京の都 凍秋 一条戻り橋にて
青雲は夜の橋をゆるりと渡っていた。
前に跨る渡辺綱の背へ、お常が小さく身を寄せる。その口が、思いがけない問いを紡ぎ出した。
「旦那様……この先も、鬼を退治し続けるのでしょうか」
綱は眉をひそめる。女が問うには不思議な言葉であった。
「さあな。だが鬼を放ってはおけぬ。頼光様のお傍にあれば、鬼退治の役は果てることはないだろう」
「では、頼光様と常にご一緒なのですか?頼光様は鬼を見分けるお力があると聞きます」
「いや……それも難しかろう。互いに立場が高くなれば、行動を共にするのは容易ではない。何を言っておる、頼光様が鬼を見分ける術を持っていると聞いたこともない」
そう答えると、常はすぐに畳みかけるように問いかけた。
「では、そのお腰の刀……人以外には抜けぬという噂を耳にしました。本当なのですか」
綱は思わず口元を引き締めた。
「これは鬼を滅する刀だ。物の怪の類には扱えぬ。……しかし、そなたがなぜ急にそんなことを気にする?」
背に寄りかかる気配から、常の声がふと柔らかく返る。
「いいえ……なるほど、分かりました。常はそんなこと、何も教えてくれなかったものですから」
綱は訝み、振り返ろうとした。
「どういうことだ――」
言葉の半ばで、衝撃が走った。
左腕が、腰の髭切ごと、馬上からこぼれ落ちた。がらん、と橋板に鈍い音が響く。
「な……に……!?」
何が起こったか理解する間もなく、綱は反射で身をひるがえし、馬の右側から転げ落ちる。
地に身を打ちながらも即座に立ち上がり、周囲へ鋭く目を走らせた。敵の気配はない。青雲すら怯える様子もなく、ただ主を振り落としたことに動揺しているだけである。
賢い馬は常を背に留め、暴れもせず立ち尽くしていた。
「常っ!」
綱は声を張り、駆け寄ろうと一歩を踏み出した。だが次の瞬間、その足は地に縫いつけられたように止まった。
常の左手。
そこから、爪が刃のように伸びていた。幅の広い刀身のような爪に、滴るのは紛れもなく綱の血。
常はそれを月光に掲げ、にたりと笑みを浮かべる。
盲いたはずのその瞳は、光を宿したようにぎらりと輝いていた。
綱の左側、腹から肩にかけて、心臓の鼓動に合わせて血がぼたぼたと溢れ落ちる。
ふっ、ふっと息を整えながら、綱は馬上の常を仰ぎ見た。
常はするりと青雲の背から降り立ち、ためらいもなく爪を馬の尻へ突き立てた。
驚いた青雲は甲高い悲鳴をあげ、橋を蹴って闇の先へ駆け出す。蹄の響きはたちまち遠のき、残されたのは、橋の上に向かい合う二つの影だけである。
綱はめまいに膝を折りかけながらも、視線だけは逸らさなかった。
「……常、ではないのか……」
絞り出した声に、女はただ微笑んだ。
軽い火起こしでもするように、女は手慣れた様子で自身の左腕を伸ばし、今度は刃のように伸びた右手で自身の左腕を根元から切断した。
ごとりと大きな音を立てて女の左手は落ちたが、女はそれを気にも留めず橋板に転がった綱の左腕を拾い上げた。
そして、綱の左腕を自らの肩口へ押し当てる。
血の気のない真っ白になった左腕に、少しずつ生気が宿るのが見えた。
抜けていた血の気がみるみる戻り、指先まで赤が差していく。
「馬鹿な……なぜ……」
混乱と困惑が綱を支配する。鬼の所業だと疑いながらも、意図が理解できないでいた。
女は新しい左手を握り開き、ゆっくりと指を折ってみせた。
「悪くない……よく馴染むものね」
その声は常そのもの。けれど、響きの奥底には冷たい異質が潜んでいた。
女はその手を橋板に転がる髭切へと伸ばした。
綱の胸に冷たいものが走る。あの刀は人にしか抜けぬ――鬼や物の怪の手では、決して鞘走りしないはずだ。
鞘口に指が掛かり、力がこもる。
ヌラリ。
抵抗もなく刀身が滑り出た。月光を浴びた白刃が、闇を裂いて冷たく光った。
その瞬間、綱は全てを悟った。
「……貴様……茨木童子か!?」
女はゆっくりと唇を歪め、紫の瞳を光らせた。
「あら、覚えていてくださったのね。嬉しいわ、旦那様」
髭切を軽く掲げ、嗤いを洩らす。
「人を装う皮は、これまでいくらでも剥いできた。けれど、この皮は殊のほか心地よい脱ぐのが惜しいわ」
血に濡れた綱を見下ろしながら、茨木は冷ややかに続ける。
「渡辺綱――鬼を斬る名高き武士と聞いていたけれど、腕を失えばこの通り。もし抜けぬようなら右手もいただこうと思ったけれど……左手だけで十分ね」
白刃が一閃し、容赦なく綱の胸を貫いた。
骨を砕き、肺を裂き、熱い血が逆流する。息を呑む間もなく、口の端から赤い液体が溢れ落ちる。
「……かっ……ふっ……」
視界が霞む中、茨木童子はゆっくりと身を屈め、美しい常の顔をしたまま綱の耳元へ迫った。紫に光る瞳がぞっとするほど近い。
冷たい唇が触れるほどに寄り、甘やかに、けれどぞっとする声で囁く。
「この女も良かったが――腹の中の【息子】は、美味であったのぅ……フフッ」
その瞬間、綱の身体がびくんと震えた。胸を貫いた刃に血が脈打ち、痙攣は次第に全身を走る。
力を失った両足は橋板を掻き、やがて背を反らすように大きくのけぞった。
夜霧の中で天を仰いだ綱の瞳に、最後の光が滲む。
その目尻から、一筋のしずくが静かに流れ落ち、頬を伝って血に混じった。
渡辺綱の体はそのまま力なく崩れ、橋板に広がる血溜まりに沈んでいった。
川霧は一層濃く立ち込め、月は雲に隠れ、闇だけが橋の上を覆った。
この出来事は後に「一条戻橋の鬼退治」として京中に広まり、『摂津渡辺綱物語』にも記された。
渡辺綱が夜更けの戻橋にて鬼女と遭遇し、斬り結んでその腕を切り落とした。それが後世に伝わる話である。
鬼女の正体は茨木童子とも、あるいは酒呑童子の遺党とも言われ、橋板に残されたという腕は清水寺に納められたと伝わる。
やがて、京の町人たちは口々に「綱こそ鬼斬りの名手」と称え、その名は頼光四天王の一人として世に刻まれていった。