第一章 悪役令嬢、自由になる
新作、悪役令嬢ものです。
あまり長くならないように書きますので、是非読みにきてください。
連載中の作品も是非読みにきてください。
転生者よ~其の眼を以って異世界の魔を払え~
https://ncode.syosetu.com/n6012jl/
あの舞踏会から三日。
私は、何年かぶりにぐっすりと眠れた。
柔らかな陽光がカーテン越しに差し込む寝室。
絹のシーツが頬に心地よく、目覚めの紅茶の香りが鼻をくすぐる。
「お嬢様、お目覚めですね。今日はローズティーに蜂蜜を少々。あと、昨夜の夢占いの結果を入れておきました♡」
「ふふ……相変わらずね、フィーネ」
ベッドの横に立っていたのは、私の専属メイド、フィーネ。
年齢不詳、性別も不詳(いや、戸籍上は男性だが)、しかしその容姿と仕草は完璧なまでの“可憐なメイド”だった。
「今日はお嬢様にとって大切な“再出発の日”ですから、服も新調しておきましたっ。えへへ、ちょっと攻めすぎちゃったかも……♡」
「攻め……?」
「前は“王子の婚約者らしく”って落ち着いた服ばかりでしたし、今日は“誰にも縛られない令嬢”スタイルですっ」
そう言って取り出されたのは、私好みなど一切考慮されていない、肩を大胆に出した紺のドレス。
しかも背中が開いている。
「ま、待ってフィーネ。これはいくらなんでも露出が……っ」
「でもお嬢様、今までのお仕着せじゃなくて、“ご自身で好きなもの”を選ぶのが再出発ってことでは……?」
「……っ、ぐ……言い返せないのが悔しいわ」
脱ぎ捨てるように、私は昨日までの“貴族令嬢らしい”部屋着を外し、差し出されたドレスを着た。
鏡に映った私は、誰よりも自由で、そして――少しだけ不安そうだった。
*
「……遅いぞ、バカ令嬢」
食堂に足を運べば、そこにはすでに執事のユリウスが待っていた。
整えられた金髪、無駄のない仕草。完璧な美青年が紅茶を注ぎながら、刺すような視線を向けてくる。
「す、少し時間がかかったのよ。フィーネが変な服を着せてきたせいで」
「ふーん……ま、似合ってんじゃねぇの」
「なっ……! な、なにその感想っ……!」
「褒めたんだよ、バカ。ってか、赤くなるな。見てるこっちが恥ずかしい」
まったく、この男はいつもこうだ。
口が悪いくせに、時折するりと甘い言葉を混ぜてくる。こっちの動揺なんてお構いなし。
「で? 今日からどうするんだ、エリス」
「決まってるでしょう? 学園へ戻るわ」
「……婚約破棄された後で?」
「だからこそよ。悪役令嬢の役割は終わった。今度は“私自身”のために学園へ通うの。何か文句でも?」
ユリウスは、しばらく黙って私を見つめていた。
その視線の意味がわからず、私は苛立ちを覚える。
だが、彼は小さくため息を吐いて、立ち上がった。
「文句なんかねぇよ。……ただ、何かあったら俺が全部殴る。以上」
「……え?」
「だから、安心して暴れてこい、エリス」
それは、あまりに不器用な、
けれど誰よりもあたたかい応援だった。
「……ふふっ、ありがとう。二人とも」
そうして私は、改めて心に決めた。
悪役令嬢エリスティア・グラン=フィオーレは死んだ。
これからはただのエリスとして、自分の足で、学園を歩いてゆく――
たとえそこに、いくつもの陰謀や恋の戦争が待っていたとしても。
馬車の揺れが、窓越しの景色をゆらゆらと歪ませる。
王都から離れた高台に建つ王立アルシェリア魔法学園へ向かう道のり。かつては誇らしく思っていたこの道が、今日は少しだけ遠く感じた。
「お嬢様、緊張されてます?」
「……少しだけ、ね」
横に座るフィーネが、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。学園の誰がどう思おうと、ボクはずっとお嬢様の味方ですから」
「……ありがと、フィーネ」
彼の言葉に救われた気がした。
私はもう“悪役令嬢”じゃない。けれど、“素の私”を知っている人間も、学園にはほとんどいない。
冷たい視線、好奇の眼差し、蔑みの噂。
それらに立ち向かう覚悟が、私にどれほど備わっているのかは――正直、自信がなかった。
「ま、何かあったらフィーネに毒でも盛ってもらえ」
「ユリウス、物騒なこと言わないで」
馬車の対面席に座るユリウスは、相変わらず腕を組んで仏頂面をしていた。
でも彼が一緒にいてくれるというだけで、心強かった。
──そして、馬車は学園正門へと到着する。
「到着しました、エリスお嬢様。……さあ、堂々と行ってください」
私は一つ息を吐いて、扉を開ける。
陽光の下、学園の制服に身を包んだ生徒たちが、こちらを見てざわめいていた。
「……グラン=フィオーレ家の令嬢じゃない?」
「婚約破棄されたはずでは……?」
「まさか、まだ学園に来るつもり……!?」
耳に入ってくる声。視線。憶測と悪意と侮り。
でも、私は足を止めなかった。
「お、おい、エリス……」
「いいの。行くって決めたんだから」
スカートの裾を握る手に、力が入る。
すると――。
「──やぁ、久しぶりだね。エリス」
その声に、私は思わず足を止めた。
振り返ると、そこには見慣れた金の髪と、蒼の制服を着こなす優雅な姿があった。
レオナルド・アルセレイン王子。
かつての婚約者。私の人生を狂わせた張本人。
「まだ、学園に来るつもりだったとは。……いや、むしろ感心するよ。その図太さに」
「…………」
心臓がひとつ、音を立てて跳ねた。
言葉を返すべきか、黙って通り過ぎるべきか――迷ったそのとき。
「……あんまり調子に乗るなよ、王子サマ」
ぴしゃり、と冷たい声が響く。
レオナルドの肩に影が落ちたかと思えば、ユリウスが真横に立っていた。
「前のことは水に流してやってもいいけどな。まだケンカ売るようなら、礼儀ってもんを教えてやるぜ。貴族らしいやつをな」
「貴様……ただの執事風情が」
「執事だが。……それがどうした?」
二人の間に走る火花。
そのときだった。エリスの中で、何かがふっと冷めた。
「やめて、ユリウス。もう無駄な言い争いはしたくないの」
静かに、けれどはっきりとした声で、私は言った。
「私はただ、学園に戻って勉学に励みたいだけ。恋愛の駒でもなければ、貴族の飾りでもない」
「……っ」
レオナルドが、言葉を失う。
私はもう、あなたの“役”を演じるつもりはない。そう瞳で伝えた。
そして私は、静かに頭を下げた。
「ごきげんよう、殿下。……それでは、失礼いたしますわ」
背後にフィーネとユリウスの気配を感じながら、私は学園の門をくぐった。
たとえその先に、いばらの道が待っていたとしても。
“これは私の物語。私自身の人生。誰にも、奪わせはしない”
王立アルシェリア魔法学園では、季節ごとに行われる“社交お茶会”という伝統行事がある。
これは貴族の子女たちが交流を深める名目のもと、
「誰が誰より優れているか」を笑顔の仮面をかぶって競い合う、実に品の良い戦場である。
そして、今期の主催は──
「まあまあ、みなさま。ようこそお越しくださいました。今日のお茶会は“再教育の場”でもございますの。ふふふ」
紅茶の香り漂うローズガーデンで、柔らかく笑うのはソフィーナ・エリュシオン嬢。
上級貴族にして、学園の“華”とされる才色兼備の優等生。
その隣に並ぶのは取り巻きの少女たち、そして――その中央に座らされていたのが、私だった。
「……再教育、ですって?」
「まあ♪ エリスティア様、最近ご登校されたばかりですもの。知らないのですね?
この学園では“円滑な人間関係”のために、時折こうして皆で集まるのですよ。お互いに誤解を解いて、仲良くなるために……ね?」
完全に建前だ。
このお茶会、明らかに「婚約破棄された哀れな令嬢を囲んで笑いものにする」ための場だった。
微笑の裏に毒があり、紅茶の甘みに皮肉が溶けている。
でも、私はもう、簡単にはくじけない。
「まあ、そうでしたの。皆様のお手を煩わせてしまって恐縮ですわ」
上品に微笑み返すと、ソフィーナは一瞬、口元をひくつかせた。
やり返されるとは思っていなかったのだろう。
華やかな庭園に集った貴族令嬢たち。
その中心で、ソフィーナ・エリュシオンが誇らしげに微笑みながら声を上げた。
「皆様、ようこそお越しくださいました。さあ、こちらがわたくし特製の“幸運のハーブティー”でございます♡」
ソフィーナの専属メイドが優雅にティーポットを持ち上げ、参加者たちにカップを配る。
皆、期待と好奇心を浮かべている。
しかしその時、ふわりと銀髪の少年メイドが現れた。
そう、彼の名はフィーネ――愛するエリスのために陰で戦う“影の守護者”だ。
「失礼いたします♡」
フィーネは笑顔を崩さず、軽やかにカップを受け取り、丁寧に参加者たちに振る舞い始める。
参加者たちは何も疑わず、次々とハーブティーを口にする。
ソフィーナもまた、フィーネから差し出されたカップを受け取り、少し不審そうに見つめた。
「……まあ、せっかくですし、いただきますわ」
その瞬間。
「…………あれ?」
誰かが声をあげ、次々と手が震えはじめた。
カップを握る指先の感覚が消え、いくつものティーカップが次々と床に落ちる。
「な、なにこれ……?」
「ハ、ハーブティーが……」
騒然とする庭園。
困惑と慌てた声が飛び交う。
そんな中、ソフィーナの耳元に、あの銀髪の少年が近づき、にっこりと笑いながら囁いた。
「次にこんな真似をすれば、どうなるかわかりますよね♡」
その声は天使のように甘く、悪魔のように冷たかった。
「そ、そういうつもりじゃ……!」
ソフィーナは顔を青ざめさせ、取り巻きたちとともに慌てて退散していった。
庭園に残されたのは、笑顔のまま私に向き合うフィーネだけ。
「お嬢様、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ♡」
彼のその無邪気な笑顔は、私の心に確かな安心と力を与えた。
その日の昼休み、授業が終わるチャイムが鳴った直後だった。
私は教室の扉の前に立っていた、見知らぬ下級職員に呼び止められた。
「グラン=フィオーレ様、学園長がお呼びです。至急、学園長室まで」
「……学園長が?」
不穏な胸騒ぎが、背筋を撫でた。
この時点で、私はまだ知らなかった。
その裏に、誰の“手”があったのかを。
「ご一緒いたします、お嬢様」
「当然です。あんなジジイ一人で何を語るつもりか……」
フィーネとユリウスが、当たり前のように両脇に立つ。
こうして、私たちは三人で学園長室へと向かった。
学園長室の重厚な扉が、冷たく閉ざされた。
中に入ると、学園長――バルド・クラーレンは、机の前に腕を組んで座っていた。
「ご足労いただきました、グラン=フィオーレ嬢」
私、エリスティア・グラン=フィオーレは、静かに椅子に腰掛けた。
「エリスティアさん、あなたはこの学園において、“悪役令嬢”として振る舞ってきましたね」
その冷ややかな声が、室内に響き渡る。
「その行動が学園の秩序を乱し、他の生徒たちに悪影響を与えていると聞いています。……特に王子殿下との過去の関係性も踏まえますとね」
私は顔を上げ、まっすぐにその目を見返した。
「私が“悪役令嬢”として演じていたのは、すべて彼のためです。私の本心ではありません」
「演じていたと? だが、事実としてはあなたの行動が問題視されて――」
「ならば、“事実”だけで判断なさるのですね、学園長」
背後から鋭い気配が走る。
ユリウスが、凛とした鋭い視線で学園長を睨みつけていた。
その瞳は、まるで鋼の刃。威圧感が一切隠されていない。
一方のフィーネは、まるでお茶会でもしているかのように微笑んで立っていた。
……しかし、その笑顔の奥に潜む殺気は明確で、室内の空気は不自然なほどに重くなる。
「……我々は、お嬢様のためにここにいる」
ユリウスの声は低く、静かでありながら、否応なしに聞く者の心を縛る。
学園長は一瞬、喉を鳴らし、視線を泳がせたが――何も言い返すことはできなかった。
重苦しい沈黙の中、話はうやむやに打ち切られ、形式だけの謝意と共に、私たちは部屋を後にした。
数分後。私は学園長室を出て、廊下を静かに歩いていた。
(……レオナルド。やっぱり、あなたなのね)
陰で私を引きずり下ろそうとする意図。
それがどれほど幼稚でも、どれほどみっともなくても――やっぱり、彼は“王子”だった。
「……どうしたものかしら」
ふと立ち止まり、つぶやいたその時、気づく。
「……ユリウス? フィーネ?」
左右を見ても、誰もいない。
「……っ、まさか……!」
その瞬間、脳裏に浮かんだ予感は、あまりにも現実的だった。
すでに二人は、レオナルド・アルセレインの私室に向かっていた。
「“教育”をしに行く」
ユリウスは静かに、しかし確実に拳を握りしめる。
「過激すぎず、でも確実にわからせてあげましょうね♡」
フィーネは愛らしい声で呟き、笑顔を崩さなかった。
あくまで“教育”――。
だが、それは“再発防止指導”という名の制裁。
そしてなにより、“お嬢様を守る”ための、揺るぎない意思表示だった。
陽光が差し込む、豪奢なレオナルド・アルセレインの私室では、甘ったるい香水の香りと貴族令嬢たちの笑い声が満ちていた。
ソファには数人の上級貴族令嬢が並び、王子レオナルドの左右に寄り添って談笑している。
ティーカップには紅茶ではなく、こっそり持ち込まれたワイン。
規則破りもどこ吹く風、昼間から宴のような空気が漂っていた。
「ま、エリスティアなんて最初から飽きてたんだよ。あいつ、堅物すぎてな」
「婚約破棄されて当然ですわ♡」
「ほんと、王子様にふさわしいのは私たちよね〜」
そんな会話が、何の遠慮もなく飛び交っていた――その時。
コンコン。
私室の扉が、律儀にノックされた。
「誰だ、今は誰も通すなと──」
ガチャ。
制止を無視して開いた扉の向こうに立っていたのは、
黒い燕尾服をきっちり着こなした青年・ユリウスと、銀髪の少年メイド・フィーネだった。
「……なんだ、お前ら!」
レオナルドの声が、苛立ちと警戒をはらんで上ずる。
フィーネはにっこりと、無邪気に笑って言った。
「こんにちは、王子様。お昼の“教育”係として参りました♡」
「教育係、だと?」
ユリウスが一歩踏み込むと、部屋の空気が瞬時に張り詰める。
「関係のない女どもは出て行け。これから授業が始まる」
令嬢たちは最初こそクスクスと笑ったが、ユリウスの鋭い眼光を浴びた瞬間――
表情が凍り、思わず席を立った。
「え、えっと……また、あとで……♡」
「わ、私、午後の補習が……」
取り繕うような言い訳とともに、彼女たちはそそくさと退室していく。
残されたのは、レオナルドと二人の“教育係”。
「……王族に手を出すつもりか? その意味、わかって言ってるのか?」
レオナルドが、威圧的に声を低めて凄む。
「ええ、十分に」
ユリウスが返す声は、冷静で鋭い。
「だが、今回は“お痛”がすぎた。だから、教育が必要だ」
「やれるもんならやってみろ」
レオナルドがふんと鼻で笑う。
「証拠もなしに俺を咎められると思ってるのか? この程度で、王子がひるむとでも?」
その時だった。
「じゃあ、証拠の上映会を♡」
フィーネがにこやかに、胸元から小型の映像投影機を取り出した。
机の上に置かれた投影機に魔力を通すと、室内の空間に映像が浮かび上がる。
そこに映し出されたのは――
仮面を付け、派手な衣装を着た男が、特殊な“趣味の館”で、
あられもないポーズを取りながら女性たちに命令している姿。
声は加工されていたが、仕草と体格、そして“王家の指輪”が決定的だった。
「…………っ!?」
レオナルドの顔がみるみる赤くなり、そして蒼ざめる。
「おま……っ、どこで、それをっ!?」
「ふふ♡ お忍びって楽しいですよねぇ。
でも、ああいう場所ってカメラが多いんですよ?
……ついでに常連名簿と“好きなプレイ傾向”も、確認済みです♪」
「……っ、まさか、貴様……!」
「ご安心を」
ユリウスが投影機のスイッチを切る。
「今のところは、どこにも渡していない。……だが、次に同じことをすれば」
「王都中の社交界で、王子様の“趣味”が話題になりますよ♡」
レオナルドは顔を背け、唇を噛みしめることしかできなかった。
屈辱と羞恥で震えるその肩が、何より雄弁に“効果”を物語っていた。
「お昼の授業は、これでおしまいです♪」
フィーネが明るく言い、くるりと踵を返す。
ユリウスもドアへ向かい、最後に一言だけ、背を向けたまま低く言った。
「次はこんなもんじゃ済まねぇ。……その覚悟でいろ」
バタン。
ドアが閉まる音だけが、静まり返った部屋に残った。
レオナルド・アルセレインは、誰にも見られぬように顔を伏せ、
未だ浮かぶ“恥ずかしすぎる自分”の映像を、脳裏から追い出せずにいた――。
中庭のベンチ。
昼下がりの陽射しはやわらかく、花壇の花々も揺れている。
その静かな空間に、私――エリスティア・グラン=フィオーレは、腕を組んで座っていた。
「……遅いわね、あの二人」
お茶会後の一件で、何かを察して消えた二人。
学園長室を出たあと、気づけばすでにいなかった。
そして――
「ただいま戻りました、お嬢様♡」
その無邪気な声とともに、現れたのは銀髪の少年メイド・フィーネと、無言で後ろに従う黒服の執事・ユリウス。
私はすぐさま立ち上がり、手を腰に当てて詰め寄った。
「どこに行ってたのよ、あなたたち!」
「えっとぉ……ちょっと、お買い物です♪」
「……学園の中で、何を買うっていうのよ」
「では……王子様と、ちょっとだけ“ご歓談”を♡」
「……は?」
その瞬間、ユリウスが横からツンと顔を背けた。
「余計な詮索は不要です。……“害虫”の除去が済んだだけだ」
「……害虫……? やっぱり、あなたたち……!」
何かを言いかけた瞬間、フィーネが私の手を優しく取って、うるんだ瞳で覗き込んできた。
「エリスお嬢様の名誉を汚すような人たち、私、絶対に許しません♡だから……エリス様は、黙って、私たちに守られていればいいんです……♡」
「う……っ、ちょ、ちょっと……!」
私の手を両手で包み込んで頬ずりしてくるフィーネを引きはがそうとするが、彼は笑顔のままぴたりとくっついて離れない。
「それとも……私は、必要ないでしょうか? お役に立てていないのなら、今すぐ王都の裏路地で野垂れ死にます♡」
「やめなさい! そこまで極端に走らないで!」
その時、ユリウスが小さく咳払いして口を開く。
「お嬢様。言っておきますが、フィーネの行動はまだ穏当な方です」
「どこがよ!」
「自分は、王子の口に“蜜漬けカエルの丸焼き”を詰め込む案まで考えてました」
「……あの、それは人道的にどうなのかしら」
「ですがお嬢様が“笑顔で暮らせる世界”のためには、必要な処置もあります」
その冷静で真剣な目に、私はしばし言葉を失う。
(……この二人、絶対に過剰だけど……でも、私のことをちゃんと想ってくれてるのよね)
それが伝わってくるだけに、怒るべきか、呆れるべきか、正直わからなくなる。
「もう……勝手に突っ走らないでって言ってるのに……」
小さく呟いた私の言葉に、フィーネがぱっと顔を上げる。
「では、今度からは一緒に突っ走ってくださいね♡」
「そうじゃない!」
二人の間に挟まれて、私は小さくため息をついた。
(ほんとに……もう……)
でも、その顔は少しだけ、緩んでいた。
午後。
中庭から戻った私は、ようやく落ち着いた気持ちで書類に目を通していた。
フィーネは私のすぐ隣で紅茶を淹れ、ユリウスは無言で壁際に控えている。
(やれやれ……騒がしい昼だったわ)
そう思っていた、そのとき。
コンコン。
部屋の扉が叩かれ、ギルド使者風の衣装をまとった使い魔が恭しく封筒を差し出してきた。
「お届けものにございます、エリスティア・グラン=フィオーレ嬢へ」
私は首を傾げながら受け取る。
白い厚紙の封筒には、金箔で縁取られた貴族紋章。
そして裏には――
**《中央王都・アルセレイン社交会運営委員会》**の文字があった。
「……これは……!」
フィーネが驚きの声を漏らす。
「“春季大社交会”の招待状ですわ。王族主催の、上位貴族とその縁者のみが集う舞踏晩餐会……!」
「王族……」
私はレオナルドの顔が脳裏に浮かんで、わずかに眉をひそめる。
だがそれ以上に、胸の奥がざわめいた。
(なぜ、今になって私に――?)
封を開け、内容に目を通す。
確かに、正式な招待状だった。
だが、文面の奥に見え隠れするのは――優雅に装った試練の匂い。
「この社交会……きっと、何かある」
私の呟きに、ユリウスがすぐに応える。
「当然です。あれは“戦場”ですから」
そして、フィーネがにっこりと微笑みながら言った。
「では、準備をいたしましょう。お嬢様が誰よりも美しく、誰よりも気高く、誰よりも強く立てるように――♡」
私は深く息を吸って、招待状をそっと閉じた。
(これは……“過去の私”への挑戦状でもある)
かつて、王子の婚約者として立った場に、今度は一人の令嬢として臨む。
その意味の重さを、私はよく知っている。
社交会――
そこは、微笑みと陰謀、名誉と蹂躙が交差する、美しくも冷酷な舞台。
そしてその幕が、今、静かに上がろうとしていた。