京の都 翌秋 一条戻り橋にて
それからのおよそ一年――。
一条戻り橋には怪異の影ひとつ現れず、都の人々は安堵の吐息を洩らしていた。
渡辺綱とお常は、その間変わらぬ逢瀬を重ねていた。
冬の夜には囲炉裏を囲み、盲いた女の手料理を味わいながら、綱は武士の務めを忘れ、ただひとりの男として心を安らげた。夏には、縁側に腰を並べて夕涼みをし、虫の音を聞きながら取り留めもない話を交わす。
ふたりの仲は、次第に夫婦のそれのように静かで温かなものとなっていった。
お常は普段、その瞳を閉ざしていた。目を開けば白濁しており、なるべく人に見せぬようにしているのだ。だがその顔立ちは衰えず、むしろ瞼を閉じたまま静かに佇む姿は、落ち着いた美しさをいっそう際立たせていた。
ある晩のことである。
お常はいつになく慎ましい面持ちで、綱の前に座した。膝の上で指を絡め、しばし言葉を探すように唇を結んでいたが、やがて小さな声で告げた。
「……ややこを授かりました」
一瞬、綱は耳を疑った。
次に、頬に紅がさし、目に喜びの光が広がる。
「ほ、ほんとうか!」
齢すでに老境に差し掛かる身である。これまで幾多の戦を潜り抜け、鬼と刃を交わし、幾度も死を覚悟した。だが、この報せほど胸を震わせたものはなかった。
綱は年甲斐もなく笑い、声を弾ませてはしゃいだ。
だがお常は、膝の上で両の手を重ね、不安を胸に落とした。
「私の目は見えませぬ……。もし子に何かあったらと思うと、恐ろしゅうございます。産むはともかく、育てることは――」
その声はかすかに震えていた。
綱はしばし女を見つめ、やがて静かに言った。
「案ずるな。頼光様に許可をいただき、そなたを正式に側室としよう。新しい屋敷を設け、そこに住まわせよう」
お常の目には涙がにじんだ。閉じられた瞼の端から光がこぼれ落ちるように、白い頬を伝った。盲いた顔を月の光にかざし、深々と頭を垂れる。
「……このお腹におりますのは、稀代の英雄の血を引く子にございます。どうか末は世のため、源氏のためにお働きくださいますよう、願っております」
女の声は静かに、しかし揺るぎなく響いた。
それから屋敷が出来るまでの間、綱は下女をお常の家に通わせ、すべての身の回りの世話を任せた。
盲いた女がひとりきりで暮らすには、あまりに心もとない。掃除も炊事も洗い物も、下女の手が入ることで家の中は常に清らかに保たれた。
お常はそれをありがたく思いながらも、決して手を休めはしなかった。炉辺で衣を繕い、赤子のための産着を針で縫い、炭をくべては湯を沸かす。
「できることは自らの手で」との思いは、瞼を閉じたままでも衰えることはなかった。
綱が訪れる折には、決まって夕刻に下男が先に伝えにやって来た。知らせを受けると、下女は気を利かせて家を出る。
静かになった家で、お常は耳を澄ましながら準備を整える。囲炉裏に小鍋をかけ、味噌を溶き、山菜や大根を入れる。やがて煮立つ音と香りで、綱が来る時刻を見計らうのであった。
やがて板戸が開く音、鎧の軋む音が響く。続いて低く凛とした声がする。
「常」
その一言で、女の顔はぱっと綻んだ。目は見えずとも、綱の気配をまっすぐに感じ取っていた。
二人が囲炉裏を挟んで座すと、常は湯気の立つ茶碗を差し出す。
話題は取るに足らぬことばかりであった。
「今日は川で魚がよく獲れたそうです」
「近所の赤子が泣きやまず、母御が困っておられました」
そんな市井の話を、綱は嬉しげに聞き、時に笑いをこぼす。
戦場で流れる血や、都で交わされる策謀の話は、この場に持ち込まれることはなかった。
日々はそうして過ぎていった。
冬の深まりとともに風は冴え冴えと冷たく、庭の井戸も夜には氷を張った。
それでも家の中は囲炉裏の火が絶えず燃え、二人の笑い声と、時折混じる産着を縫う針の音とで、やわらかなぬくもりに満たされていた。
やがて女の腹は少しずつふくらみ始め、春を迎える頃にはその兆しもはっきりと目に映るようになった。
夏になれば、新しい命がこの世に生まれるであろう。
盲いた女と鬼斬りの英雄。
不思議な取り合わせであったが、その家の空気はたしかに幸福に包まれていた。
そんなある日、常のもとへ行く日ではなかったが、戻り橋に鬼が出たとの知らせが駆け込んだ。
未だ冬の陽光を感じる夕刻、綱は屋敷を飛び出し、馬小屋へと駆けつけた。
そこには愛馬 青雲 が、すでに鞍を付けられ待っていた。
青雲は、かつて頼光が綱の武勇を賞して与えた名馬であった。
青毛の毛並みは陽光を浴びれば群青の雲のごとく輝き、闇の中では影のように沈む。
一度駆け出せば風を裂き、嵐をも恐れぬその速駆けは、都の兵の誰ひとり及ぶものがなかった。
綱が手綱を取ると、青雲は高らかに嘶き、いまかいまかと地を蹴る。
颯爽とその背に跨がるや、綱は屋敷を飛び出し、一条戻り橋へと風のごとく駆けた。
冬の夕陽は傾き、街路は薄金に染まっていた。青雲の蹄が石畳を打つたび、乾いた音が京の辻々に響き渡る。
その音を耳にした町の人々は、ただ事でないと直感した。
「渡辺様が……馬で駆けておられる」と口々に言う。
たちまち通りに緊張が走る。
母親は子らの手を掴み、慌てて家の中へ押し込む。商人たちは荷を抱え込み、戸口を閉ざす。
逆に、勇気ある者や噂好きの者は、通りの端に立ち並び、その疾走する姿を食い入るように見送った。
ちょうどその時、遠くの寺から鐘の音が響いてきた。日暮れを告げるはずの響きが、この時ばかりは不吉な合図のように人々の胸を震わせた。
軒先では夕餉の支度の煙が上がり、味噌を煮る香りが漂っていたが、その匂いも綱の蹄音にかき消されてゆく。
「鬼か……それとも賊か……」
人々の間に囁きが広がる。
綱の名は、都の童までが知る「鬼斬りの武士」であった。
その綱が愛馬に跨り疾駆するとなれば、尋常の出来事ではない。
通りに立つ人々の眼には、まるで雷鳴が人の姿を取って駆け抜けていくかのように映った。
やがて町の喧騒は背に遠ざかり、堀川の流れが近づく。
冷たく澄んだ風が頬を打ち、一条戻り橋は、もう目前に迫っていた。
やがて町の喧騒は背に遠ざかり、堀川の流れが近づく。
冷たく澄んだ風が頬を打ち、一条戻り橋は、もう目前に迫っていた。
橋の下は、すでに闇が濃かった。堀川の流れが音を潜め、冷たい湿り気が肌にまとわりつく。
この橋は牛車が行き交えるようにと、帝の葬列さえ滞らせぬために造られた。都の中でも稀に見るほどの広さと高さを誇り、その下は――人どころか鬼が集団で生活できるほどの広さと暗さを持っていた。
ひんやりとした空気が漂い、柱の影が長く伸びている。
堀川の流れが時折きらりと光り、その合間に草むらから虫の音が聞こえる。
ただそれだけのことなのに、昼の光が届かぬせいか、あたり一帯は妙に心細く、不吉な気配を孕んでいた。
綱は髭切の柄に手をかけ、川面をじっと眺める。
一年ほど前に斬った陰鬼が戻ってきたのか、それとも新たに生まれたものか――。
深く息を吐くと、綱は迷いなく橋の下へと歩を進めた。
しばらく橋の下にとどまり、耳を澄ます。陽が落ちるまで留まろうと考え、静かに待った。
やがて夕闇があたりを取り巻き、虫の音は次第に強さを増していった。
「……虫の音が強いのなら、陰鬼はおらぬな」
鬼が出るときは、虫や蛙の声が途絶えるものだ。しかし今宵は、虫たちは寒さを押して鳴き続けている。蛙はさすがに声を上げぬが、辺りには冬の影が色濃く広がっていた。
陽が入らなくなった途端、川上から冷気が流れ込んでくる。
春になれば水かさも増すのだろうが、今はほとんど水がない。
その代わり、川面には周囲の空気を凍らせるような冷気が這い、白い靄となって漂っていた。
一刻ばかり橋の下で目を凝らしていたが、怪異は現れなかった。
やがて体の芯まで冷え、綱は川辺を昇り始める。
「ああ、今年の冬は寒い……。常の家に寄ることは、もう出来なくなるのだな」
ふと胸に浮かんだ思いに、綱は足を止めた。
あと数日のうちに新しい屋敷が完成すれば、お常はそちらに移ることになる。
この小さな家を残し、下女を住まわせておけば、寒い折には立ち寄って暖かな茶をいただくこともできる――。
そんなことを考えながら橋の上へ出ると、辺りはすでに人影もなく、風の音だけが耳に届いた。
だが、青雲の姿が見えない。
いつもなら、綱が姿を現すと同時に歩み寄ってくるはずの愛馬が、今宵は影も形もなかった。
一瞬、不穏な気配が胸をかすめる。
しかし綱はすぐに心当たりを得て歩を進めた。
向かった先は、お常の家である。裏手には、綱が通うようになってから建てさせた馬小屋があった。小屋といっても簡素な造りだが、飼葉も水も備えられ、馬が休むには十分である。
家に近づくと、家越しに青雲の高い尻と揺れる尾が見えた。どうやらここで休んでいたらしい。青雲にはめずらしいことだった。
綱は一度家の前を通り過ぎ、先に馬小屋へと向かった。
中では青雲が静かに首を垂れ、落ち着いた様子で立っている。
その身体をさすりながら綱は声を掛けた。
「よしよし、自分で来たのか」
見ると鞍は外されていた。恐らく近くを歩いてきた青雲を、たまたまお常が見つけたのだろう。でなければ、青雲が人に素直に体を触れさせることはない。
寄るつもりはなかったが、母屋を振り返れば明かりが洩れ、味噌の香ばしい匂いが夜気に漂ってきた。
異常のなかったことに安堵しつつ、綱は母屋へと歩を進める。戸の外から、いつものように声を掛けた。
「常」
だが返事はない。
少し声を強め、「ごめん」と告げるも、やはり答えは返ってこなかった。
戸に手をかけると閂は掛かっておらず、静かに開いた。
奥戸には火が入り、土鍋からは温かな湯気が立ち上っている。
ふと左を見れば、囲炉裏にも炭が熾り、その奥には針仕事の途中であろう産着と、畳まれた浴衣が整えられていた。
もう一度「常」と声を掛けたが、やはり返事はなかった。
どうやら行き違ったらしい。青雲を見つけ、綱を探しに下女と外へ出たのか、あるいは町の者に呼ばれて赤子を見に行ったのか。これまでも何度か、そうしたことはあった。
だが今宵は鬼の報せを受けたばかりである。身重の女が外にいるのは危うい。
綱は外へ出て、再び馬小屋に戻ると、青雲に鞍を付け直した。
駒が穏やかであれば、周囲に怪異の気配はない。そう心得て綱は青雲の背に乗り、ゆるゆると歩ませ始めた。
やがて戻り橋が見えてきた辺り、道の端にお常の姿が立っていた。
やがて戻り橋が近づく。川霧に包まれたその姿は、昼間に見るよりもはるかに妖しく、まるで異界へと続く門のようであった。
道の端、その橋のたもとに、お常が静かに立っていた。
それを認めた綱は、思わず苦笑を洩らし、一人つぶやく。
「……眼が見えぬとは存外便利なものかもしれぬな。夜道を、明かりもなく歩めるのだから」
そう言うと、青雲の背から軽やかに降り、手綱を曳いて歩み寄る。馬の鼻息が白く夜気に散り、常のほうへと気配を運んだのだろう。あしおとよりも先に、常はその気配に気づき、しずしずと歩み出す。
まだ着物の上から腹のふくらみは目立たず、歩き方も平生と変わらぬ。けれど、その姿を目にした綱の胸には、ひそやかな責めを覚えた。
「すまぬな。土手から上がったゆえ、そなたがここにいるとは知らず、家へ先に行ってしまった」
武士であれば、女の身を案じて詫びるなど本来はあり得ぬこと。だが、身重の常を外に立たせることになってしまった負い目が綱にはあった。
常はかぶりを振り、深く頭を垂れた。
「私の方こそ、差し出がましい真似をいたしました。お役目でございましょうと分かってはおりましたが……青雲のお姿が見えましたので。どうにも居ても立ってもおられず、ここでお待ち申し上げておりました」
綱は柔らかく笑みを含み、片手を振った。
「良い、良い。夜気は身にこたえる。さあ、戻ろう」
促すと、常はふと顔を上げた。闇の中でその面差しは凛として、けれどどこか幼子のような好奇心を帯びている。
「旦那様……ひとつ、申し上げてもよろしゅうございますか」
「構わぬ」
綱が頷くと、常はゆっくりと唇を開いた。
「私、この戻り橋を一度も渡ったことがございませぬ。生まれてから一度も。……あの先、葦で途切れて見えなくなるあの先には、いったい何があるのでしょう」
常はどこを見るでもなく、ただ顔をわずかに動かして言葉を紡ぐ。その声音には、盲いた者ならではの、想像の羽ばたきが潜んでいた。
「それで今、橋の向こうを見ていたのだな」
綱は納得したようにうなずき、やがて口を開いた。
「あの曲がり道を進むと――」
しかし言い終わる前に、常がアッと小さく声をあげ、手を差し伸べた。
「言わないでくださいまし。実際に風を感じてみたいのです。旦那様、我が儘だとは承知しております。けれどどうか、私を 向こうへ連れて行ってくださいませ」
そう言って差し伸べた手は、そのまま綱の胸元に落ち、しだれかかった。普段は意志の強い女が、こんなふうに身を預けるのは稀であった。だがその裏に、好奇心の火が灯っていることを綱は知った。
「……分かった。だが、寒くはないか? 馬の上は冷えるぞ」
問いかけに、常は小さく微笑んで答える。
「綿入れを着ておりますゆえ、寒くはございません。少しの間ですもの、寒さなど我慢いたします。帰れば……温かい汁もございますし」
その笑みは闇を払う灯のようで、綱もつられて苦笑を洩らした。やれやれ、といった心地で。だが、こうしたやり取りを心のどこかで楽しんでいる自分に気づきもした。女に我が儘を言われるのは、決して悪い気分ではない。
綱は常の手を取り、そっと脚を支えて青雲の腰に上らせる。常の身体を預けられても、青雲は心得たように大人しくじっとしていた。
綱もその前に跨がり、「掴まれよ」と声をかけると、青雲はゆっくりと橋へと歩みを進めた。
だが綱の心は油断せぬ。先ほどは鬼の気配もなかったが、橋の上で姿を現すこともあろう。
万一の時は、己が飛び降りて鬼を斬る。その間に、青雲は常を乗せて走り抜けてくれるだろう。
橋の板を踏む馬蹄の音が、ひたひたと夜気に響いた。