京の都 晩秋 一条戻り橋にて
平安末期の京は、昼と夜とでまるで別の顔を見せていた。
陽のあるうちは公家の牛車が行き交い、物売りの声が堀川沿いに響き、子どもらのはしゃぐ声が橋の袂にまで届く。
だが日が沈むと、その光景は一変する。
堀川に漂う靄は白蛇のようにたなびき、夜風が吹けば灯籠の火は頼りなく揺れ、行き交う人影はすっかり途絶える。人々は口を揃えて言った――「夜の一条戻り橋には近づくな」と。
そこは、死者の魂が往還する境と信じられていた。
葬列が橋を渡ると必ず一度立ち止まらねばならぬという習わしがあり、古くから不吉の地として恐れられてきた。
まして近ごろは「夜な夜な鬼が現れる」との噂が町中に広がり、暮れ六つを過ぎれば人の影はまるで消えたように静まり返った。
ある蒸し暑い夜のことであった。
渡辺綱は頼光の命を受け、この橋の見回りに出ていた。
堀川の水音は冷えた夜気に冴え、橋板を渡る風は甲冑の隙間を刺すように冷たい。
薄雲に隠れた月が時折のぞき、そのたびに橋の欄干に長い影を落とす。
綱は歩を進めるたび、肌に粟が立つのを覚えた。
そのとき、橋のたもとで腰を抜かしている中年の女を見つけた。土色の顔で震え、目に涙を溜めている。綱が駆け寄ると、女は息も絶え絶えに訴えた。
「近くに住む……お常という女を……鬼が攫って行ったのです」
綱は眉をひそめ、すぐさま橋の下へと駆け下りた。
堀川の川面を照らす月明かりが、影絵のように揺れている。
その中に黒々とした異形が立ちはだかっていた。痩せ細った体に不釣り合いな腕を持つ陰鬼である。鉤爪は白く光り、盲目の女をわきに抱え込んでいた。
お常は息を荒くしながらも声を上げることはなかった。苦痛に耐えながらも、ただ唇を結び、気丈に堪えている。その姿に綱の眼が怒りに燃えた。
腰の髭切を抜き放つ。
「放せ、鬼め」
低く吐き捨てると同時に、綱の体は風のように走り出した。
陰鬼は女を盾にしようと抱え込み、牙を剥いた。
しかし綱の目は隙を見逃さなかった。
一の太刀――鬼の腕を断ち切る。黒い煙が噴き上がり、鬼の呻きが夜を震わせる。
宙に投げ出されたお常を、綱は片腕でしっかりと抱きとめた。
続けざまの二の太刀で鬼の胸を裂き、三の太刀で首を払う。刃の閃きが川面に映え、陰鬼は断末魔をあげる間もなく影となって崩れ、堀川の闇に溶けて消えた。
静まり返った橋の下には、綱とお常の二人だけが残された。盲いた女は声も上げず、ただ静かに頭を垂れた。その気丈な姿が、かえって綱の胸に深く刻まれた。
この夜を境に、綱とお常の縁は始まったのである。
お常は洛外のこの境に、病の父と二人きりで暮らしていたという。やがて父は病に伏し、その病が移ったのか、娘の目も見えなくなった。
ほどなく父は他界し、盲いた女が一人きりで暮らすようになった。
哀れと思う声もあれば、畏れる囁きもあった。
お常には不思議な力があると噂されていたからだ。
彼女が赤子を抱けば、どんなに疳の強い子であっても、たちまち静かに眠りにつく。都中にその話は広まり、夜ごと人々が彼女を訪ね、赤子を預ける列が絶えなかった。
綱はその後も橋の見回りを続けた。すると不思議なことに、新月の夜になると、必ずお常が橋の近くに立ち、彼を待っていた。冬が近づく冷たい風に裾を揺らし、目の見えぬ顔を夜空に向けてじっと待つその姿は、どこか儚く、また強靭でもあった。
はじめは「どうしてもお礼を」と言っては綱に断られ続けていたが、季節はめぐり、都に冬の寒さが忍び寄る頃、綱はふと考えた。
この女子は、寒さに震えても私を待ち続けるのではないか。
そう思うと、不憫に思えてならなかった。
ある秋の晩、ついに口を開いた。
「それでは一度だけ、お心づけをいただきましょう」
お常は驚いたように息をのみ、やがて深く頭を下げた。綱はその夜、初めて彼女の家に足を踏み入れた。
住まいは質素ながらも、隅々までよく手入れが行き届いており、煤ひとつない畳に綱は感心した。
目の見えぬ身でここまで整えられるのかと、不思議に思ったほどだ。お常は微笑みながら言った。
「眼開きの頃の場所をよく覚えているだけです」
そう言って差し出された珍しい茶は香り高く、湯気の向こうに盲いた女の穏やかな顔が浮かんで見えた。
話すうちに、彼女が人の心を察する才に長けていることが綱にもわかってきた。
繊細な話題には踏み込まず、かといって上辺だけの言葉でもなく、温かく人の胸に届く会話をする。その夜、綱は久方ぶりに心の底から安らぎを覚えた。
二度目に訪れた時のことである。
常の家に入ると、囲炉裏に火が灯り、土間には炭の匂いが漂っていた。
鍋の中で野菜が静かに煮立ち、香ばしい川魚が炭火で焼かれている。最初に訪れた折よりも、どこか温もりのある準備がなされており、綱は女の心尽くしを感じた。
常は盆に盃と徳利を載せて現れ、少し緊張した声で言った。
「……お酒を」
綱は一瞬、盃に目を落とした。胸の奥に、二年前の冬の情景がよみがえる。酒呑童子を前にしてとどめを刺せなかった自分。頼光に呪いを背負わせてしまった夜。井戸の底の沈黙。
「酒は飲まぬ」
短く吐き捨てるように言った。
常は驚いたようにわずかに息を呑んだが、すぐに変わらぬ声で「はい」と答え、盃を下げ、温かな茶を差し出した。
翌日から、家の中からは酒が姿を消した。神棚にも、料理にすら。綱はその気遣いに胸を揺さぶられた。
さらに、お常は綱の家のことを一切聞こうとしなかった。
渡辺の家は名家であり、鬼蜘蛛退治も大江山の鬼退治も都の童までが知っている。綱に跡取りの息子があり、今年元服を迎える歳であることも周知のことだった。
だが、お常は一度も問わず、ただ綱という人そのものを見つめていた。
十日に一度、綱は下男を通じて食料や銭を届けさせた。だがお常は、銭だけはどうしても受け取らなかった。
あるとき綱が強く言った。
「世話になっているのだから、銭を払わせてほしい」
するとお常は静かに頭を下げ、柔らかい声で応じた。
「私の命は、あの橋の下で終わっていたのです。それを助けてくださったのは旦那様でございます。私こそ生涯、ご恩を返し続けなければと思っております」
そしてもう一度深く頭を下げ、続けた。
「お好みのものは心得ておりますので、食べ物は頂戴いたしまする。ですが銭を受け取るわけにはまいりません。旦那様のお越しにならぬ夜は赤子の寝かし付けでお心づけをいただいておりますゆえ、お金には困っておりませぬ。どうぞ今後は食べ物だけをお恵みくださいまし」
綱は言葉を失った。か弱いかと思った女がここまで毅然とし、しかも気高い誇りを保っていることに胸を打たれた。
その日を境に、お常は綱のことを「旦那様」と呼ぶようになった。
それは世俗の誰もが知る「鬼斬りの武士」でも「名家の嫡子」でもなく、ただ自分を救ってくれた恩人としての渡辺綱に向けられた呼び名であった。