女性”……あれ、貴族に口を売る密告業者ですよね。証拠あります。どうぞ♡」


フィーネが出したのは、またしても小型の魔導記録装置。

映し出されたのは、男が事前に受け取った金銭と、“吹き込まれている様子”。


「この男は、捏造の情報をもとに“過去の記憶を歪ませて”話しているだけです。ちなみにこの仕込み、主催者の了承もなく進められたそうで」


アメリアの表情が凍った。


「……っ、これは……! 私は……!」


「ええ、あなたは“何も知らなかった”。そういうことにしてあげます」


フィーネは無邪気な笑顔で言いながら、装置をしまい、男の肩に手を置く。


「さて、この方には今後、“教育”の機会を設ける必要がありそうですね♡」


フィーネがにっこりと笑いながら、男に一歩近づく。

その瞳に宿るのは、氷のように澄んだ“静かな怒り”。


「な、なんだ……離せ……!」


「だめですよ。ここでお別れするには、あなたはまだ“学ぶべきこと”が多すぎますから」


そう言って、フィーネは男の手首を取った。

細い腕のはずなのに、男はまるで逃げ出せない。

足がすくんでいた。いや、本能が「逃げるな」と叫んでいた。


「“教育の場”は整えてあります。だいじょうぶ――必要以上のことは、しません。あくまで、“必要なだけ”です♡」


「ひっ……や、やめ──!」


「ほら、騒がない。貴族の端くれでしょう?みっともないですよ、こんな所で足を震わせて」


フィーネが無邪気な声で囁き、男を連れて歩き出す。

周囲の貴族たちは道を開け、誰も何も言えなかった。


仮面舞踏会の美しい旋律の余韻の中、

その場に残されたのは、深く冷たい“恐怖”の感覚だけ。


男は振り返る。誰か助けてくれと目で訴える。

だが――

誰一人として、彼に手を伸ばす者はいなかった。


(終わった……)


そう思ったそのとき、フィーネがふと立ち止まり、男に最後の言葉をかけた。


「ちなみにですが……“お嬢様”に嘘をついた者は、過去にどれだけ後悔したか……知っていますよね?」


男の顔から血の気が引いた。

そのまま、フィーネに連れられて会場の扉の奥へと、静かに消えていった。


扉が閉まると同時に、ホールの空気が凍りつく。

今度は、誰もエリスを嘲る者はいなかった。

やがて、エリスが仮面を静かに外した。


「かつての私の行いが、すべて清廉だったとは言いません。けれど、過去の私と今の私は、違う。そして――今の私には、嘘を暴いてくれる仲間がいます」


その言葉に、誰もが黙った。


「……本日は素敵な舞踏会をありがとうございました、アメリア様。では、おいとまいたしますわ」


エリスは静かにそう言い、舞踏会場をあとにした。

その背中は、仮面も飾りもなく、それでも誰よりも美しかった。


舞踏会場の重厚な扉が、音を立てて閉じた。

その余韻の中、フィーネは“教育”のために男を連れたまま、まだ戻ってこない。


「……フィーネは、たぶん時間がかかる」


ユリウスはエリスの隣に立ち、そっと腕を差し出す。


「先に帰るぞ、お嬢様」


少しぶっきらぼうな言い方だったが、手は丁寧だった。

エリスは小さく頷きながらも、ふと寂しげに目を伏せる。


「……ええ。そうね、帰りましょう」


街灯が石畳にぼんやりと影を落とす夜道を、

馬車は静かに揺れながら進んでいく。


暖かなランプの光が灯る車内で、ユリウスは窓の外を見ながら、

時折ちらりとエリスの様子を横目でうかがっていた。


やがてぽつりと呟く。


「……無理しすぎなんだよ、お前は」


その声は低くて、少しだけ怒っているようにも聞こえた。


エリスはむっとして、口を尖らせる。


「そんな言い方しなくてもいいじゃない。私は……ちゃんとできたと思ってるわよ?」


「そういうとこだ」


ユリウスは腕を組み、ついと目を逸らす。


「誰かに見せるために背筋伸ばして、自分の限界も無視して……そうやって一人で背負いこむのは、バカのやることだ」


「なによ、それ……私のこと、バカって言いたいの?」


「ちがう。お前は立派だ。だから余計に、心配なんだよ」


その言葉には、飾り気のないまっすぐな想いが込められていた。

エリスは目を丸くして、次いで少しだけ目を伏せる。


「……素直じゃないんだから」


「お前にだけは言われたくないな」


そう返しながらも、ユリウスの口元にはわずかに笑みが浮かぶ。


「今日のあんたは、誰が見ても見事だった。気高くて、美しくて……他の連中が値踏みなんかしてるのが、くだらなく思えたくらいだ」


「……それ、執事としての感想?」


エリスの視線が、ユリウスを試すように向けられる。

ユリウスは少しだけ黙って、目を細めた。


「ああ。執事として、お前を誇りに思ってる。……でもまあ、もし俺が執事じゃなかったら──」


少し間を置いて、ぼそりと続ける。


「……間違いなく見とれてたと思う」


「……!」


エリスの頬が、ふわっと赤く染まる。

ユリウスはそれ以上何も言わず、窓の外に目を戻した。

その背中からは、少しだけ照れくささが滲んでいるようだった。


「もうすぐ着く。今夜はゆっくり休め。……頑張ったんだからな」


「……うん」


それは恋の言葉じゃない。

けれど、誰よりも近くで見守ってくれる“唯一の理解者”の声だった。


馬車の揺れが、ふたりの静けさを包み込む。

その夜、ふたりの間に流れていたのは、

言葉にできないほど穏やかで、確かな“絆”だった。


屋敷の門をくぐると、玄関先に見慣れた銀髪が立っていた。


「おかえりなさいませ、お嬢様♡」


満面の笑顔でお辞儀をするフィーネ。

ひとつも乱れのないメイド服、疲れの気配もなく、ぴたりと背筋を伸ばしていた。


「え……? フィーネ? どうして、もう……?」


エリスは思わず立ち止まり、眉をひそめる。

馬車では自分たちのほうが先に出てきたはず。

“教育”とやらに時間がかかってもおかしくないのに、なぜ。


「あの男の“授業”はすぐ終わりましたから」

フィーネは、にっこり笑ったまま謎の回答をする。


(……どんな授業よ)


ツッコミたい気持ちを押し込めていると、ユリウスが隣であくまで当然といった様子で口を開いた。


「フィーネ、エリスの着替えを頼む。ドレスのままだと体が冷える」


「はい、ユリウス様♡ お任せください」


「いや、ちょっと待って、私の意志は──」


言いかける前に、すでにフィーネがエリスの手を取っていた。


「さあ、お嬢様。お着換えしましょうね♡」


「あっ、ちょっ、だから私はまだ──」


気づけば、半ば流れるような所作で廊下を引っ張られ、

いつの間にか自室の前に立たされていた。


(……毎回思うけど、どこにこの力が……)


扉の向こうに入ると、すでに湯気が立ち上るお湯と、寝間着が用意されている。

完全に“段取り済み”だった。


フィーネは変わらぬ笑顔で、手際よくドレスのホックを外し始める。


「ねえ、フィーネ。さっきの男……ちゃんと“教育”したって、どういう意味?」


「はい、ちゃんとお教えしておきました♡」

いつも通りの調子で、まるで紅茶の銘柄でも語るような声。


「どんなに育ちがよくても、“女性に対する礼儀”を知らないならば、

お尻を叩いてでも教えるのがメイドの使命です♪」


(こわ……)


フィーネの笑顔の奥に、何か凍てつくようなものが見えた気がした。

だがそれも一瞬、すぐに柔らかく甘い声に戻る。


「それよりも、お嬢様? 私、頑張ったご褒美がほしいです♡」


そう言って、フィーネはひらりと膝をつき、エリスの手をとって頬にすり寄せる。


「ね? 褒めてください……いつも以上に、特別な言葉で……♡」


「ちょ、ちょっとフィーネ……!?」


あまりに距離が近すぎる。

上目遣い、ほんのり上気した頬、うっすら香るバニラのような香水。


(この子、本当は“男の娘”なのよね……? いや、そもそも年齢も不明じゃ……)


「お、お風呂……先に入ってくるから!」

思わずエリスは立ち上がり、タオルを掴んで逃げるように浴室へ向かう。


その背中に、フィーネのくすくすと笑う声が追いかけてきた。


「ふふふっ……ご褒美は、あとでゆっくりでもかまいませんよ?♡」


(絶対、かまう気満々でしょ……!)


胸の奥がざわついていた。

フィーネの性別も、年齢も、正体も――

わからないことだらけなのに、どうしてこんなにドキドキしてるのか。


戸惑いながら浴室の扉を閉めたエリスの頬は、ほんのりと赤く染まっていた。


屋敷の灯りがすべて落ちた、深夜。

静まり返った回廊に、ひとつだけ魔石灯がともっている。

その薄明かりの下、ふたつの影がテラスに佇んでいた。


一人は、背筋を正して立つ黒燕尾服の執事――ユリウス。

もう一人は、銀髪を夜風に揺らす男の娘のメイド――フィーネ。


「……で、どうだった。教育の成果は」


先に口を開いたのはユリウス。

腕を組み、ぶっきらぼうな声で尋ねる。


「ふふっ、ばっちりです♡」


フィーネはいつも通りの笑顔でくるりと回り、スカートをひらりと揺らす。


「今後あの方が、お嬢様にうっかり舌を滑らせることは……きっと、なくなりますよ」


「……殺してないよな?」


「そんな野蛮な真似、いたしません♪」


フィーネは指を口元に当てて、いたずらっぽくウインクする。


「ただ、ちょーっぴり、恐怖と羞恥とトラウマと羞恥と羞恥と羞恥を詰め込んだだけです」


「お前、羞恥押しすぎだろ」


「重要なことなので♡」


ユリウスは小さくため息をつきながらも、どこか満足げに目を細める。


「……お前がいてくれて助かる。今日の舞踏会は、いろんな意味で分水嶺だった」


「うふふ、嬉しいです。でも、あなたが横にいてくれたからこそですよ。ユリウス様、ほんっとうに“かっこよかった”です♡」


「茶化すな」


「照れてる?」


「照れてねぇ」


やや赤みを帯びた頬を隠すように、ユリウスは夜空を仰いだ。

月が高く、空気が静かで、どこか張り詰めた余韻が残っている。

フィーネはふと、声音を少し落とした。


「──ねぇ、ユリウス様」


「なんだ」


「私たち、どこまで“してあげられる”と思いますか?……お嬢様のために」


その言葉には、冗談めいた甘さはなかった。

静かに、深く、夜の闇に落ちていくような問いだった。


ユリウスは一拍の間を置き、低く応える。


「……全部だろ」


「……全部?」


「どこまで、じゃない。やれることは全部やる。それだけだ」


「ふふ……変わりませんね。そういうとこ、昔から」


「お前もな」


ふたりの間に沈黙が落ちる。

だがその沈黙は、重くも苦くもない。

ただ信頼がそこに在ると、静かに確信できるような、温度のある沈黙だった。


やがてフィーネは、何かを思い出したように微笑む。


「……ところで。お嬢様、今日はちょっと私の誘惑にどきどきしてましたよ♡」


「……お前なぁ」


「いいじゃないですか。あの方、最近ようやく自分の気持ちに少しずつ気づいてきましたし」


ユリウスはフィーネに向き直り、低く言った。


「……揺さぶるな。あいつの心は、まだ傷が癒えきってねぇ」


「わかってますよ」


フィーネは肩をすくめながら、しかしまっすぐな瞳でユリウスを見返す。


「でも、愛されるべき人には、ちゃんと愛される経験をしてほしい。……たとえそれが、ほんのひとときの“夢”だとしても」


ユリウスは何も言わず、目を伏せる。

やがて、ぽつりと一言だけ。


「……夢じゃなくしてやるよ。俺は」


その言葉に、フィーネはゆるく笑って目を細めた。


「……やっぱり、かっこいいです。ユリウス様って」


「うるさい。お前、夜勤交代までに休んどけ」


「はーい♡」


フィーネはふわりとターンしながら、そのまま奥へと歩いていく。

その背を見送ったユリウスは、月を仰いで小さく呟いた。


「……全部守る。あいつの笑顔も、過去も、未来も――全部だ」


夜はまだ静かに続いていた。

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